株式会社光文社(こうぶんしゃ)は、日本の出版社。1945年10月1日創業。音羽グループに属する。1954年に創刊され、数々のベストセラーを生み出したカッパ・ブックスの成功は、新書判ブームのきっかけを作った。雑誌では、手塚治虫の鉄腕アトムなどを連載した『少年』が、戦後月刊少年漫画誌の黄金時代を作った。また週刊誌『女性自身』は「OL」という言葉を定着させるなど一時代を築き、男性誌では『週刊宝石』(休刊)、ほかに写真週刊誌『FLASH』が人気を博した。伝統的に女性誌に強く、『JJ』の創刊後、20歳代OL向けの『CLASSY.』、30歳代既婚女性向けの『VERY』、40代女性向けの『STORY』など世代別にラインナップを充実させてきた。また近年では山田真哉著『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』がミリオンセラーとなった光文社新書、亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』が異例のベストセラーとなった光文社古典新訳文庫なども注目を集めている。小学校の教科書などを刊行している光文書院とは資本・人材など一切関連がない。1945年、講談社は激震に見舞われていた。太平洋戦争が終わり、出版業界内部は戦争協力者への責任追及の声が激しくあがっていた。戦前から活発な活動をしていた講談社は、その最大の標的となったのである。当時の経営陣は、最悪の事態に備え、別働隊を組織した。それが光文社である。1945年11月のことであった。しかし、責任追及の声は次第に弱まり、講談社はピンチを乗り切った。そのため光文社は、いわば梯子を外された状態になってしまったのである。といっても、光文社の株のほとんどを持っているのは講談社であり、実質的に光文社の経営権を握っているのは講談社である。光文社が出版界の第一線に躍り出ることができたのは、その講談社から一足早く光文社に移っていた神吉晴夫と、伝説の初代編集長、加藤一夫の手によってである。神吉は「創作出版論」という独特の編集理論をもっていて、それを加藤一夫は編集者として、次々に実現していった。彼らによって、次々とベストセラーが出されていく。1951年の波多野勤子『少年期』がその嚆矢で、1954年にはローゼンバーグ夫妻の『愛は死を越えて』の翻訳、1957年には田宮虎彦の妻千代の死への追悼文や往復書簡をまとめた『愛のかたみ』など、「カッパ旋風」を巻き起こした。1958年には朝日新聞に全五段の広告を打って松本清張『点と線』『眼の壁』の2冊を同時発売、松本清張をベストセラー作家に押し上げた。1954年に神吉晴夫が「カッパ・ブックス」を創刊。この新書シリーズは、その後の出版界を長く席巻する。など。青春出版社、KKベストセラーズ、祥伝社などとともに、新書ブームの一翼を担った。また、1959年には「カッパ・ノベルス」を創刊。カッパ・ブックス隆盛の流れの中で『点と線』(松本清張)、『日本沈没』(小松左京)、『悪魔の飽食』(森村誠一)などが送り出されている。雑誌においても、1958年創刊の『女性自身』で女性誌ブームを起こし、1965年には『宝石』も創刊された。順風満帆に見えた光文社だが、1970年になると、神吉の経営手法(今で言う成果主義や抜擢人事)に労働組合が反旗を翻したことで、労働争議が勃発した。神吉は年内で社長を辞して経営からは身を退いたが、争議は収まらず、1977年にようやく沈静化した。この泥沼争議を嫌い、多くの人材が光文社を去った。その中には、祥伝社や、ごま書房(現在のごま書房新社)や、かんき出版の設立に関わった者も含まれている。1980年代後半頃から、文庫ブームのあおりを受けて「カッパ・ブックス」の売れ行きが落ち始める。それに伴い、主力は『女性自身』に始まる一連の雑誌にシフトした。そして、「カッパ・ブックス」は新たに創刊された光文社新書と入れ替わる形で、新刊の発行を終了することになった。
出典:wikipedia
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