荒川 博(あらかわ ひろし、1930年8月6日 - )は、東京都台東区出身の元プロ野球選手(外野手)・コーチ・監督、解説者。一時期、「博久(ひろひさ)」に改名。実家は八百屋。早稲田実業学校から早稲田大学商学部へ進学。岩本尭とは同期で、広岡達朗は後輩だった。東京六大学リーグでは通算81試合に出場し、打率.280(289打数81安打)・1本塁打・40打点を残した。1953年に毎日オリオンズへ入団し、同年3月22日の大映戦(後楽園)に2番・右翼手で初出場。現役時代は左の巧打者として鳴らし、チームメイトで早実の後輩でもあった榎本喜八を指導した。また、少年時代の王貞治を見出して母校の早実への進学を薦めた。1961年にチームから放出される形で退団し、現役を引退。引退後は川上哲治監督の下で巨人一軍打撃コーチ(1962年 - 1970年)を務め、7度のリーグ優勝・日本一に貢献。早大の後輩・広岡が犬猿の仲であった川上に頭を下げてくれたため、荒川は毎日OBであったが巨人入りを果たした。川上が荒川を雇った理由は、「その若さで榎本という素晴らしい打者を育て上げた」という一点のみだった。コーチ時代は荒川道場と呼ばれる厳しい指導で、特に王に「一本足打法」を指導したことで知られる。一本足打法は後に駒田徳広らにも伝授しているが、王ほどの効果はなかった。王以外では柴田勲・土井正三・黒江透修・高田繁・末次民夫を育て、巨人の黄金期を支えた。1967年の中日戦で、円城寺満審判に対し判定を不服とし、柴田勲とともに同審判を小突き回し判定を変えさせたが、退場処分を受けた。同試合終了後に円城寺は審判引退を表明したが、その光景は、後に幾度となく審判との暴力沙汰を起こす事になる暴れん坊の金田正一をして「長年野球一筋で来た円城寺さんが殴られるのを見て、哀しくて見てられなかった」とコメントする程だった。1968年、阪神のジーン・バッキーが投げた王への危険球に端を発する乱闘で、荒川はバッキーに殴られて4針も縫う重傷を負い、殴ったバッキーも指を骨折した(バッキー荒川事件)。バッキーはこの怪我が致命傷となり精彩を欠いたことで成績が低迷し、翌年の1969年オフに現役を引退している。なお、1985年頃に荒川は来日したバッキーと再会し、恩讐を越えて仲良く握手していた。その後、養子の荒川尭がプロ入りしたのを期に、公私のけじめをつけるため巨人軍コーチを勇退する。1973年は2月に日本鋼管を指導した後、同年のシーズン途中からヤクルトアトムズの一軍打撃コーチに就任。1974年からは三原脩の後を受けて、監督に昇格。コーチ陣に広岡達朗・小森光生・沼澤康一郎と早大の後輩を配し、早大カルテットと称された。1976年5月12日、成績不振の責任をとり、辞任。辞任後はフジテレビ(1977年 - 1984年)・日本テレビ(1985年 - 1986年)解説者。現在はフリーの評論家を務める傍ら、ゴルフリゾート「ライオンゲイン」名誉会長や野球教室「荒川道場」主宰者など幅広く活動している。2006年にはTOKYO MXで中継された「明治神宮外苑創建90年記念奉納試合 東京六大学選抜vsヤクルト」にゲスト解説として出演。養子は荒川尭。尭は1969年のドラフトで「巨人とアトムズ以外は拒否」を表明し、大洋ホエールズ指名を拒否。それを快く思わない暴漢に襲われ、その後ヤクルトへのすぐのトレードを条件に、大洋へ一時入団したことで知られる(詳細は「荒川事件」の項を参照)。荒川は歌舞伎役者の六世尾上菊五郎のファンであり、その六世菊五郎が著書『おどり』(時代社 1948年刊)の中に『間を習うために植芝(盛平)先生の所に行った』と記したのを読み、『(六世菊五郎のような)あの名人が習いに行くくらいだから本物の先生だろう』と思い、自身も合気道を習うべく植芝に入門したという。
出典:wikipedia
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