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沖縄戦

沖縄戦(おきなわせん、沖縄の戦い)は、太平洋戦争(大東亜戦争)末期の1945年(昭和20年)、沖縄諸島に上陸したアメリカ軍を主体とする連合国軍と日本軍との間で行われた戦いである。連合軍側の作戦名はアイスバーグ作戦(、氷山作戦)。琉球語では、Ucinaaikusa (ウチナー(沖縄)いくさ(戦、軍)、の意)ともいう。太平洋戦争において、日米の最大規模で最後の戦闘となった。沖縄戦は1945年3月26日から始まり、主な戦闘は沖縄本島で行われ、組織的な戦闘は6月20日開始6月23日に終了した。アメリカ軍の目的は日本本土攻略のための航空基地・補給基地の確保であった。日本軍の目的は、大本営がアメリカ軍に大打撃を与えて戦争継続を断念させる決戦を志向したのに対し、現地の第32軍司令部は当時想定されていた本土決戦に向けた時間稼ぎの「捨石作戦」(持久戦)を意図するという不統一な状況であった。第32軍はサイパンの戦いなどで失敗した水際防御を避け、ペリリューの戦い・硫黄島の戦いで行われた内陸部に誘い込んでの持久戦を基本方針として戦い、特に首里(現・那覇市の一部)北方で激戦となった。海上では大本営の決戦構想に基づき特別攻撃隊を中心とした日本軍航空部隊が攻撃を繰り返し、戦艦「大和」などの日本海軍残存艦隊による「沖縄特攻」も行われた。1945年5月末に第32軍の首里司令部は陥落し、日本軍は南部に撤退したが6月下旬までに組織的戦力を失い、6月23日には牛島司令官らが自決。その後も掃討戦は続き、アメリカ軍は7月2日に沖縄戦終了を宣言し、最終的な沖縄守備軍の降伏調印式が行われたのは9月7日である。陸海空において日米の大兵力が投入された。アメリカ軍側の最高指揮官であった第10軍司令官バックナー中将が日本陸軍の攻撃で戦死するなど、フィリピンの戦いや硫黄島の戦いと並び太平洋戦域のみならず第二次世界大戦における最激戦地のひとつとなった。使用された銃弾・砲弾の数は、アメリカ軍側だけで2,716,691発。このほか、砲弾60,018発と手榴弾392,304発、ロケット弾20,359発、機関銃弾3,000万発弱が発射された。地形が変わるほどの激しい艦砲射撃が行われたため、「鉄の暴風()」などと表現される。残された不発弾は、70年を経た2015年でも23トンにものぼり、陸上自衛隊などによる処理が続く。1トン爆弾も本土復帰の1972年以降だけでも6件見つかっている。沖縄での両軍及び民間人を合わせた地上戦中の戦没者は20万人とされる。その内訳は、沖縄県生活福祉部援護課の1976年3月発表によると、日本側の死者・行方不明者は188,136人で、沖縄県外出身の正規兵が65,908人、沖縄出身者が122,228人、そのうち94,000人が民間人である。日本側の負傷者数は不明。アメリカ軍側の死者・行方不明者は14,006人、イギリス軍の死者が82人で、アメリカ軍の負傷者72,012人であった(日本側被害の詳細は#住民犠牲についてを参照)。なお沖縄戦の特徴を表す端的な表現として戦後長らく「国内唯一の地上戦」が使われてきたが、正確な表現ではない。現在は日本領でないが当時は日本領で日本本国(当時の表現での「内地」)であった北海道占守郡における「占守島の戦い」や樺太庁全域における「樺太の戦い」があり、また現在も日本領である東京都硫黄島村(現・小笠原村)の硫黄島における「硫黄島の戦い」もあるからである。このため2010年、日本政府は国会質問への答弁書をつくる際、「唯一の地上戦」という認識が「必ずしも正確ではない」と閣議決定している。1944年(昭和19年)に入りトラック島空襲などアメリカ軍の太平洋正面での反攻が本格化してくると、マリアナ諸島などを前線とする絶対国防圏での決戦を構想していた当時の日本軍は、後方拠点として南西諸島の防備に着手した。1944年2月に日本陸軍は沖縄防衛を担当する第32軍を編成、司令官には渡辺正夫中将が任命された。もっとも、この時点での第32軍の主任務は飛行場建設であり、奇襲に備えた警備程度の兵力であった。同年4月には、海軍も沖縄方面根拠地隊を置いたが、その司令官は九州・沖縄間のシーレーン防衛を任務とする第4海上護衛隊司令官を兼務し、防衛戦力というより後方組織としての性格が強かった。日本軍が本格的に沖縄地上戦の準備に取り組んだきっかけは、1944年7月に絶対国防圏の要であるサイパン島が陥落したことであった。大本営は、捷二号作戦を立案して沖縄周辺海上での航空決戦を企図するとともに、陸上の第32軍の増強にも着手、本土や台湾への民間人疎開も開始した。沖縄本島に3個師団・1個旅団を置いたほか、宮古島などにも1個師団・4個旅団が展開した。軍首脳部の人事も一新して新司令官には牛島満中将を任命、諸砲兵部隊を統括する第5砲兵司令部も置かれその司令官には砲兵の権威だった和田孝助中将が充てられた。第32軍は敵上陸時に主力を機動させての決戦を目論見、砲兵部隊に援護された精鋭3個師団で水際からアメリカ軍を追い落とせると自信を深めた。ただ、増援の独立混成第44旅団が乗った軍隊輸送船「富山丸」がアメリカ軍潜水艦に撃沈され、4,000人近くが死亡、到達したのは約600人という、先行きを不安視させる事件も起きた。1944年10月にフィリピンでレイテ島の戦いが起きると、状況は変わった。レイテ島の戦いに先立つ台湾沖航空戦で日本海軍が誤報した空母多数撃沈の過大戦果を前提に、大本営は捷一号作戦(フィリピン決戦)を決意し、レイテ島への2個師団増派を含む増援兵力派遣に進んだ。11月13日、大本営および第10方面軍司令部は、フィリピンに転用された台湾駐留部隊(第10師団)の穴埋めのため、第32軍の反対を押し切って沖縄から1個師団を抽出することを決めた。抽出は第32軍の選定に任されたが、第32軍でもっとも歴史があり精鋭と目された第9師団が1944年12月中旬から翌1945年1月中旬にかけて台湾へ移動し、第32軍は兵力の三分の一近くを失った。当時の状況からは台湾を経由しての中国南部上陸も予想されており、台湾の喪失はひいては南方との考えうる唯一の補給線にも影響するため、台湾の防衛も重要だった。また同時に中迫撃第5、第6大隊(15cm迫撃砲24門)もフィリピン方面へ転用が命じられ、軍砲兵隊による橋頭堡殲滅射撃の構想に大きな影響を及ぼした。さらに大本営では、1944年12月、新たに就任した大本営陸軍部(参謀本部)作戦部長の宮崎周一中将が、上記の捷一号作戦の失敗を確認して、「島嶼攻防戦を放棄し、本土決戦の準備に全力を注ぐ」と戦略変更を行った。以後、兵力も物資も本土決戦の準備に集中させることとなる。また大本営は、1945年(昭和20年)1月に『帝国陸海軍作戦計画大綱』を策定し、「沖縄戦闘は本土戦備のために時間を稼ぐ持久戦である」と戦略を明示した。沖縄戦における日本軍の作戦は、これをもって「捨て石作戦」と呼ばれている。宮崎中将の前任の真田穣一郎作戦部長の指示で進められていた第9師団の代わりの第84師団の沖縄派遣は、1945年1月22日に第32軍に内示されたが、宮崎作戦部長の判断で翌日には撤回された。こうした経緯から第32軍は大本営に不信感を抱き、その後の作戦に支障をきたした。服部卓四郎作戦課長らの努力で、2個師団分の軍需品の補給だけは宮崎作戦部長の許可を得た。第9師団の抽出を受けて、第32軍は1944年11月に作戦方針を大転換し、機動決戦を断念して本島南部での持久戦を行うことにした。本島中部に配置されていた第24師団を南部に移動し、北部・中部の飛行場は小部隊による遅滞防御と砲撃による利用妨害程度にとどめることを決めた。1945年1月下旬には南部にさらに戦力を集中させている。一方、大本営は天一号作戦を定めて、沖縄へ来攻するアメリカ軍を航空戦力主体で迎撃して大打撃を与え、終戦に持ち込もうとする全く異なった戦略を考えていた。そのため、大本営は飛行場確保を重視して第32軍に作戦変更を要求したが、第32軍は応じないままアメリカ軍を迎えることになった。沖縄本島地区における最終的な日本側の陸上兵力は、116,400人である。内訳は、陸軍が86,400人と海軍が10,000人弱のほか、「防衛隊」と俗称される現地編成の補助兵力が20,000人強である。現地入営したばかりの初年兵や防衛召集された兵が3万5千人を占め、当時の第32軍の評価で真の陸戦兵力といえるのは約4万人に過ぎなかった。旧制中学校の生徒から成る鉄血勤皇隊や、女子生徒を衛生要員としたひめゆり学徒隊・白梅学徒隊なども組織された(現地住民の戦闘協力の詳細は#住民の戦争参加を参照)。本島守備隊の主力は、関東軍から転用された第24師団であった。前述の通り、第32軍の選定により沖縄に残存した部隊で、台湾に転用された第9師団と比較すると強力な師団砲兵を有していたことが、大きな選定理由となっていた。もうひとつの本島所在師団である第62師団は師団砲兵を欠いた本来は警備用の編制であったが、日中戦争での対ゲリラ戦経験が豊富だった。独立混成第44旅団は輸送船の撃沈で大損害を受けた部隊で、補充のため一〇〇式輸送機で空輸された独立混成第15連隊を受け取っていた。機甲部隊は30両に満たない戦車第27連隊があるだけだった。兵站部隊や船舶部隊も地上戦闘用に使うため6個の特設連隊として再編されている。海軍部隊は飛行場の基地要員などを海軍陸戦隊として再編成したもので、武器も訓練も不足していた。第32軍の歩兵戦力が精鋭ぞろいとは言えなかったのに対し、砲兵戦力は当時の日本軍としては極めて充実していた。第5砲兵司令部指揮下だけで400門以上の火砲を擁すほか、師団砲兵1個と独立混成旅団砲兵隊および戦車第27連隊の機動砲兵、また歩兵部隊中の歩兵砲があった。生産力や補給力に劣る太平洋戦争時の日本軍において、このような大量の火砲が投入されたのは第1砲兵隊が投入された太平洋戦争緒戦の一連の南方作戦(香港の戦い・シンガポールの戦い・フィリピンの戦い(コレヒドール島砲撃戦)等)や、硫黄島の戦い等に限られる。アメリカ陸軍の公式戦史も、沖縄の日本軍について従前の日本軍と大きく異なる点として、日本軍相手では経験したことがない多数の火砲とその効果的な運用を指摘している。特に日本軍火砲が効果を挙げたシュガーローフの戦いにおいては、海兵隊員は「やつら(日本軍)は牛乳瓶の中にでも弾を撃ち込むことができた」とその正確性に驚愕し、後に編纂された第6海兵師団の戦史では「日本軍の砲撃はこれまで出会った事が無いほど、優れた統制と正確さの下で実施された」と纏められている。ある時には観測地点で敵情観察中の海兵隊将校らのど真ん中に砲撃を命中させ、大隊長と戦車隊将校ら5名を戦死させ、中隊長3名に重傷を負わせるといった正確性を発揮している。大本営陸軍部は、1944年(昭和19年)8月19日に、サイパン島の戦いやグアムの戦いの戦訓を十分に取り入れ作成した「島嶼守備要領」を太平洋各地の島嶼守備隊に指示している。同要領では特に、アメリカ軍の猛烈な砲爆撃に対抗できる陣地の選定要領や戦闘要領が強調されていた。また、大本営陸軍部第一課が前線よりの報告を纏め編纂した「戦訓報」でも、サイパンの失敗と対策やペリリュー島の戦いの善戦は各部隊に伝えられており、沖縄戦に先立つ硫黄島の戦いでは戦訓を活かして坑道陣地による持久戦術を徹底し、アメリカ軍を大苦戦させている。第32軍も硫黄島と同様に戦訓を十分活かすべく、アメリカ軍の砲爆撃対策として強固な陣地作りに心血を注いでいる。しかし、第32軍は度重なる作戦変更や兵力の増減により何度も部隊配備が変更になっており、その度に陣地の再構築を余儀なくされた。特に第9師団の台湾抽出により、第32軍はまたも大幅な作戦変更を迫られる事となった。八原博通第32軍高級参謀は、戦力補充はあてにせず現兵力をもって最善を尽くす方針で4つの作戦案を提案し、第32軍司令部はその中から、現有戦力に最も適した地形となる沖縄本島南部島尻地区に主防御陣地を構築し、持久戦術を取る作戦案を採用した。その作戦案に基づき1944年(昭和19年)11月末から12月上旬にかけて行った再配備に伴う陣地構築が最終形となった。この作戦変更により、本島中部に位置する北・中飛行場は主陣地外となり、実質的に防衛を放棄している状況になった。ただし、第32軍の陣地構築は順調に進んだわけではなく、大本営による捷号作戦準備の為の航空基地整備督促により進捗が遅延している。第32軍首脳陣は、フィリピン戦での航空作戦の経過を見て航空作戦に疑念や不信を抱いており、飛行場より地上戦備強化に注力していたが、大本営はそれを「手抜き」と厳しく第32軍を非難した。大本営陸軍部は作戦課航空班長の鹿子島中佐を沖縄に派遣し第32軍司令部を説得の上で、飛行場作りの名人と言われた飛行場設定練習部部員釜井中佐を第32軍参謀に補職し、戦闘部隊を建設作業へ大規模投入して飛行場設営が急ピッチで進められた。飛行場の扱いについては、前述の主陣地外とした防衛体制の問題も含めて、航空決戦の為の飛行場重視の大本営などの中央と、地上戦備重視の第32軍の考えの違いはアメリカ軍上陸後の作戦にも大きく影響することとなった。八原参謀の作戦計画は、強固な築城と野戦重砲兵の支援砲撃を前提として挑んだ『寝技戦法』と自ら称した洞窟陣地戦法であった。講道館柔道家がアメリカの屈強なボクサーを相手に試合したときに、柔道家は終始寝技でボクサーの強烈なパンチを封殺し、遂に快勝したという講談にヒントを得たものであった。寝技戦法の中心は築城であり、アメリカ軍の艦砲射撃や1トン爆弾などの強烈なパンチがあっても、それを跳ね返す堅固な築城があれば、敵の物量を無価値にできると考え、戦車も対戦車築城を徹底させれば恐れるに足らずとも考えた。八原参謀は「不可能を可能にする唯一の道は強固な築城であり、洞窟戦法である。」との『寝技戦法』の基本方針を記した「必勝の途」というパンフレットを作り全軍に布告し、全将兵に徹底した築城を命じた。。対するアメリカ軍は、猛烈な砲撃で日本軍の反撃を封殺し、日本軍陣地の頂上に這い上がった歩兵が、日本軍陣地に黄燐弾を投げ込み、爆雷を投下し、ガソリンを流し込んで皆殺しにする『トーチ&バーナー戦術』で日本軍陣地を一つ一つ壊滅させていった。この対抗策として日本軍は、頂上を占拠された日本軍陣地の頂上に、友軍陣地の機関銃、重擲弾筒、野砲で集中攻撃して、逃げ場のないアメリカ歩兵を殲滅する『まな板戦法』で応戦した。アメリカ軍は負傷した兵士が何度も前線に駆り出され、ついに精神錯乱を来す者も多く現れた。アメリカ軍の戦死者は、負傷から24時間以内に死亡したものと定義されているため、事実上の戦死者数は、戦傷者数にも多く含まれている。陣地構築に際しては、コンクリートなどの資材は不足していたが、沖縄の南部地域は、固くてツルハシも通らないような隆起珊瑚礁と柔らかい泥灰岩や砂岩で広く覆われており、それら地層をうまく活用して陣地が構築された。陣地構築については第32軍兵士の他、多くの沖縄県民も動員された。それで完成した隆起珊瑚礁の陣地は、アメリカ軍の砲爆撃でも容易には破壊されなかった。また、多数存在した天然の洞穴や、沖縄独特の墓である亀甲墓がその堅牢な構造からトーチカ代わりに使われ陣地の一部となった。実際に日本軍の陣地と対峙したアメリカ軍は、太平洋戦域の各戦場を戦い抜いてきた歴戦の兵士も多かったが、この沖縄の日本軍地下陣地が、今までの戦場で見てきた日本軍陣地における巧妙や複雑さなどの利点を全て兼ね備えていると痛感させられている。砲爆撃に耐える堅牢さだけでなく、陣地は網の目の様な地下坑道で連結されて地下移動による補給や兵員の補充も容易で、防御から攻撃への切り替えもできるなど巧妙な設計となっていた。出入り口は擬装されており、攻撃しているアメリカ軍の後方に不意に出現し、背後から攻撃する事も可能であった。アメリカ陸軍は沖縄の頑強な日本軍陣地を「小ジークフリート線」や「常軌を逸して防衛された陣地」と評している。海兵隊員のある士官は「土に埋まった戦艦のようだった」とも評した。シュガーローフの戦いで威力を発揮した『反斜面陣地』も多く構築されている。『反斜面陣地』とは、敵と相対する斜面ではなく反対斜面に構築された陣地であり、反対斜面にあるのでアメリカ軍の砲撃では中々破壊されず、アメリカ軍が山頂に達すると、反対斜面の陣地で砲爆撃をやりすごした日本軍が、迫撃砲や擲弾筒や手榴弾投擲で山頂のアメリカ軍を攻撃したり、網の目のように張り巡らされた地下坑道を伝ってきた日本軍が背後から攻撃してくるといったもので、今までのアメリカ軍が経験したことがない戦法であった。シュガーローフでは、巧みな日本軍の陣地構築で「死傷者が続出しているのに日本兵の姿は全く見えない」「丘(シュガーローフ)から弾は飛んでくるが日本兵は全く見えないので、丘を相手に戦ってる気分だった」という状況であった。連合軍は、沖縄本島の存在について、有力な航空基地と泊地を設置可能で日本本土と中国大陸のいずれに侵攻する際の作戦拠点にもできる島と考えていた。また、沖縄諸島の基地化により、日本の南西方面の海上航路・航空路を遮断することもできると見ていた。他方、連合軍がフィリピンへ侵攻した場合には、日本軍の反撃拠点となりうる島であるとも警戒していた。1944年8月時点での連合軍の戦略では、沖縄本島よりも先に台湾を攻略することが計画されていた。台湾を拠点とした後に、中国大陸あるいは沖縄県のいずれかへ進撃することが予定された。台湾の攻略作戦についてはコーズウェイ作戦 (Operation Causeway) の名の下に具体的な検討が進められ、すでに上陸部隊の司令官にはアメリカ陸軍のサイモン・B・バックナー・ジュニア中将が決まっていた。ところが、9月中旬になってレイテ島上陸の予定繰上げが決まり、フィリピンでの泊地確保もより早く行える可能性が出てくると、アメリカ海軍のチェスター・ニミッツ提督らは台湾攻略以外の選択肢について再検討を始めた。アメリカ陸軍も、ルソン島さえ占領すれば台湾は無力化できると考えて、台湾攻略中止に同調した。そして、新たな日本本土空襲の拠点を求めていたアメリカ陸軍航空軍が、台湾の代わりに沖縄本島を攻略することを提案し、検討の結果、10月5日に沖縄攻略作戦の実施が決定された。計画では10月20日のレイテ島上陸、12月20日のルソン島上陸、翌1945年1月20日の硫黄島占領に続いて、3月1日に沖縄諸島へと上陸することとなった。バックナー中将は、台湾上陸部隊の司令官から、そのまま沖縄上陸部隊の司令官へと任務が変更された。さっそくレイテ島への侵攻作戦に着手した連合軍は、事前に日本軍の反撃戦力を削る航空撃滅戦として沖縄県周辺や台湾などを攻撃した。1944年10月10日、アメリカ軍機動部隊が南西諸島一帯に対して大規模な空襲を行い、所在の日本軍航空機や艦船は大きな打撃を受けた(十・十空襲)。偵察活動も進められたが、1944年12月末に偵察任務で沖縄へ向かった潜水艦「ソードフィッシュ」が未帰還となった。ペリリュー島の戦いで行われた偵察上陸では半数の人員が未帰還と言う大被害を出していることも踏まえて、偵察要員の事前上陸は見送られた。1945年3月、連合軍は、予定よりは遅れながらもルソン島攻略と硫黄島攻略をほぼ完了した。このときまでには、日本本土上陸作戦であるダウンフォール作戦の立案もされており、沖縄本島は、九州上陸を支援する拠点として利用されることに決まっていた。ルソン島攻略の遅れによる輸送船不足と3月の悪天候により沖縄侵攻は2度にわたって繰り下げられ、当初計画よりはちょうど1ヶ月遅れで、沖縄攻略を目的とした「アイスバーグ作戦」が発動されることとなった。投入される陸上戦力はアメリカ陸軍第10軍の陸軍5個師団・4個戦車大隊ほかとアメリカ海兵隊3個師団であった。第10軍自体は新編成の組織であるが、主力の第24軍団と第3水陸両用軍団に属する師団はいずれも実戦経験を積んだ部隊であった。これらの部隊を沖縄に上陸させるため、アメリカ軍は太平洋戦争で最大規模の水陸両用作戦を準備した。沖縄攻略の為の統合遠征部隊は艦船1,213隻と支援艦載機564機で編成されていた。この部隊を第58任務部隊の高速空母部隊82隻、艦載機919機とイギリス太平洋艦隊22隻、艦載機244機が支援した。他にも第21爆撃集団と極東航空軍も直接支援を行った。ノルマンディー上陸作戦を含む多くのヨーロッパ戦線の激戦に従軍し、前年にピューリッツァー賞を受賞した従軍記者のアーニー・パイルは沖縄攻略部隊の陣容を「我々は太平洋航海史上、最大・最強の軍隊だ」「海軍力・兵力・戦闘力の点でアメリカがヨーロッパに投入した全兵力に匹敵する規模だ」と記述している。アメリカ軍は、日本軍の反撃戦力を削ぐことなどを目的に、空母16隻を中心とした強力な機動部隊の第58任務部隊を日本本土へと差し向けた。第58任務部隊は1945年3月14日にウルシー環礁を出撃、3月18日から九州や瀬戸内海周辺の飛行場や艦隊などに対し空襲を開始した。これに対して日本軍は、海軍の第5航空艦隊を中心に反撃を行った。4日間の戦闘で、日本軍は空母3隻の撃破に成功したものの、第5航空艦隊は戦力の過半を失ってしまった(九州沖航空戦)。アメリカ艦隊の損害は、イギリス軍機動部隊の合流により回復することができた。3月23日、第58任務部隊は沖縄県周辺に対する本格空襲を開始し、初日だけで延べ2,000機を出撃させた。24日には沖縄への増援部隊を乗せたカナ304船団を全滅させている。また、24日には第59任務部隊の戦艦5隻などが本島南部に対する艦砲射撃を行い、上陸予定地点の掃海作業も始まった。このほか日本軍の反撃を妨害する目的で、B-29爆撃機による関門海峡などへの機雷投下も行われた(飢餓作戦)。艦艇1,500隻、輸送船450隻、兵員54万8,000人(うち上陸部隊18万人)の攻略部隊もサイパン島やレイテ島から続々と出発し、沖縄洋上に集結した。一方日本軍では、硫黄島上陸作戦以降のアメリカ軍の次期侵攻の方面と時期について、連合軍の船舶の動き、航空基地の整備状況、通信諜報等で分析努力を行っていたが、確定させるには至らなかった。陸海軍で侵攻目標の予想が割れており、海軍は小笠原諸島と考え、陸軍は台湾と判断していた。3月23日に、沖縄本島に延べ355機の艦載機による空襲があり、その他先島諸島・大東島地区・奄美地区にも艦載機の空襲があった。その後、日本軍の索敵機が、同日午前10時30分に沖縄本島南東90kmに機動部隊を発見、さらに夕刻沖縄本島東方100kmに艦艇群(艦種不詳)も発見している。これに対する日本側の情勢判断は、3月19日時点では、大本営陸軍部は次のアメリカ軍の侵攻地を台湾方面の公算大と判断しており、第32軍も23日時点では大本営の判断もあって、沖縄への本格的な侵攻であるかの判断ができなかった。しかし、翌24日に沖縄本島南部へ戦艦以下30隻のアメリカ軍艦船が現れ艦砲射撃を開始、また延べ600機にも上る艦載機による激しい空爆が行われた為、第32軍司令部はアメリカ軍の上陸が沖縄に行われると判断し、甲号戦備移行を命じた。日本海軍の連合艦隊司令長官も、近く沖縄へアメリカ軍が来攻するものと判断し、回天特攻「多々良隊」の潜水艦4隻にも出撃準備を命じた。また同日に天一号作戦の予令を発令、第3航空艦隊と第10航空艦隊に移動準備を指示している。多々良隊の「伊44潜」「伊47潜」「伊56潜」「伊58潜」は3月28日から順次沖縄方面に出撃したが、戦果を挙げることなく「伊44潜」と「伊56潜」の2隻を失った。空襲翌日の3月24日には早くも日本側の反撃が開始され、天山艦攻による雷撃、翌25日未明には陸攻銀河による爆撃でアメリカ艦隊を攻撃し、駆逐艦2隻、その他2隻を損傷させている。また、沖縄の海軍根拠地隊司令官の大田実少将が、運天港の特殊潜航艇部隊である第2蚊龍隊に出撃を命じている。蚊龍隊は駆逐艦「ハリガン」を撃沈した可能性が高いが、壊滅した。3月26日、アメリカ軍は、沖縄本島への上陸に先立ち泊地や水上機基地などを設置するため、第77歩兵師団を慶良間諸島の座間味島など数島へ上陸させた。日本軍は慶良間諸島は地形が険しい狭い島で航空基地の適地もなく、沖縄本島に先立っての侵攻を想定していなかったため、地上部隊をほとんど配備していなかった。展開していたのは、本島防衛任務の四式肉薄攻撃艇(マルレ)部隊である陸軍海上挺進戦隊3個とその支援部隊程度であった。第32軍司令部は出撃困難と判断して機密保持のためマルレの処分を命じた。すでに事前空襲で300隻のマルレの多くを地上撃破されていた各部隊は、命令に従って島の奥へ後退した。慶留間島所在のマルレのうち4隻のみが出撃して、うち2隻が攻撃後に本島へ生還した。アメリカ軍は29日までに慶良間諸島全島を占領した。アメリカ軍第77歩兵師団の記録によると、31日までに日本兵530人が戦死・121人が捕虜となり、アメリカ兵31人が戦死・81人が負傷した。アメリカ軍の慶良間諸島上陸と同じ3月26日に、日本側では陸軍第10方面軍司令官と海軍連合艦隊司令長官が、天一号作戦を発令した。同日中には早速、陸海軍の通常攻撃機46機が薄暮にアメリカ機動部隊を攻撃、また第8飛行師団誠第17飛行隊の九九式軍偵6機とその他8機合計14機の特攻機が慶良間沖のアメリカ艦隊を攻撃した。本特攻隊は少数ながらも戦果は大きく、駆逐艦「オブライエン」大破・死傷者126名、駆逐艦「キンバリー」中破・死傷者61名、他に軽巡洋艦「ビロクシ」と駆逐艦2隻を損傷させている。翌27日には沖縄本島の中飛行場より出撃した第8飛行師団誠第32飛行隊と海軍神風特攻隊の銀河や彗星合計26機が嘉手納沖のアメリカ艦隊を攻撃、戦艦「ネバダ」の第三主砲塔に1機が命中、14インチ砲を破壊し59名の死傷者を出させるなど、16隻の艦船に損害を与えている。その後も沖縄本島や周辺諸島からの特攻出撃は続き、31日にはレイモンド・スプルーアンス中将率いる第5艦隊の旗艦重巡「インディアナポリス」に命中、大破・航行不能にさせた。しかし、陸海軍ともに本土や台湾からの本格的な航空攻撃は4月に入ってからとなり、沖縄本島上陸前の時点では日本側の航空攻撃は未だ散発的であった。また、29日には本島配備の海上挺進第29戦隊のマルレ19隻が出撃し、中型揚陸艦1隻を撃沈している。3月31日、アメリカ軍は慶伊瀬島に上陸した。そのうち神山島に第420野砲群(仮訳:420th Field Artillery Group)の155mmカノン砲24門を布陣させ、沖縄本島の日本側陣地の奥深くまでを射程圏内に収めた。日本軍は4月1日未明から「250mm砲」による砲撃を神山島へ仕掛けてきたが、アメリカ側に被害は無かった。ヨーロッパでドイツ海軍が壊滅したことから、イギリス首相ウィンストン・チャーチルは太平洋の権益確保の意味合いもあり、かねてより太平洋戦域へのイギリス艦隊派遣を希望していた。ダグラス・マッカーサーら米軍の指揮官の一部は、イギリス軍の今までの太平洋戦域での貢献度の低さもあり「我々が収めた成功報酬の分け前にあずかろうとして、この地域への出動を提案したのだ」と指摘し、太平洋への英艦隊派遣申し出を警戒していたが、太平洋艦隊司令チェスター・ニミッツ大将ら米海軍は、戦力増強を現実的判断で歓迎し、イギリスは英太平洋艦隊として戦艦2隻・空母4隻・巡洋艦5隻・駆逐艦15隻の強力な機動部隊を沖縄戦に派遣している。このイギリス艦隊は、先島諸島方面を担当することになった。3月23日にウルシー環礁を出撃した英太平洋艦隊は、4月1日に日本軍が先島諸島に建設した航空中継基地に宮古島沖で発見され、特攻機による攻撃を受けた。零戦1機が空母「インディファティガブル」に命中、戦死21名・負傷27名の人的損害を受けたが、英空母は日米空母とは違い、航空甲板は戦艦並みの装甲板であり致命的な損傷を受けなかった。それでも艦橋構造物に大きな損傷を受けレーダーや無線装備も全て破壊された為、英本土に後退している。その後も英太平洋艦隊は、宮古島沖で台湾方面から飛来する特攻機の迎撃や地上支援任務を行っていたが、後に増援された艦も含めて4隻の空母(前記「インディファティガブル」を含めると5隻)全てが特攻機により損傷を受けている。4月1日朝、アメリカ軍は守備の薄い本島中西部で、第7・第96歩兵師団と第1・第6海兵師団による上陸を開始した。戦艦10隻・巡洋艦9隻・駆逐艦23隻・砲艇177隻が援護射撃をし、127mm以上の砲弾44825発・ロケット弾33,000発・迫撃砲弾22,500発が撃ち込まれた。北飛行場(読谷村・後の読谷補助飛行場)と中飛行場(後の嘉手納飛行場)の占領が第一目標とされた。第32軍が宜野湾以南に結集して持久作戦をとる方針であったために、日本側が中西部沿岸地域に置いたのは賀谷支隊(1個大隊基幹)と急造の特設第1連隊だけであった。日本軍が水際作戦を放棄したため、アメリカ軍はその日のうちに6万人を揚陸して北・中飛行場を確保。4月3日には第7歩兵師団が東岸の中城湾(アメリカ軍呼称:バックナー湾)へ到達し、第32軍は沖縄本島南北に分断された。4月5日までにはうるま市石川周辺の東海岸一帯が占領下に入った。日本軍は飛行場を自ら破壊していたものの、作業期間が短く不徹底であった。アメリカ軍は1日夜には中飛行場を不時着場に使える程度まで復旧、8日には北飛行場へ戦闘機89機を進出させて上陸船団の防空任務を開始した。翌週には夜間戦闘機まで含む144機が展開して強力な防空網を形成してしまった。第32軍の持久戦方針による早期の飛行場の喪失は、大本営・第10方面軍司令部・航空関係者などから消極的かつ航空作戦軽視と批判の的にされた。アメリカ軍の沖縄本島上陸前からの不信が戦いの最中に露見する結果となった。度重なる大本営や連合艦隊の飛行場再確保の要請は第32軍司令部を混乱させ、第32軍内部でも積極反撃すべきか激論が交わされた。4月4日には、長第32軍参謀長主導で攻勢移転が一時決定されたが、島南東部の港川方面への連合軍上陸部隊接近との報告により、中止された。この港川方面への「上陸部隊」は、陽動作戦任務のアメリカ第2海兵師団で、実際には上陸しなかった。4月6日から、日本軍は特攻機多数を含む航空機による大規模反撃を、連合軍艦隊・船団に対して開始した(菊水作戦)。海軍による菊水一号作戦には約390機、陸軍の第一次航空総攻撃には約130機が投入された。さらに海軍は、菊水作戦と連動させる形で戦艦「大和」以下の第一遊撃部隊も出撃させた。特攻機などの攻撃により連合軍艦艇40隻が撃沈破されるという大損害を被ったが、日本軍機も200機以上が失われ、「大和」も空襲で撃沈される結果となった(坊ノ岬沖海戦)。それでも日本軍は、特攻機を中心とした攻撃を続行した。この空海からの反撃にあわせて、第32軍も第10方面軍の指導で再び総攻撃実施を決定していたが、またも港川方面への陽動部隊接近に惑わされ出撃を中止した。同時期には中国方面航空作戦を担う陸軍第5航空軍から派遣された、独立飛行第18中隊分遣隊の一〇〇式司令部偵察機「新司偵」III型甲が、沖縄本島のアメリカ軍占領下飛行場および洋上の機動部隊に対する強行偵察に成功し、鮮明な航空写真を沖縄方面航空作戦を担う第6航空軍にもたらしたものの、これを攻撃するに十分な航空兵力や艦艇はなかった。日本軍第32軍の作戦計画では本島南部を主戦場とすることになっていたため、北部(国頭地区)には独立混成第44旅団の第2歩兵隊主力(1個大隊)程度しか配備されていなかった。これに対してアメリカ軍は第6海兵師団を主力として攻撃をかけた。八重岳などの山地帯に拠って日本軍は抵抗したが、4月18日に本部半島突端に達し、22日までに制圧が完了した。この戦闘での第6海兵師団の損害は、戦死・行方不明243人、負傷1061人であった。なお、北部は住民の避難地域に指定されていたため推定8万人の住民が県内疎開してきており、アメリカ軍の管理下に入ることとなった。ただし、北部にいた住民のうち、かなりの者はアメリカ軍の北上後に山中に逃れて南進し、すぐには収容所に入らなかった。4月16日に、アメリカ軍第77歩兵師団は、本島の北西海上に浮かぶ伊江島に飛行場と海上防空用のレーダーサイトを設置するため上陸した。伊江島には、独立混成第44旅団第2歩兵隊第1大隊650名を基幹とする日本軍守備隊2,000人(約半数は現地召集の特設部隊)が配置されていた。島民は人口8,000人のうち5,000人が残留していた。日本軍は島民多数とともに抵抗し激戦となったが、21日までに全島が占領された。アメリカ軍によれば、日本側は民間人多数を含む4,706人が戦闘により死亡し、3人が捕虜となった。アメリカ軍は218人が戦死または行方不明となり902人が負傷したほか、中戦車60両・自走砲6両が被撃破(うち完全喪失は5両)などの大きな物的損害を受けた。アメリカ軍の戦死者には、前年にピューリッツァー賞を受賞した従軍記者のアーニー・パイルも含まれていた。生き残った住民は、渡嘉敷島へ移された。日本軍が伊江島に保有していた陸軍飛行場は、3月のうちに徹底的に破壊のうえ放棄されていた。アメリカ軍は復旧作業を進め、5月10日までに最初の戦闘機隊を伊江島飛行場へ進出させた。滑走路・誘導路・レーダーサイトが完成したのは5月中旬で、その後も工事は続き、6月14日までに3個の戦闘機隊と1個の夜間戦闘機隊が展開している。第32軍の方針は前述の通り「軍主力は沖縄本島南半部を徹して国頭郡山岳地区に転位して戦略持久を策する」との首里地下に置かれた司令部を中心とした沖縄本島南部での持久戦術であり、沖縄戦の殆どの期間が南部攻略に費やされた。その為、南部での戦いを前・中・後期に分け記述する。南部のアメリカ軍の進撃は順調で、当初は予定通りのスケジュールで前進していた。その中で独立歩兵第12大隊(賀谷支隊)は孤軍奮闘、圧倒的なアメリカ軍相手に4月2日〜4日まで野嵩及び新垣のラインでアメリカ軍の進撃をよく阻止し、十分に役割を果たし撤収している。アメリカ軍は日本軍の抵抗を排除しながら首里(現那覇市の一部)の司令部を目指して南進するが、途中には守備軍が丘陵地形と陣地で待ち構えていた。そして、4月5日にはその前哨基地であるピナクル(日本軍呼称「161.8高地」)に達したが、同高地を防衛する独立歩兵第147大隊第一中隊(長谷川中隊)を主力とするわずか150名の日本軍は、構築した地下陣地を活用し圧倒的なアメリカ軍の攻撃を7〜8回撃退したが、アメリカ軍は地下陣地に爆薬から黄燐手榴弾までを使用して攻撃、長谷川中隊の生存者はわずか30名と為り撤退、6日にはピナクルはアメリカ軍の手に墜ちた()。アメリカ軍はその後全線に渡って進撃を開始したが、4月7日には各所で日本軍の頑強な陣地に阻まれ、進撃は停止した。第7歩兵師団はレッドヒル(日本軍呼称「北上原陣地」)を攻撃したが、歩兵と援護の戦車10両と装甲車5両のアメリカ軍部隊に対し、日本軍は対戦車地雷と梱包爆弾により戦車3両をたちまち撃破、アメリカ軍歩兵を砲撃と機銃掃射で後退させ戦車を孤立させて、戦車を肉弾攻撃し撃退している。この歩兵と戦車を分離させて撃破する戦術は、沖縄戦では他の戦闘でも多用されることとなった。強固な日本軍の陣地の中でも、第96師団が攻撃した嘉数高地が、地形要因にも恵まれもっとも強固な陣地となり、第96師団を初めとしてアメリカ軍は多大な出血を強いられる事になった(嘉数の戦い)。日本側はその強固な陣地を最大限活用し、賀谷支隊をはじめ、主陣地を守備した第62師団、第2線陣地を守備した第24師団が激しい抵抗をしている。特に4月8日〜12日に嘉数高地を攻撃したアメリカ陸軍第96師団と、同時に和宇慶高地を攻撃した同第7師団は日本軍の巧みな防衛を前に合計2,880名の死傷者を出したが、日本軍の防衛線はビクともしなかった。4月3日の戦況上奏の際に、昭和天皇(大元帥)が梅津陸軍参謀総長に対し「(沖縄戦が)不利になれば今後の戦局憂ふべきものあり、現地軍は何故攻勢に出ぬか」と下問した。その下問を受けて梅津は「第32軍に適切な作戦指導を行わなければならぬ」と考え、大本営陸軍部は第32軍に対しアメリカ軍に奪われた北・中飛行場の奪回を要望する電令を発した。さらに沖縄戦を最後の決戦と位置づける連合艦隊からも、北・中飛行場を奪還する要望が第32軍に打電されている。これらの督促を受けて、長第32軍参謀長は攻勢を主張、八原高級参謀は反対するも、牛島軍司令官は北・中飛行場方面への出撃を決定した。4月8日と12日に日本軍は夜襲を行ったが、第62師団の2個大隊が全滅するなどかえって消耗が早まった。夜襲失敗の状況などを考え、13日には第32軍の方針は一旦は八原高級参謀主張の持久方針に固まった。日本軍の夜襲後も、アメリカ軍は激しい攻撃を繰り返した。特に4月19日に第96・第7・第27師団の3個師団で行われた総攻撃は、日本軍の激しい抵抗により第27師団の、30両のM4中戦車内22両を撃破され、第24軍団全体でも720名の死傷者を出す大損害を被って撃退されている。その後膠着状態が続き、アメリカ軍の攻撃は完全に行き詰った様に見えたが、アメリカ軍は日本軍に艦砲射撃を含む砲爆撃を徹底的に浴びせ、多数の戦車を伴い、防衛線全線に渡って攻撃を継続した。特に、ペリリュー島の戦い以降、日本軍陣地の攻撃手段として行ってきた「ブロートーチ(溶接バーナー)と栓抜き作戦」 での陣地攻撃により、陣地に籠る日本兵の死傷者も激増していた。善戦していた日本の第62師団も大きな損害を被っており、第32軍は4月23日に戦線整理として、一部の部隊に撤収と陣地変換を命じている。19日〜23日までの激戦で第32軍も戦死2,490名負傷2,665名の損害を被っていた。これによりアメリカ軍はようやく首里防衛ラインの外郭を突破し、対する日本側第32軍は予備兵力の第24師団と独立混成第44旅団主力も投入し、後退した第62師団と合わせて防衛線を再構築した。嘉数高地で陸軍が苦戦している間、アメリカ海軍の将兵は日本軍の激しい特攻に曝されており、4月1日〜4月23日の間に60隻の艦船が撃沈破されて、人的損失も1,100名戦死、2,000名以上負傷に達していた。太平洋艦隊チェスター・ニミッツ司令長官は、陸軍の進撃速度のあまりの遅さに、バックナーは陸軍の損害を軽減させるために、海軍を犠牲にしてわざと慎重な手法を使っていると疑っており、現場の指揮には口を挟まないという方針を崩して、バックナーの作戦指導に介入する為に4月22日にアレクサンダー・ヴァンデグリフト海兵隊総司令官を連れて、自ら沖縄に出向いている。バックナーは慎重な作戦を好んだが、海軍や海兵隊よりは積極性に欠けるとの評価で不満が燻っており、普段温厚なニミッツも、会談中にあまりにも慎重なバックナーの姿勢に激高し「他の誰かを軍司令官にして戦線を進めてもらう。そうすれば海軍はいまいましいカミカゼから解放される」と詰め寄っている。この際にニミッツとヴァンデグリフトが提案したのは、頑強な日本軍防衛線の背後に、サイパンで待機中の第2海兵師団の残存部隊を上陸させて、防衛線の背後をつくというものであり、レイテ島の戦いのオルモック上陸作戦での成功を再現できると海兵隊も乗り気であった。しかし、バックナーは補給の問題 と、「そんなことをしたらアンツィオ上陸作戦より酷い事になる」という懸念より、その提案を取り上げなかった。バックナーは1943年に司令官として、アッツ島の戦いといったアリューシャン列島奪回作戦を圧倒的物量の投入による正攻法で成功させた為、沖縄戦についても正攻法を貫き通す意向であった。 以上の通り、沖縄戦では海軍が特攻を主体とする日本軍の航空攻撃により大きな損害を被る一方で、陸軍が日本軍の激しい抵抗により容易に進撃できず、海軍に余裕がなくなり陸軍への不信感を増大させていた。第32軍は夜襲失敗以降は、八原高級参謀の持久戦術により、アメリカ軍に多大な損害を与えて進撃を遅滞させてきたが、損害は増大し主陣地も逐次圧迫され、第32軍首脳部は今後の戦況の推移に憂慮していた。4月29日に長勇参謀長は八原ら参謀を集め「今後の戦況の見通しと軍の攻勢」について幕僚会議を開いた。その席で長は「現状をもって推移すれば、軍の戦力は蝋燭のごとく消磨し、軍の運命が尽きることは明白、攻撃戦力を保有している時期に攻勢を採り、運命の打開をすべき」と反転攻勢を主張した。八原は「攻勢をとれば全滅の運命は必至という状況を冷静に受け入れ、今までの戦略持久を堅持すべきである」こと、「防御陣地を捨てて攻勢に転じても圧倒的火力優勢なアメリカ軍を撃退することは不可能であり、失敗すれば戦略持久すら不可能となり、本土攻撃までの持久日数が短小となる」と強く主張し反対したが、他の参謀らは長を熱烈に支持した。牛島司令官も、かねてよりの中央からの督戦も気に病んでおり、長らの攻勢の意見を取り上げ同日に総攻撃を決定した。5月1日には最後まで反対していた八原を呼び「既に軍は全運命を賭けて攻勢に決したのだから、よろしく気分一新し、全軍の気勢を殺がぬよう注意せよ」と温厚な牛島にしては異例の叱責を行っている。作戦会議決定により5月4日・5日に、日本軍は反転攻勢に転じた。第32軍は、温存していた砲兵隊に砲撃を開始させ、第24師団と戦車第27連隊などを繰り出して普天間付近までの戦線回復を図った。日本軍は一晩に5,000発のかつてない規模での砲撃を加え、船舶工兵第23、26連隊と海上挺進第26-29戦隊は、舟艇で海上を迂回しての逆上陸を試みた。また第32軍の要請により、大本営は空からの援護として菊水五号作戦と第六次航空総攻撃を実施した。日本軍の猛烈な砲撃にアメリカ軍は一時混乱に陥ったが、あらゆる火砲や火器を集中して総攻撃してきた日本軍を攻撃し、日本兵は得意の白兵戦に持ち込む事もできずバタバタと斃された。また日本軍の発砲地点を観測機により発見して効果的に反撃し、対砲兵戦により59門を破壊したと記録している。また、日本の戦車第27連隊は九五式軽戦車の殆どが撃破され、残存戦車6両となり連隊はほぼ壊滅するなど、日本軍の総攻撃は大失敗に終わった。日本軍の遺棄死体は6,237名にも及び、殆ど無傷の予備兵力であった第24師団も大打撃をうけ、隷下の歩兵第32連隊などは戦力が30%以下となった。アメリカ軍の損害は、日本軍の攻勢正面で死傷者714人を生じている。この損害は、日本軍の攻勢正面から外れた地域で侵攻中だった第1海兵師団が5月4日だけで352人の死傷者を出したのと比べると相対的に軽い。この結果よりアメリカ陸軍は、この総攻撃の提案者の長に対し、「5月4日から5日にかけての日本軍の反撃は、長より八原の戦術の方が優れている事を示した。長が自信過剰になって思い付き、不適切に実行した攻撃は、途方もない大失態だった」と厳しい評価をしている。総攻撃の失敗により、沖縄戦は二週間以上短縮されたと分析されているが、この失敗に懲りた牛島は、八原に目に涙を浮かべながら謝罪し、今後は八原の助言を重んじると告げている。一方で総攻撃への空からの援護であった特攻は、相応の戦果を挙げており、駆逐艦「モリソン」「ルース」、中型揚陸艦LSM(R)-190およびLSM(R)-194が撃沈され、護衛空母「サンガモン」、軽巡洋艦「バーミングハム」が大破するなど17隻が撃沈破され682名の死傷者を出した。この内「バーミンガム」への特攻の瞬間は、地上で戦っていた第1海兵師団からも目撃できたという。第32軍の総攻撃失敗から数日後の5月8日にナチスドイツが無条件降伏したが、沖縄のアメリカ兵たちは誰も大して関心を払わなかった。ナチスドイツが降伏しようが、総攻撃失敗で大損害を被ろうが日本軍は今までの様に沖縄でも全滅するまで戦うだろうと確信しており、元海兵隊員で戦後に生物学者となったユージーン・スレッジは当時「ナチスドイツなど月より遠い話だ」と考えたと回想している。海兵隊員らの予想通り、この後日本軍は八原の作戦指揮の下、無謀な攻撃はせず、徹底した持久戦術をとった為、アメリカ軍の損害が増大していった。バックナー司令官は、日本軍が予備隊を使い果たした状況であるのを踏まえ、5月中が首里へ向けて総攻撃を行う好機と判断した。第6海兵師団を中心とする第3水陸両用軍団は、島北部の掃討任務を第27歩兵師団と交代して5月11日までに南へ転進した。これによりアメリカ軍は、西から順に第6海兵・第1海兵・第77・第96師団を並べ、第7師団を予備隊に控えた態勢で総攻撃を開始した。バックナーは日本軍は精鋭部隊の殆どを総攻撃失敗で失ってしまった、という前提の上で「今度の攻勢では、特に変わった戦闘はない。新鋭師団も十分だから、1個師団は常に休養が取れる」と考え、幕僚らも「新鋭の海兵師団をもってすれば、迅速に日本軍陣地を突破できる」と楽観的な見通しを持っていた。しかし、日本軍は牛島司令官が、総攻撃の失敗の教訓として「首里を包含し、両翼を東西海岸に委託する現陣地に拠り、アメリカ軍の出血を強要しつつ、あくまでも持久し」と徹底した持久作戦を指示、八原高級参謀も「我々はひたすら陣地内に潜み、可能な限り沢山の米兵を殺すべし」と徹底しており、バックナーらの見通し通りとはならず、戦いはこれまでを遙かに上回る激戦となった。バックナーの作戦は、首里防衛線の右翼を第3水陸両用軍団の第1海兵師団と第6海兵師団、左翼を第24軍団の第96師団と第77師団が突破し、中央の首里城にある第32軍の司令部を包囲しようというものであった。5月11日に第6海兵師団は日本軍の激しい抵抗を受けながらも安謝川を渡河し、首里西方の安里付近に進出したが、そこの三つの高地(シュガーローフ、ハーフムーン、ホースショア)の日本軍陣地に進撃を止められた。この三つの丘はシュガーローフを頂点、他の二つが底辺とする三角形を構成し侵攻軍に矛先を向け、三つの丘は相互に相補って強固な防衛線を構築していた。シュガーローフは一帯は海兵隊史上最大の激戦となり、反斜面陣地を軸とした強固な陣地を守る日本軍の独立混成第44旅団配下の部隊と第6海兵師団が激しい攻防戦を繰り広げた(シュガーローフの戦い)。特にアメリカ軍に多大な出血を強いたのは、日本軍の多数の火砲であった。シュガーローフを防衛していた独立混成第44旅団は8門の105mm野砲と4門の75mm山砲を装備し、他にも多数の速射砲(対戦車砲)や迫撃砲や擲弾筒などの火砲も併せて、進撃してくるアメリカ軍に激しい砲撃を加えている。激しい砲撃や射撃の中で、海兵隊はシュガーローフやハーフムーンに中々近づく事ができず、支援の戦車も次々に撃破された。シュガーローフの戦いでは主に対戦車地雷と一式機動四十七粍砲によって多数のM4中戦車が撃破された。海兵隊の損害も甚大であったが、日本軍の損害も大きく、日に日に日本軍の抵抗は弱まっていき、ついに5月19日の11回目の攻撃で陥落した。しかしアメリカ軍の払った代償は大きく、死傷者は2,622名にも及び、他1,289名の神経症患者も出すこととなった。特に将校の死傷率が高く3名の大隊長が戦死、11名の中隊長が死傷するなど死傷率は70%にも及んだ。圧倒的なアメリカ軍を相手に、シュガーローフで10日間も足止めした日本軍の戦術は、戦後に第6海兵師団の教本で「教科書通りの陣地防御戦術」と称賛された。第6海兵師団の隣を進撃していた第1海兵師団も進撃の行く手には、安羽茶地区・沢岻高地・沢岻村・大名高地・大名村があったが、これらは全て堅く陣地化され、互いに支援しあえる様に緻密に設計された縦深防御の精巧な防衛システムが構築されていた。第1海兵師団は5月6日に安羽茶地区のナン高地(日本軍呼称:50米閉鎖曲線高地)に達したが、日本軍は陣地に立て籠もり抵抗、一式機動四十七粍砲により3両の戦車が撃破されるなどで2回撃退されたが、9日にはアメリカ軍は得意の「ブロートーチ(溶接バーナー)と栓抜き作戦」で陣地ごと爆破し、ナン高地を制圧した。第1海兵師団は14日に大名高地に達したが、大名高地とそれに隣接する高地は首里直前に位置し、首里防衛線の中核を成しており、その堅牢さはそれまでとは比較にならなかった17日より大名高地に対して攻撃を開始したアメリカ軍は、艦砲や爆撃から野砲・迫撃砲・戦車による火炎放射に至るまであらゆる火器を集中し大名高地の日本軍陣地を攻撃したが、日本軍よりの応射も凄まじかった。第1海兵師団はペリリューの戦いの激戦も潜り抜けてきたが、大名の戦いはペリリューとは別次元の激しさだったと海兵隊員らは感じたという。20日は第1海兵師団は2個大隊により二手から大名高地を攻撃、その内の第3大隊は一つ一つ陣地を「ブロートーチ(溶接バーナー)と栓抜き作戦」で撃破しながら進撃、ナパームで高地を焼き払い、日本兵を炙り出して掃討しつつ一日でようやく60m進んだが、その後丘陵部を25m前進すると、日本軍の猛烈な反撃でまた元の陣地に押し返された。その後5月21日より、沖縄には10日間に渡って雨が降った。地面はぬかるみ、アメリカ軍の車両の運用が困難となった為に、大名高地を含みアメリカ軍の攻撃は一時停滞した。縦深防御システムは陸軍各師団の進撃路にも構築されており、陸軍も海兵隊と同様にもがき苦しんだ。第77師団は首里へ続く曲がりくねった道を前進したが、数メートルおきに日本軍の陣地があり、同師団の第305歩兵連隊は損害に構わず押し進んだ結果、5月11日〜15日の間に戦力が1/4まで落ち込んでしまった。アメリカ軍は通常、午前中に進撃して、午後から陣地を構築して、夜間は陣地に籠り日本軍の夜襲を警戒するというスケジュールであったが、第77師団は少しでも前進速度を上げる為に夜間攻撃を強行し、日本軍と激しい白兵戦を演じている。第307歩兵連隊は日本軍の重要拠点石嶺丘陵の陣地に夜襲をかけ、頂上から日本軍の洞窟陣地を攻撃し、就寝していた日本兵多数を殺傷したが、その後日本軍の激しい反撃を浴び、3日間山頂に孤立し、救出された時には夜間攻撃に参加した204名の内156名が死傷していた。石嶺丘陵の内でもっとも頑強な陣地は、「チョコ・ドロップ」山(日本軍呼称:西部130高地)であったが、チョコ・ドロップを攻撃してきたアメリカ軍第77師団の第306歩兵連隊は、激しい砲火で歩兵の死傷も増大し、死傷者は471名にも上ったことから、第307歩兵連隊と交代させられることになった。チョコ・ドロップの日本軍はこの後もアメリカ軍を何度も撃退したが、最後は洞窟を封鎖されて「ブロートーチ(溶接バーナー)と栓抜き作戦」で制圧された。最初に首里戦線の突破口を開いたのは一番端を進んでいた陸軍第96師団であった。第24軍団長ジョン・リード・ホッジ少将は、首里により近い高地を攻撃し、一気に首里に近づく作戦を主張していたが、第96師団師団長ブラッドリー少将が地形を偵察の上で、より高いコニカルヒル(運玉森)の攻略が優先させた方がよいという意見であった。強力な艦砲射撃の後、5月10日に第96師団の第383歩兵連隊がコニカルヒルに対して攻撃を開始したが、第24師団の金山大佐率いる歩兵第89連隊が主力として布陣した日本軍の陣地は、他の戦場と同様に砲爆撃では破壊できなかった。第383歩兵連隊が前進すると日本軍から激しい砲撃を浴び、容易に前進できなかった。しかし大きな損害を被りながらも、同連隊は13日までにはコニカルヒルの頂上を望める点まで進撃してきた。その報告を受けたホッジは「これが成功したら首里の鍵を握ることができる」と喜び、総司令官バックナーも自ら連隊長の元を訪れ激励している。この頃に台湾の第10方面軍より、傍受したアメリカのラジオ・ニュースの内容が知らされたが「天久台での海兵隊の損害は甚大で、250名の中隊が炊事兵まで繰り出して戦い、ついには8名になった」と言うもので、第32軍は予想以上にアメリカ軍を苦戦させていることが判り狂喜したが八原高級参謀は「あのバカげた総攻撃さえなければ、今こそ米軍に甚大な損害を与え撃退できたのに」と悔やんだ。以上の通り、首里防衛線全線でアメリカ軍は日本軍の防衛線を突破したが損害は甚大であった。首里戦線の2ヵ月弱の戦闘で、第24軍団と第3水陸両用軍団の死傷者は合計で26,044名であったが、他に戦闘ストレス反応による傷病兵も海兵隊6,315名、陸軍7,762名の膨大な数に及んだ。戦車も陸軍だけで(海兵隊の損害史料なし)221両が撃破されたが、これは沖縄戦に投入されたアメリカ陸軍戦車の57%にも上り、またその内には貴重で補充ができなかった火炎放射戦車も12両含まれていた。第32軍は運玉森方面(アメリカ軍呼称 コニカルヒル)にアメリカ軍が攻勢を強めていることを重く見て、運玉森が攻略されれば、一気に首里防衛線は崩壊すると憂慮していた。その為、5月21日に八原博通高級参謀が軍参謀を召集し、今後の方針として下記の各案の利害得失を協議した。第62師団長などは首里決戦案を主張したが、各兵団長の意見を聞いた上で、翌22日に牛島司令官は、より長くアメリカ軍を沖縄に足止めすべく、地形堅固な喜屋武半島への撤退による持久作戦継続を決心し、軍主力の後退は29日と予定、その前に軍需品や負傷者の後送をただちに行うよう指示した。アメリカ軍の進撃は、5月末より降り出した豪雨で一時停滞していたが、23日には、第96師団が制圧したコニカルヒルより、第7師団の第184・第32歩兵連隊が首里を包囲するため前進した。遭遇した日本軍は敗残部隊が多く、両連隊に幾度となく攻撃をしかけたが、撃退され両連隊の進撃を阻止できなかった。しかし第32歩兵連隊が、首里と沖縄南部を結ぶ幹線道路と接する重要な高台地に達すると、日本軍は残存砲兵戦力の総力を挙げての激しい砲撃と、第24師団歩兵第89連隊の敢闘により、多数の損害を出させて撃退している。24日には第6海兵師団の偵察部隊が那覇に進出している。既に砲爆撃により廃墟となっていた那覇には日本軍の姿はなく、同日にアメリカ軍の手に落ちた。コニカルヒルを完全制圧した第96師団や、シュガローフやハーフムーンを突破した海兵隊が首里に近づき、首里包囲網が完成されつつあった26日に、海軍の偵察機が日本軍の大規模な移動を発見した。その報

出典:wikipedia

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