ハイセイコー(Haiseiko)は、日本の競走馬。1970年代の日本で社会現象と呼ばれるほどの人気を集めた国民的アイドルホースで、第一次競馬ブームの立役者となった。1984年、顕彰馬に選出。※馬齢は旧表記に統一する。1972年(昭和47年)7月、大井競馬場でデビュー。同年11月にかけて重賞の青雲賞優勝を含む6連勝を達成。翌1973年(昭和48年)1月に中央競馬へ移籍し、「地方競馬の怪物」として大きな話題を集めた。移籍後も連勝を続け、4月に中央競馬クラシック三冠第1戦の皐月賞を勝つとその人気は競馬の枠を超え、競馬雑誌やスポーツ新聞以外のメディアでも盛んに取り扱われるようになり、競馬に興味のない人々にまで人気が浸透していった。5月27日に東京優駿(日本ダービー)で敗れたことで不敗神話は崩壊したが人気は衰えることはなく、むしろ高まり、第一次競馬ブームと呼ばれる競馬ブームの立役者となった。このブームは、後年1990年前後に起こった武豊とオグリキャップの活躍を中心にした第二次ブームと並んで、日本競馬史における2大競馬ブームのうちの一つとされる。ハイセイコーが巻き起こしたブームは日本の競馬がギャンブルからレジャーに転じ、健全な娯楽として認知されるきっかけのひとつになったと評価されている。1984年、「競馬の大衆人気化への大きな貢献」が評価され、顕彰馬に選出された。競走馬引退後は種牡馬となり、自身の勝てなかった東京優駿を勝ったカツラノハイセイコをはじめ3頭の八大競走およびGI優勝馬、19頭の重賞優勝馬を送り出した。1997年(平成9年)に種牡馬を引退した後は北海道の明和牧場で余生を送り、2000年(平成12年)5月4日に同牧場で死亡した。1970年(昭和45年)、北海道日高支庁新冠町の武田牧場で誕生。馬体が大きく脚や蹄が逞しかったことから、牧場関係者は赤飯を炊いて誕生を祝った。武田牧場場長の武田隆雄によると、生まれた時から馬体が大きくひときわ目立った馬で、他の馬と集団で走る際は常に先頭を切った。夏になると武田は、「ダービーに勝つとはいいません。でもダービーに出られるぐらいの素質があると思います」と周囲に喧伝するようになった。ハイセイコーは母ハイユウの馬主であった青野保が代表を務める(株)王優に所有され、ハイユウを管理していた大井競馬場の調教師伊藤正美によって管理されることになった。1971年(昭和46年)9月に伊藤厩舎に入厩し、馴致が行われた後、調教が開始された。騎手として調教と馴致に携わった高橋三郎によると、ハイセイコーはこの時点ですでに、他の幼い馬とは「大人と子供」ほどに異なる馬体の大きさと風格を備えていた。また、この時期にはすでにマスコミが盛んにハイセイコーについて取材をし、中央競馬の調教師から移籍が持ちかけられるようになっていたといわれている。1972年(昭和47年)5月、担当厩務員の山本武夫はハイセイコーについて、金沢競馬場の厩務員で同郷出身の宗綱貢に、「800メートルの能力試験を49秒そこそこで走る、すごい馬だ」と語った。1972年6月にデビューする予定であったが、出走を予定していたレースが不成立となった。高橋によるとこれは調教師の伊藤が他の出走馬を見下す発言をしたのに反発した調教師たちが「いくら強くてもレースに出られなければそれまでだ」とお灸をすえる意味で故意に管理馬の出走を回避したためであったが、後になって「ハイセイコーとの対戦に恐れをなして出走を回避した」と解釈されるようになった。翌7月12日、大井競馬場で行われた未出走戦でデビュー。このレースを同競馬場のダート1000mのコースレコード59秒4で走破し、2着馬に8馬身の着差をつけ優勝した。従来のレコードはヒカルタカイ(南関東公営競馬の初代三冠馬、中央競馬に移籍し天皇賞(春)・宝塚記念を優勝)が記録した1分0秒3で、この記録を騎乗していた辻野豊に強く前進を促されることのないまま更新したことから、10年に1頭の大物と評された。辻野はこのレースについて、速さのあまり第3、第4コーナーでは馬体を傾けながら走ったためバランスを取るのに精一杯になり、前進を促すどころではなかったと回顧している。その後11月末にかけ、ハイセイコーは常に2着馬に7馬身以上の着差をつける形で6連勝を達成した。4戦目のゴールドジュニアでは大井競馬場ダート1400mのコースレコードを更新し、6戦目の青雲賞で重賞初優勝を達成した。青雲賞及び改称後のハイセイコー記念のレースレコードは2016年現在もハイセイコーの1分39秒2である。5戦目の白菊特別を勝った頃から、調教師の伊藤は「ハイセイコーはいつ中央入りするのか?」とマスコミから質問されるようになった。1973年1月12日、ホースマンクラブに5000万円で売却された。武田牧場場長の武田隆雄は、(株)王優がはじめからハイセイコーを中央競馬へ移籍させる意向であったようだと述べており、江面弘也によると武田牧場側は売却に際し、大井でデビューさせた後中央競馬へ移籍させるという条件を付けていた。作家の赤木駿介によると、ホースマンクラブが新たな馬主となったのは、同クラブの代表者である玉島忠雄が大井競馬を訪れた際、条件次第ではハイセイコーを購買できるという噂を聞きつけたのがきっかけであった。競馬評論家の大川慶次郎によると、当時の日本競馬界では「中央は中央、地方は地方」という風潮が強く、地方から中央への移籍は4歳の秋以降に行われるのが一般的で、4歳になったばかりの時点で行われるのは珍しいことであった。1月16日、ハイセイコーは東京競馬場の鈴木勝太郎厩舎に入厩した。この時ハイセイコーは、初めて足を踏み入れる厩舎の様子を用心深く探る素振りを見せた。この用心深い性格が、後に出走レース選択に関し陣営を苦しめることになる。新たな担当厩務員は、鈴木厩舎の中で人格・技術ともに評価の高い大場博が務めることになった。陣営は移籍初戦として東京4歳ステークス(2月11日に東京競馬場で施行)に出走させようとしたが叶わず、3月4日の弥生賞が移籍初戦となった。「地方競馬の怪物」ハイセイコーの中央競馬移籍は、当初から大きな話題を集め、弥生賞当日、中山競馬場にはおよそ12万3000人の観客が入った。発走前、ハイセイコーがパドックから競走の行われるコースへ移動した際には、観客の一部が観客席とコースとを仕切る金網を乗り越え、コース内に入りこむ騒ぎも起こっている。これはあまりの人の多さに、金網近くにいた観客が苦しくなって起こした行動であった。この現象について、弥生賞でハイセイコーに騎乗し、その後も中央競馬移籍後のすべてレースで騎乗した増沢末夫は、「長いことこの商売やってるけど、あんなこと後にも先にも二度とないんじゃないかな」と語っている。弥生賞でハイセイコーの人気を目の当たりにした増沢は、「この人気にこたえなくては、いけないんだ」と騎手になって初めてプレッシャーを感じたという。陣営はレース前の調教の内容がよかったことから、「勝てる」というかなり強い見込みを持っていたが、芝の馬場を走るのも中山競馬場で走るのも初めてであったため若干の不安も抱いていた。レースが始まると、調教の時とは異なり走りそうな手応えがなく、増沢は「勝てないのではないか」という思いに襲われたという。序盤4番手を追走し3番手で第4コーナーを回ったハイセイコーは、単勝1番人気に応える形で勝ったものの、終始増沢に前進を促され、増沢に手応えを感じさせないままに終わったレースぶりは陣営に不安を与え、「ハイセイコー勝ちましたが、苦しかった!」と実況された。弥生賞の内容に不満を覚えた陣営は、中2週で3月25日のスプリングステークスに出走させた。しかし、ここでも好位を進み直線で抜け出すというレース運びで勝ちはしたものの、陣営が期待していたほどのパフォーマンスを見せることはできなかった。レース後、2着に敗れたクリオンワードの騎手安田伊佐夫が増沢に「おめでとう」と声をかけたところ、増沢は「ありがとう。でも、頼りないな」と返答した。レース後のインタビューでも増沢の表情は冴えず、その模様を中継していたテレビ番組の出演者からは「まるで負けた騎手のインタビューみたいでした」と評された。増沢はこの頃には「みんなが大騒ぎするほど強い馬なんだろうか」と思うようになっていたが、同時にハイセイコーの、実力に見合わないほどの人気の高まりも感じており、「勝たなければ、何といわれるかわからない」とますます重圧を感じるようになっていったという。陣営が弥生賞とスプリングステークスにおいて感じた共通の課題は、ハイセイコーが調教の時とは異なりレースでは自らハミを噛んで騎手の指示に従おうとしない(ハミ受けが悪い)ことであった。スプリングステークスの後、専門家の間でもハイセイコーに対する評価は二分した。赤木駿介は、弥生賞とスプリングステークスのレースぶりはともにぎこちなく、「怪物という異名にふさわしいものを感じさせなかった」評している。一方、当時競馬評論家として活動していた大橋巨泉は、弥生賞とスプリングステークスでのレースぶりを、中央競馬移籍に際し喧伝されていた「鋭い差し脚」や「並ぶ間もないスピード」は感じられず、その意味で「どうやらハイセイコーという馬は、われがわれが抱いていたイメージとは、やや違う馬のようであった」としつつ、「タイムも速くなく、それほど凄い脚もみせないが、いつも必ず勝つ」評し、「五冠王シンザンのイメージがオーバーラップしつつある」と述べた。これに対しシンザンの管理調教師であった武田文吾は、「どだいシンザンと比較するのが間違い。ハイセイコーはまだ1冠もとっていない。とれるかどうかもわからない状態だ。シンザンはすでに"5冠"を制しているのだ」と反論した。前述のように、陣営は弥生賞とスプリングステークスにおける共通の課題として、ハイセイコーが調教の時とは異なりレースでは自らハミを噛んで騎手の指示に従おうとしない(ハミ受けが悪い)点を認識していたが、調教師の鈴木勝太郎はスプリングステークスの後、調教中にハイセイコーがハミを噛んではいるものの時折舌を遊ばせることに気づき、そのことがハミ受けの悪さに繋がっているのだろうと考えた。対策として陣営は、ハミ吊り(ハミの上に舌が乗らないよう、ハミを上顎に引き上げる馬具)を装着することにした。4月15日、中央競馬クラシック三冠第1戦の皐月賞に出走。当日は雨で馬場状態は重となった。ハイセイコーが初めて経験する芝コースの重馬場をこなせるかについて専門家の見解は分かれたが、好スタートを切ったハイセイコーは7番手から徐々に前方へ進出し、第3コーナーで先頭に立つ積極的な戦法をとり、第4コーナーで進路が外側に逸れて2番手に後退するアクシデントに見舞われたもののすぐに再び先頭に立つとそのままゴールし、優勝した。地方競馬からの移籍馬が皐月賞を勝つのは中央競馬史上初のことであった。陣営の努力が実り、皐月賞でのハイセイコーのハミ受けは良好であった。また増沢は、向こう正面でハイセイコーが重馬場を苦にしないことを察知した。皐月賞優勝によってハイセイコーの人気は競馬の枠を超え、競馬雑誌やスポーツ新聞以外のメディアでも盛んに取り扱われるようになった。同時にマスコミはハイセイコーの強さを煽り立て、「三冠確実」、「日本競馬史上最強馬」という評価すら与えられるようになった。山野浩一は、ハイセイコーの人気と実力とが調和を保っていたのは皐月賞の頃までであったと分析している。皐月賞優勝後は、クラシック第2戦の東京優駿(日本ダービー)が目標となった。しかしハイセイコーには同レースが施行される東京競馬場のレースに出走した経験がなく、そのせいで陣営はローテーションを巡って、具体的には東京優駿の前にトライアルのNHK杯に出走させるかどうかを巡って、難しい判断を迫られることになった。ハイセイコーは前述のように用心深い性格をしており、初めて走るコースでは様子を探りながら走る傾向があった。例年多くの競走馬が出走する東京優駿で様子を探りながら走れば、馬群から抜け出せず十分に能力を発揮することのないまま敗れてしまう可能性があった。陣営は協議を重ね、最終的には鈴木が「ハイセイコーにとってローテーションはきついが、ダービーを考えると、ハイセイコーをNHK杯に出走させなければならない。」とNHK杯出走を決断した。大川慶次郎は、2月に東京4歳ステークスに出走できなかったことの影響の大きさを指摘している。NHK杯当日の5月6日、東京競馬場には朝から観客が押し寄せ、午前11時前には国鉄と私鉄の駅に、東京競馬場へは入場できない旨の掲示がされた。最終的な観客数は16万9174人で、中央競馬史上最多であった。このレースでハイセイコーは終始インコースに閉じ込められ、なかなか抜け出すことができなかった。増沢は「3着ぐらいか」と敗戦を覚悟し、先頭に立てないままゴールまで残り200メートルとなると、レースを実況していたフジテレビのアナウンサー盛山毅は「ハイセイコー負けるか、あと200だ、あと200しかないよ!」と口走った。しかしここからハイセイコーは鋭い伸びを見せ、ゴール手前でカネイコマをアタマ差交わして勝利を収めた。このレースでのハイセイコーの単勝支持率(全単勝馬券の発売額に占めるその馬の単勝馬券の発売額の割合)は83.5%で、配当金は単勝、複勝とも100円の元返しとなった。鈴木勝太郎の子で調教助手を務めていた鈴木康弘は苦戦の原因について、陣営が懸念した通りハイセイコーがそれまで走ったことのない東京競馬場のコースの様子を探りながら走り、なかなか馬群から抜け出すことができなかったためだと述べている。このレースで増沢は、ハイセイコーに対し「左回りは右回りほど走らないのではないか」という印象を抱いた。2400mという距離への不安も感じていた増沢は、「ダービーで負けるのではないか」という思いに取りつかれていった。鈴木勝太郎は表向き「ダービーも9分どおり優勝できると思います」と強気のコメントを出したが、鈴木康弘によると実際には「本当にローテーションは苦しくなった」と不安を募らせていた。東京優駿を前に尿検査をしたところ、検査結果はハイセイコーの体調の低下を示し、獣医師は疲労の蓄積を指摘した。NHK杯を勝ったことで、ハイセイコーが東京優駿を勝つということはファンやマスコミの間で既成事実化した。阿部珠樹は、ファンの間に「ハイセイコーは何があっても負けない」という宗教的信念が生まれたと当時を振り返っている。東京優駿当日の5月27日、東京競馬場には13万人の観客が詰めかけた。ハイセイコーの単勝支持率は東京優駿史上最高(当時)の66.6%に達した。このレースで増沢は、展開次第で逃げることも視野に入れつつ先行策をとって3、4番手を進もうとしたが、第1コーナー手前で他の出走馬がハイセイコーの前を横切る形で走行した影響から10番手へ後退を余儀なくされ、さらにインコースに入りすぎてしまった。増沢は、NHK杯でハイセイコーをインコースに入れて苦戦した経験を踏まえ、向こう正面でハイセイコーを馬群の外へ誘導した。第3コーナーに差し掛かった時、ハイセイコーは前方への進出を開始し、第3コーナーと第4コーナーの中間地点で2番手に進出した。最後の直線、ゴールまで残り400mの地点でハイセイコーは先頭に立ったが、その直後に失速し、タケホープとイチフジイサミに交わされ、勝ったタケホープから0.9秒差の3着に敗れた。赤木駿介によると、ハイセイコーの敗戦を目の当たりにし、東京競馬場内は「かつて聞いたこともないような、異様な感じのざわめき」に包まれた。レースの模様はフジテレビとNHKによってテレビ中継され、関東エリアでの視聴率はフジテレビが20.8%、NHKが9.6であった。レース後、敗因について鈴木勝太郎は、2400mという距離がハイセイコーにとって長すぎた可能性を指摘し、増沢はレースに出走し続けたことで目に見えない疲労があったかもしれないとコメントした。この時増沢は「自分の乗り方にミスはなかったと思う」とも述べていたが、後に自らの騎乗について「1コーナーではさまれて、向正面では内に入り過ぎてしまった。あれだけの人気馬だから、もっといいポジションをとらなければいけないと思って、向正面で苦労しながら外に持ち出して行った。考えてみれば行くのが早すぎた。」と分析している。増沢は東京優駿での敗戦を、ハイセイコーの主戦騎手を務めてもっとも辛かったこととして挙げている。鈴木勝太郎はタケホープとイチフジイサミがハイセイコーに並びかけたときに「もう、だめだ、5着もあぶないだろう……」と覚悟し、増沢も直線の途中で「これはよくて5着かな。もしかしたら大敗じゃないか」と感じたと振り返っている。管理馬のクリオンワード(18着)を出走させていた栗田勝はレース後、先行した馬が総崩れとなる中でハイセイコーだけが上位に踏みとどまった事実を指摘し、出走馬の中でもっとも実力があるのはハイセイコーだと述べた。レース直前の調教では多くのカメラマンが一斉にシャッターを切ってハイセイコーを驚かせる場面も見られたが、レース後の検量を終えたハイセイコーが競馬場内の馬房に移動したとき、周囲にマスコミ関係者は一人もいなかった。東京優駿の敗戦は不敗神話の崩壊、「怪物性」が馬脚を現した、偶像が虚像と化したと評され、マスコミは「ついに"敗"セイコー」、「怪物がただの馬になった日」といった見出しで敗戦を報じた。しかし、その人気が敗戦によって衰えることはなく、むしろ高まっていった。大川慶次郎は、「『ハイセイコー神話』は、逆説的にいえばこの敗戦から生まれたものかもしれません」と述べている。夏場は気候の涼しい北海道へ移動させず、東京競馬場で調整されることになった。ハイセイコーは暑さに強く、一度涼しい北海道で過ごした後で残暑の残る本州へ戻すリスクを冒すことはないと陣営が判断したためである。また、北海道の調教コースは半径が小さく、大型馬のハイセイコーが走ると脚を痛める危険もあった。鈴木康弘によると、この年の暑さは厳しく体調を崩す馬が多く出たが、ハイセイコーは3日間調教を休むだけで乗り切ることができた。秋になると陣営はクラシック最後の一冠である菊花賞を目標に据え、前哨戦である京都新聞杯に出走させることを決定し、9月18日にハイセイコーを東京競馬場から栗東トレーニングセンターへ輸送した。10月21日に行われた京都新聞杯では1番人気に支持され、皐月賞と同じような先行策をとり、向こう正面で3、4番手から2番手に進出したハイセイコーであったが、第4コーナーで増沢が馬場状態の悪いインコースを嫌って大きく外を回ったところ、トーヨーチカラ、シャダイオー、ホウシュウエイトがインコースを通ってハイセイコーに並びかけ、激しい競り合いとなった。結果、トーヨーチカラには半馬身遅れをとり、シャダイオーにアタマ差競り勝ち2着でゴールした。鈴木勝太郎はレース後、第4コーナーで外を通り過ぎたことや初めて走る京都競馬場のコースにハイセイコーが戸惑いを見せたことを敗因に挙げ、「これで菊花賞への目安が立ちました」とコメントした。11月11日、菊花賞に出走。1番人気に支持されたハイセイコーであったが、東京優駿で66.6%あった単勝支持率は23.8%に落ち込んでいた。先行策をとったハイセイコーは第3コーナーの手前で先頭に立ち、第4コーナーでは後続を5馬身から6馬身引き離したが、直線でタケホープが追い上げを見せ、2頭はほとんど同時にゴールインした。写真判定の結果、ハナ差でタケホープが先着しており、ハイセイコーは2着に敗れた。タケホープはハイセイコーも出走した京都新聞杯で13頭中8着に敗れており、レース後嶋田功が「ダービー前の状態に近くなってきた」とコメントしていたが、調教師の稲葉幸夫によるとレース前の3日間で体調が大きく上向き、「こわいみたいないい状態」になっていた。11月14日、ハイセイコーは東京競馬場の厩舎に戻った。12月16日、ハイセイコーは有馬記念に出走した(タケホープは出走を回避)。有馬記念ではファン投票により出走馬を選出するが、この年のファン投票でハイセイコーは投票者の90.8%に支持され(有馬記念史上最高)、1位で選出されていた。1番人気に支持されたハイセイコーは4、5番手を進んだが、ハイセイコーよりも後方を走るタニノチカラやベルワイドをマークした結果、逃げたニットウチドリや同馬を第3コーナーでいち早く追いかけたストロングエイトを交わすことができず、3着に敗れた(優勝馬はストロングエイト、2着はニットウチドリ)。レース後増沢は、向こう正面で先頭に立つことも考えたが、タニノチカラに勝つためにはそうするべきではないと思いとどまったとコメントした。タニノチカラに騎乗した田島日出雄は、ハイセイコーとマークしあった結果、先行馬有利のレースになったと分析した上で、「最初からハイセイコーを負かせば勝てるつもりで乗っていた。それがクビ差とはいえ抜けなかったんだから、やっぱりハイセイコーが一番強いです」と述べた。大橋巨泉は増沢と田島の騎乗を「『相手に勝つこと』ばかりにかまけて、『レースに勝つこと』を忘れたといわれても仕方があるまい」と批判し、スポーツニッポン記者の山中将行も「あまりにも消極作戦でずるずると敗れた両雄の不甲斐なさ」への不満を表明した。1974年の優駿賞年度代表馬選考ではタケホープが年度代表馬に選出されたが、ハイセイコーの人気が絶大でありそのことは入場者数などに現れていることを根拠に、「1年を象徴するのが年度代表馬であるなら、ハイセイコーであっても不思議はない」という異論が出た。この意見は「ダービー、菊花賞の重さにおよぶはずはない」と退けられたものの、ファンを湧かせた功労を無視することはできないとして「大衆賞」が与えられ表彰された。中央競馬の年度代表馬選考において、特別賞が授与されたのは史上初のことであった。陣営は1974年(昭和49年)の初戦として1月20日のアメリカジョッキークラブカップを選んだ。ハイセイコーは1番人気に支持されたが、レースではタケホープに2秒1引き離され、9着に敗れた。レース後、増沢は気合が不足していたとコメントし、その理由について激戦が続いたことによる疲れが出たのではないかと述べた。スポーツニッポンの記者蔵田峻によるとパドックを周回するハイセイコーを見て、蔵田自身を含め複数のマスコミ関係者がハイセイコーの体調は良くないと判断したという。3月10日に出走した中山記念でも1番人気に支持され、不良馬場のなか、2番手から第4コーナーで先頭に並びかけるレース運びを見せ大差勝ちした。タケホープもこのレースに出走しており、増沢は直線で後続馬との差を広げ独走態勢に入ってからも「またタケホープに迫られるんじゃないか」と思い、ハイセイコーに全力で走るよう促し続けた。鈴木康弘によると、3月を過ぎ気温が上昇するとともに、ハイセイコーの体調は上向いていったという。中山記念の後、ハイセイコーは天皇賞(春)に備えて4月初頭に栗東トレーニングセンターへ輸送された。鈴木康弘によるとハイセイコーの体調は非常に良好であったが、レースが行われる予定の週に厩務員がストライキを起こし、レースの施行日が一週間延期された間に調子を落としてしまったという。一方、鈴木勝太郎は後に、この時のハイセイコーはレース出走が続いたことで疲労が蓄積して「最悪のデキ」にあり、「正直出走させたくなかった」と振り返っている。5月5日に行われたレースで、ハイセイコーは前方へ進出しようとする素振りを見せて増沢の制御になかなか従わおうとせず、2番手でレースを進めた。ハイセイコーは「仕掛けるには、まだ早すぎる」という増沢の思いとは裏腹に第3コーナーで先頭に立ったものの粘りきれず、タケホープから1秒0差の6着に敗れた。前年の11月20日に報道された、ハイセイコーが5月から翌1975年までアメリカへ遠征し、ワシントンDCインターナショナルなどに出走するという計画は、この敗戦により中止された。6月2日、宝塚記念に出走。このレースでハイセイコーは、デビュー以来初めて単勝1番人気に支持されなかった。増沢によると天皇賞(春)に敗れた後、自身のもとに「あれで怪物か。普通の馬じゃないか」という声が届くなど、ハイセイコーに対するファンの見方には変化が生じていたという。しかしこのレースでハイセイコーはレコードタイム(2分12秒9)で走破し、2着のクリオンワードに5馬身の着差をつけて勝利を収めた。増沢は、この勝利で失いかけていた人気が急に復活したと振り返っている。レース後、鈴木勝太郎は勝利を喜びながらも「タケホープに出てきてほしかった。きょうは絶対に負けなかっただろう。タケホープはあれだけの速いタイムでは走れないよ」とタケホープへの対抗心を露わにした。タケホープは天皇賞(春)出走後に屈腱炎を発症し、休養に入っていた。さらに同月23日、高松宮杯に出走。鈴木康弘によると、当初は宝塚記念出走後すぐに東京競馬場へ戻る予定であったが、体調が良かったため名古屋のファンへ顔見せを行うべく出走に踏み切ったという。レース当日、中京競馬場には同競馬場史上最多の6万8469人の観客が入り、厩務員の大場が弥生賞とも比べものにならないほどだったと語る歓迎を受けた。増沢も後に、「今までもずいぶん騒がれました。でもこんな大歓声を聞いたのは初めてです」、「感激した。あのときのことを、いまでも思い出すと、興奮するくらいだ」と振り返っている。増沢によるとこの時ハイセイコーは夏負けの症状を見せ始めており、体調は宝塚記念の時ほどよくはなかった。増沢は逃げることも視野に入れていたが思っていたほどスピードに乗れず、3番手からの競馬となった。スタート後ずっと前進を促されていたハイセイコーは第3コーナーに差し掛かったところでスピードに乗り始め、第4コーナーで先頭に並びかけ、直線半ばで先頭に立ちそのまま優勝した。増沢はゴール前で2着馬アイテイエタンが追い上げる蹄音が聞こえ、肝を冷やしたという。レース後、増沢はハイセイコーの年内一杯での競走馬引退を示唆した。高松宮杯を勝ったことでハイセイコーの獲得賞金は1億9364万5400円になり、メジロアサマの記録(1億8625万8600円)を抜いて当時の中央競馬史上最高額となった。6月27日にハイセイコーは東京競馬場へ戻り、夏場は前年と同様に東京競馬場で調整を続け、秋になって10月13日の京都大賞典に出走。2番人気に支持されたが、休養明けで体調が万全でなかったことと、62kgという負担重量が響く形で4着に終わった。4着の賞金270万円を加算したハイセイコーの獲得賞金額は2億116万5400万円となり、中央競馬史上初めて2億円を超えた。京都大賞典の後、「目標はあくまでも天皇賞、有馬記念」と語った陣営は、天皇賞(秋)へのステップレースとして11月9日のオープン戦を選び、このレースでハイセイコーは2着となった。しかしレース後に鼻出血が確認され、「競走中に外傷性のものではない鼻出血を起こした競走馬は、当該競走から起算して発症1回目は1ヵ月間競走に出走できない」というルールの適用を受けることとなり、天皇賞(秋)への出走は断念せざるを得なくなった。鈴木康弘は「ハイセイコーにとって天皇賞はよほど運のないレースとなってしまった」と嘆いた。増沢も天皇賞(秋)が行われた後、「使いたかった。あのレースの結果からみて、今でも残念だ」と出走できなかったことを悔いた。12月15日、引退レースの有馬記念に出走。レース前に行われたファン投票では、前年に続き1位に選ばれた。レースではタニノチカラが逃げ、ハイセイコーは3番手につけた。向こう正面で馬群の中ほどに位置していたタケホープが前方へ進出を開始し、第4コーナーではタニノチカラをハイセイコーとタケホープが追う形となった。直線に入ってもタニノチカラとハイセイコー、タケホープとの差は縮まらず、タニノチカラが優勝した。ハイセイコーはタケホープとの競り合いを制し5馬身差の2着に入った。2頭の競り合いに観客は、優勝馬がすでに決まっていたにもかかわらず湧き上がり、テレビ中継のカメラは勝ったタニノチカラではなくハイセイコーを大映しにした。阿部珠樹はこの時の観客の盛り上がりを、優勝馬が決まった後のものとしては空前絶後と評し、このレースが2つのレース、すなわちタニノチカラが勝った第1のレースと、ハイセイコーとタケホープが競り合った第2のレースから成り立っていたと述べている。増沢はこのレースを、体調がいま一つであったため2着に敗れたものの悔いはないと振り返っている。厩務員の大場はレース前、天皇賞(秋)に出走できずレース間隔が予定より開いた影響から馬体重が絞り切れていないと感じていた。ハイセイコーがゴールした後、テレビの中継番組は増沢が11月に吹き込みを済ませていた楽曲『さらばハイセイコー』を流し、勝ったタニノチカラへの言及もそこそこに、ハイセイコーが引退レースでタケホープに先着したことを繰り返し伝えた。『さらばハイセイコー』は1974年のある時、競馬評論家の小坂巖が書いた「増沢がハイセイコーの歌を歌ったらヒット間違いなし」という文章をポリドール・レコード関係者が目にしたのをきっかけに制作された楽曲で、小坂が作詞を、猪俣公章が作曲を担当した。1975年(昭和50年)1月に発売されるや『さらばハイセイコー』はラジオのヒットチャートで1位を、オリコンのヒットチャートで最高4位を獲得し、50万枚を売り上げた。同年4月には同じく増沢の吹き込みで『ハイセイコーよ元気かい』が発売され、14万枚を売り上げた。1975年1月6日、『さらばハイセイコー』が流れる中、東京競馬場で引退式が行われた。スタンド前から走り始めたハイセイコーはゴール板を過ぎたところで動かなくなり、再び走り出すとそのまま芝コースを1周した。引退式でコースを1周したのは中央競馬史上初のことで、これは第4コーナーから500mほど走らせるという一般的な方法ではなかなか走るのをやめようとしないだろうと陣営が判断したためであった。引退式に先立ち、1974年12月26日には東京競馬場で「ハイセイコーとファンの集い」が催され、4000人あまりのファンが集まった。この場で増沢は、『さらばハイセイコー』を披露している。1月7日、ハイセイコーは北海道新冠町の明和牧場で種牡馬生活を開始するために馬運車に乗せられて厩舎を離れ、翌8日の夕刻、明和牧場に到着した。ハイセイコーの人気は種牡馬となってからも衰えなかった。後藤正俊は種牡馬としてのハイセイコーの最大の功績として、競馬ファンと馬産地とを結びつけたことを挙げている。それまで馬産地を訪れる競馬ファンは少なかったが、ハイセイコーが種牡馬となり明和牧場で繋養されるようになると、観光バスの行列ができるほど多くのファンが同牧場を訪れるようになった。明和牧場ではハイセイコー専用の放牧場を用意し、ファンの訪問に備えた。1976年(昭和51年)公開の映画『トラック野郎・望郷一番星』にハイセイコーが出演すると新冠町の知名度が高まり、町がハイセイコーの名を冠したブランドを作って特産品の野菜を販売したところ、爆発的な売れ行きを見せた。1977年(昭和52年)10月にはハイセイコーがデビューした大井競馬場において、「ハイセイコー 大井に帰る」と題されたイベントが3日にわたって催された。高橋三郎によるとこの時、京浜急行電鉄立会川駅から大井競馬場にかけて、東京ダービーや東京大賞典の当日ですら見られないほどの人だかりができたという。ハイセイコーは種牡馬となった初年度に72頭の繁殖牝馬と交配した。小柄な馬が多く生まれたことや産駒の出来不出来の差が激しいといった理由から2年目以降交配頭数は44頭、38頭、29頭と減少していったが、初年度の産駒からカツラノハイセイコ(東京優駿、天皇賞(春)優勝)など複数の活躍馬が現れたことで人気が高まり、5年目以降は10年連続で50頭以上と交配した。血統研究家の吉沢譲治は、「もしもカツラノハイセイコが出ていなかったら、その後のハイセイコーがどうなっていたか分からない」と述べている。カツラノハイセイコの活躍はファンの間でも熱狂的に迎えられ、東京優駿優勝時には一般紙でも大きく取り上げられた。同馬を管理した庄野穂積のもとには、初勝利を挙げた頃から激励の手紙やお守りを同封した子供からの手紙が殺到していたという。1979年には増沢の吹き込みによるレコードシングル『いななけカツラノハイセイコ』が発売され、7万枚を売り上げた。1980年代に入り世界的な広がりを見せていたノーザンダンサーの血統がブームとなると、ハイセイコーの血統は時代遅れであるとみなされ始める。散発的ではあったが相変わらず活躍馬を出し、中央・地方を問わず産駒が走るハイセイコーの人気は、依然生産者の間では高かったものの、80年代後半になるとそれも落ち始め、種牡馬ハイセイコーは終わったという見方が広まっていった。しかし1989年にサンドピアリスがエリザベス女王杯に優勝すると、1990年にはハクタイセイが皐月賞親子制覇を達成、牝駒のケリーバッグも桜花賞で2着と健闘した。また地方競馬でもアウトランセイコーが大井の黒潮盃を制するなど活躍馬が集中し、一時90万円まで下がっていた種付け料は再び100万円台半ばを回復した。この現象について、明和牧場代表の国宇守は「牧草が変わったわけでもなければ、世話する人が変わったわけでもない。環境は昔からみんな同じです。どうしてなのか、私たちにもわかりません。しかし、そこがまた怪物の怪物たるゆえんなのでしょう」と述べている。また阿部珠樹は、当時のハイセイコーの「かなり低下していた配合相手の水準を考えると、奇跡的なことといっていいだろう」と評価している。1990年、ハイセイコーは地方競馬のリーディングサイアーを獲得した。1984年には競馬の殿堂の顕彰馬に選定された。顕彰馬選考委員会の一員として顕彰馬選出に関与した大川慶次郎は、競走成績だけをみると顕彰馬のなかでは一枚落ちるものの、「競馬の大衆人気化への大きな貢献」が選定の決め手になったとしている。ハイセイコーは1997年の交配を最後に種牡馬を引退し、明和牧場で余生を過ごした。2000年5月4日午後、同牧場の放牧地で倒れているのが発見され、獣医によって死亡が確認された。競走馬時代の主戦騎手で、調教師となり北海道の牧場を巡っていた増沢末夫が死亡の報せを聞いて明和牧場を訪れたところ、ハイセイコーはまだ放牧地に横たわったままで、増沢はその場にしばらく無言で佇んだという。5月18日、新冠町のレ・コード館で「お別れの会」が催され、およそ500人が参列した。ハイセイコーの墓は最期を迎えたビッグレッドファーム明和(1998年に明和牧場を買収して開業)にあり、その墓碑には「人々に感銘を与えた名馬、ここに眠る」と記されている。死後、道の駅サラブレッドロード新冠(新冠町)・中山競馬場・大井競馬場には銅像が建立され、ハイセイコーが大井競馬場時代に優勝した青雲賞は、2001年より「ハイセイコー記念」と改称された。また、2000年8月には「さらばハイセイコー」が追悼版CDとして再発売された。2004年2月にはJRAゴールデンジュビリーキャンペーンの「名馬メモリアル競走」として「ハイセイコーメモリアル」が中山競馬場で施行された。ハイセイコーの人気、ブームは社会現象ともいえるほどの規模に達し、競馬に興味のない人にまで名が知れ渡り、ブームに巻き込んでいった。国民的アイドルホースとなったハイセイコーは「週刊少年サンデー」や「週刊少年マガジン」の表紙にまで登場し、オグリキャップが登場するまで日本競馬史において比較対象すらない存在であった。ハイセイコーが立役者となって作り出した競馬ブームは「第一次競馬ブーム」と呼ばれ、日本競馬史における2大競馬ブームのうちの一つとされる。朝日新聞のコラム『天声人語』は、「馬の名で浮かぶ時代がある」とした上で、「高度成長が終わる70年代」を象徴する競走馬として、テンポイントとともにハイセイコーを挙げている。赤木駿介は、ハイセイコーブームとは「表面的な物質享楽と、加速度的なインフレーションの谷間に落ちて」何かに飢えていた大衆が、マスコミの露骨な商業主義を感じ取りつつも、「一個の動物でしかすぎないサラブレッドに、純粋なるものを求めた」ものであり、「世相の反映であり、70年代の1つの象徴といえよう」と評している。競馬評論家の井崎脩五郎は、「1970年の3月6日に生まれ、1970年代を突っ走り、1979年の日本ダービーを自らの産駒が勝ったハイセイコーこそ、この10年の代表馬であったと、当然のことのように思い返すのではないだろうか。」と述べている。前述のように、ハイセイコーの中央競馬移籍は当初から大きな話題を集めた。このことについて日刊競馬解説者の吉川彰彦は2005年に、「1頭の競走馬がなぜそこまで熱視を浴びたか、今思ってもやはり不思議だ。」と振り返っている。当時マスコミの現場にいた遠山彰(元朝日新聞記者)や橋本邦治(元日刊スポーツ記者)は、血統的には決して無名の出ではないハイセイコーをマスコミが擬人化し、「名もない地方出身者が、中央のエリートに挑戦する」、「地方から這い上がった野武士が貴公子に挑む」というストーリーを作り上げ、当時上京していた地方出身者がハイセイコーに夢を託したのだと分析している。読売新聞記者の片山一弘は、そのようなストーリーが、高度経済成長期の学歴社会において、判官びいきを伴った共感を集めたのだと述べている。山野浩一は、ハイセイコーは望まれて中央へ移籍した生まれながらのエリートであるとして、ハイセイコーの活躍を地方競馬出身で「雑草育ち」の馬が中央競馬のエリート相手に勝ちまくる出世物語とみることを「あまりにも安易な虚構」と批判している。父のチャイナロックはハイセイコーが中央競馬へ移籍した1973年にはリーディングサイアーとなるなど成功を収めた種牡馬で、母のハイユウも南関東の地方競馬で16勝をあげていた。関口隆哉は、「ハイセイコーが生まれた70年当時の感覚としては、モダンな血筋を受け継いだ、血統的な期待も大きい馬だったことは間違いない」と述べている。前述のように誕生した年の夏には「ダービーに勝つとはいいません。でもダービーに出られるぐらいの素質があると思います」と生産者によって喧伝されており、地方競馬でデビューしたのは、単に当初ハイセイコーを所有した(株)王優が地方競馬の馬主資格しか持っていなかったために過ぎなかった。また江面弘也によると、前述のように(株)王優への売却に際して武田牧場は大井でデビューさせた後中央競馬へ移籍させるという条件を付けており、さらに2代目の馬主であるホーズマンクラブは有力な生産牧場を出資者とする組織で、ハイセイコーは中央競馬へ移籍した時点ですでに将来種牡馬となることが想定されていた。ハイセイコーが大井競馬場でデビューしたのと同じ1972年7月、日本では田中角栄が第64代内閣総理大臣に就任した。朝日新聞be編集グループ(編)『サザエさんをさがして その2』は、田中角栄が世間の注目を集めていたことが、ハイセイコーにまつわる「地方出身者の出世物語」が世間の共感を呼ぶ要因になったと示唆し、藤島大は、人々が「鼻持ちならぬエリートをへこませる野武士」田中角栄の姿をハイセイコーに重ねたとしても不思議はないと述べている。日本経済新聞記者の野元賢一は、「地方競馬出身馬が中央競馬に乗り込み、エリートを打ち負かす」というハイセイコーの物語が人気となったのは、当時の日本社会が「出自がどうあれ、ある程度の努力をすれば成功できる」という認識を共有していたからだと指摘している。田中角栄は、ハイセイコー引退の1か月前の1974年12月に内閣総理大臣を辞任した。遠山彰は、田中の辞任とハイセイコーの引退により「地方の時代、野武士の時代」が幕を閉じ、「ブランド志向の時代」が再来したと評している。赤木駿介は、マスコミがプロ野球の読売ジャイアンツとON砲に代わる「売り」となる素材を探す中でハイセイコーに注目が集まり、「マスコミの巨大な力が、じわじわと世評を育んで」いったのだと述べている。一方藤島大は、ハイセイコーの物語が支持されたのは、単にマスコミが仕立てたからだけではなく、人々もそれを願ったからだと述べている。横尾一彦は、ハイセイコーブームが起こった1973年はオイルショックが起こりインフレーションに見舞われた、それまでの好景気が一転して不況に陥った年であり、庶民が「せめてもの慰み」としてハイセイコーに関心を寄せた可能性を示唆している。歴史学者の本村凌二(雅人)は、日本の経済成長に陰りが見える中、カネのためではなく純粋に競走馬として走るひたむきな姿が、「何でもカネ、カネ」という生き方に疑問を持ち始めていた人々の胸を打ったのだと分析している。東京優駿で敗れると、マスコミの中には「ただの馬」、「落ちた偶像」、「"敗"セイコー」などと叩くものも現れた。しかし前述のようにその人気が敗戦によって衰えることはなく、むしろ高まっていった。鈴木康弘も、東京優駿に敗れたことでかえって多くの手紙や電話が寄せられるようになり、「応援が足りなかったんでしょうか」と書かれた手紙も届いたと回顧している。高見沢秀はこうした現象を、ファンが東京優駿での敗北という信じがたい悪夢を現実として見つめ直したあと、「また新しい夢を見せてくれる存在としてハイセイコーを支持し続けた」のだと分析している。また、作家の石川喬司は、挫折を経てなお走り続けるハイセイコーの姿から、ファンは「高度成長の挫折に見舞われた人間界からは失われつつあるものを見出し、その無垢な生物の素顔にしびれた」のだと述べている。遠山彰は、ハイセイコー人気が高まる中、女性や子供のファンからファンレターやプレゼントが届いたことをきっかけに「男ばかりのギャンブルの世界」が変質し始めたと分析している。競馬評論家の原良馬によると変化は「汚い」「暗い」「怖い」という目で見られていた競馬場にも及び、ハイセイコーが活躍した頃から女性ファンの姿が見られるようになった。片山一弘も、「中年男のものだった競馬場に…若い女性が集まり、黄色い声援が飛び交うようになった」ことを指摘し、ハイセイコーの出現によって日本の競馬が、ギャンブルからレジャーに転換したと評価している。高見沢秀は、それまでギャンブルに過ぎなかった日本の競馬が、ハイセイコーの出現によってカルチャーとエンターテインメント、ギャンブルを横断する独特のジャンルへと変貌したと分析している。『日本中央競馬会50年史』は、ハイセイコーブームが従来の「公営競技=ギャンブル=悪」というイメージを脱し、競馬が健全な娯楽として認知される基盤を築く一因となったと評価している。管理調教師であった鈴木勝太郎は、ハイセイコーの登場により競馬新聞を人前で読むのがはばかられるような雰囲気が解消され、「あの馬のおかげで、競馬そのものが真っすぐな方向に変わったように思います」と述べている。横尾一彦も同様に、「ようやく『私は競馬ファンです』と胸を張れる時代がやってきた」と述べている。ハイセイコーのファン層は子供や女性、老人など馬券を購入せず、ハイセイコー以外の競走馬に関心を抱かない人々にまで広がった。片山一弘は、こうした点でハイセイコーは「競馬という枠組みを超えたスーパースター」であったと評している。鈴木康弘はハイセイコーのファンがギャンブルを抜きに、愛情をもってハイセイコーに接したことに感動を覚えたと回顧している。ファンの中にはハイセイコーを見ようと厩舎を訪れるファンも多く、夏休みの時期には親に連れられて子供のファンが多く厩舎を訪れたという。ハイセイコーのもとには多くのファンレターが届き、「東京都 ハイセイコー様」という宛名だけではがきが届いたという伝説も生まれた。引退後も、年賀状やクリスマスカード、誕生祝いなどが届いた。浅草のブロマイド屋のもとにはハイセイコーのブロマイドを求める声が多く寄せられ、写真を撮らせてほしいとブロマイド屋が厩舎を訪れたこともあった。ブームが高まるとハイセイコーは少年雑誌や女性週刊誌など、競馬雑誌やスポーツ新聞以外のメディアでも盛んに取り扱われるようになった。阿部珠樹はハイセイコーが少年雑誌の表紙に登場したことについて、「それまで健全な市民社会の対極にあるものとみなされていた競馬の世界では、考えられないことだった」と述べている。ハイセイコーが東京優駿に出走した1973年5月27日には、ギャンブル嫌いの漫画家長谷川町子が、朝日新聞朝刊に連載中の『サザエさん』でハイセイコーを取り上げた。『日本中央競馬会50年史』は、1973年にはハイセイコーブームにより馬券売上額が33.55%、入場者数が15.64%、それぞれ前年よりも増加したと評価し、1974年においてもハイセイコーがタケホープ、キタノカチドキ、タニノチカラとともに中央競馬を盛り上げたことにより、馬券売上額が前年よりも17.52%増加したと評価している。レース単位でみると、1973年には前述のようにNHK杯で中央競馬史上最多となる16万9174人の観客が入場したほか、菊花賞の馬券売上額が98億4813万5400円と同レース史上最高となり、有馬記念での馬券売上額は中央競馬史上最高の124億4197万にのぼった(そのうち、ハイセイコーがらみの馬券はおよそ45%にあたる56億5231万9900円を占めた)。有馬記念が施行された12月16日の開催1日の馬券売上額も154億6847万3600円と史上最高であった。翌1974年の有馬記念では前年の記録をさらに更新し、同レースの売上額が136億4668万円、レース当日の売上額が172億7956万8600円を数えた。日本経済が1973年から1974年にかけて起こった第一次オイルショックの影響から国内消費の低迷に見舞われる中、中央競馬の馬券売上額はハイセイコーの引退後も上昇を続け、「不況に強いギャンブル」という神話が誕生した。野元賢一は、1970年代前半における中央競馬の馬券売上増加を支えたのはハイセイコーであると評している。中央競馬移籍後のハイセイコーを診察した獣医師の伊藤信雄は、ハイセイコーの身体面の長所として身体面では体型とバランスの良さを挙げ、体の使い方に無駄がないため疲労がたまりにくいと分析している。主戦騎手の増沢末夫も、ハイセイコーの第一印象として馬体のバランスの良さを挙げ、「あんなに丈夫でタフは馬を、いままで知らない」とも述べている。担当厩務員の大場博は、ハイセイコーのような大型馬が脚部に何の異常も来さず引退まで至ったことについて、「非常に珍しいケースといえるだろう」と述べている。鈴木康弘によると、ハイセイコーは心臓をはじめとする内臓が強く、調教を終えると厩舎に戻る前に息が整った。食欲も旺盛であった。サラブレッドの安静時の心拍数は毎分30ないし35拍で一流の競走馬は毎分25ないし30拍といわれるところ、ハイセイコーの心拍数は毎分28拍であった。大井競馬場時代のハイセイコーに騎乗したことのある高橋三郎によると、1971年11月のある日、ハイセイコーが調教後に疲れた様子を見せたのでリンゲル液を注射したところ、リンゲル液が寒さで冷えており、ハイセイコーが体を震わせてショック状態に陥ったことがあった。そのまま倒れると死亡する可能性があったため関係者が10人がかりで支えたところ、崩れ落ちそうになりながらも持ちこたえたという。高橋は「普通の馬だったら保たなかったと思う。よっぽど心臓が強かったんだろうね」と語っている。関係者の証言によるとハイセイコーの馬体は生まれた時から大きく、デビュー前の時点ですでに他の幼い馬とは「大人と子供」ほどに異なる馬体の大きさと風格を備え、4歳の時点で古馬のように完成されていた。一方でその馬体は、膝下が短く、洗練された気品にはやや欠けていたとも評されている。体格の大きなハイセイコーの走りは重戦車にたとえられた。1974年12月21日に測定されたハイセイコーの馬体のサイズは、体長163センチメートル、体高(キ甲=首と背の境から足元まで)171センチメートル、尻高169センチメートル、胸囲188センチメートル、管囲21.5センチメートルである。ハイセイコーは後脚の力が強く、「滑らかさよりも力で走る」タイプの競走馬だった。後脚の蹄鉄は装着してから1週間ほどで擦り減ってしまったといわれている。橋本邦治は、このような特徴を持つ競走馬は長い距離を走るとスタミナを消耗する傾向にあり、ハイセイコーの場合も「2000m以上は駄目」と評価されるような競走成績に繋がったと分析している。鈴木勝太郎はハイセイコーの引退後、当初抱いていた印象について、胴の詰まった体型からこなせる距離は1800mまでで、2000m以上で行われる中央競馬のクラシックでは苦しいと感じたと証言し、予想を覆す活躍を見せたハイセイコーを「大した馬だよ」と評している。厩務員の大場によると、ハイセイコーは皮下脂肪がつきやすい体質で、冬場は苦手とした。大型馬であるため減量が必要だったハイセイコーの調教は通常でも厳しいものであったが、冬場はいっそう厳しさを増し、「見ているほうが辛くなるときもあるほどだった」と述懐している。逆に暑さには強く、夏が近づくと水を大量に飲み、大量に汗をかいた。獣医師の伊藤信雄は、ハイセイコーの精神面の長所として気の荒さを挙げている。大井競馬場時代の厩務員山本武夫は、ハイセイコーの性格について「気の荒すぎるところがあり、いったん、いうことをきかなくなったら、テコでも動かなくなる」と評している。ただし荒い反面、気の弱いところもあった。調教師の鈴木勝太郎は、気性の激しいハイセイコーに対応した調教方法を考案した。まず15-15と呼ばれる軽めの調教を1週間ないし10日に一度行い、他の馬がいないタイミングを見計らって調教を行うなどの工夫をした。ハイセイコーには、他の馬と並んで走ると負けまいとして走り過ぎる傾向があった。ハイセイコーは初めて訪れる場所を警戒するところがあった。増沢によると、もともと警戒心や注意力の強いサラブレッドの中でも、ハイセイコーはひときわそうした傾向が強かった。鈴木勝太郎はマスコミの取材やファンの来訪を拒まなかったが、神経質なハイセイコーへの配慮から、カメラ撮影に関してのみ厩舎内では行わず決められた場所で行うよう要望を出した。厩務員の大場によれば、ハイセイコーは「イライラを抑え、ファンサービスに努め」ていたが、5歳になってからはほとんど動じなくなったという。しかし大場はハイセイコーの気性を鑑みたうえで、ハイセイコーブームを「嬉しいような、ちょっとかわいそうなような騒がれ方だった」と振り返っている。明和牧場元取締役の浅川明彦は競走馬引退後のハイセイコーについて、怖いくらいの威厳を放ち、担当厩務員以外の者の言うことは聞かず、他の馬と喧嘩をすることもしばしばであったと振り返っている。浅川によると明和牧場でのハイセイコーは体調がいいと人に触られるのを嫌がる反面、体調が悪いと注射にも素直に応じるところを見せた。浅川はハイセイコーについて、神経質さが良い方向に出て、警戒心と注意力に優れた頭のいい馬であったと評している。ハイセイコーは引退式でコースを1周した後、速度を落としつつ第1コーナーを過ぎたところで突如立ち止まって首を振り、騎乗していた増沢を振り落した。増沢によると、それまで第1コーナーと第2コーナーの中間地点をゆるやかに通った後はそのまま地下道を通ってコースから出る習慣があったため、引退式でもハイセイコーはコースから出ようとして方向転換を計り、そのことが落馬につながった。増沢はこのエピソードを著書で紹介し、ハイセイコーを「じつに利口な馬」と評している。競走馬時代、普段の調教では調教助手の吉田が騎乗したが、増沢が騎乗するとハイセイコーは興奮するしぐさを見せた。これについて鈴木勝太郎は、増沢がレースで騎乗することをハイセイコーが理解しているためだと説明した。弥生賞当日、発走前に蹄鉄をレース用のものに打ち替えようとしたところ、ハイセイコーは落ち着きをなくし、興奮する様子を見せた。そのため、以降のレースでは当日の早朝に打ち替えが行われるようになった。ハイセイコーは前述のように荒い気性と気の弱さを併せ持っていたが、競馬では他の馬と並んで走ると抜かせまいとする勝負根性を発揮した。増沢は、そうした根性、闘争心こそがハイセイコーの真骨頂だと述べている。ハイセイコーはストライドの大きな馬で、マスコミは「ひと跳び8メートル」と報じた。高橋三郎は、馬体もストライドも大きいハイセイコーにはダッシュ力はなかったと評し、増沢末夫も一瞬の切れ味を発揮するタイプではなく、相撲のがぶり寄りのようにジリジリと伸びるタイプだと評しているハイセイコーが連勝していた時期に増沢は、「物凄い末脚を使う馬が出てくるとこわい」とコメントし、鈴木勝太郎も「一瞬の切れ味の鋭い馬」を警戒していた。高橋はダッシュ力のなさを指摘する一方で、一度加速がつくと他の馬を引き離すほどの速さで走ることができたとも振り返っている。ハイセイコーがスピードに乗った時の感触を増沢は、「ぐーんと躰が沈みこんでいく」と表現した。増沢によると跳びの大きい馬は雨が降って状態の悪い馬場を苦手とする傾向があるが、ハイセイコーは得意とした。これについて鈴木勝太郎は前述のように、体格の大きさからストライドが大きくなるのは当然のことで、かき込むような走り方をすることから状態の悪い馬場を苦手とすることはないという見解を示している。高橋三郎によると、ハイセイコーはダートコース向きの走り方をしていた。鈴木勝太郎も、中央競馬へ移籍してきたハイセイコーを調教で走らせてみて、ダートコース
出典:wikipedia
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