鈴木 秀人(すずき ひでと、1974年10月7日 - )は、静岡県浜松市中区出身の元サッカー選手。ポジションはディフェンダー。現役時代はJリーグのジュビロ磐田一筋でプレーし、Jリーグベストイレブンにも選出された。元日本代表。浜松商業高校では中盤の選手としてプレーしていたが、さして強豪でもないため全く無名の存在であった。しかしサッカーを続けることを望んでいたため、サッカー部の指導者が面識のあった柳下正明を頼り、高校3年次にヤマハ発動機サッカー部の練習生となる。170センチそこそこしかなかった身長が高校3年次に急激に伸びたことや、スピードの持ち主であったことで、サイドバックとしてなら使えるだろうという当時の長澤和明監督らの判断により、ヤマハ改めジュビロ磐田への入団が決定する。2年近くサテライトで当時サテライトの監督鈴木政一らの指導を受けて、ディフェンダーとしての基礎を身につけた後、けが人や出場停止者が発生したことでトップチームに呼ばれるようになり、1995年6月24日にテクノポート福井スタジアムで行われたベルマーレ平塚戦で、左ストッパーとしてデビュー。あっという間にトップチームに定着し、翌年のアトランタオリンピックにも同僚の田中誠、服部年宏らと共に出場し、グループリーグD組第1戦ブラジル戦ではベベットを完封するなど一躍有名になった。ジュビロでは当時Jリーグ随一とも言われた守備の強さを見せていたが、フル代表にはなかなか縁がなく代表キャップはわずか1。2002年3月21日に行われたウクライナ戦に選出されたが、出場は無かった。田中誠と共にジュビロサポーターのみならず、他クラブのサポーターや評論家・解説者などから「なぜ代表に呼ばれないのか不思議」と言われ続けた。ジュビロの黄金期を主力選手として支え、最終的に磐田一筋で現役を終えるなどサポーターには人気もあったが、若い頃は精神的にムラがあり、ラフプレーなどで不必要な警告を受けることも多かった。後年はそれも影を潜め、ゲームキャプテンとして世代交代期に入った磐田を支えるベテランの1人としてプレーした。2009年11月11日ジュビロ一筋の中山雅史と共に戦力外通告を受ける。現役続行を希望していたが、条件に合うクラブが見つからず、2010年1月8日に現役引退を発表。磐田の育成コーチとして、後進の育成に当ることになった。その後は磐田でコーチとして、2010年はU-15のコーチ、2011年はU-18コーチ、2012年はU-18の監督になることが決定した。2013年も引き続きU-18の監督を務め、2014年からはジュビロ磐田のトップチームのコーチに就任することが決まった。「サッカーを続けたい。大学ではなくてプロでやりたい」と彼が監督に相談したときは、サッカー部関係者も困惑したという。結局監督がコーチングライセンスの勉強会で一緒だったヤマハサッカー部の新人コーチ柳下正明に頼み込んで、練習に参加させてもらう手はずを整えた。トップチームに昇格した際、彼は強運ぶりを発揮している。当時のハンス・オフト監督は、はじめ鈴木とは別の選手をトップチームの練習に呼ぼうと寮に連絡したものの、たまたま彼が不在だったため、もう一人の候補で寮にいた鈴木を呼んだ。身近な人々が語るように、普段は親切で優しく、人見知りをするくらいのシャイな人物にもかかわらず、本人も「サッカーをしているときは気が短い」と言うように、若い頃はちょっとしたことで相手にくってかかる(周りが止めても)シーンがおなじみだった。1996年7月23日、アトランタ五輪グループリーグD組第2戦ナイジェリア戦の後半44分、鈴木は自陣ペナルティエリア内で後ろから倒されたが、審判は笛を吹かなかった(相手選手のファウルを取らなかった)。ところが、鈴木はファウルだと判断し、倒れた際にボールを手で抱え込んだ為、ハンドの反則を取られ、ペナルティーキック(以下PK)となった。この判定に、怒り狂った鈴木はボールをピッチに叩き付け、危うく警告を受けそうになった(結局、審判は警告をしなかった。このPKをナイジェリアMFオコチャが決め、0-2で日本敗退。なお、もし、この失点が無かったら、日本とナイジェリアが勝ち点及び得失点差で並び、総得点で上回る日本がブラジルと共に決勝トーナメント進出となり、ナイジェリアの金メダルは無かった)。特に1997年7月の静岡ダービーでは、ボールを外にけり出し遅延行為で主審が2枚目のカードを出して退場処分になった際、怒って主審に暴言を吐いた上にスパイクを投げつけ、山本昌邦コーチにフィールドから引きずり出された。しかしこのときチームから厳しく意見されて処罰され反省したことや、結婚後は「イエローをもらっただけで妻に怒られる(鈴木談)」ため、そのような光景はかつてに比べれば少なくなった。田中誠をはじめ名波浩や藤田俊哉、大岩剛など静岡市立清水商業高等学校出身の選手たちと仲がよいため、冗談で「自分も清水商の出身」だといっていたところ、それを真に受けた菊地直哉が、入団時に「先輩よろしくお願いします」と挨拶に来た。2001年から2002年にかけて大岩、田中、鈴木で構成された3バックは、鉄壁と言われ失点が非常に少なかったことで知られている。また誰かが欠けてしまったときにしっかりと穴を埋め、2002年後半は大岩に代わってスタメン出場した山西尊裕を含めた4人を指して、鈴木や田中が「僕らは4バック」というほど強い団結力を見せた。子煩悩なところがあり、子供の前では赤ちゃん言葉になるらしい(週刊サッカーダイジェスト2009年10月13日号より)328||9||70||0||31||0||429||90||0||0||0||0||0||0||0328||9||70||0||31||0||429||9その他の公式戦|2004||rowspan="2"|磐田||rowspan="2"|2||5||0!通算!!colspan="2"|AFCその他の国際公式戦|-!通算
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