順治帝(じゅんちてい)は、清の第3代皇帝。姓名はアイシンギョロ・フリン(、愛新覚羅 福臨)、廟号は世祖。在世時の元号順治を取って順治帝と呼ばれる。入関後(中国支配の開始後)の清の土台を確固たるものとし、次代の康熙帝・雍正帝・乾隆帝の三世の春、いわゆる康雍乾盛世の黄金時代を導く役割をした。 ホンタイジの第9子として生まれる。母は永福宮荘妃(ボルジギト氏)。崇徳8年(1643年)、ホンタイジが急病で遺言を残さずに崩御した。後継として、最初はホンタイジの兄ダイシャンが候補に挙がったが人望がなく、自ら辞退した。ホンタイジの長子の粛親王ホーゲは有力な候補であったが、ホンタイジの弟でホーゲより年少の睿親王ドルゴンを推す一派がより優勢であった。ドルゴンはホーゲ一派との全面衝突を避け、ホーゲの異母弟である6歳のフリンを皇帝に推した。という計算だった。結果、フリンが皇帝に推戴され、ドルゴンと、ヌルハチの弟の息子ジルガランが摂政となった。生母の荘妃は皇太后とされた。のちに、荘妃とドルゴンは再婚した。荘妃は自分の子供を皇帝にするためにドルゴンと手を結んだと言われている。ただし、皇太后とドルゴンの再婚に関しては、これを否定する説も唱えられている。翌1644年(順治元年、崇禎17年)3月19日、李自成率いる順軍が北京を陥落させ、明を滅ぼした。清軍はドルゴンの主導の下、山海関を開城して清に下った呉三桂を先頭に、北京へ向かった。北京の順軍は明を滅ぼした後、おのおの官職を決めたり明の高級官僚を処罰したりと忙しかったが、山海関の中に入った清軍を4月23日に迎え討った。清軍は大勝し、さらに敗走する李自成を追って通城(現在の湖北省)まで南下し、順を滅ぼした。10月19日、順治帝はドルゴンに迎えられて北京に入城した。ドルゴンとホーゲの対立は日に日に悪化した。順治元年(1644年)4月1日には、ホーゲが自分を誹謗しているのを耳にしたドルゴンが、「ホーゲが謀反を企んでいる」と上奏した。幼い順治帝は兄を助けようと泣いて命乞いし、罰金刑だけですんだ。その後、権力を増したドルゴンは順治4年(1647年)、目障りになったジルガランから摂政王の位を剥奪し、代わりに自分の弟ドドを摂政とした。翌順治5年(1648年)にはさらに、ジルガランを郡王に格下げした上で罰金刑に処した。ホーゲはドルゴンから冷遇されるも、戦場で功績を重ね、張献忠を倒すなど抜群の戦績を挙げた。これを不愉快に思ったドルゴンは、また謀反の罪で殺そうとするが、順治帝は一歩も譲らず「処刑は認めない」と毅然たる態度を示した。それでもホーゲは冤罪で捕えられ、順治5年(1648年)に獄死した。ホーゲとジルガランを排したドルゴンは権力をさらに増し、横暴が目立つようになった。自身の称号は「摂政王」から「叔父摂政王」、順治2年(1645年)に「皇叔父摂政王」、順治5年(1648年)からは「皇父摂政王」を称している。また、ホーゲ死後にその夫人を自分の妃とした。しかし順治7年(1650年)、ドルゴンは狩りの途中で突然死去した。ドルゴンが死亡した後、積年の恨みを胸に秘めながらも、順治帝は葬儀を淡々と進めた。ドルゴンの廟号は「成宗」とした。皇帝でもないのに「宗」のつく廟号を贈られるのは異例であった。しかし、それと同時にドルゴンの屋敷を家宅捜査し、私物を僭上の証拠として没収した。また、弟のアジゲを処刑した。順治8年(1651年)1月12日、13歳の順治帝による親政が始まる。順治帝は「朕は今日官民の苦を均しく知る」と宣言する。新政の手始めはドルゴン派の一掃であった。2月22日、ドルゴンの罪を暴く書状を全国に公布した。罪状として以下の数々が挙げられた。そして、ドルゴンの墓が文字通りに暴かれ、死体が鞭打ちの刑に処された。順治帝は特に、生母とドルゴンの再婚が非常に許せなかったと言われている。ドルゴンが重用した文官も処罰され、特に大学士のガリン(剛林)は処刑された。一方で反ドルゴン派は復権し、ホーゲの名誉は回復され、ホーゲの子も和碩貝勒顕親王に取り立てられている。ドルゴンの名誉は後世、乾隆帝によって回復している。順治帝はまず内政の改革を始めた。当時、全国各地から名産品を皇帝に献上することになっていたが、これをいくつかの場所で止めた。また質の悪い官僚を追放し、官職の合理化を進め、税金逃れのために僧や道士になっていた者を還俗させた。また宦官が政治に関与することを厳重に禁止し、破れば即座に死刑とした。歴代中華王朝の衰退の大きな原因となった宦官の悪弊は、清代ではほとんどその姿を現さなかった。順治16年(1659年)、鄭成功の北伐軍を跳ね返し、国内をほぼ平定した。しかし、愛妃ドンゴ氏を亡くしてからは気落ちし、順治18年(1661年)に天然痘で急死した。24歳での若すぎる死に「順治帝は死んだのではなく、本当は寵愛する妃(ドンゴ氏、孝献皇后と追号)の菩提を弔うべく出家して五台山で生きている」との説が生まれ、「孝陵(順治帝の陵墓)には、骨壷はあっても棺はない」とも噂された。その遺体は仏教に傾倒していた本人の希望で火葬されたようである。清東陵に陵墓がある。廟号は世祖。「祖」の文字は、通常は漢の高祖(太祖高皇帝)劉邦など、王朝の始祖あるいは再建者に贈られる廟号であるが、順治帝は3代目であるにもかかわらず太祖に続いて贈られている。最初は慣例通り「宗」の字を当てようとしたが、これには北京遷都によって新しい国家を築いたことと、大司馬梁清標が「太祖ヌルハチは清朝開国の君であるが、フリンは満州帰属の入閣後の最初の皇帝である」と強く主張し、諸臣を説得した。
出典:wikipedia
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