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織田氏

織田氏(おだし)は、日本の氏族・武家。斯波氏の家臣の家柄。家紋は揚羽蝶、織田木瓜など。通し字は嫡流・伊勢守家の「広」、大和守家の「定」、後に近世大名となる弾正忠家の「信」など。織田一族の発祥地は越前国織田庄(福井県丹生郡越前町)にある劔神社である。本姓は藤原氏(のちに平氏を称する)。実際は忌部氏の流れを汲むとされる。甲斐氏、朝倉氏と同じく、三管領の斯波武衛家の守護代であり、序列は甲斐氏に次いで二位であった。室町時代は尾張国の守護代を務める。戦国時代には一族同士の争いの結果、弾正忠家の織田信長が勢力を大きく広げた。しかし、天下統一を目前に本能寺の変で信長および嫡子の織田信忠が討たれると織田家有力家臣の勢力争いとなった。最終的に羽柴秀吉が織田家中を纏めたが、織田家当主とされた織田秀信成長後も政権は織田家に返されることはなかった。しかし織田家の本国である岐阜城は返却され美濃の領主とされた。関ヶ原の戦いで西軍についたことで徳川家康により織田秀信が改易され、5年後の彼の死を以って織田家嫡流は断絶したと言われている。しかし、織田信長の次男である織田信雄を筆頭に弾正忠家の庶流は存続し続け、江戸時代には外様の小大名や高家、旗本、尾張藩や明石藩家老などとして存続した。なかには藤掛氏、津田氏のように織田を称しない一族もいる。現在でも直系子孫が続いている。明治維新後、大名の織田家四家が子爵に列した。織田氏は系図の上では平資盛の子と称する平親真を祖とする桓武平氏流と自称している。しかし、福井県越前町の法楽寺で発見された親真を供養した五輪塔の一部には「喪親真阿聖霊(あしょうりょう)正應三年庚刀(かのえとら)二月十九日未尅(ひつじのこく)」、つまり親真は正応3年(1290年)2月19日に亡くなったと刻印されており、『信長記』(小瀬甫庵)などの文献と照らし合わせると親真が100歳を超える寿命になり信憑性が問われる。この他、越前国織田庄(福井県丹生郡越前町)の織田剣神社の神官の出自であるともされている。また、福井県の郷土史家である松原信之の研究によると、織田剣神社にある『藤原信昌・兵庫助弘置文』の古文書で、明徳4年(1393年)の6月17日に剣神社宝前に奉納し、置文を記した鎮守府将軍・藤原利仁(あるいは利仁の岳父で、敦賀郡の豪族藤原有仁(忌部氏?))の系統と思われる藤原信昌、藤原兵庫助将広(将常)父子が越前織田家の先祖に関連がある人物と伝わる。事実として織田信長は「藤原信長」と称しているが、その根拠はここから来ており、元東京帝国大学史料編纂官の博士・田中義成の研究によると、信長は実際に天文18年(1549年)11月、熱田八ヶ村の熱田神宮で自ら「藤原信長」と認(したた)めていると述べている(『加藤文書』より)。また、天文23年(1554年)6月11日、織田信長は熱田神宮に菅原道真画像(熱田神宮所蔵)を寄進。その絵巻には「藤原織田勘十郎」と記してある。また、他の学説としては、親真自身が忌部氏の出自とする説もある。元弘3年(1333年)、建武の新政において足利高経(斯波高経)が越前国の守護に補任されて以降、越前守護職は斯波氏が世襲していくこととなり、越前の国人であった織田氏も暫時その被官層に組み込まれていったと考えられる。後に斯波氏は応永7年(1400年)に尾張守護を、応永12年(1405年)に遠江守護をそれぞれ加えられると、斯波氏の筆頭家臣であった甲斐氏が越前守護代と遠江守護代を兼任し、織田氏は尾張守護代を世襲するようになった。織田氏の最初の守護代は織田将広の子の織田常松(織田教信)であるとされ、この頃より織田一族は越前から尾張へ移住していったものと見られる。斯波家中においては、室町将軍の御成を受ける程の家格を誇った甲斐氏に次ぐ序列二位を誇り、また幕府内部でも織田氏の家督人事が直接議論されるなど(織田郷広など)、一般の大名家来衆とは隔絶した存在であった。尾張守護代を世襲した織田氏惣領家は代々伊勢守を称したため伊勢守と呼ばれ、主君である斯波氏とともに在京生活を送って中央政界での勢力争いに終始し、尾張には在国の又守護代(守護又代とも)として、代々大和守を称する一族を配置して統治を行っていた。織田氏の主君である斯波氏は7代当主の斯波義淳の没後、8代義郷・9代義健と短命の当主が続き、家中の実権は執権の甲斐氏をはじめとする織田氏・朝倉氏などの重臣層と、斯波一族の大野家などが握っていた。やがて重臣層と一族衆の対立が深刻化し、寛正6年(1465年)には重臣層が推す渋川義鏡の子義廉と大野家出身の義敏が家督を巡って対立する武衛騒動が起こることとなった。この争いが将軍家・畠山氏の家督相続と連動したため、応仁元年(1467年)の応仁の乱が勃発、義廉と甲斐氏や織田氏などの主だった重臣層は西軍となり、義敏と斯波一族、そして一部の重臣やその庶流は東軍となり争った。この時、義廉は京都で西軍の主力として戦い、義敏は守護職回復を狙って越前で戦っている。また義敏の子義良(義寛)は尾張に居たと思われ、文明7年(1475年)遠江国は東軍である駿河守護今川氏の侵攻を受け、同じく東軍であった義良と遠江守護代甲斐敏光がこれを防ぎ、今川義忠が敗死に追い込んでいる。しかし、越前国では西軍から東軍に寝返った朝倉孝景が越前守護を称して西軍の勢力を越前から一掃していき、さらに文明13年(1481年)頃までには朝倉氏は同軍であり主君でもある義敏・義良親子の勢力も駆逐してしまった。この間、義廉も将軍足利義政の不興を買って管領職・三ヶ国守護職・斯波氏家督の全てを剥奪され、都落ちを余儀なくされている。尾張国では、守護代の織田敏広(伊勢守家)が西軍ということもあって西軍の優勢な地域であった。この頃、尾張の守護所が下津城(中島郡)から清洲城(春日井郡)に移されたという。このため都落ちを余儀なくされた義廉も尾張へ落ち延び、敏広とともに勢力の巻き返しを図ることとなった。しかし、応仁の乱が終結した翌年の文明10年(1478年)、東軍であった尾張又守護代・織田敏定が室町幕府第9代足利義尚から正式な尾張守護代と認められると、敏広と義廉は兇徒と断じられて討伐対象に指定されて清洲城を追われた(義廉は以後の記録には見えなくなる)。しかし、伊勢守家は、織田敏広の岳父であった美濃国の斎藤妙椿(旧西軍)の支援を得て盛り返し清洲城を包囲した。この時、織田敏定は右目に矢を受けたという。翌文明11年(1479年)、再三の幕府の介入により、織田敏広と斎藤妙椿は清洲城の包囲を解き、尾張上四郡(丹羽郡、葉栗郡、中島郡、春日井郡)を伊勢守家、尾張下四郡(愛知郡、知多郡、海東郡、海西郡)を大和守家が治めることで和睦したとされる(しかし、実際には知多郡と海東郡は一色氏が分郡守護であった)。文明13年(1481年)3月に伊勢守家は大和守家と争って勝利した。織田敏広の後を継いだ寛広は斯波義寛(義良)に帰順した。文明15年(1483年)には京から尾張に下向した斯波義寛が清洲城に入城し、守護・斯波義寛、守護代・織田敏定の体制で尾張はひと時の安定期を迎えた。守護・義寛のもとで安定化した尾張であったが、長享元年(1487年)に近江守護・六角高頼攻め(長享・延徳の乱)が起こると義寛は両織田氏を率いて将軍の元に参陣し、将軍家の主戦力となってその力を背景に越前奪還を狙った。しかし明応2年(1493年)の明応の政変により越前奪還は完全に潰えることとなった。明応3年(1494年)に美濃守護土岐氏の家督争い(船田合戦)が起こると、織田寛広(伊勢守家)は斎藤妙純方に付き、石丸利光方に付いた織田敏定・寛定父子(大和守)がそれぞれ陣没・戦死するなど尾張国内が乱れたため、遠江も駿河守護の今川氏親の配下であった北条早雲の侵攻を許すこととなった。以降の斯波氏は今川氏との長い抗争に終始することとなる。なお、船田合戦終結の翌年、斎藤妙純も近江で戦死したため、伊勢守家は後ろ盾を失い急速に勢力を失った。その後、斯波義寛の後を継いだ義達は遠江奪還のための遠征を繰り返したが、この際の義達の軍勢に織田氏は従軍しておらず、一連の遠征は織田氏にとって決して賛同できるものではなかったと思われる。このため永正10年(1513年)にはついに守護代・織田達定が守護・義達に叛旗を翻したものの、義達によって返り討ちにされてしまった。守護代の下剋上を阻止した義達はなおも遠江遠征を続行させるものの、永正12年(1515年)に決定的な敗北を喫して捕虜となり尾張へ送還されたために失脚し、わずか3歳の斯波義統が当主となり、斯波氏の権威は失墜した。このような中で急速に台頭を果たしてきたのが、清洲織田氏の三家老の一つ、織田弾正忠家の織田良信・信定父子であり、海東郡津島に居館を構えて交易を押さえ、海西郡や中島郡を侵食して勢力を伸ばし、勝幡城(海東郡、中島郡)などを築城した。大永7年(1527年)、織田信定がその子の織田信秀に家督を譲った頃には弾正忠家は主家を凌ぐ力をつけており、今川那古野氏の今川氏豊から那古野城(愛知郡)を奪うなど信秀は更に勢力を拡大し、美濃国では斎藤道三と、三河国では松平清康・広忠や、駿河守護の今川義元と抗争した。その子・織田信長は、父の没後に起こった織田家の内紛を鎮める一方で、名目上の主君であった斯波義統が守護代・織田信友により殺害されると、斯波義銀を奉じて清洲織田氏(大和守家)を滅ぼし、更に岩倉織田氏(伊勢守家)も滅亡ぼし、後に斯波義銀も追放した。さらに尾張へ進出してきた今川義元を桶狭間の戦いで破り、尾張知多郡や三河碧海郡を擁する水野氏や、岡崎城を中心に三河一帯を制した徳川氏と同盟を結び、さらに甲斐国の武田氏とも友好的関係を築いた。信長はこうした外交的安定を背景に美濃・伊勢へ勢力を広げ、上洛し将軍・足利義昭を擁立する。信長は義昭と連携し中央政権としての影響力を誇示していたが義昭はやがて独自性を強め、近江国の浅井長政や越前国の朝倉義景、さらに本願寺や甲斐国の武田信玄ら反信長勢力を迎合し信長に対抗する(織田包囲網)。元亀年間には武田信玄が西上作戦を行い遠江・三河へ侵攻するが信玄の死去により作戦は中止され、反信長勢力は各個撃破され、将軍義昭は山陽道の備後国へ追放され、室町幕府の滅亡により織田政権が樹立される。その後も信長は家臣を各方面へ派兵して統一事業を進めるが、天正10年には本能寺の変において家臣の明智光秀によって討たれた。この際、信長の嫡男で織田氏の当主であった織田信忠も二条城で討たれたため、政権の中核となるべき人物を失った織田政権は崩壊した。本能寺の変の後、清洲会議での決定により信忠の嫡男・秀信(三法師)が織田宗家(織田弾正忠家の宗家)を継いだ。実権は羽柴秀吉に奪われたものの、その後秀吉から祖父・織田信長のかつての居城であった岐阜城13万3千石を与えられ、大名に取り立てられた。また、秀吉の旧主でもあったため貴人として遇され、官位は中納言まで昇進し岐阜中納言と呼ばれ、豊臣政権を構成する有力な大名の一人となった。しかし、秀信は関ヶ原の戦いで西軍に属して戦ったために改易され、身柄は高野山へ送られた。そして、秀信の死をもって織田信長の嫡流の断絶ということになった。このことから織田家嫡流は徳川家康により滅ぼされたともいえる。なお、『江源武鑑』(一般的には偽書とされる)では秀信に娘がいたとしており、その娘と六角義郷の間に氏郷が生まれたという。また、嫡流男系が郷士西山氏や織田(おりた)氏として土着したという記録もあり、これが事実であるとすると嫡流男系は正式な武士としての身分は失ったものの、士分の階層には留まり存続したことになる。以上の記述が正しいとするならば、信長の嫡流男系と嫡流女系は存続していたことになる。『寛政重修諸家譜』など、公的な系譜では秀信に子女はいなかったとしている。本能寺の変以降、織田信長の血筋を引き継いで明治まで続いた系統は、主として次男信雄・七男信高・九男信貞の子孫である。信雄は小牧・長久手の戦いで徳川家康と組んで秀吉と戦うものの講和、服属するにいたった。小田原征伐の後に国替えをめぐって秀吉と対立し、改易となった。ほどなく許されて、御伽衆として秀吉・秀頼父子に仕えた。豊臣家の滅亡後、徳川幕府に独立した大名として認められた。織田信雄の子孫は、四男・信良の系統が上野小幡藩、後に出羽高畠藩・天童藩の2万石の大名となった。また、五男・高長の系統が大和宇陀松山藩、後に丹波柏原藩の2万石の大名となった。両家ともに信長の末裔ということで、小藩でありながら江戸時代中期の宇陀崩れや明和事件に巻き込まれるまでは幕府から国主並の優遇を受けた。近代に入り、両家ともに華族となり、子爵を与えられた。宇陀松山藩主・織田高長の三男・長政は3,000石を分け与えられて分家し、交代寄合となり、その子孫は高家旗本になった。明治期から昭和期にかけて活躍した芸術家の織田一磨は直系の子孫である。さらに、長政の次男・信清は300石を分け与えられて分家し、旗本になった。その他、天童藩・柏原藩両織田家ともに庶子に津田姓などを与え、家臣として分家させた。具体的には、宇陀松山藩主・織田高長の五男津田頼房の系統や高畠藩主・織田信浮の十男・津田長郷の系統などをあげられる。信長の6男・信秀、7男・信高、8男・信吉といった多くの息子たちは秀吉の家臣となった。しかし関ヶ原の合戦で多くの息子たちは西軍に属して没落した。織田信長の7男・信高の系統は徳川幕府の旗本となり、後に高家旗本になった。近江国内で2,000石余りを領有し、9代・信真で維新を迎えている。フィギュアスケート選手の織田信成は、この家系の末裔と自称するが、客観的に証明する家系図は存在しない。織田信長の9男・信貞の系統も、徳川幕府に旗本として仕え、後に高家旗本になった。近江国内で1,000石余りを領有した。後に分知により700石余りに減った。また、2代・織田貞置の3男・貞則、4男・貞輝は分家し、それぞれ旗本になった。静岡藩主・徳川家達に仕えた織田泉之は貞輝の子孫である。織田貞置の孫・津田長経は、高家織田家の嫡子であったものの、病気のために嫡子の地位を退き、近江国神崎郡河合寺村に閉居した。その子孫である織田瑟々(津田貞秀の長女・政江)は江戸時代後期の画家として知られる。織田信貞の長男・信次は、病気のため家督を相続できず、信次の長男・貞幹は、尾張藩主・徳川光友に召し抱えられて、家老にまで抜擢された。また、貞幹の次男・長居は分家し、尾張藩士になった。 凡例実線は実子、点線は養子、太字は当主、□は名不詳。

系図には諸説あるため併記する『清洲町史』の信長以前の織田氏系図(推定)。藤原将広と織田常松を同一人物とし、織田常竹をその兄弟としている。

出典:wikipedia

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