伊達氏(だてうじ/いだてうじ)は、鎌倉時代から江戸時代まで東北地方南部を本拠とした一族で、藤原北家山蔭流と称する。伊予国・但馬国・駿河国などに庶流家がある。氏の由来である陸奥国伊達郡の「伊達」という地名は、もともと「いたて」「いたち」と呼ばれており、暦応2年(1339年)の文書には「いたてのかもんのすけ為景」、慶長18年(1613年)に支倉常長がローマ教皇に渡した伊達政宗の書簡には Idate Masamune とあるように、伊達氏自らはこの呼び方に従って「いだて」と称していたようである。一方で、山科教言の日記『教言卿記』の応永13年(1406年)8月4日条には「タテ」、万里小路時房の日記『建内記』文安4年(1447年)3月26日条には「タッテ」という表記が見える。このように15世紀から畿内で「だて」という読み方が広まったため、江戸時代を通じて「いだて」と「だて」が混用された。初代・朝宗以降、ほとんどの歴代当主が「宗」(むね)字を使用する。ただし、江戸時代に伊達綱村(仙台藩第4代藩主)が、父・綱宗と同名になるのを避け、第2代・宗村に由来する「村」(むら)字を使用してから、第8代藩主斉村までの間、「村」が通字となった。室町時代の歴代当主は足利氏(初め鎌倉公方家、のち足利将軍家)から、江戸時代の歴代仙台藩主は徳川将軍家から、それぞれ偏諱を拝領しており、例えば、仙台藩第6代藩主・伊達宗村は、第2代当主・宗村と同名であるが、「宗」は将軍・徳川吉宗から偏諱として拝領したもので、それに通字の「村」を合わせたものである。江戸時代後期には、第9代藩主周宗・第10代藩主斉宗の兄弟が「宗」の字を使用したが、その後は仙台藩主が短期間で次々と交代する一方で、将軍・徳川家斉の治世が長期化したこともあって、偏諱の「斉」字に合わせて通名を使用することで同名となることを避けるため、通字を使用しない時期が続いていたが、明治維新期の宗基・邦宗兄弟以降は再び「宗」の字が通字となり現在に至っている。出自は常陸国伊佐郡、あるいは下野国中村荘と伝えられる。魚名流藤原山蔭の子孫である。鎌倉時代、源頼朝による奥州合戦に従軍し、石那坂の戦いで戦功を挙げた常陸入道念西が、頼朝より伊達郡の地を与えられ、伊佐あるいは中村に変わり伊達朝宗(ともむね)を名乗った。ただし、伊達氏の出自が藤原北家であるというのはあくまで自称に過ぎないとする説もある。例えば太田亮は「山蔭の裔とする事については、何等確実徴証あるなく、且つ世数長きに失す」と指摘し「桓武平氏常陸大掾平維幹(平繁盛の子)の子為賢の末」説を挙げている。また、常陸入道念西と伊達朝宗は別人であるという説もあり、新井白石は元禄15年(1702年)成立の『藩翰譜』で『伊達正統世次考』の示す系図を疑っており、常陸入道念西は朝宗の子・宗村であるとしている。鎌倉時代には陸奥・下野・常陸の他にも出雲・但馬・伊勢・駿河・備中・上野・出羽・越後などでも地頭職を得ており、これにともにない各地に庶流家が生まれている。建治元年(1275年)『造六条八幡新宮用途支配事』によれば伊達入道跡は鎌倉に起居していたことが分かる。南北朝時代の伊達行朝の代には、義良親王を奉じて奥州鎮定のために下向した北畠顕家に属し、行朝は結城宗広らとともに式評定衆となった。北条氏残党の中先代の乱では、連動して蜂起した北条方の与党を討った。建武2年(1335年)に顕家が足利尊氏討伐のために上京すると行宗も従い、足利方と戦う。興国年間には南朝方(後醍醐天皇方)として同族の伊佐氏とともに常陸国伊佐郡の伊佐城に拠り、北朝方(足利方)の高師冬等と戦う。南朝方は破れて伊佐城は落城、行朝は城から脱出した。なお、正中の変・元弘の乱では分流(雲但伊達氏系)の伊達遊雅(三位房、祐雅法師)が連座し処罰されている。また雲但伊達氏や駿河伊達氏は足利方であった事がこの時代の各史料に見て取れる。しかし伊達宗遠の代には北朝方に降伏。宗遠は出羽国長井郡を攻め、領主である長井氏を滅ぼして領有した。宗遠の子伊達政宗の時代に鎌倉公方足利満兼が領土の割譲を求めると、満兼や会津の蘆名満盛(蘆名詮盛の子)と争った。政宗は応永9年(1402年)までに3度にわたり鎌倉府に反旗を翻している(伊達政宗の乱)。初め奥羽は鎌倉府の管轄ではあったが、のちに斯波氏が奥州・羽州探題を世襲するようになると、伊達氏はさらに形式上その配下となる。また幕府と鎌倉府の対立が次第に深まると伊達氏は幕府に接近して京都扶持衆となり、応永20年(1413年)の応永の乱では鎌倉を牽制し(伊達松犬丸の乱)、永享10年(1438年)の永享の乱では幕府より鎌倉公方の討伐命令を下されるなど、南北朝時代に南朝方であった伊達氏は幕府との接近によって、その地位と勢力を高めていった。文明15年(1483年)には伊達成宗が上洛し将軍足利義政・日野富子らに砂金・太刀・馬などを献じた。献上物の数は当時としては随一のものであったと伝わる。伊達家では宗村、義広、政依の三代にわたって次男が相続した時期があったため、元服時に長男へ次郎と襲名するようになり、やがて総次郎と藤次郎を交互に用いた。伊達家中では総次郎や藤次郎とは呼ばず、単に次郎と呼ばれた。幕府は陸奥には奥州探題職を置き、守護は置かない方針であったが伊達稙宗は陸奥守護を望み補任された。勢いを得た稙宗は主筋にあたり奥州探題を世襲する名門の大崎氏の内紛に介入して二男の義宣を大崎氏の養子に送り込み、さらに羽州探題の最上氏も勢力圏に組みこんだ。稙宗は天文5年(1536年)に分国法の塵芥集を制定するなどして家中統制の強化に努めた。しかし稙宗の専制を快く思わない家臣団の一部は、稙宗の子・伊達実元を越後守護上杉氏に入嗣計画に反対する嫡男・伊達晴宗を擁立して稙宗の追放を図った。こうして稙宗・晴宗父子の間で天文の乱が勃発。この争乱は姻戚関係を結んだ奥羽の諸大名を巻き込む大乱へと発展した。乱は晴宗方の勝利に終わったが、長期の内戦により伊達家は疲弊し、勢力下に収めていた諸大名の独立を許すことになった。晴宗は居城を米沢城に移して態勢の立て直しにとりかかり、幕府に奥州探題への補任を求めた。すでに天文15年(1546年)に大崎義直が探題に補任されていたが、晴宗は陸奥守護職と奥州探題職は同一のものであり、稙宗が守護職を得た時点で伊達氏が探題職に補任される権利を得ていると主張した。天正12年(1584年)に当主になった17代・伊達政宗は強硬な領土拡張政策を進めて、会津の蘆名氏や奥州探題・大崎氏と戦い、天正17年(1589年)には蘆名氏を摺上原の戦いで破り、これを滅ぼして伊達氏の領土は最大となった。しかしこれは関白・豊臣秀吉が発した惣無事令に背くものであったため、天正18年(1590年)に政宗が秀吉が服属した後の奥州仕置では会津・河沼・耶麻・岩瀬・安積などを没収され、伊達氏旧領および田村郡72万石のみを安堵された。しかし同年に起きた葛西大崎一揆を政宗が煽動していたことが露見したため翌天正19年(1591年)の一揆鎮圧後に国替を命じられ、旧葛西・大崎領13郡を与えるかわりに伊達郡など旧領6郡を没収されて58万石に減封され、米沢城から岩出山城(現:大崎市岩出山)へと居城を移した。なお、秀吉の小田原征伐の頃、後北条氏の家臣に岩付城代として分流の伊達房実がおり、この子孫が旗本の伊達氏である。伊達政宗は関ヶ原の戦いで徳川家康に味方し、その恩賞として62万石に加増された。翌年には仙台城を築いて岩出山城から移り、江戸時代を通じて国持大名の家格を維持し、仙台藩62万石の大藩として繁栄した。伊達宗家の当主は家督相続時権少将に任ぜられ、極官は従四位上権中将に昇った。外様大名の中では別格の扱いを受け、将軍家から降嫁がある数少ない家のひとつとされ、松平の姓を与えられて松平陸奥守を称した。江戸時代には、大名家及び仙台藩士の他に旗本(駿河伊達氏系)、紀州藩士(駿河伊達氏系)、津山藩士(駿河伊達氏系)、秋田藩士(伊達盛重の系統)にも伊達氏が確認できる。江戸時代において、伊達宗家の仙台藩以外に大名として取り立てられたのは以下の4家である。仙台藩の実高は新田開発により100万石余に達したが、4代藩主綱村がこしらえた莫大な借金や、買米制による米相場依存の財政体質、7代藩主重村の失政などが祟って次第に苦しい藩政運営を強いられるようになる。慶応4年(1868年)の戊辰戦争で仙台藩は会津藩に味方して薩長軍に敗北した。そのため朝敵として処分され、いったん領地を没収された後、28万石を与えられた。このため、仙台藩の直臣7千人余のうち、仙台藩領内に留まった地域の家臣団の家禄を大幅に削減するとともに、仙台藩から没収された地域に居住する在郷家臣団は帰農を命じられた。また陪臣(主に仙台藩重臣の家来)2万人余に至っては士族籍すら与えられず、一方的に解雇された。このため、伊達邦直・伊達邦成・片倉邦憲ら万石級の所領を知行していた領主たちは、自らの家臣団を救済するため北海道に自費で移住し、開拓に従事した。華族令施行により、仙台の伊達宗基と宇和島の伊達宗徳はともに伯爵(宇和島は明治24年(1891年)侯爵に昇格)を授けられ、吉田の伊達宗定は子爵を授けられた。宇和島からは伊達宗敦(大陸浪人・馬賊として著名な伊達順之助は宗敦の六男)が明治22年(1889年)に、伊達宗倫がそれぞれ明治25年(1892年)にそれぞれ分家し男爵を授かる。また、北海道開拓の功績により明治25年(1892年)に亘理の伊達邦成・当別の伊達正人(岩出山の伊達邦直の孫)が男爵を授爵した。昭和22年(1947年)に伊達興宗が死去した後に、夫人が伊達家所有の山林を勝手に売却するなどしたため他の親族との争いに発展した。世間ではこれを新伊達騒動などと称した。平成13年(2001年)、仙台市が仙台開府四百年祭の一事業として伊達交流サミットを開催し、伊達氏と関連を持つ23市町(仙台市除く)が参加した。(仙台藩主→伯爵)
出典:wikipedia
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