イスラム・アブドゥガニエヴィッチ・カリモフ(、、1938年1月30日 - 2016年9月2日)は、ウズベキスタンの政治家。1991年の独立以来、25年にわたって同国の初代大統領を務めた。ウズベキスタン自由民主党党首。人権問題や報道規制などの問題により欧米諸国からは独裁者として批判を受け、に「世界最悪の独裁者」の一人に選ばれていたが、2007年から2012年まで毎年8%以上のGDP成長率を達成するなど、優れた指導者としての一面を見せている。1938年1月30日、サマルカンドで生まれる。1941年に孤児院に入れられ、翌1942年に家に戻るが、1945年に再び孤児院に入れられる。1955年に高校を卒業し、1960年に中央アジア工科大学(現在の)を卒業し、機械工学の学位を取得した。卒業後は水資源省にエンジニアとして入省し、1967年にタシュケント州立大学で経済学の修士号を取得した。1961年から1966年まで、V.P.チカロフ名称タシケント航空生産公団の技師。1964年、ウズベキスタン共産党に入党。1966年から1983年までゴスプランの主任専門官、議長補佐官、課長、局長、副議長、第一副議長を歴任した。1983年からウズベク共和国の財務大臣、1986年から副首相兼ゴスプラン議長を歴任。1986年カシュカダリヤ州の共産党第一書記、1989年6月からウズベキスタン共産党中央委員会第一書記。1990年から1991年までソ連共産党中央委員会委員、政治局員、第12期ソ連最高会議代議員を歴任した。1990年3月24日、ウズベク・ソビエト社会主義共和国大統領に就任。ソ連8月クーデター失敗後の1991年9月1日にウズベキスタンの独立を宣言し、ウズベキスタン共産党をウズベキスタン人民民主党に改称した。ソ連崩壊後の12月29日にウズベキスタン大統領選挙で当選。1995年3月26日に国民投票を実施し、任期を2000年まで延長した。2000年1月9日の大統領選挙では91.9%の得票を得て再選したが、選挙では白票や棄権票が「カリモフに投票した」と見なされるなど公正さに疑問があり、アメリカ合衆国からは「真の自由で公正な選挙とは言えず、ウズベク国民には選択肢が与えられていなかった」と批判を受けた。2007年11月6日、ウズベキスタン自由民主党の公認を得て大統領選挙への出馬を表明し、選挙管理委員会からの承認を得たが、対立候補は「憲法に規定されている3選禁止を無視している」と批判した。12月23日の選挙では88.1%の得票を得て3選した。選挙結果は上海協力機構や独立国家共同体加盟国からは歓迎されたが、欧米諸国からは「政治的な茶番であり、真の選択肢が与えられていない」として批判を受けた。2015年3月29日、大統領選挙で90.39%の得票を得て4選。旧ソ連構成国や中国から派遣された選挙監視団は公正な選挙として評価したが、欧米諸国からは不正な選挙として批判を受けた。また、3選禁止が規定された憲法が制定されてから3度目の大統領当選となった。カリモフは反イスラム政策を掲げ、1995年5月にはイスラム急進派を抑えるために「宗教団体の自由と配慮に関する法律」を制定させ、モスク建設を許可制とした。1999年にカリモフ暗殺未遂事件が発生すると、イスラム教徒への抑圧を強めた。アメリカ同時多発テロ事件以後、ウズベキスタンは対テロ戦争におけるアメリカの戦略的同盟国と見られるようになり、アメリカのアフガニスタン進攻の際には800人のアメリカ軍を国内に受け入れサポートした。しかし、2005年5月13日に反政府デモを武力弾圧したアンディジャン事件を巡りアメリカとの関係が悪化し、カリモフはアメリカ軍に撤収するように促し、アメリカ軍は7月にウズベキスタンから撤収した。カリモフは国内のイスラム過激派ウズベキスタン・イスラム運動やへの攻撃を実施し、1991年から2004年にかけて、「イスラム過激派」として7,000人のイスラム教徒を逮捕・投獄している。これに対し、ウズベキスタン・イスラム運動は「ジハード」を呼びかけ対立が深刻化したが、2001年と2009年に両組織の指導者を殺害した。カリモフは、国際社会から長年にわたり人権や報道規制について批判を受けていた。駐ウズベキスタン英国大使を務めたは、カリモフ政権下の腐敗・宗教弾圧・検閲・拷問・殺害・誘拐などの問題を批判しており、大使退任後にはカリモフ政権の人権問題やアメリカとの関係を記した回顧録を出版している。また、国際連合もカリモフ政権で拷問が行われていることを報告している。ウズベキスタン憲法では「検閲の禁止」や「報道の自由」が明記されており、名目上は報道の自由が認められている。しかし、カリモフ政権は「説明責任」を理由に報道・出版を規制しており、検閲官を配置して政権の宣伝を実施している。報道される政府批判は全て検閲がかかり、中級レベルの指導部や官僚の批判しか許可されることはない。1990年代には外国メディアを許容する姿勢を示していたが、ロシアの放送局が減少したことに併せて欧米の放送局も次々に撤退し、以降十数年に渡り海外の出版物の出版を制限していた。また、「政権に対して不実である」という理由で野党の出版物も規制していた。カリモフの健康問題は政府によって厳重に報道規制が敷かれており、2013年3月に心臓発作を起こしたと報道された際には「事実無根」であると発表していた。2016年8月27日、カリモフが脳出血のため集中治療室で治療を受けていることを次女のローラ・カリモヴァが明らかにした。カリモフは一時心停止状態に陥ったが、20分後に回復し、人工呼吸器を取り付けられた。公式の医療報告書によると、ウズベキスタン政府は27日から28日にかけてモナコ心胸郭センター所長、ヘルシンキ大学神経外科名誉教授、ハノーファー国際神経科学研究所長、ハイデルベルク大学病院教授、モスクワ州立医科大学心臓血管外科部長にカリモフの病状について相談している。その後、カリモフが8月29日に死亡したとの未確認情報が地元メディアなどに報じられ、9月1日の独立25周年のテレビ放送では政府報道官がカリモフの演説を代読し、ローラが国民に父の回復を祈るように懇願した。9月2日に脳出血のため死去したとの報道が、ウズベキスタン政府による公式な確認を得られないまま駆け巡った。ウズベキスタン政府は2日の日中の段階では「重体」であるとしていたが、同日20時55分(日本時間3日0時55分)にカリモフが死去したことを、国営テレビを介して公式に発表した。死去に際し、バラク・オバマ、ウラジーミル・プーチン、習近平ら各国首脳が哀悼の意を表した他、イルハム・アリエフ、ライモンツ・ヴェーヨニス、ナワーズ・シャリーフ、李克強がウズベキスタン大使館を訪れ記帳した。カリモフの葬儀は9月3日に執り行われた。死没地のタシュケントでは数千人の市民が集まり葬列に花を手向けたが、遺体は死去の公式発表前にタシュケントからサマルカンドに移送されていた。葬儀はサマルカンドのレギスタン広場で執り行われ、シャーヒ・ズィンダ廟群にある母と兄弟の墓の隣に埋葬された。葬儀にはドミートリー・メドヴェージェフ、アシュラフ・ガニー、グルバングル・ベルディムハメドフ、エモマリ・ラフモン、カリム・マシモフ、、ら17か国の代表が参列した。また、9月5日にはキューバがカリモフの死去について服喪することを決定した他、6日にはプーチンが弔問のためウズベキスタンを訪れ、タチヤーナとローラと会談して哀悼の意を表した。父はウズベク人、母はタジク人とされているが、父はユダヤ人という説もあり詳細は不明となっている。1964年にナターリア・ペトローヴナ・クチミと結婚し息子ピョートルをもうけるが、後に離婚している。1967年に経済学者・共和国科学アカデミー経済研究所科学職員のと結婚し、2女(グリナラ、ローラ)と5人の孫を有する。長女グリナラは外交官・実業家として活動していたが、父と対立したため2014年2月以降は汚職の罪により軟禁状態に置かれているとされている。次女ローラも実業家であり、ウズベキスタンでは子供の権利やスポーツ振興に関する活動家として知られている。
出典:wikipedia
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