日野市(ひのし)は、東京都の多摩地域南部にある市である。かつては「日野宿」が設置されており、甲州街道の農業を中心とした宿場町として繁栄していた。新選組の副長として活躍した土方歳三や六番組隊長の井上源三郎の出身地。また市内最大の大企業である国内トラック・バス業界最大手日野自動車の企業城下町でもある。昭和に入ってからは大規模企業や大規模団地が進出しているものの、河川や丘陵地が多く、国土交通省より「水の郷百選」に認定されるなど自然も多い。また、多摩地区としては水田や野菜畑などの農地が占める割合が高く、都市農業の代表的な都市として紹介されることが多い。平成22年国勢調査によれば、東京都特別区部への通勤率は20.9%、八王子市への通勤率は12.0%である。日野市は大きく分けて稲作の多い低地、畑や工場の多い台地、森林の多い丘陵地に分けられる。いずれも近年は宅地化が進んでいる。東京都の島嶼部を除く地域のほぼ中央に位置し、市域の西側に広がる日野台地は関東ローム層の堆積した土地で、西隣の八王子市へと続いている。北から東にかけては 隣接する昭島、立川、国立、府中の各市との境界を多摩川が流れ、市域の南部に広がる多摩丘陵(七生丘陵)の北側を西から流れてきた浅川と南東部で合流している。市域はイヌの横顔の形をしており、西を向いている犬の耳から後頭部そして首にあたる部分を多摩川が流れ、南部に広がる多摩丘陵の北側を西から流れてきた浅川と南東部で合流している。この事からも分かるように水に恵まれており、以前は「多摩の穀倉」と言われるほど稲作が盛んだった。現在でも川辺堀之内や新井地区などに田が、そして新町の台地部や西平山地区に畑が多く残っているが、土地区画整理事業の進展などにより、このような光景は徐々に減りつつある。低地部は多摩川と浅川に挟まれていることで用水路や田が多く、そして礫層を基盤とする台地や丘陵を抱えていることもあって、市内には179ヶ所の湧水が確認されており、これらの特徴を極力生かした街づくりを進めていることが評価されて、国土交通省選定の水の郷百選にも選ばれている。代表的な水路は多摩川から取水している日野用水、浅川の滝合橋「左岸」(実際には平山橋下にある堰)付近から取水している豊田用水、同滝合橋の「右岸」付近から取水している平山用水、万願寺歩道橋(ふれあい橋)の手前から取水している向島用水等である。これら用水の役割は宅地化・市街化の進行により水田が減ったため、最近では以前の農業用水としての存在意義は薄れつつあるが、水環境の保全や防火用水、ヒートアイランド現象の抑制ということで都市に潤いを与えるものとしての価値は高まってきている。そのため、親水公園やビオトープとして、黒川清流公園や向島用水親水路を皮切りに再整備が進められている。北西部にある台地は関東ローム層で覆われており、日野台地と称される。西隣の八王子市に続いていて、かつては桑畑が広がっていたが、昭和10年ごろからいわゆる「日野五社」を始めとする大企業の工場の進出が相次ぎ、大手トラックメーカー日野自動車の本社および工場もここにある。さらに昭和30年代からは宅地としての開発が進んだ。特に昭和33年(1958年)から入居の始まった多摩平団地は団地の先駆け的存在である。豊田駅の東側から黒川清流公園、神明、新町・東光寺地区にかけて逆「く」の字状に存在する河岸段丘は日野緑地と呼ばれ、市が土地を買い取るなどして開発を抑制している。市域南部は多摩丘陵が広がっていて、昭和30年代まではハイキング客などで賑わっていたが、その後は宅地化が進み、後述の地区以外は基本的に緑が失われた。このように丘陵地帯も基本的には宅地となったが、関東三大不動のひとつとして知られる高幡山金剛寺(通称:高幡不動尊)の寺域である高幡山の周辺や程久保・南平地区にある都立の多摩動物公園と七生公園、市立南平丘陵公園付近は公園として緑が残されていて、都立七生公園では草を完全に刈らないといったことも実施されている。百草・倉沢地区の周辺では環境意識の増加などにより、小沢緑地と京王線、多摩市境の内側を中心に「倉沢里山を愛する会」や市民らの協力によって森林を保全しており、一部では緑地内に遊歩道も存在する。この区画内は一部に田畑があり、農業が行われている、他には市内で唯一の酪農なども行われている。関東平野の内陸に位置するため都心よりも冬は2〜3℃気温が低く、積雪は20~30cmほど。宅地化の進展などによる反射熱により、夏の最高気温は反対に高い場合もある。ただし、これ以外にも多数の水路が存在し、これら水路の総延長は全て合わせると約180km近くに及ぶ。市名の由来は諸説あるがはっきりしていない。『武蔵名勝図会』によれば、府中にあった国府の烽火台が置かれたことによるという「飛火野説」をとっている。和銅6年火野を日野に改めたという。また、『新編武蔵風土記稿』によれば、武蔵七党のうち西党の祖日奉宗頼が、遠祖天御中主神を勧請して日野宮権現を祀ったという伝説に基づくという。他の説として、応永32年ころ、日野中納言資朝の玄孫、宮内資忠なるものが、当所に移住して土淵ノ庄をはじめて日野と号したという説も載せている。2005年に夜間人口(居住者)は176,527人である。市外からの通勤者と通学生および居住者のうちの市内に昼間残留する人口の合計である昼間人口は154,114人で、昼は夜の0.873倍の人口となり、夜間に比べて昼の人口は2万2千人ほど減る。通勤者・通学者で見ると市内から市外へ出る通勤者52,683人、市外から市内へ入る通勤者は32,366人と通勤者では市外へ出る通勤者のほうが多く、学生でも市内から市外に出る通学生は10,107人市外から市内へ入る通学生は8,011人と学生でも昼は市外へ流出する人数のほうが多い。なお、国勢調査では年齢不詳のものが東京都だけで16万人おり、この項の昼夜間人口に関しては年齢不詳の人物は数字に入っていないので数字の間に若干の誤差は生じる。日野市では、住居表示に関する法律に基づく住居表示は実施されておらず、土地区画整理事業が完了した区域等で町名地番整理が実施されている。衆議院小選挙区選挙では、立川市・昭島市とともに東京21区に属する。近年選出の議員は以下のとおり。本市でひとつ選挙区を形成する。定数は2人。近年選出の議員は以下のとおり。管轄地域は市域に等しい。同署は第9方面本部の監督下にある。日本の消防は市町村の責任業務であるが、稲城市を除く多摩地域の市町村は東京消防庁へ消防業務を委託しており、本市もそれに倣っている。市外局番は042(立川MA、かつては0425)である。ただし、市外局番に同じ042を使用する地域のうち、かつて0423、0424、0426、0427の各市外局番を使用していた地域とは現在も番号区画が異なるため、これらの地域に電話を掛ける際は市外局番から入力する必要がある。1973 年から1997 年まで市長の座にあった森田喜美男は、ごみ・し尿の中間処理施設の整備、ボックス収集による合理化などを心がけていた。しかし、減量化とリサイクルに最重点を移すべきことを認識した森田市長は、多摩地域としては最初にリサイクルに取り組んだ。ゴミをいかに効率良く処理するかという方向から、再利用によってゴミそのものを作らないという方向に転換させた。森田市長引退後市長に就いた馬場弘融は市長就任以来ゴミ改革を重点政策に掲げている。ゴミ減量の切り札としてダストボックスから戸別収集、有料指定袋方式へのごみ改革を2002年10月に実行した。当初は有料化に反対の声もあったが、ゴミの減量に大きな効果があり、市民の意識も大きく変わった。周辺市にも有料指定袋化が波及しつつある。日野市の姉妹都市・提携都市は、2015年11月現在レッドランズ市のみである。1965年9月、1台の移動図書館からスタートした日野市立図書館は、公共図書館の中心が地域の図書館にあることを具現化してみせ、日本の図書のあり方に大きな影響を与えた。鉄道は、JR中央本線が北から西へ円弧を描くように走り、京王線が市の南部、浅川の右岸と多摩丘陵の間を東西に走り抜け、高幡不動駅から多摩動物公園駅まで支線が延びている。また、多摩都市モノレール線が南北に走り、甲州街道駅付近で中央自動車道と、高幡不動駅で京王線と交差している。主な道路は、中央自動車道、国道20号が東西に通っている。南北方向には都道の整備が進められている。市内を通る路線と駅市内を通る道路および橋梁は以下の通り。1996年、当時の森田喜美男市長は、市内の中央自動車道について、固定資産税の支払いを日本道路公団に求める方針を表明した。市長の交代によって固定資産税請求を断念した。高幡不動、多摩動物公園に加え、「新選組のふるさと」として新選組関連の観光客が多い。
出典:wikipedia
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