片町駅(かたまちえき)は、大阪府大阪市都島区にあった駅。鯰江川(現在は埋立)に架かっていた野田橋を挟んで以下の2つの駅があったが、現在はいずれも廃止されている。また、大阪市電天満橋善源寺町線片町停留場も近くにあった。浪速鉄道の都心側のターミナルとして、東成郡鯰江村大字新喜多新田(当時)に建設された駅である。当時の大阪市街の北東端であった相生町にできる限り近接させた駅で、駅名の「片町」は、相生町が1708年まで京街道の北側にしか家屋がない片側町「京橋片原町」だったことに由来する。鯰江川と寝屋川に挟まれた狭小な土地で駅前が非常に狭かったため、関西鉄道への合併後、一時は放出駅から路線を分岐させる形で近隣に設けられた網島駅へ旅客扱いを譲り、貨物駅となったこともあったが、国有化後に城東線(現在の大阪環状線)の京橋駅に隣接するようにして設けられた片町駅京橋口を京橋駅として分離し、それと入れ替わる形で網島駅を廃止したことによって、片町線の起点駅としての地位に落ち着いた。しかし、京橋駅まで営業キロが0.5kmと短く、同駅が城東線や京阪本線との乗り換え駅として栄える反面、利用者が少なく、接続もない当駅の地位は低下したため、JR東西線開業に伴い廃止となった。同時に片町駅と入れ替わるようにして大阪城北詰駅が近地に開業している(同駅の仮称は「片町駅」であった)。廃止後も路線名にその名を残しているが、JR西日本では案内上、片町線に「学研都市線」の愛称を付けている。1997年3月7日の廃止時は相対式ホーム2面2線を持つ頭端式の地上駅で、どちらのホームからも放出・四条畷・長尾・松井山手・同志社前・木津行の列車が発車していた。これは1991年3月からJR東西線工事本格化のために旧駅舎が撤去されたために建設された、簡易な駅舎・ホームであった。同年春頃までは、島式ホーム1面2線に留置線2線を加えた頭端式の地上駅、駅舎は2階建てのコンクリートモルタル造りであった。南側の2線が島式ホームを挟んでおり、北側2線が留置線であった。片町線電車の一部(夕ラッシュ時の快速電車については大半)は京橋駅始発・終着で運転されており、同駅止まりの電車はそのまま当駅北側の留置線まで回送されて折り返していた。貨物営業を行っていた頃は側線も敷設されていた。1991年までの旧ホームと線路の敷地が、現在のJR東西線の地下線出入口からの坂道である。その後旧ホームと線路は撤去され、北側の2線分の留置線に対向式ホームを設置して廃止時まで使用し、同時に京橋駅の片町寄りの部分に新たに引き上げ線を設置した。京阪本線が、天満橋駅 - 五条駅間で開業した際に設置された中間駅である。当初は片町交差点東側で野田橋駅と称し、区間急行と普通が停車していた。線路敷は寝屋川橋梁東側から片町交差点まで道路併用軌道であったが、これを専用軌道化した1955年に片町交差点西側に移転し、「片町駅」と改称した。この片町交差点では、大阪市電が廃止された1968年まで平面交差を行っていた。その後、天満橋駅 - 旧蒲生信号所間の高架複々線化工事のために京都方に移転、国鉄駅とは若干離れるようになった。さらに、新高架線配線では駅の設置が困難で、高架線京橋駅が地上線京橋駅より片町駅寄りに設置されることになったため、廃止された。代替として高架線京橋駅西側に片町口が設置されている。相対式ホーム2面2線の配線となっており、ホームの裏側にメーカーから送られてきた新車受け入れ用の引き込み線が敷設されていた。京阪線の車両だけでなく、大津線の80型や300型もここから搬入され、三条駅構内に存在した連絡線を用いて大津線へと送られた。廃止年度の一日乗車人員は、JR西日本が7,565人(1996年度平均)、京阪電鉄が3,384人(1969年度)であった。
出典:wikipedia
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