『封神演義』(ほうしんえんぎ)は、中国明代に成立した神怪小説。『商周演義』、『封神伝』、『封神榜』、『封神榜演義』ともいう。史実の殷周易姓革命を舞台に、仙人や道士、妖怪が人界と仙界を二分して大戦争を繰り広げるスケールの大きい作品である。文学作品としての評価は高くないが、中国大衆の宗教文化・民間信仰に大きな影響を与えたとされる。著者(編者)は一般に許仲琳とされることが多いが、定説はない。はるか昔、世界は仙界と人界に分かれ、仙界はさらに、人間出身の仙人・道士達からなる崑崙山の仙道「闡教(せんきょう)」と、それ以外の動物・植物・森羅万象に由来する「截教(せっきょう)」に二分されていた。人界は時に殷(商)の紂王の治世。紂王は名君とされていたが、慢心から女媧廟の祭祀において「女媧は人間界のどの人間より美しい、この女媧が私のものであったらいいのに」という意味の詩を詠んだ。この「神」と「人」を混同した無礼な行為に女媧は怒り、千年生きた狐狸の精に紂王を陥れるよう命じた。狐狸精は、朝歌の後宮に入ることになっていた美女、冀州侯の娘妲己の魂魄を滅ぼして身体を手に入れ、紂王を籠絡しはじめた。これ以降紂王は、妲己に操られるまま次第に暴政を行うようになっていった。一方仙界では、闡教の教主・元始天尊門下の崑崙十二大仙が、千五百年に一度の逃れられぬ劫として、人を殺さねばならないことになっていた。また昊天上帝(天帝)が彼ら十二人を臣下に命じたことから、殷周革命に関わる闡教徒、截教徒、人道の中から三百六十五位の「神」を「封(ほう)」じる「封神」の儀式を行うことになった。天命により、この封神の執行者として選ばれたのが、崑崙の道士の一人であった姜子牙、後に周国の丞相となる太公望である。かくして殷代末期の殷周革命の動乱を舞台に、四不相(四不像)に乗った姜子牙(太公望)がまきおこす殷周両国の間の戦乱、ひいては闡教と截教の対立が描かれながら、数多くの仙人、道士の霊魂が封神榜の掲げられた「封神台」へ飛んでいくこととなる。作者は諸説あり定説はない。現存する最古の版本である『鐘伯敬先生批評封神演義第二十巻』には、許仲琳編と記されている。また、冒頭部分を許仲琳が書き、序文を記している李雲翔がその後手を加えたという「許仲琳・李雲翔合作説」もある。その他、道教方面において著作の多い陸西星の作とする説もあるが、これは成立年代の問題などから疑問視されているなお、『金瓶梅』の作者である王世貞が朝廷より『金瓶梅』の中身を見せるよう命じられたため、慌てて一夜で『封神演義』を書き上げて差し替えたという説があるが、現在は俗説として否定されている。明代の『鐘伯敬先生批評封神演義第二十巻』が現存する最古の版本で、これは日本の内閣文庫に所蔵されている。清代には褚人獲によって「四雪草堂本」と呼ばれるテキストが出版された。中国や台湾で一般的に流布している活字本の内容は、これに基づくことが多いという。四雪草堂本と『鐘伯敬先生批評〜』のストーリーはほぼ同じだが、第九十九回の封神榜に名を連ねたメンバーが大幅に異なる(特に群星正神がかなり異なり、『鐘伯敬先生批評〜』では戦死したにもかかわらず名が載っていない人物が数多くいる)。また、これとは別に清代の「蒙古車王府曲本」と呼ばれる口語体の二百二十回本が残っている。こちらは口談として民間で流布していた説話をベースとしており、前述の二つの版と内容が異なっている。『封神演義』の直接の前身となった作品は、元の至治年間 (1321 - 1323) 以前に成立したとされる歴史小説『武王伐紂平話』とされる。また『封神演義』の作者は明代の余邵魚の小説『春秋列国志伝』第一巻も同時に参照していたと言われている。『封神演義』の物語の骨組みはこの二作品とほとんど同じだが、『武王伐紂平話』と『春秋列国志伝』があくまで歴史小説であるのに対し、『封神演義』は神怪的要素が大量に挿入された神怪小説である点で、前者二作品とは大きく異なっている。本作に登場する神怪的なモチーフの多くはそれぞれ元となる説話がある。たとえば、『封神演義』の物語の軸である「太公望(姜子牙)が封神を行った」という故事は、古くは『史記』封禅書の記述の中に原形が見られ、「天命により、周の武王の紂王討伐に応じて神が戦った」という説話は明代の神学書『三教源流捜神大全(捜神大全)』に見られる。登場する神仙に関しても、その多くが『捜神大全』や『神仙通鑑』など当時信仰されていた神仙を扱った書物に名前が見える。『封神演義』の著者はこれらの書物を参照し、そこに見られる神仙を名前だけ借用したり、もともとの説話を改変したりして物語に挿入していったと考えられている。このため、古くから信仰された神仙(女媧、殷郊、太上老君、広成子、赤精子など)と比較的新しい神仙(楊戩や聞仲など)がごちゃまぜになっていたり、さらには仏教系の神仏(燃灯道人、文殊広法天尊、韋護、など。当然、殷周時代にはまだ仏教は伝来していない)や後世の人物(唐代に武将として活躍し、のちに軍神として毘沙門天と同一視された李靖など)が登場していたりと、過度な時代錯誤がみられる。四大奇書として古くより『西遊記』、『三国志演義』、『水滸伝』、『金瓶梅』が挙げられるが、本書の評価はこれらより一段低いものとなっている。魯迅は「『水滸伝』に比べたら幻想的に過ぎ、『西遊記』に比べたら雄偉さに欠け、今に至るまでこの二作品と同列であると見なした者はいない」と評している。また、斉祐焜は「『封神演義』は思想面でも芸術面でも、作者が意図した『小説界に於いて水滸伝と西遊記と共に鼎立する』という抱負を果たすことは到底できなかった」と評している。一方で「だがそれでも『封神演義』は中国小説史で一定の重要な地位を占める」とも記している。文学面での評価が低い理由として、中国文学研究者の二階堂善弘は、文体のぎこちなさ(堅苦しい文言体を必要以上に多用する)、ストーリーの欠陥(太公望が天数(天命)と称して自分の行為を過度に正当化する、典型的な悪臣として描かれている費仲や尤渾まで他の登場人物と一緒に封神される)、時代考証の無視(殷周時代に存在しない神仙・人物が登場する)などを挙げている。以上のように、『封神演義』は二流の文学作品とされている。しかし、中国の民間信仰に与えた影響はきわめて大きく、従来の神々であっても本書で改変された名前や格好で神像が作られたり、本書が初出とされる通天教主や申公豹などが従来の神々に混じって信仰の対象になったりしており、明代以降の宗教文化を研究する際には特に重要な作品であるといえる。『封神演義』を日本語でリライトした小説家安能務は、「三大怪奇小説」として『三国志演義』『西遊記』『水滸伝』を挙げた後、怪奇性の高さを理由に、『水滸伝』より『封神演義』が相応しいとしている。しかし、「三大怪奇小説」という呼称自体一般的ではなく(前述のようにこれらに『金瓶梅』を加えて「四大奇書」とすることはある)、歴史小説である『三国志演義』を「怪奇小説」に区分することも定説とは言い難い。また、民間での評価が高く知識人の評価が低い理由として、安能は儒家の影響(儒教で理想とされる周公旦を持ち上げるため、太公望が活躍する本書の価値を不当に貶めた)があったとしているが、士大夫層は小説全般を軽視していたのであって『封神演義』を特に貶めたわけではない。日本では江戸時代の好事家が既に本作を読んでいた記録があり、大正時代にはこれを論じた論文も発表された。戦後、1977年に木嶋清道の抄訳が出版されたが、『西遊記』や『水滸伝』といった明代の他の著名な小説と比べると、『封神演義』はあまり知られていなかった。本書の存在が多くの人に知られるようになったのは、1989年の安能務によるリライト小説とそれを原作にした藤崎竜の漫画『封神演義』(1996年 - 2000年)によるところが大きいとされる。しかし安能版リライトは、殺戒を「殺人欲求」と解釈したり、天数や封神事業を理不尽な天界の陰謀とするなど、原典にはない解釈やエピソードが多く含まれている。また、(なた)を「なたく」、楊戩(ようせん)を「ようぜん」、聞仲(ぶんちゅう)を「もんちゅう」と読み間違えるなどの初歩的なミスも散見される。なお後に安能は、このリライトは小説形式で展開していく「中華思想論のための布石」という位置づけであり、本作に多く加えた改変は自身の「意見」であると述べている。原型に一番近い形で読める日本語訳は、光栄(現・コーエー)の『完訳 封神演義』全三巻(1995年)とされている。しかし、一部の詩が訳されていない、本土の簡体字の活字本を底本にしたことに由来する誤訳があるなど、問題が指摘されている。また、本書を理解するにはその性質から、当時の民間信仰や『西遊記』、『平妖伝』、『八仙東遊記』といった明代の他の神怪小説に関する知識が不可欠だが、光栄の訳は注が一切付されていない。この訳はのちに文庫版(全七巻、1998年)が出版されたが、文庫版は読みやすさを配慮して本文の一部が書き換えられたため、完訳ではなくなっている。2000年以降、十年以上、新訳は発行されていなかったが、近年になり、翠琥出版『封神演義』(2013年)が刊行された。集英社文庫版を改訂して電子書籍化したものとされており、全一冊の抄訳だが、集英社文庫版より章の数が増加している。また、集英社文庫版同様、「四不相(しふそう)」とするなど、明版の表記に配慮がなされている。日本で出版されている封神演義の解説書は、安能務が創作した設定をオリジナルのものと混同して記述している場合があるので、注意が必要である。
出典:wikipedia
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