加越線(かえつせん)は、かつて富山県砺波地方にあり、小矢部市の石動駅と東礪波郡庄川町(現砺波市)の庄川町駅を結んでいた鉄道路線。1972年9月16日に全線が廃止された。砺波地方には1897年に中越鉄道(現城端線)が開通した。しかし、津沢町(現小矢部市津沢)や井波町(現南砺市)、青島村(現砺波市庄川町)などは鉄道から取り残された形となった。そこで、官設鉄道北陸線に接続したい津沢の人々と、中越鉄道に接続したい青島の人々が中心となって1912年に砺波鉄道が設立され、北陸線石動駅から中越鉄道福野駅を経由して青島に至る鉄道を建設することとなった。1915年7月21日に福野駅 - 青島町駅(後の庄川町駅)間が開業。1919年に、金沢と福野を結ぶ目的で設立された金福鉄道を合併し、加越鉄道に改称した。「加越」は加賀国と越中国の頭文字をつなげたものであり、金福鉄道の計画を引き継いで金沢までの路線の敷設を目指しての命名であった。1922年に残りの石動駅 - 福野駅間が開業し、全線が開通した。当初蒸気機関車を用いていたが、昭和に入ると合理化のため気動車導入を進めた。1931年2月10日付でガソリン動力併用認可を受け、ガソリンカー3両を導入。さらに1932年7月12日付で重油動力併用認可を受け、ディーゼルエンジンを搭載したディーゼルカーを1937年までに3両導入した。ディーゼルカーの採用では日本でも早い例の一つである。1943年の交通大統合で富山地方鉄道(地鉄)に合併されて同社の加越線となり、1950年の加越能鉄道(現在の加越能バス)設立の際に同社に譲渡された。庄川のダム建設のための資材運搬によって一時活況を呈したが、ダム建設が終わると、不況も加わって営業成績は悪化の一途をたどった。加越能鉄道は加越線の赤字の埋め合わせのために、1959年に親会社の地鉄から高岡軌道線の譲渡を受けている。その後も様々な合理化が為されたが、1972年9月15日を以って全線が廃止され、翌日よりバス化された。余剰となった車両は関東鉄道に譲渡された。加越線の廃線跡は富山県に買い上げられ、現在はほぼ全線が自転車専用道路(富山県道370号富山庄川小矢部自転車道線のうち、小矢部市石動町 - 砺波市庄川町青島間)となっている。ゴールデンウィークには、砺波地方の小学生が一堂に会してサイクリングロードを舞台に駅伝大会が開かれる。なお、北陸の私鉄路線がほとんどが電化された中で、加越線は最後まで非電化であった。1965年、名古屋鉄道から高山本線に乗り入れる準急「たかやま」が運行されることになった際、気動車である同列車を運転する名鉄運転士の養成が加越線で行われた。1970年、その「たかやま」が「北アルプス」と名前を変えて富山地方鉄道立山線立山駅まで延長運転されることになった際にも、地鉄運転士の実地講習が加越線で行われている。駅名および所在地、接続路線の事業者名は廃止時点のもの。全駅富山県に所在。加越能鉄道となってからの形式名は、元ガソリンカーのキハ1形を除き、親会社の富山地方鉄道がモーター出力の馬力換算値を形式に用いたことに倣って、エンジン出力を形式と関連づけている。初期は富山地鉄並みに百の位以上に馬力を当てはめ4ケタ・5ケタのインフレ気味なナンバーを使ったが、保有車両が少ない会社でインフレナンバーを使っても煩雑なため、キハ125・126以降はエンジン馬力数値そのままの3ケタとし、下1ケタを通し番号に用いるようになった。なお、庄川町機関区は1955年1月12日と1957年1月26日の2度に渡って火災に遭い、一部車両が焼失している。砺波、加越鉄道時代の客車は木製2軸客車10両と鋼製ボギー客車2両(ナハフ101・102)を保有していたが内燃動車の増備にともない廃車していき1940年にボギー客車2両を阪神急行電鉄に売却したことにより客車は淘汰され、旅客輸送は内燃動車のみとなった。燃料難であった戦中戦後も、内燃動車を客車代用として使用することで客車増備は行っていない。、
出典:wikipedia
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