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全日本プロレス中継

『全日本プロレス中継』(ぜんにほんプロレスちゅうけい)は1972年10月7日から2000年6月21日まで日本テレビで放映されたプロレスの実況中継番組。全日本プロレスの試合を中継していた。番組の放送時間が1時間から30分間に縮小されたのに伴い、タイトル表記が『全日本プロレス中継30』となった時期もあったが、後に放送時間は30分間のままで、従前の『全日本プロレス中継』に戻った。テーマ曲は『日本テレビスポーツのテーマ』。元々日本テレビでは開局(1953年)以来、力道山、ジャイアント馬場、アントニオ猪木らを中心とした日本プロレスの試合を、『三菱ダイヤモンドアワー・日本プロレス中継』などのタイトルで放送していた。だが、1971年12月にNET(現・テレビ朝日)が担当していた中継(『NETワールドプロレスリング』)における番組上のメインイベンターであった猪木が日本プロレスを除名されたことでNETは馬場の試合中継を日本プロレスに要求し、日本プロレスはこれを認め、1972年4月3日に『NETワールドプロレスリング』に馬場を出場させたことに日本テレビと三菱電機は激怒した。『NETワールドプロレスリング』馬場初登場直後から日本テレビは、猪木が旗揚げした新日本プロレスの中継放送開始を計画し、新日本プロレスも交渉に応じようとした(猪木と『日本プロレス中継』のプロデューサーであった原章〈後に日本テレビ運動部長、日本テレビ取締役、現・福岡放送会長〉は親密だった)。計画では、『日本プロレス中継』を打ち切った上で、1972年夏から新日本プロレス中継を開始する計画だった。最終的に日本テレビは三菱電機との協議の末、同年5月12日放送分を以って『日本プロレス中継』を打ち切り、1972年5月19日から7月14日までつなぎ番組として『日本プロレス選手権特集』を放送することにした。『日本プロレス選手権特集』の後番組はドラマ『太陽にほえろ!』となったため(同時に1972年7月15日から日本テレビにおけるプロレス中継が初めて空白となった)、日本テレビにおける新日本プロレス中継放送計画は頓挫した。しかし、プロレス中継の視聴率自体は高かったため、日本テレビは、『日本プロレス中継』終了直後から当時の小林與三次社長が、日本プロレスやNETに極秘裏に馬場がエース格となる新団体を設立するという裏工作を指示し、これを受けて日本テレビはこの裏工作に於いて馬場に接触し、馬場に日本プロレスからの独立と新団体設立並びに日本テレビでの中継を持ちかけた。NETへの自分の登場に反対していた馬場は、日プロ経営陣への不満もあって日本テレビの提案に同意し、1972年の「第1次サマー・ビッグ・シリーズ」開幕前に最終合意に至った。馬場はNETが金曜20時台でも日本プロレス中継(『NET日本プロレス中継』)を開始した翌日である1972年7月29日に赤坂プリンスホテルにおいて、「第1次サマー・ビッグ・シリーズ」終了(最終戦は8月18日に行われた宮城県石巻市中央広場大会)をもって日本プロレスを退団する記者会見を行った。そして馬場は同年9月9日に馬場自身がエース兼社長とする全日本プロレスの創立会見を行い、同年9月18日には旗揚げシリーズの概要が発表された。なお、新日本プロレス中継は東京12チャンネル(現・テレビ東京)における単発放送を経て、NETが1973年4月6日に『NET日本プロレス中継』を打ち切り、新日本中継に変更した上で『ワールドプロレスリング』に再改題して再スタートしている。1972年10月、馬場が新たに創設した全日本プロレスと日本テレビが中継権を締結し、新番組『全日本プロレス中継』が毎週土曜日の20:00 - 20:55(1975年10月より20:00 - 20:54)に放送されることとなると同時に日本テレビにおけるプロレス中継が3カ月ぶりに復活した。当初は全国29局ネットで開始した。第1回(10月7日)当日の新聞に掲載されたキャッチコピーは「お待たせしました! リングの王者ジャイアント馬場日本テレビに再登場! いよいよ今夜8時」「18年の歴史を誇る日本テレビ全日本プロレス中継」と謳われていたように、日本テレビにおける馬場の試合中継並びに、日本テレビにおけるプロレス実況中継が5か月ぶりに復活する事をアピールした。第1回(10月7日)は「海外遠征第一戦『G・馬場対ザ・シーク』」(1972年9月20日、ホノルル)、第2回(10月14日)は「G・馬場アメリカ転戦記」と題し、団体旗揚げ前の馬場が、アメリカ遠征で行った試合の模様(一部、馬場以外の所属選手も含む)を放映。第3回目となる10月21日の「ジャイアントシリーズ前夜祭」(東京都町田市体育館)の生中継から、正式に新団体の中継放送に入り、翌10月22日に行われた旗揚げ第1戦である「'72ジャイアント・シリーズ」開幕戦日大講堂大会は10月28日に録画中継された。創立初期は、馬場の人脈を利して一流外国人を常時招へいする一方、日本陣営にサンダー杉山やザ・デストロイヤーを参加させるなど、選手の拡充を図った。さらに、鶴田友美(ジャンボ鶴田)、天龍源一郎などといった、話題性のある大型新人を、積極的にデビューさせていった。都内におけるビッグマッチは、初期は主に日大講堂を使用していた。全日本プロレスが日大講堂をビッグマッチ会場とした理由は、日本テレビと日大講堂との間でボクシング中継に関する包括契約が締結されていたためである。日大講堂における全日本プロレスの興行は1977年3月まで続けられた。1970年代から1980年代にかけては「プロレスの本場」としてのアメリカや、NWAの権威や地位などがまだまだ保たれていた時代であり、それはそのまま実質的に日本で唯一のNWA加盟団体であった全日本の強味となっていた。とかく大味になりがちだった試合内容はともかくとして、NWAなど数々のメジャーなタイトル戦の開催や、NWA公認の数多くのタイトルの新設(もしくは復活)、そしてNWAvsAWAの世界ヘビー級ダブルタイトル戦などアメリカでも実現不可能といわれた豪華な企画やマッチメイクが出来たのは、まさに当時の「馬場・全日本」だからこそ成し得たものだった(そんな馬場も1990年代に入ると「プロレスは日本の方がレベルが上」「今さらNWAでもないでしょう」と公言するようになる)。無論、こうした豪華でグローバルなイメージは、テレビマッチのラインナップにも強く反映された。その流れで、海外の試合(主に所属選手の海外遠征時の試合。NWAエリアが多かった)も数多く放映された。なおこの時期、4-10月まではプロ野球ナイター(読売ジャイアンツ主管試合中心)が編成・開催された場合は野球を優先したため、23:45-24:40に繰り下げ(雨天中止の場合は定時通り)して放送が行われた。(後述参照)視聴率は、開始当初からプロ野球中継放送の場合は深夜に時差放送されていたことや、裏番組でなおかつ20%以上の高視聴率を叩き出していた『8時だョ!全員集合』(TBS)や『欽ちゃんのドンとやってみよう!』(フジテレビ)の影響で苦戦が続き、実力世界一路線や猪木とタイガー・ジェット・シンとの抗争で人気を博し、かつ視聴率が10%以上をたたき出していた『ワールドプロレスリング』を下回る週が多く、1973年7月 - 9月の土曜20時台に放送されたときの視聴率は7% - 9%といった有様で、同年8月には4%の回もあったという。また、初期の日大講堂における興行も閑古鳥が鳴く有様だった。テコ入れ策として、1973年6月に日本プロレスの残党の合流、同年10月にはアントン・ヘーシンクをデビューさせたり、1977年には「世界オープンタッグ選手権」を開催したものの、最終的に視聴率アップには繋がらなかった。このため、1979年4月の日本テレビの大幅改編に伴い、土曜20時枠の放送は同年3月31日の新潟県三条市厚生福祉会館大会(「'79チャンピオン・カーニバル」第25戦)の生中継を以って終了した。1979年4月7日からは土曜17:30 - 18:24のローカルセールス枠に変更され(ローカル枠変更初回の放送は前日4月6日に秋田県立体育館で行われた「'79チャンピオン・カーニバル」優勝決定戦〈鶴田VSアブドーラ・ザ・ブッチャー〉の録画中継)、同時に『日本プロレス中継』から続いてきたスポンサー付横幕や提供スポンサーによる読み上げがなくなり、基本的に録画中継に変更され、プロ野球中継で放送時間が左右されることも無くなった。この時期から、初代タイガーマスクやハルク・ホーガンなどのWWF(現・WWE)勢の参戦によって新日本プロレスの人気がさらに上昇した。1981年には新日本ブッチャーを引き抜いた事への報復で全日本はシンとスタン・ハンセンを引き抜き、日本テレビにおけるインターナショナル・ヘビー級選手権試合の放送も『日本プロレス中継』打ち切り以来9年ぶりに復活した。しかし、土曜夕方枠へ移動後は全日本の経営が悪化し、日本テレビから役員が送り込まれ、松根光雄が代表取締役社長となると同時に馬場は代表取締役会長へ退いた上で、経営の立て直しが急務となった。これにより、マッチメイクの見直しが行われることと同時に、現場責任者に佐藤昭雄を指名。鶴田と天龍の2人を二枚看板とし、年功序列のマッチメイクもやめ、越中詩郎や三沢光晴、国際プロレスから移籍した冬木弘道などの若手育成に努め、1983年2月のザ・グレート・カブキ登場で、「'83エキサイト・シリーズ」は2月シリーズ初の黒字を達成した。1980年代初期には正月や『土曜トップスペシャル』の枠において、大規模大会においてゴールデンタイムの特番が数回組まれたことがあり、生中継で放送されたこともあった。その一方、1980年代中期には全日本とジャパンプロレスとの業務提携や、ラッシャー木村の参戦に伴う国際血盟軍結成によって、日本人同士の抗争という新機軸も盛り込んだ。これを機に現場は再び馬場が仕切るようになり、ジャパンプロレス勢の全日本参戦やザ・ロードウォリアーズ登場に伴い、新日本や『ワールドプロレスリング』は新日本における日本人大量離脱やWWFとの提携解消、テレビ朝日の不振で人気や視聴率が低下していき、同時に全日本の人気も上昇していった。一方で1985年3月には、新日本が一連の引き抜き戦争の報復としてブルーザー・ブロディを引き抜いたと同時にハンセン・ブロディとのミラクルパワーコンビが解消したものの、全日本の人気が揺らぐことはなかった。この時期からゴールデンタイム復帰を見据えた動きがみられるようになり、1985年6月21日には1977年5月14日開催の「第4回チャンピオン・カーニバル」以来8年ぶりに日本武道館大会を開催。その模様は翌6月22日にレギュラー枠と『土曜トップスペシャル』にて録画中継された。日本テレビは同年8月に本番組を10月19日から土曜19:00 - 19:54枠で6年半ぶりにゴールデンタイムへの復帰させることを発表した。発表記者会見には、全日本勢だけでなく長州力を始めとしたジャパン勢も共に出席。日本人抗争をゴールデン復帰の切り札や売り物にしようとした思惑が窺えた。ゴールデン復活第1回は、1985年10月19日に行われた「ワールド・チャンピオン・カーニバル」第12戦である後楽園ホールからの生中継であった。この時期から本番組は『ワールドプロレスリング』よりも視聴率で上回るようになっていた他、日本テレビ系新局開局などによる放映権移行などで、同時ネット局は土曜20時台時代よりも多くなっていた。ゴールデンタイムに復帰後は、復帰翌年の1986年に輪島大士をデビューさせ、1986年11月1日に石川県七尾市総合市民体育館から生中継された輪島のデビュー戦は17.1%という視聴率を記録した。輪島やジョン・テンタの大相撲出身者が全日本に入団したことが引き金となり、同年11月に日本相撲協会から全日本に対し両国国技館の無期限使用禁止を通告したが、全日本は日本武道館を都内のもう一つのビッグマッチ会場としていたため影響は受けなかった。同年4月にはカルガリーハリケーンズの試合の放送が解禁された。ブッチャーとブロディも1987年に全日本へ復帰したが、同年にはジャパンプロレスも分裂し、長州など一部選手が新日本へ復帰した。1987年4月以降は『ワールドプロレスリング』が『ギブUPまで待てない!!ワールドプロレスリング』にリニューアルされ、録画中継に移行したことに伴い、本番組が唯一実況生中継されるプロレス中継番組となったが、1988年3月26日の「'88チャンピオン・カーニバル」開幕戦である茨城県古河市立体育館大会の生中継を以って、土曜19時枠の放送並びに生中継も終了した。ジャパンプロレス崩壊後でなおかつ「'88チャンピオン・カーニバル」シリーズ中の1988年4月からは日曜22:30 - 23:26に放送時間が変更されたと同時に、以降は再度ローカル枠での放送と同時に録画中継となり、再度プロ野球中継で放送時間が左右されることも無くなった(プロ野球中継延長の際は放送時間繰り下げ)。同時期に土曜夕方に移行した『ワールドプロレスリング』共々ゴールデンタイムや実況生中継で放送されるプロレス中継は消滅した。しかし、「'90チャンピオン・カーニバル」シリーズ中の1990年4月に、海外ドラマの放送を2年ぶりに再開したため、放送時間も日曜24:30 - 25:25に変更された。しかしながら馬場をはじめ、三沢、川田利明、田上明、小橋健太のプロレス四天王や秋山準、高山善廣といった、後年団体を牽引する選手たちをこの番組から育て上げた。また、1990年には天龍や谷津嘉章などの大量離脱があったものの、巧みなマッチメイクや「プロレスニュース」で番組を乗り切った。馬場自身は、第一線を退くとともに、解説者として放送席に座ることが多くなった。放送時間は長らく1時間枠だったが、「'94チャンピオン・カーニバル」シリーズ中の1994年4月2日からついに土曜26:35 - 27:05の30分枠に短縮された。馬場が亡くなる直前の「'98世界最強タッグ決定リーグ戦」の優勝戦から、日本武道館等でのビッグマッチは通常の30分枠を15分拡大し、45分枠での放送形態をとった(馬場追悼特集や東京ドーム大会は60分枠)。また番組内容も、タイトルマッチへの流れ・闘いの状況等をまとめたVTRを多用したり、画面右上にテロップが表示されたりと工夫が見られてきた。この頃から若林健治や竹内宏介等、かつての実況・解説者も復帰し始め、レギュラー45分枠の噂も飛び始めたが、馬場が1999年1月に結腸癌のため永眠し、番組は次第に衰退の一途をたどることになった。「2000チャンピオン・カーニバル」シリーズ中の2000年4月には放送時間を日曜24:55 - 25:25から水曜25:45 - 26:15に変更したが、同年に発生した「2000スーパーパワーシリーズ」シリーズ終了直後における全日本プロレスの大量退団騒動を端に、日本テレビは2000年6月19日に本番組の打ち切りを正式発表し、2000年6月21日の放送を以って27年9か月の歴史に幕を閉じた。なお45分枠で放送された最終回では、番組名は当然『全日本プロレス中継』でありながらも、放送内容は三沢をはじめとする退団選手達の新団体旗揚げ記者会見がメインという前代未聞の放送であり、『全日本プロレス緊急拡大スペシャル』のサブタイトルを加えて放送された。その新団体たるプロレスリング・ノアには、元日本テレビの大八木賢一も専務取締役として在籍しており、このことからもノアと日本テレビが当時から密接な関係だったことが窺い知れる。なお最後の試合中継は大量退団騒動直前の同年6月9日に行われた「2000スーパーパワーシリーズ」の最終戦である日本武道館(世界タッグ王座決定戦〈川田利明&田上明vs大森隆男&高山善廣〉など)からの録画中継であった。本番組の27年9か月という放送期間は、1954年2月から2009年3月まで放送されていた日本テレビのプロレス中継の歴史の中でも最長寿であった。日本テレビはその後退団選手達が設立したノア側に付き、ノアが軌道に乗るまでの2000年6月28日から2001年3月までの約9か月間は『コロッセオ』をつなぎ番組とした後、同年4月からは『プロレスリング・ノア中継』に正式に移行した。日本テレビは打ち切り後も全日本プロレスの試合を『コロッセオ』内でダイジェストの形で放送しようと計画したが、「日本テレビさんとはまだ、解決すべき問題が残っている」と、馬場元子や渕正信などの残留派から猛反発を買い、「ジャイアント馬場3回忌興行」まで全日本プロレスから取材拒否を受けることになる。ちなみに日本テレビは本番組打ち切り当時、15%の全日本プロレスの株式を保有していた。離脱してノアに移籍した選手は、本番組終了10日後である2000年7月1日に開幕した「2000サマー・アクション・シリーズ」の一部大会に興行の関係上出場したが、当然日本テレビでは中継されなかった。現在は全日本プロレスの選手は日本テレビ系のバラエティ番組などに問題なく出演している。本番組終了並びに大量離脱後における全日本プロレスの地上波中継は、テレビ東京で2004年4月から2005年3月まで『プロレスLOVE 夜のシャイニング・インパクト』が、千葉テレビで2007年4月から2013年12月まで『全日本プロレス マザー』がそれぞれ放送された。この2番組は本番組とは異なりテレビ東京・千葉テレビは制作には関与せず、映像はGAORAやFIGHTING TV サムライから提供を受け、全日本プロレスによる番販(持ち込み)方式を取っていた。福澤朗が実況を担当した1990年代前半には、中継を行わなかった試合の結果や関連情報を伝える「プロレスニュース」というコーナーがあった。『ニュースプラス1』、『NNN昼のニュース』、『NNNきょうの出来事』などで使われていた報道スタジオから伝えていたが、その後、番組専用の報道セットが完成。後に「プロレスニュースプラス1」とコーナー名を変更し、主に試合会場周辺の屋外で、福澤が自分でデスク(=画板)を持って内容を伝えるロケ方式に変更されている。福澤が事情で担当できない場合は、臨時で若林健治や金子茂など、他のプロレス実況担当アナウンサーが代わりに担当した。デスクにはネームプレートが付いていたが、福澤や金子などは漢字表記だったのに対し、野口敦史だけは平仮名表記となっていた。「プロレスニュース」は「プ・プ・プ、プロレスにゅ~す」という福澤のタイトルコールで始まり、選手のコメントを福澤がものまねで代読したり、あまり注目を集めていない外国人選手を面白おかしくプッシュする、「どぉ~ですか!?」というくだりから始まるなど、くだけた感じの進行だった。福澤自身は、「プロレスニュース」のことを「前衛的ミニコーナー」と表現していた(「週刊プロレス」リレーコラムより)。「プロレスニュース」に対し、馳浩(当時新日本プロレス)が「プロレスを馬鹿にしている。許せない」「ぶん殴ってやる。あのアナウンサーあまりにもふざけすぎだよ」と息巻いていた(後に和解した模様。馳が後年全日本に入団した際、その入団後第1戦を実況したのは、他でもない福澤である)。1994年最初の「プロレスニュースプラス1」では、冒頭部分のみ本家のキャスター(桜田順子・真山勇一)と共演した。「プロレスニュースプラス1」は、1994年3月のの放送時間短縮時に終了する。その最終回は福澤アナが「『プロレスニュース』に否定的な熱烈的プロレスファン」に刺され、「いつか、こんな日が来ると思ってたぁ…」と言うシーンで終了という、前述のような状況を茶化した(当然スタッフとの寸劇で、演技もわざと下手に行っていた)、いかにもプロレスニュース的な幕引きであった。1997年に「プロレスニュースリターンズ」という形で一時復活したが、数回のみで自然消滅した。ローカル局アナウンサーは、主としてその地域で行われた大会の実況を担当する。ただし、山本純也・佐藤啓は、関東地区や札幌など、他地区の試合でも実況を担当した。※川尻(現・益子なお美)は、日本武道館大会で同番組初めての女性実況アナウンサーとして参加した。 等地域によっては、一時期他局へ放映権移行が行われ、ネットを開始した放送局に放映権が復帰した地域もあった(太字は一時期ネットした放送局)。大分放送は『ワールドプロレスリング』もネットしていた他、鹿児島テレビは1982年10月の鹿児島放送(テレビ朝日系列)開局まで『ワールドプロレスリング』もネットしていた。日本プロレス時代のプロレス中継(定期番組)は「三菱ダイヤモンド・アワー」の放送枠(当初は東京ディズニーランドとの隔週)で放送されており、長らく三菱電機の一社提供だった。元々三菱電機は力道山のスポンサーであり、日本プロレス自体のスポンサーでもあった。テレビマッチのメインイベントの前に、三菱電機製の掃除機(「風神」など)でリング上を掃き清めるというスタイルの生コマーシャルが見られたり、実況の合間に「この放送は、皆様ご覧のテレビジョンを始め、数々の電化(家電)製品でおなじみの三菱電機が、全国の皆様にお送りしています」といった旨のアナウンスが入ったのは、この頃の事である。しかし番組の末期には、三菱電機を筆頭スポンサーとしながら、鈴木自動車、さらに久保田鉄工も提供スポンサーに加わっていた。馬場は日本プロレスからの独立にあたり、日本テレビだけでなく、『日本プロレス中継』の提供スポンサーで日本プロレスのスポンサーだった三菱電機との縁も強く主張したが、新たに始まった『全日本プロレス中継』では、三菱電機が提供に付くことはなかった(金曜8時の三菱アワー枠に残り、後継番組である『太陽にほえろ!』のメインスポンサー<複数スポンサーとの共同協賛>となった)。ただし馬場との個人的な縁、全日本プロレスとの縁は継続され、リング上で渡される花束の提供元が三菱電機だったことも多かった(同じ三菱グループに属する三菱自動車工業は、後年、番組提供スポンサーに付いている)。番組は日鐵サッシをはじめとする複数社による提供(当初は主に金属・工業の企業である太平洋金属や高田工業所、大阪精工などがスポンサーに携わっていた)となり、それも時代の推移と共に目まぐるしく入れ替わった。主に1970年代の全日本プロレスでは、「オロナミンC」(大塚製薬)、「酒は黄桜」(黄桜酒造)「ヰセキ」(井関農機)など番組スポンサーをあしらった横幕がリングに張られていた。また、初期のころはダイヤモンドアワーからの名残でメインイベントやオープン選手権(現・チャンピオンカーニバル相当)、世界オープンタッグ選手権(現・世界最強タッグ決定リーグ戦相当)の開会式における選手への花束贈呈の協賛もしており、リングアナウンサーや実況席の解説者・アナウンサーが「この番組の提供スポンサー(1社ずつ読み上げ)より花束が贈呈されます」とアナウンスしていた。スポンサー付き横幕は1979年3月まで張られていたが、同年4月の土曜17:30枠のローカルセールス枠移動と同時に横幕は「全日本プロレス中継 日本テレビ」→「ALL JAPAN PRO WRESTLING 日本テレビ」に変更された(2000年6月の当番組終了まで)と同時に解説者・アナウンサーによる読み上げも廃止された。但し、17:30からの放送となった時のごく一時期に日本テレビ(関東圏のみ)では録画中継である場合に限り当時の実況アナウンサーがスポンサーの提供読みとその日の放送カードの紹介をしていたものもあった。尚1979年4月以降のマットは、一時期赤青の2色を三角形状に分けたテレビ中継用マットと、青一色の未中継用マットに使い分けていたこともあった。余談だが、三菱電機・鈴木・久保田(金8)・三菱自工・大塚(土8)とも、プロレス撤退以後の後継番組でも協賛を続けていた。現在は、かつて本番組で放送されたNWA戦などのビッグマッチを、CS放送の日テレG+にて『プロレスクラシック』として放送している。2009年3月まで1か月1回更新だったが、諸事情により、4月からしばらくは更新を途絶えていた。しかし、7月からしばらくの間は原則として奇数月に最新作、偶数月に過去放送の番組のアンコール放送を実施していたが、現在は1か月1回更新に戻っている。なお1980年代までは一部の試合で生中継や当日録画(日本テレビなど一部の同時ネット局)があるため、部分的に無音になっている個所もある。また全日本プロレスからプロレスリング・ノアに移籍したベテラン選手を特集したもの、日本プロレス中継時代の試合、『NOAH di コロッセオ』の再放送が放送されることもある。CS放送のFIGHTING TV サムライにおいても、『全日本プロレス王道史』→『ボクら全日王道クラブ』が放送された。これは週ごとに年代をおって全日本プロレスの40年を振り返っている番組で、そのため2000年の大量離脱後の試合も放送される場合があった。

出典:wikipedia

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