北硫黄島(きたいおうとう)とは、小笠原諸島の火山列島の一部をなし、東京都小笠原村に属する無人島。欧名はサン・アレキサンドロ島。東京の南約1,200km、父島の南南西207kmに位置し、火山列島(硫黄列島)の最北端。最高標高は792mの榊ヶ峰(さかきがみね)。明治期から太平洋戦争まで、主に母島からの移民が集落を形成していた。島周辺は常に波が高く、船の接岸は困難である。絶滅の恐れがあるとされ特殊鳥類に指定されているシマハヤブサの生息地である。周辺には、2009年に「海洋管理のための離島の保全・管理のあり方に関する基本方針」に基づき名称が決定した「丸根」「丸根南小島」が存在する。孤島であるため、詳しい歴史は分かっていない。島内に残る遺跡から、石器時代頃にマリアナ諸島から渡った住民が定住していたと考えられている。また石野遺跡の調査により、紀元前1世紀頃にも人が定住していたことが分かっている。1543年(天文12年)、スペインのサン・ファン号が北硫黄島を発見したと記録されている。1891年(明治24年)9月9日、島名を「北硫黄島」とし東京府小笠原島庁所属とする。1898年(明治31年)より、漁労目的に母島からの移住が開始された。この際、開拓を指揮したのが石野平之丞で、後に島内の石野村の村長となった。開拓民によって、石野村と西村という2つの集落が形成された。戦前の最盛期には、2集落合わせて人口は約220人を数えた。当時は、サトウキビや野菜の栽培、鰹漁が行なわれていた。その後島の経営を硫黄島製糖会社が行なうようになった。なお、この頃に島内で磨製石器の石斧3点が発見され東京大学に寄贈された。1939年(昭和14年)、第二次世界大戦勃発。この時の島民は103人であった。1941年(昭和16年)12月には太平洋戦争が勃発した。1943年(昭和18年)には東京都制が施行(東京府が廃止)され、東京都の所属となる。翌1944年(昭和19年)になると太平洋戦争激化のため本土へ強制疎開が開始された。疎開時の人口は90人だった。また、島の守備と周辺の不時着機および遭難舩船の乗員の救助を任務として大日本帝國海軍より北硫黄島派遣隊が派遣された。1945年(昭和20年)8月に太平洋戦争が終結すると、同年9月5日に派遣隊は魚雷艇にて撤収し、それ以降も島民が戻ることなく無人島となっている。1952年(昭和27年)、サンフランシスコ条約によって、アメリカ軍の軍政下に入る。1968年(昭和43年)、アメリカより返還され、東京都小笠原村に属する。1991年(平成3年)7月にマリアナ文化の影響を受けていると見られる石器時代の石野遺跡が発見され、石斧や土器片などが採集された。シャコ貝の炭素14年代法で2000年前との結果が出ている。2007年(平成19年)6月18日に国土地理院による呼称が「きたいおうじま」から、「きたいおうとう」に変更された。第二次世界大戦による集団疎開前、北硫黄島には2つの集落が存在した。北硫黄島の緯度では、2009年7月22日皆既日食が観測でき、島近海にいた船で、船上から皆既日食を観測を行い、日本放送協会(NHK)で中継放送した。
出典:wikipedia
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