『大甲子園』(だいこうしえん)は、水島新司の野球漫画。『週刊少年チャンピオン』にて1983年から1987年まで連載された。『ドカベン』の続編で、主人公・山田太郎の高校3年の夏を描いた物語である。『ドカベン』山田太郎の明訓高校や、『球道くん』の中西球道、『一球さん』の真田一球、『ダントツ』の荒木新太郎、『男どアホウ甲子園』の藤村甲子園の双子の弟らが大甲子園で激突。さらに『野球狂の詩』の岩田鉄五郎や水原勇気たちも球場に駆けつける。山田たちの3年の夏は一体どうなるのか。山田たちの明訓高校はエース里中を欠きながらも夏の甲子園の神奈川県予選を勝ち進んでいた。その里中も母親の手術が無事成功したことで復帰、ブランクによる体力不足や時ならぬ土砂降りがもたらした極端な湿度に苦しみながらも、不知火守のいる白新高校との決勝戦を投げぬき、5度目の甲子園出場を果たす。それと前後して全国の代表校も続々と甲子園に名乗りをあげていた。毎回初戦敗退の弱少校から躍進を果たした西東京の光高校。素人同然の部員ばかりながら奇抜な戦法で東東京大会を制した巨人学園。千葉大会では、エース中西球道を擁した青田高校が、かつて明訓とも戦ったクリーンハイスクールと死闘を展開、球道の負傷というアクシデントを乗り越えて優勝する。栃木代表はこれもかつて明訓と戦った江川学院。大阪大会では藤村甲子園の母校南波高校が、前年度優勝の通天閣高校を決勝でくだした。これら代表たちが期するのはやはり「打倒明訓」であり「打倒山田」だった。そんな中、唯一高知県では雨による順延のため、全国大会の抽選会直前まで決勝戦がずれこんでいた。当然宿敵土佐丸高校が出てくるものと思っていた明訓ナインだったが、甲子園入りした旅館で土佐丸敗退の報を受け、さらに彼らをくだして初出場の室戸学習塾高校を率いるのが、かつての自分たちの監督徳川家康だったことを知って驚愕する。そして、キャプテンの犬飼知三郎は、かつて明訓を苦しめた犬飼兄弟の弟だった。豊福きこうが『水原勇気0勝3敗11S』(情報センター出版局)において、山田、岩鬼、殿馬、里中らが明訓高校で活躍した時代を1974年~1976年としている。山田たちが明訓に入学した年の夏の甲子園大会は、1974年の「第56回全国高等学校野球選手権大会」だった。したがって『ドカベン』の高校3年時を描いた終盤は1976年が舞台になる。しかし、『大甲子園』では「第何回大会」か、作品からはわからないようになっている。その前の夏の予選における白新高校との決勝戦は場所が横浜スタジアムで、開場の時期から見て1978年以降になる。また、この作品の夏の甲子園準決勝で青田高校の中西球道が(1)9者連続奪三振、(2)1試合26奪三振を記録。テレビ解説者は(1)が1926年の第12回大会以来57年ぶりとコメントしており、これによると中西の記録達成は1983年。また、(2)は1958年の第40大会(※)以来24年ぶりとしており、これによれば中西の記録達成は1982年。したがって、『大甲子園』での明訓対青田の試合は1982年~1983年の期間になるはずであるが、その準決勝再試合で明訓の先発投手である岩鬼が実在のプロ野球投手の物真似で投球する際、「中日ドラゴンズの小松の昭和60年時」と叫んで投球している事や、1985年当時に阪神タイガースに在籍していたゲイル投手、バース選手らの物真似をしている事から、少なくとも1985年(昭和60年)以降となる。また、作中で80年代アイドルである松田聖子(1980年デビュー)と小泉今日子(1982年デビュー)の歌が登場する。室戸学習塾の守備陣が打者・殿馬のリズムを狂わせるために同時に民謡(「よさこい」の替え歌の一種と思われる)からアイドル歌謡曲までバラバラの歌を歌ったが、その中に1983年のヒット曲であった「瞳はダイアモンド」と「艶姿ナミダ娘」があった。さらに対青田戦で殿馬は「秘打・夏の扉 松田聖子」(「夏の扉」は1981年4月21日リリース)を披露している。こうなると、対室戸戦から対青田戦までは少なくとも1982年以降である。従来の原作の枠を越えて実現したいわゆる「夢の対戦」は以下の通り。『大甲子園』で初登場した人物。他作品からの登場人物については各項目を参照。ドカベン×大甲子園!水島オールスターズ(2012年9月12日開始、エンターブレインとクルーズ、Mobage)にカードが参戦している。
出典:wikipedia
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