LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

深名線

深名線(しんめいせん)は、かつて北海道旅客鉄道(JR北海道)/日本国有鉄道(国鉄)が運営していた鉄道路線(地方交通線)である。北海道深川市にある深川駅で函館本線から分岐し、雨竜郡幌加内町を経て名寄市にある名寄駅で宗谷本線に接続していた。営業係数は常にワースト10に入るという大赤字の路線で、赤字83線や特定地方交通線の廃止論議にもその都度候補にあげられていた。並行道路の未整備を理由に廃止保留となったが、国鉄分割民営化後に並行道路の整備が進んだことから、1995年(平成7年)9月4日に廃止された。深名線の沿線地域とされる雨竜川上流地域へ、最初の開拓民が幌加内地域に定着したのは1897年(明治30年)である。この時点でまず雨竜川沿いに道路が建設され、その後明治時代末期までに士別や和寒と結ばれる道路が開設され、幌加内地域の各集落と他の地域を結ぶメインルートとなっていった。この地域における鉄道敷設計画は、1911年(明治44年)に幌加内地域に移住してきた吉利智宏が、たった1人で深川から三股を経て音威子府に至る軽便鉄道の建設を請願したのが始まりとされている。これが、周辺地域の多度志・深川などの地域と連帯した運動となり、1916年(大正5年)には「雨竜鉄道期成同盟会」が結成された。これらの運動を受け、1918年(大正7年)には政府によって深川から三股に至る軽便鉄道の建設が決定した。なお、この年には雨竜郡上北竜村から幌加内村が独立発足しており、発足時の人口は4,690人であった。この鉄道は雨竜線として1922年(大正11年)に着工し、深川 - 朱鞠内間を6工区に区分し、他に深川駅構内の拡張工事が行われた。まず深川駅から多度志駅までの区間が第1工区として1922年(大正11年)12月16日に起工し、1924年(大正13年)9月25日に竣工、同年10月25日に開通した。続いて第2工区として、多度志駅から鷹泊駅まで1925年(大正14年)6月16日に起工し、1926年(大正15年)11月10日に開通した。第3工区となる多度志駅から幌加内駅までの区間は1925年(大正14年)11月16日に起工したが、途中の幌加内トンネルの地質が悪かったことから難工事となり、1日平均1メートルしか掘削できず、工期を予定より1年伸ばして1929年(昭和4年)5月15日に竣工し、同年11月8日に開通した。第4工区は幌加内駅から政和駅まで1928年(昭和3年)11月16日に起工し、第5工区はさらに添牛内駅まで同年11月6日に起工して、どちらも1931年(昭和6年)9月15日に開通し、第6工区の添牛内駅 - 朱鞠内駅間は1931年(昭和6年)7月13日に起工し、1932年(昭和7年)10月25日に開通というように小刻みに延長している。深川 - 朱鞠内間の総工費は4,467,778円であった。また、1931年(昭和6年)10月10日付で路線名称が幌加内線に改称されている。鉄道建設と並行するように雨竜ダムの建設計画が進められており、1938年(昭和13年)に着工した雨竜ダムの建設工事と、貯水に先立って行われた水没地域の森林伐採・木材輸送には幌加内線が使用された。一方、1922年(大正11年)に公布された改正鉄道敷設法の別表第143項には「天鹽(塩)國名寄ヨリ石狩國雨龍ヲ經テ天鹽國羽幌ニ至ル鐵道」が盛り込まれ、また1929年(昭和4年)からは札沼線の石狩沼田駅から多度志駅を結び、朱鞠内駅から天塩線(当時)佐久駅へを結ぶ札佐線の建設運動が開始されている。こうした状況下、1935年(昭和10年)には名雨線として名寄駅から朱鞠内駅までの区間が着工され、全区間を4工区に分けて工事が進められた。1937年(昭和12年)11月10日には名寄駅から初茶志内駅(当時)までが開通した。さらに、1939年(昭和14年)10月10日には初茶志内駅から朱鞠内駅までが開通、同時に幌加内線と名雨線を統合して深名線に改称された。名寄 - 朱鞠内間の総工費は509万4,000円であった。こうして、深川駅と名寄駅の間は、函館本線・宗谷本線を経由する旭川周りと、深名線を経由する朱鞠内周りの2経路を有することになった。しかし深名線経由の方が13.4 km長く、途中に25 ‰の勾配区間が5か所あり、半径250 mの曲線も多かったため輸送力が小さく、結局沿線の開発とダムの建設に貢献したに留まった。戦後になると、雨竜ダムによって出現した人造湖は観光資源としての価値を評価され「朱鞠内湖」と命名され、深名線沿線唯一の観光地となった。また、ダム建設終了後も木材輸送は活発な状態で、沿線地域の中心的交通機関としての役割を果たしていた。1955年(昭和30年)からはレールバスを導入の上で旅客列車の増発が行われ、それに伴い利用者も増加、レールバスでは需要に応じきれずに通常の気動車へ置き換えられることになった。また、1955年(昭和30年)9月には円山・宇摩・下幌成・新成生・上幌加内・下政和・大曲・共栄の各乗降場が、1956年(昭和31年)5月には湖畔仮乗降場が新設されている。1960年(昭和35年)以降は駅の無人化や貨物扱いの集約など、合理化が行われるようになった。この時期が沿線の人口も最も多い時期で、1960年(昭和35年)の幌加内町の人口は12,016人に達しており、同年の深名線の輸送人員は140万7千人であった。なお、1955年(昭和30年)前後には道北バスによる幌加内と和寒を結ぶバス路線と、名士バスによって添牛内と士別を結ぶバス路線が運行した記録が残っている。1950年代から1960年代前半(昭和20年代後半から昭和30年代)まで、日本のバス業界は「道路があって人が住んでいればバスが走り、バスを走らせれば儲かる」という状況であったにもかかわらず、これら道北バスと名士バスの開設した2路線については数年で廃止されているなど、沿線のバス交通は発達しておらず、1982年(昭和57年)の時点で沿線を運行していたバス路線は、深川から多度志までの間に1日5往復の北海道中央バスの路線バスだけであった。1962年(昭和37年)には朱鞠内駅から羽幌駅に至る鉄道路線として名羽線が着工され、かなりの区間で路盤が完成した。羽幌側では羽幌炭鉱三毛別鉱から産出される石炭積み出しのために羽幌炭礦鉄道が路盤を借り受けて営業していた(後述)。しかし、その後の幌加内町の人口流出は激しく、1965年(昭和40年)には幌加内町の人口は9,195人に減少、さらに1970年(昭和45年)には7,283人にまで減少し、白樺や蕗ノ台では集落自体がなくなった。これと並行するようにモータリゼーションの進展と道路の改良によって、深名線の輸送量も減少の一途をたどることになった。1970年(昭和45年)の深名線の輸送人員は47万2千人に減少、輸送密度にすると457人/日であった。1975年(昭和50年)度には、住民の維持管理が負担となったという自治会からの意向により大曲仮乗降場が廃止されている。建設中だった名羽線の工事も凍結され、1970年(昭和45年)には羽幌炭鉱が閉山、石炭や木材輸送の見込みは全くなくなり、開通する見込みもなくなった。1968年(昭和43年)9月には国鉄諮問委員会によってローカル線廃止勧告(赤字83線)が出されることになったが、深名線もこの中に含まれたため、沿線自治体では「深名線廃止反対期成会」が結成された。このときは廃止にならなかったが、1979年(昭和54年)時点での収支係数は2,785という大赤字路線であった。その後1979年(昭和54年)に国鉄再建案が閣議で了承され、1980年(昭和55年)に国鉄再建法案が可決し、1981年(昭和56年)3月には施行令が公布された。特定地方交通線の選定基準であった1977年(昭和52年)度から1979年(昭和54年)度までの深名線の輸送密度は平均272人/日しかなかったが、冬季における代替道路が未整備という理由により、深名線は廃止候補から外された。しかし、1980年(昭和55年)10月のダイヤ改正では減便が行われ、鷹泊駅以北から深川駅以南への通学ができなくなったこともあり、輸送量の減少は止まらず、1984年(昭和59年)の深名線の輸送密度は123人/日までに落ち込んだ。また、沿線人口の減少も続いており、1980年(昭和55年)の幌加内町の人口は3,739人と、幌加内村が発足した時点の人口をも下回っていた。さらに、未整備とされた並行道路も、1989年(平成元年)度までに改良が完了する見込みとなった。1986年(昭和61年)10月には北海道新聞が「廃止対象線に指定してもらい、転換交付金を受けてバス転換に踏み切るべき」との論評を紙面に掲載したが、このような報道などに触れた沿線住民、特に幌加内町民は深名線の行く末に不安を抱いたとの評価もある。ともあれ、深名線は国鉄からJR北海道に継承され、引き続き維持されることになった。1990年(平成2年)には乗降客の少ない一部の駅が廃止されている。ところが、1993年(平成5年)12月15日の北海道新聞で「深名線、来年度に廃止」という記事が掲載された。北海道新聞の記事内容は「JRが公言したものではない」という書き方で、他紙ではJR北海道は廃止報道を否定していたと報じられたが、同年11月にはJR北海道では特定地方交通線以外の初の廃止線として、函館本線の上砂川支線の廃止が公表されていたことや、この時点ですでに並行道路の整備は完了しており、年間収入が5,000万円程度であるのに対して投入する経費は10億円近くという深名線の状況において、深名線の廃止問題は「浮上してもおかしくない」ともみられていた。また、他のJR北海道のローカル線が経費節減のためにワンマン運転を導入しているにもかかわらず、深名線の列車には車掌が乗務していたことから、「廃止路線に余分な投資はできない」との憶測まで生じていた。さらに、この廃止報道の後に、地域から廃止に反対する意見や動きなどがほとんど見られなかった。この当時、深名線の1日の利用者数は100人台に乗る程度で通勤定期券の利用者は存在せず、1日16本の列車に対して1列車平均の利用者数は10人程度に過ぎず、輸送密度は80人/日という有様であった。また、ダイヤも国鉄末期の減便によって、同じ幌加内町でありながら、北母子里駅から幌加内駅への日帰り往復は不可能であった。しかし、前述したように、当時の深名線沿線においては北空知バスが運行する深川と多度志を結ぶ路線を除き、バス路線は設定されたことすらほとんどなかったが、これは深名線程度の輸送人員ではバスでも赤字必至とみられたため既存のどのバス事業者も手を出しかねていたと思われる。こうした状況下、JR北海道は1994年(平成6年)12月10日に沿線4自治体の代表者を札幌市内のホテルに招き、「年々利用者数が減少している現状からは、バス輸送が地域に最も適した輸送手段である」として、正式に深名線の廃止とバス転換の提案を行った。この時点での提案内容は以下のような内容であった。沿線自治体では、4自治体の代表により「JR深名線問題対策協議会」を発足させ、JRとの協議が開始されたが、鉄道の状況を理解していたため、協議会では絶対反対の態度をとることはしなかった。ただし、バスダイヤの条件については、「所要時間が増加し運賃が上がるのに本数が増えないのは困る」として反発、1995年(平成7年)3月17日には協議会からJR北海道へ「そのままでは同意できないが、現行の鉄道以上のサービスとなる改善の協議には応じる」と回答した。これにJR北海道が対応し、最終的には鉄道の2倍の運行便数という案を提示、これが沿線から評価されたことから、同年5月16日には沿線自治体からはJR北海道に対して、廃止に同意するという意思が示された。JR北海道は同年5月26日に運輸大臣に対して、廃止予定日を9月3日とする深名線の廃止と代替バス路線の免許申請を行い、どちらも同年6月16日には認可され、この時点で深名線は廃止となることが確定した。廃止が近づいた7月25日からは定期列車への増結やイベント列車の運行が行われるようになった。最終日の9月3日には、深川・多度志・幌加内・朱鞠内・名寄の5駅で「お別れセレモニー」が行われたほか、定期列車への増結に加えて臨時列車が4本増発され、深名線の列車と接続する一部の函館本線の特急列車にも2両から4両の増結が行われた。こうして、1995年(平成7年)9月3日限りで深名線は廃止となり、翌9月4日からはJR北海道直営バスによって代替バスの運行が開始された。線路の路盤は簡易な構造で、20パーミル以上の急勾配が合計29kmにわたり、半径400メートル以下の急な曲線の区間も合計19kmに達していた。幌加内線として深川駅と朱鞠内駅を結ぶ区間が開業したころは、1日4往復の混合列車で、所要時間は3時間程度であった。名寄まで開通して深名線となった時点では、深川駅と名寄駅を結ぶ列車が3往復で、深川駅と朱鞠内駅・名寄駅と朱鞠内駅を結ぶ区間運転の列車が1往復設定されていた。戦後になると1往復が減便となり、全線で3往復となっていた。1955年(昭和30年)8月にはレールバスが導入され、全線を直通する列車は4往復となり、これに加えて区間運転の列車が下り5本・上り7本設定された。翌1956年(昭和31年)11月には区間運転の列車が10往復に増発された。その後、気動車列車に使用する車両はキハ05形に変更された。1962年(昭和37年)7月のダイヤ改正からは、朱鞠内駅を境界として運行系統が分断されるようになった。これは、深名線の沿線が北海道でも有数の豪雪地帯であり、列車のダイヤが乱れても影響を少なくするための方策であった。運行本数がもっとも多かったのはこの時期で、深川駅からは朱鞠内駅までの列車が6往復と鷹泊駅までの列車が上り3本・下り1本、名寄駅からは朱鞠内駅までの列車が5往復と天塩弥生駅までの列車が2往復設定されていた。しかし、利用者の減少などに伴い、1980年(昭和55年)10月のダイヤ改正では、深川駅からは朱鞠内駅までの列車が5往復と鷹泊駅までの列車が上り2本・下り1本、名寄駅からは朱鞠内駅までの列車が4往復に減便された。その後さらに減便され、分割民営化直後の時点では深川駅から幌加内駅までが5往復、幌加内駅から朱鞠内駅までは4往復(列車自体は深川駅から直通)、朱鞠内駅から名寄駅までは3往復となった。前述でも少し触れているが、国鉄分割民営化後、他の道内の路線(札幌近郊の路線を除く)で普通列車や快速列車の車掌省略のワンマン運転を開始していたが、ワンマン化されることなく営業最終日まで全列車車掌が乗務していた。これは、車両運用の都合でワンマン運転対応の車両が入線しても同様だった。深名線内各駅でのワンマン化対応工事も他の路線が発着する起点、終点の深川駅、名寄駅構内を除き行われなかった。1955年以降国鉄時代の輸送人員・輸送密度の推移は以下の通りである。1941年から1949年にかけては朱鞠内駅構内に朱鞠内機関支区が設けられ、C11形蒸気機関車が6両配置されていた。その後は8620形や9600形などの蒸気機関車が列車の牽引を行っており、1970年代まで9600形の牽引する混合列車が残っていた。1955年8月からはキハ10000形レールバスの寒地仕様車(後のキハ01形・キハ02形)が導入され、フリークエンシーの向上が図られたが、時間帯によっては輸送需要に応じきれず、1958年にはキハ05形に置き換えられた。キハ05形では客室内の片隅にベニヤ板で囲われた簡易便所の設置も行われていた。1966年以降は北海道向けに製造されたキハ21形・キハ22形が運用されるようになり、概ね1両から3両で運用されていた。運行形態の節で述べたように、この時期は朱鞠内駅を境にして運行系統は分断されており、深川駅から朱鞠内駅までは深川機関区、名寄駅から朱鞠内駅までは名寄機関区の気動車が運用されていた。1986年以降は旭川運転所のキハ53形500番台が運用されるようになったが、この車両は駆動用エンジンを2基装備した車両であり、冬季でもキハ53形による単行運転が主体となった。夏季にはキハ54形や、駆動用エンジンが1基のキハ40形も運用されることがあった。沿革節で述べたとおり、代替バスの運行はJR北海道自身が行うことになり、この代替バス運行にあわせて、JR北海道では深川自動車営業所を新設した。運行当初の便数は、深川駅から幌加内までが10往復、幌加内から朱鞠内までが8往復、朱鞠内から名寄駅までが6往復で、鉄道時代に比べて倍増した上、鉄道時代には不可能だった母子里から幌加内までの日帰り往復も可能となった。深名線沿線にはほとんど既存のバス路線もなかったことから、代替バスの運賃は北空知バスの賃率を基本に設定された。運行開始時点では深川駅から名寄駅までは遠距離逓減制度を導入して鉄道時代と同額の2,160円となったが、深川駅から幌加内までの運賃は990円と、鉄道時代と比較して2割ほど運賃が高くなった。ただし、北空知バスの賃率自体は北海道内でも比較的低いほうであったこともあり、値上がり幅は他のバス転換路線と比較するとさほど大きいものではなかった。幌加内駅の駅舎は鉄道廃止後もバス待合室として利用されていたが、不審火により消失し、その後国道上の幌加内交流プラザにバス停留所が設置された。2006年時点では、政和駅の駅舎がそば屋の店舗として使用されている。雨竜川にかかる第3雨竜川橋梁は保存されることになったが、年間900万円の維持費がかかるという。改正鉄道敷設法別表第143号のうち、名雨線として開業した区間をのぞく朱鞠内 - 羽幌間については、名羽線(めいうせん)として1962年に着工された。なお、着工に先立つ1941年に羽幌炭礦鉄道が羽幌線に接続して開業した築別 - 曙 - 築別炭礦間のうち、築別 - 曙間が予定線に並行しており、残りの朱鞠内 - 曙間が工事区間である。日本鉄道建設公団により工事が進められたが、建設工事の可能な季節が限られることや、たびたび予算を削られたことで、思うようには進まなかった。なお、工事線のうち曙 - 三毛別間については、羽幌炭礦鉄道による石炭輸送のため先行して完成し、羽幌炭礦鉄道が借り受けた上で石炭輸送と資材輸送に使用されていた。羽幌炭礦鉄道は築別炭鉱の閉山により1970年に廃止され、この区間の営業輸送は中止された。路線両端をのぞけば沿線人口はほとんど無いため、乗車密度の基準を満たすことは困難で、国鉄再建法の施行により1980年に工事凍結。沿線の産業も衰え、接続する両端の路線が特定地方交通線に指定される(深名線は前述のとおり後に除外)ことを踏まえると開業しても輸送はほとんど見込めないため、北海道や沿線自治体を含め、引き受ける事業者がなく、完成していた鉄道施設は放置され、深名線の車内からも放置されたトンネルや橋桁を見ることが出来た。その後、一部の高架橋が民間会社のトラック輸送路などに使用されている。全駅北海道に所在。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。