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横綱

横綱(よこづな)は、大相撲の力士の格付け(番付)における最高位の称号である。語源的には、横綱だけが腰に締めることを許されている白麻製の綱の名称に由来する。現行制度では横綱に降格はなく、現役引退によってのみその地位から降りる。従って、横綱になる力士はその地位にふさわしい品格と抜群の力量を要求される。現在の大相撲においては、横綱は、全ての力士を代表する存在であると同時に、神の依り代であることの証とされている。それ故、横綱土俵入りは、病気・故障等の場合を除き、現役横綱の義務である。横綱は、天下無双であるという意味を込めて「日下開山」(ひのしたかいさん)と呼ばれることもある。古くは戦国時代に黒と白の絹を混ぜて撚り合わせた綱の記述が文献に見える。この黒白横綱を締めた力士は江戸時代中頃の宝暦から安永にかけての浮世絵にその姿を留めている。その後興行としての江戸相撲が人気を博すようになると、吉田司家は行司の総元締めとしての権力を保持するため横綱免許を与えて横綱を作ることを考えた。それまでの将軍家の観戦する上覧相撲や寺社への奉納相撲等特別な式典に際して行っていた土俵入りを、土俵上で行っていた顔見世土俵入りと結び付け、綱を締めさせて1人で土俵入りを披露させることにした。そして1791年(寛政3年)、第11代将軍・徳川家斉の上覧相撲において谷風梶之助と小野川喜三郎が行った紙垂をたらした純白の綱をつけた土俵入りが天下公認となり、横綱が誕生することになった。しかし、次に阿武松緑之助が免許を受けるまで38年も実力者(雷電為右衛門など)がいたにも関わらず免許がなく、阿武松免許の直前に、五条家が当時の両大関玉垣・柏戸に横綱を免許したため、吉田司家は、横綱免許を制度化した感がある。この頃、横綱のステータスはまだ認知されていなかったのか、玉垣・柏戸が免許を受けたので横綱土俵入りをしたという記録は見つかっていない。阿武松より、本場所で土俵入りするようになり、幣(しで。綱につける紙の飾り)の形が現在と同じ(紙の長さ方向ではなく、幅方向に折り返すもの)となった。それから江戸相撲では、吉田司家が横綱免許を与えた者が正式な横綱として認められるようになり、途切れることなく現役横綱力士が存在した。もともと当初は、「大関」の地位の中で横綱を付けられる者のことを「横綱」と呼んでいた。(谷風・小野川は関脇で横綱になっている。また、不知火諸右衛門は横綱免許後に関脇で取っている。)このことから横綱になることを「綱を張る」と表現する。また、横綱は、当初、横綱免許を持つ大関に対する名誉称号に過ぎなかったため、番付では大関が最高位であった。それゆえ、雷電爲右エ門のように現在なら当然横綱に値するような成績を残しながら横綱免許を受けなかった強豪大関も少なくない。当時の力士の多くは大名の御抱えであり、その力関係や派閥争いの影響で、横綱を逃すケースもあったと考えられる。このように第16代横綱・初代西ノ海嘉治郎の時代までは横綱は名誉称号という性格が強かったが、1890年(明治23年)5月場所からは番付に横綱の文字が掲載されるようになった。これは初代西ノ海嘉治郎が東正大関小錦八十吉に対して東張出大関にされ下風に立ったようなかたちになった西ノ海をなだめる方法として横綱と記したのである。そして、1909年(明治42年)2月には相撲規約改正に伴い横綱の称号が地位として定められることになった。「横綱は大関の中の強豪」という考え方が一般的になると、本場所での成績によって横綱を免許されるようになった。その最初のケースは、第17代横綱・初代小錦八十吉だったと言われている。明治初期は藩閥政治の有力者が後援者として力士を番付面で優遇して誕生させた「藩閥横綱」も存在したが、近代スポーツとしての体裁を整える中でこれらは姿を消した。現在は日本相撲協会が横綱審議委員会の諮問を仰ぎ、独自に推挙する。横綱が大関の名誉称号であった時代の横綱に対しては「横綱を免許される」、地位となって以降は「横綱に昇進する」という様に、表現を使い分ける場合もある。但し、誰までが「免許」で誰からが「昇進」かはっきりした基準があるわけでもなく、区分は明確ではない。第15代横綱・初代梅ヶ谷藤太郎までは番付が大関のままだったのでこれを基準とする見方や、第19代横綱・常陸山谷右エ門と20代横綱・2代梅ヶ谷藤太郎の同時免許(このときの代数は、年長の常陸山を19代と決めている)で横綱は大関の上位と認識されるようになったのでこれを基準とする見方、史上初の相撲協会推挙による横綱である第41代横綱・千代の山雅信を基準とする見方がある。現在行われている歴代横綱一覧は、第12代横綱・陣幕久五郎が1900年に富岡八幡宮に建立した「横綱力士碑」を基にしているため、伝説上の人物などを含む。1789年(寛政元年)11月、江戸相撲の司家であった吉田司家が谷風梶之助と小野川喜三郎に横綱を授与したのが、横綱免許の始めとされる(なお、代数は前述の陣幕によって定められたものが、相撲協会によって公認された)。吉田司家以外にも横綱免許を出したところは数多く存在したが、吉田司家は文政年間(1818年(文政元年) - 1830年(天保元年))に主君である熊本藩主細川家の威を背景として京都五条家との免許権争いに勝利する。これにより吉田司家による横綱免許の授与が制度化され、江戸相撲では吉田司家の免許を持つ者が正式な横綱として認められるようになった。横綱免許は明石志賀之助を最初とする説あり(江戸勧進相撲-記録があるようなので横綱免許は間違いないが明石以前にも横綱がいる可能性がある。)協会公認3代の丸山権太左衛門と協会公認2代の綾川五郎次は実は逆の順番であるとする説もあり、一時期読売『大相撲』誌ではそれに基づいた横綱一覧を掲出していた。吉田司家は明治初期に西南戦争に連座して一時期権威を失うが、1884年(明治17年)2月に免許を受けた第15代横綱・初代梅ヶ谷が吉田司家の免許を希望し、復権する。大坂相撲にも吉田司家の免許を持つ公認横綱が4人存在する。現在では吉田司家以外の免許を持つ力士は後に吉田司家の追認を受けた力士を除くと、歴代横綱として認められていない。ただし、京都相撲の礒風音治郎は正式な番付への掲載がなく(1883年(明治16年)1月は番付外幕内格、5月は客席三役格)、免許は巡業専用であったと解釈されているため追認されていない。吉田司家の横綱免許を歴代横綱としている現在、吉田司家免許の記録がある以上、本来追認するのが妥当であろう。(実力はかなり弱いと記述有り)また、朝汐太郎は大関陥落後に長年の功績によって吉田司家から1日限定の横綱免許を与えられているがこれも歴代横綱に数えられていない。吉田司家以外の免許で土俵入りを行った力士の中には吉田司家に遠慮して綱の色(黄色が多かったという)を変えたり吉田司家の地元熊本では土俵入りを行わなかったりする者もいた。吉田司家以外から横綱免許の話を持ち掛けられたが断った力士も存在する。後述の通り、横綱免許を巡る事件も幾つか発生している。以降、第40代横綱・東富士までの横綱は、吉田司家で行われる本免許状授与式で免許を授与され、奉納の土俵入りを行うことが通例であった。しかし、1950年(昭和25年)に横綱の濫造を指摘された日本相撲協会が横綱の権威を保つために、横綱免許の家元である吉田司家ではなく、相撲に造詣が深い有識者に横綱を推挙してもらうことを目的として横綱審議委員会(横審)を発足させたことで、1951年(昭和26年)5月場所後の第41代横綱・千代の山以降に吉田司家の横綱本免許状授与式は廃止となり行われていない。慣例として、九州巡業や11月場所(九州場所)前に新横綱が熊本市の吉田司家を表敬訪問し、土俵入りを披露する慣わしも踏襲されたが、司家の経済問題による日本相撲協会との絶縁により、1986年(昭和61年)に昇進した第60代横綱・双羽黒以降の横綱は事実上廃止となり、これを行っていない。横綱を世襲表現のように何代目(歴代横綱)と呼ぶのは、明治期より流行った呼び方のようで正しい日本語表現とはいえないと、彦山光三が唱え、何人目(歴次横綱)と呼ぶべきだと主張し、読売系の一部のマスコミやファンが好んでこの表現を使っている。ただし、協会公認の横綱一覧や、相撲博物館の展示では、何代目の表示がされているので、本項目はそれにしたがう。横綱力士は、自身の横綱を締め、「太刀持ち」・「露払い」を従えて横綱土俵入り(現在の型には雲龍型と不知火型の2種類が有る)を行う。横綱土俵入りに太刀持ち、露払いを従えるようになったのは天保年間(1830年(天保元年) - 1844年(弘化元年))と伝わる。横綱土俵入りは現役の横綱にしか許されない特権かつ義務であり、横綱経験者であっても自身の引退相撲を最後にこれを行うことはできない。唯一の例外として、還暦を迎えた時に赤い横綱を締めて行う「還暦土俵入り」(当時の武蔵川親方、元三重ノ海の還暦土俵入り)がある。横綱土俵入りは、セレモニーとして大相撲の最大の華であり、かつ横綱の権威を示すものでもあり、いやが上にも横綱の責任を大変重いものにしていると言える。なお、露払いや太刀持ちには、引退相撲や還暦土俵入りなど特別な場合は横綱が付き従うことがあるが、それ以外の場合は関脇以下(本来は大関でもよいのだが、実際に大関在位中の者が付き従うことは非常に珍しい)の幕内力士が務める。横綱が還暦や引退の土俵入りに付き従う場合でも、自分の土俵入りと同じく綱を締める。露払い・太刀持ちとして付き従う力士は、通常、同じ一門の力士の中から選ばれる。地方巡業などでは、開催地の地元出身の力士などが一門外であっても起用される事がある。また、当日にその横綱力士と対戦する幕内力士は露払いや太刀持ちを行わず、代わりの力士が起用される。引退後、新たな横綱が誕生した際に横綱土俵入りの型と作法を伝授する事も、横綱を務め上げた力士にとっては重要な責務である。材料は麻で3本の小縄を縒り合わせて両端を細く、中央部分を最も太くなるように作る。3本の小縄にはそれぞれ銅線が芯として入れられている。力士の横綱昇進時に作り、それ以降は現在では東京場所毎に新しく作り直す。綱を作る作業は「綱打ち式」と呼ばれ部屋の力士を総動員して行う。部屋が少人数の場合は同じ一門で綱打ち式の経験のある他の部屋の力士も動員することが多い。土俵入りの型によって締め方が異なり、雲龍型は輪を一つ、不知火型は輪を二つ作る締め方をする。このため、横綱力士の体格にもよるが概して不知火型用の綱は雲龍型用の綱より長く重くなる傾向にある。歴代横綱の中で現存する写真の限りでは大坂相撲の大木戸森右エ門(第23代)と宮城山福松(第29代、大坂相撲在籍時に限る)は、締めている綱の縒り方が逆になっている。新横綱になったばかりの源氏山大五郎(第30代、のち3代西ノ海嘉治郎)と宮城山福松の両横綱の写真(右が宮城山福松)によると、2人の綱の縒り方が違っているのが確認できる。源氏山の綱が現在の綱の縒り方(所謂Z縒り)である。また、安藝ノ海節男(第37代)も1944年(昭和19年)以降逆に縒った綱を締めている。横綱力士は現役を退くまでその地位を保証されるが、その代償として、出場する際には常に最高レベルの相撲内容・成績を求められる。大関以下の力士は、技量が衰えてもその時の実力に見合った番付で現役を続けることができるが、これは横綱には許されず、横綱の地位に見合った高レベルの実力を発揮できなければ引退する以外に道はない(かつて千代の山雅信が成績不振を理由に大関への降格を相撲協会に申し出たことがあったが認められなかった)。そのため、負傷等により若くして引退に追い込まれる横綱も少なくない。一方、横綱は負傷や体調不良を理由に休場しても番付が下がることはないため、横綱が本場所で高レベルの成績を出せる自信のない場合は長期休場することも珍しくない。所属部屋の規模にもよるが、横綱には通例15人程度の付き人が付く。綱を締めるために人手を必要とする事情もあって、大関以下の関取に比してその数は非常に多い。また大関以下には無い三ツ揃いの化粧廻しと綱を持っているため、これを入れる必要上明荷は3つ持つことが認められている(大関以下の力士は1つしか持てない)。大相撲の番付の規則では、横綱はいなくても構わないが、大関は必ず最低2名は存在していなければならないため、大関が不在の時は2名、1名の時は1名、横綱が番付上「横綱大関」として大関の地位を兼ねる。横綱力士は、特権あるいは責務として、日本国籍を有するときには現役力士たちの代表として日本相撲協会の評議員を務めることができ、役員選出などにおける投票権を行使することができる。その他、横綱力士は、年寄名跡を持たなくても現役引退後5年間は四股名のままで年寄(委員待遇)として協会に残ることができる。また、師匠の了承があれば、引退後1年以上の経過をもって部屋を新設することもできる。移動手段においては、鉄道はグリーン席、飛行機はファーストクラスを利用することができる(大関も同様)。横綱審議委員会(横審)の内規である「大関の地位で2場所連続優勝、またはそれに準ずる成績を上げた力士」という条件を満たした場合、日本相撲協会理事長は横審委員会に横綱昇進について諮問する。横審委員会は諮問を受けて審議し、出席委員の3分の2以上の賛成があれば横綱推薦を日本相撲協会の理事長に答申する。理事長は答申を受けて臨時理事会を招集し、理事会において横綱昇進について決議し、正式に横綱に推挙する。しかしながら、理事会は横審の答申を尊重するのが慣例のため、横審の決定が横綱昇進についての事実上の最終決定機関である。横審の内規が制定されたのは、本場所が年6場所制になった1958年(昭和33年)1月6日である。本来は「最低でも『大関で2場所連続優勝に準ずる成績』」であるべきという見解が正しいのだが、それ以降「~準ずる成績」の部分が拡大解釈され、多分に興行上の必要性もあって、殆どの大関は連続優勝を果たさなくても横綱に昇進していた。年6場所制以降でかつて昭和時代、「大関で2場所連続優勝」で横綱昇進したのは大鵬、北の富士、琴櫻の3力士のみという状態であった。そのため、これに対して「粗製濫造」の批判が高まった。とりわけ、1987年(昭和62年)12月に一度も優勝経験が無かった第60代横綱・双羽黒光司が、当時の師匠(立浪親方・元関脇・安念山)らとのトラブルが原因で突如廃業するという事件発生により、横審の答申が問題視されるようになった。このため、それ以降平成時代に入ってからは、横綱推薦基準の第2項「大関の地位で2場所連続優勝した力士を推薦することを原則とする」を厳格に適用することになり、第63代横綱・旭富士正也から第70代横綱日馬富士公平までの8力士は、全員「大関で2場所連続優勝」の絶対条件で横綱昇進となっていた。横綱昇進が決定すると、協会を代表して理事と審判委員各1名ずつが当該大関のもと(東京場所なら所属部屋、地方場所なら宿舎である旅館・寺社など)にその旨を伝達に訪れ、「昇進伝達式」が行われる。昇進伝達の使者は、当該力士が属する一門の年寄が務めるのが通例である。当該大関は、所属部屋の親方夫妻を両脇に従えて使者を出迎え、「謹んで御受け致します」「横綱の地位を汚さぬ様」「稽古に(相撲道に)精進致します」「本日は誠に有り難う御座いました」といったほぼ定型の口上で応じる。当該力士は、新番付の発表を待たずにこの時点で新横綱として扱われる。現在では横綱昇進の可否は、上述のように横綱審議委員会の答申を理事会が全面的に尊重するため、横審の答申後に事実上確定すると考えてよい。過去に理事長から横審への諮問があって昇進が見送られた例はあまりない。多くの場合千秋楽終了後から横審の審議までの間に、当該力士の横綱昇進の可否をかなり的確に判断できる。具体的には、といったことなどを基準にして、千秋楽終了後から横審の審議までの間に、当該力士の横綱昇進の可否をかなり的確に判断できる。しかし、このような前例に基づく横綱昇進予想は正しい予想が多いとはいえても、確実に正しいとまではいえない。例えば、1994年(平成6年)9月場所で全勝優勝を果した貴乃花の横綱昇進について理事長から横綱審議委員会への諮問が行われ、新聞各紙も1969年11月場所直後に北の富士の横綱昇進に関する理事長からの諮問で横審が否定の答申をした事例以降は理事長からの諮問で横審が長年昇進を見送らず横綱推薦してきた例から横綱昇進確実と報じたが、昇進が見送られた例がある。2009年(平成21年)7月14日現在横綱昇進確実条件と目される「大関での2場所連続優勝」という条件も見直されつつある。例えば、2009年5月場所において14勝1敗で優勝し、次の7月場所で綱とりに挑む大関・日馬富士の横綱昇進についても、同場所千秋楽翌日の5月25日に行われた横綱審議委員会で、近年の相撲内容や昇進直前約3場所までの成績をあまり重視せず、2場所連続優勝の昇進内規を形式的に適用して横綱昇進を判断してきたことへの批判があったためか、横綱昇進の話題がほとんど上がらず、鶴田卓彦委員長は「いきなり綱獲りを論じるのは早い。(5月場所の)稀勢の里戦のような立合いの変化は評価できない。綱取りには今場所以上の成績も求められる」と述べ、無条件での横綱昇進を却下した。また、内館牧子委員も「綱獲りは全く話題にならなかったし、特に稀勢の里戦の変化は非常にガッカリした。『大関で2場所連続で優勝すれば横綱』というのなら横審なんて全く必要無い」と発言し、「2場所連覇」で無条件に横綱昇進を決めることに対して、否定的な見解を示した。これ以降は横綱昇進対象となる力士の成績や相撲内容が悪ければ大関で2場所連続優勝を達成しても横綱昇進が見送られる可能性があるのは否定できない。以上のように、横審の答申前に横綱昇進見送りの前例がないことや少ないことを根拠として横綱昇進の可否を判断するのは、多くの場合正しいとはいえても、確実に正しいとまではいえない。故に、横綱昇進の可否の確定は事実上横審の答申後である。横綱制度をめぐる議論は、横綱不在となったり、そのおそれがあるような時、あるいは逆に横綱力士が揃って不調である様な時、しばしば提起される。ただし、多くは好角家の間での議論に留まる。むろん、相撲協会内部で横綱制度の見直しが論じられることもあって、1951年(昭和26年)には一度は横綱降格制度を考えていたが、この時は見送られた。以降は制度の抜本的な見直しではなく、制度の柔軟な運用で対応するというのが、相撲協会の基本的な姿勢である。横綱の存在それ自体についても、かつてのような名誉称号でなく地位であるとするならば、その昇進に運不運の不公平があろうとも、大関等と同じく常時東西に1名ずつ常設すべきなのではないか、という意見もある一方、寧ろ名誉称号に戻すべきだとする意見もある。横綱降格制度の是非は、その地位を陥落することがないことを特権と見るかどうかによって、正反対の視点から論じられる。つまり、どれだけ負けても休んでもその地位を保障されるのは、近代スポーツとしては余りに不合理であるという点からの主張と、その地位を降りることが出来ないために若くして引退に追い込まれる横綱もあり、大関への降格やその位置から再起する選択肢も与えるべきではないかという点からの主張である。横綱昇進基準(1及び2)については、特によく論じられる問題である(具体的内容は横綱審議委員会#横綱推薦基準を参照)。「2場所連続優勝」の基準を厳し過ぎるとするか、甘いとするか、あるいはこれを絶対の「鉄則」として厳密に運用すべきか、将来の有望性や長期的な安定感なども鑑みて柔軟に運用すべきか等が論点となる。横綱審議委員会及び内規ができる以前はある程度幅のある対応がなされていた。連続優勝で昇進を見送られたのは第32代・玉錦三右エ門(年4場所で3連覇)と第41代・千代の山雅信(年3場所で2連覇)がいるが、いずれも後に(ともに連覇ではなかったが)横綱に昇進している。なお、優勝制度確立後に年2場所で大関の地位で2場所連続優勝を決めたのは第22代・太刀山峯右エ門、第27代・栃木山守也、第35代・双葉山定次の3人がいるがいずれも場所後に横綱に昇進しているため、年2場所では皆無という事になる。しかし少なくとも年6場所になってからは、この「大関の地位で2場所連続優勝、またはそれに準ずる成績を挙げた力士」が昇進の是非を審議する目安とされてきたのは確かである。1987年(昭和62年)12月末に発生した第60代・双羽黒光司の廃業事件以降、厳密な「大関で2場所連続優勝」を昇進の条件とすることにより基準が明らかとなった一方で、優勝という形式的な基準に囚われ、相撲の内容が顧みられないという問題も起こった。このように、かつて「『大関で二場所連続優勝』が絶対条件」という基準だけに固執する弊害を指摘する声も少なくなく、そもそも番付編成上は優勝と全く公平に扱われている優勝同点の価値が、横綱昇進時に低く扱われることが問題視されていた(なお第56代・二代若乃花や第57代・三重ノ海など直前3場所中一度も優勝を果たせなかったが、優勝次点・優勝同点の好成績を評価され昇進した例もある)。大関昇進は直前3場所の成績(合計33勝以上が目安)で決まるが、それより高い成績を求める横綱昇進が直前2場所のみで決まるのは問題有りとして、横綱昇進の内規についても「直前3場所の成績で決めるよう改めるべき」との声も少なくない。しかしこれには、横綱になるには先ず大関にならなければならない以上「『大関で連続優勝』の条文はその条件を既に内包している」との反論もある。また、勝ち星が内規にないことも問題とする意見もある。今後は、横綱昇進内規を直前3場所の成績に改めるだけでなく、勝ち星についても具体的に付け加えるべきとの声もある。番付上に最も多くの横綱の出揃ったのは4人までで、現在まで15通りの例がある。ひとつの番付に5人の横綱が名を連ねたことはこれまでにないが、あえていえば以下の様な例がある。大阪相撲の横綱を交えての5横綱ふたつの4横綱時代の狭間横綱が一人だけ在位し、東西に揃わない状態だった例はこれまでに9例ある。また、複数(二人以上)在位している横綱が本場所の休場・引退などにより、一人のみの横綱が出場する場合を「一人横綱」と呼ぶことも有る。1909年(明治42年)2月の相撲規約改正に伴い「横綱」の称号が地位として定められて以降、番付上において横綱の地位に一人も存在しない時期、すなわち「横綱空位」と言われた時期が2例ある。また、横綱の全員休場や引退などで「横綱不在」と言うこともある。近年では2006年(平成18年)5月場所3日目、一人横綱だった朝青龍が不戦敗となり、同場所千秋楽まで13日間途中休場した際「横綱不在」と言われた。なお、現役を退いた元横綱まで含めて完全な「横綱不在」となったことは、実質の初代横綱とされる谷風と小野川の同時免許から現在まで一度だけ、1806年4月の小野川没から1828年3月阿武松の免許まで約22年間がこれにあたる。分・預・休を含める・含め無いにかかわらず、横綱が正式な地位として扱われてからは、平成22年(2010年)中に達成した白鵬翔の63連勝が最多である。その前回の記録としては、昭和63年(1988年)の千代の富士の53連勝だった。双葉山定次の69連勝は、平幕から横綱に掛けてのものだった為、双葉山の横綱としての最多記録は36連勝である。逆に横綱としての連勝の最少記録は武藏山武の4。不名誉であるため殆ど話題にされないが、分・預・休を含めず不戦敗(引退時のものも含む)を含める場合、照国萬蔵・北の富士勝昭・貴乃花光司の8連敗が最多である。貴乃花は不戦敗を含めなければ7連敗であり、平成以降では最多となってしまっている。尚、一場所での記録としては昭和29年(1954年)1月場所の東富士欽壹の7連敗(6日間の途中休場を挟み、不戦敗1を含む)が最多。一場所皆勤してのものとしては5連敗が最多で、平成24年11月場所の日馬富士公平まで複数の横綱が記録している。番付上に横綱が銘記された明治23年(1890年)5月場所以降に横綱から降格した力士はいない。明治23年(1890年)5月場所より前の横綱免許制度時代でも横綱免許を取り消された横綱はいない。そのため、横綱の地位から降格した力士は現在まで一人もいない。しかし、明治23年(1890年)5月場所より前の横綱免許制度時代で第8代横綱・不知火諾右衛門が大関から張出(三役格)への降格を経験した(当時は最高位が大関だった為)。明治23年(1890年)年5月場所より前の横綱免許制度時代でもこのような降格経験者は不知火諾右衛門のみ。不知火諾右衛門は天保11年(1840年)11月に横綱免許を受けながら、翌12年正月場所では番付から消え、天保12年(1841年)11月場所で西張出(三役格)として復帰した。その直後の天保13年(1842年)2月場所で西関脇に昇進し、同年10月場所で西大関に復帰。不知火諾右衛門の降格は相撲会所や、彼を抱える熊本藩、さらにはその熊本細川家の家臣である吉田司家の間で、様々な紛糾、妥協のあった末とも言われるが詳細は不明。上記の例は横綱制度が成熟していなかった時代で、かつ上記のように現代では考えられない極めて特殊な場合である。現在では、日本相撲協会寄附行為施行細則に定める協会所属員への懲罰としての番附降下処分が行われるときを除き、横綱が降格することはない。なお、第41代横綱・千代の山雅信は成績不振を理由に、降格ではなく「横綱返上」を申し出たことがあるが却下されている。大関陥落を経験している横綱は、「2場所連続負け越しで大関陥落、翌場所関脇で10勝以上挙げれば大関特例復帰」の現行制度(昭和44年(1969年)7月場所から)の整った昭和以降、三重ノ海剛司が唯ひとりである。特例復帰によらずに大関復帰を果たして横綱になった力士はまだいない。「2場所連続負越で大関陥落」になった現行制度以降、大関角番を最も多く経験した横綱は、琴櫻、三重ノ海、3代若乃花の3人(それぞれ3回)。琴櫻には現行制度以前の大関在位があり、大関での負け越し自体は5回で、これも昭和以降の横綱の中での最多。三重ノ海は上述の通り一度実際に大関を陥落しており、大関での負け越し自体は4度、これは現行の角番制度以降に大関に昇進した横綱としての最多となる。なお若乃花には他に大関として公傷休場2場所がある。他にも、曙、貴乃花、白鵬、日馬富士がそれぞれ1回ずつ経験している。また、現行制度以前(昭和33年(1958年)1月場所から昭和44年5月場所まで)の「3場所連続負け越しで大関陥落」だった時代、北の富士が「大関で2場所連続負け越し」での角番を1度経験しているほか、3代朝潮、佐田の山、玉乃島(のち玉の海)らも大関での負け越しがある。江戸時代には谷風梶之助は横綱免許前に興行上の理由から看板大関に上位を譲って関脇への降格を経験している。横綱が正式な地位として扱われてから、東正位の地位で横綱経験無しだった横綱は西ノ海嘉治郎 (2代)、武藏山武、前田山英五郎、双羽黒光司、大乃国康の5人。この中で大乃国だけが、横綱在位中に幕内最高優勝(1988年3月場所)を経験している。同場所の大乃国は東張出横綱で、西正位横綱の北勝海と13勝2敗同士の優勝決定戦で勝利したが、当時決定戦の勝敗は番付に影響しない慣例だった。その理由により翌5月場所では、優勝同点の北勝海が東正位横綱、優勝の大乃国が西正位横綱という番付だった。その後1997年9月に相撲協会の理事会において「同地位で優勝決定戦を行った場合、優勝者を上位とし、優勝同点者は下位に廻す」という規定に変更。その為現在であれば翌場所の番付は、優勝した大乃国が東正位横綱、優勝同点の北勝海は西正位横綱と、地位が逆転する形式となっている。また2代目西ノ海は新横綱だった1916年6月場所で東張出横綱だったが、同場所の番付で正横綱は西の太刀山ひとりで、東正横綱ではないものの東方の最高位にはなっている。当時は東西制の時代で、個人の成績ではなく方屋ごとの総勝ち星によって東西が入れ替わったため、このような現在では有り得ない番付編成もあった。昭和以後、横綱昇進後に一度も幕内最高優勝の経験が無かった横綱は武藏山武、男女ノ川登三、安藝ノ海節男、前田山英五郎、吉葉山潤之輔、双羽黒光司、若乃花勝の7人。これ以外で横綱初優勝までの最多所要場所数は照國萬藏の横綱18場所目。年6場所制定着以降では、三代朝潮太郎と柏戸剛でともに横綱12場所目。また照國の7年4ヶ月優勝なしは横綱としての最長記録、年6場所制以降では、大乃国の3年2ヶ月が最長期間(1988年5月~1991年7月場所)で、20場所の間横綱として優勝無しも昭和以降の横綱で最多記録である。幕内最高優勝回数や連勝記録、勝率が際立って高い横綱は大横綱、特に元号が昭和・平成の頃に活躍した横綱はそれぞれ、昭和の大横綱、平成の大横綱と呼ばれている。江戸時代の大横綱は谷風、明治時代の大横綱は初代梅ヶ谷。大正時代の大横綱は太刀山、栃木山を指すことが多い。谷風の横綱在位場所数は年6場所制定着後の大横綱と比べ少ないが、谷風が実質的な初代横綱であり現役中に横綱制度ができたことや、当時本場所が年2場所制だったことを考えると少ないとはいえない。また、現在の年6場所制で大横綱とよばれる貴乃花(優勝22回)、北の湖(優勝24回)等の優勝回数に比肩する優勝回数(谷風の優勝相当成績:21回)を、現在の3分の1しかない年2場所制で達成したことを考えると、谷風の優勝回数は極めて多いといえる。現に150年以上の年2場所制の時代で20回以上の優勝・優勝相当成績を達成したのは谷風と雷電(優勝相当成績:28回)だけである。さらに、優勝20回以上、50連勝以上、通算勝率9割以上を達成したのは大相撲の長い歴史の中で谷風だけである。以上のように、谷風は天下無敵とよばれるのにふさわしい成績を収めている。そのため谷風は歴代横綱の第一人者とされ、実質的な初代横綱として横綱の模範とされる大横綱である。太刀山の優勝回数・横綱在位場所数は、昭和の大横綱と言われる双葉山の成績と比較しても遜色ない。両者は谷風、雷電と比較すると優勝回数が少ないが、谷風を除けば年2場所制下の横綱中で優勝回数が多い。年2場所制下では双葉山は歴代4位、太刀山は歴代5位の優勝回数である。年6場所制での大横綱である大鵬、千代の富士、北の湖、貴乃花と比べれば優勝回数・横綱在位場所数が少ないが、年2場所制下での成績であることや連勝・勝率からして大横綱と呼ばれるのにふさわしいと考えられている。昭和の大横綱は、一般的には双葉山、大鵬、北の湖、千代の富士の4人を指すのが妥当と考えられる。なお千代の富士は、平成初期(元年~3年)にかけても活躍しているが、昭和末期(56年~63年)の頃の活躍が主であり、「平成の大横綱」と呼ばれる事はほとんどなく、「昭和最後の大横綱」と呼ばれる事が多い。平成の大横綱は、第65代横綱・貴乃花が活躍し始めたころ、昭和の大横綱と比較する形で生まれた。現在では第69代横綱・白鵬が、2009年と2010年に年間最多の86勝を達成し、さらに2010年には年6場所制以降で史上初の4場所連続15戦全勝優勝や、平成最多の63連勝を成し遂げるなど活躍中である。年6場所制では概して幕内優勝回数が20回を超えると大横綱と呼ばれる傾向があるが、2011年9月場所で白鵬も優勝回数を20回の大台に乗せ「大横綱」と呼ばれるにふさわしい状況となっている。一方、同じく平成期に昇進した第68代横綱・朝青龍も、優勝25回・7場所連続優勝・年6場所完全制覇などの大記録を誇るが、その一方で土俵内外でのトラブルも多発し、最終的には自らの不祥事によって引退に追い込まれた。このため、平成の大横綱に朝青龍を含める事については異論も多い。特に上述の横綱の中で、谷風と双葉山は力量だけでなく品格抜群と評され、歴代横綱中別格の存在として他の力士の模範となっている。年6場所制になってからの大鵬以降の大横綱(朝青龍も含む)間の対戦成績は以下の通り。        対戦は全て幕内のみで十両以下での対戦はなし。大鵬が引退した1971年5月場所は北の湖新十両の場所。北の湖-千代の富士、朝青龍-白鵬は横綱同士での対戦があるが、貴乃花が関わる2番については、いずれも千代の富士、貴乃花の引退間際の対戦である。優勝決定戦では北の湖-千代の富士(0-1)、朝青龍-白鵬(3ー1)となっている。横綱は力量だけでなく、品格抜群とされるからこそ横綱とされる建前である。これは横綱昇進条件ともなっている。横綱の品格基準は日本相撲協会によると:となっている。しかし、これらを基準として横綱の品格を判断しても、多数者の見解として「品格抜群」といえるか疑問を持たれる横綱は少なくない。品格は成績と異なり客観的判断が難しく、前田山・双羽黒・朝青龍のように事件を起こす等、極めて悪い特段の事情が認められない限り、品格を問題視され引退に追い込まれることはない。そのため、横綱昇進の条件ともなっている「品格抜群」という条件は、横綱昇進・存続においてほとんど機能しておらず、事実上成績さえ満たせば横綱昇進・存続する。近年の例では2007年(平成19年)7月場所後、第68代横綱・朝青龍が夏巡業休場表明後の仮病疑惑(母国モンゴルでのサッカー事件)により、2場所連続出場停止という処分が下される。横綱としての品格が問題視され、一部から引退も囁かれていた程であった。その事件後も朝青龍は現役を続行したものの、それから2年半後の2010年(平成22年)1月場所中に、又してもトラブルを起こした朝青龍に対し、横綱審議委員会(委員長・鶴田卓彦)から史上初の「引退勧告書」が提出される。結局朝青龍は同年2月4日に、自ら責任を取る形で現役引退に追い込まれた。しかし、歴代横綱で品格抜群の横綱がいないわけではなく、力士の模範となる者も存在する。例えば、第4代横綱・谷風梶之助、第19代横綱・常陸山谷右衛門、第35代横綱・双葉山定次は品格・力量抜群とされ、歴代横綱の中で別格の存在として他の力士の模範となっている。上記5.の品格について「横綱とは常に真っ向勝負。己の力のみで戦い、駆け引き・頭で戦わず、勝負にも拘らず、負けたと思えば潔く負けを認めるべきである。」という暗黙の了解がありこれを横綱の品格とされている。近年、モンゴル人横綱がハングリー精神のあまり勝負にこだわった、変化という意表をつく、又は頭脳プレイで魅せる相撲の行為が横綱審議委員会から注文相撲と呼ばれる抗議を受けている。これについては「相撲は勝ち負けの世界である以上作戦を練るのは当然であり、形式上ルールで禁止していなければしてもよい」と主張するものと「横綱の姿とは日本の精神的強さと様式美、伝統文化を体現するものである」と主張するものに別れている。これは相撲が元は宗教行事という特殊な発祥であるため、現在でも相撲はスポーツの一つと捉えるべきなのかという議題も起こっている。アマチュア横綱(全日本相撲選手権大会の優勝者)、学生横綱(全国学生相撲選手権大会の優勝者)、実業団横綱(全日本実業団相撲選手権大会の優勝者)、高校横綱(全国高等学校相撲選手権大会の優勝者)、中学生横綱(全国中学校相撲選手権大会の優勝者)など、年代ごとの主要大会での優勝者を通称として「横綱」と呼ぶことも多い。特に、わんぱく横綱(小学生を対象にしたわんぱく相撲全国大会の優勝者)は、翌年の大会で大相撲の横綱とほぼ同じ横綱土俵入りを披露することが出来る。貴乃花光司が小学生時代にわんぱく横綱として土俵入りを行っている。

出典:wikipedia

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