クルスクの戦い(クルスクのたたかい、、)は、第二次世界大戦、東部戦線(独ソ戦)中の1943年、ソビエト連邦(以下ソ連)の都市であるクルスク周辺をめぐり、ナチス・ドイツ(以下ドイツ)軍とソ連軍(赤軍)との間で行われた戦闘の名称である。ドイツ軍の正式作戦名「ツィタデレ(城塞)作戦」()。ドイツ側約2,800輌、ソ連側約3,000輌の合計約6,000輌の戦車が戦闘に参加し、「史上最大の戦車戦」として知られる。クルスク戦車戦、クルスク会戦とも呼称される。1943年上半期の第三次ハリコフ攻防戦の結果、独ソ戦の戦線はクルスクを中心にソ連側の突出部が生じた。ドイツ軍は消耗が激しく、もはや広大な戦線で大攻勢をかける力がなかったため、局地的な攻勢を行って東部戦線を安定させ、予想される西側連合国の大陸反攻に備えて必要な予備兵力を確保することが計画された。クルスク周辺を中心とする赤軍の突出部へ先制攻撃をかけるべきか、防衛戦後に追撃戦を行い赤軍を撃滅するべきかが検討されたが、最終的にアドルフ・ヒトラー、参謀総長クルト・ツァイツラー、中央軍集団司令官ギュンター・フォン・クルーゲらの主張により、クルスクの突出部へ先制攻撃をかけることが決定された。作戦名は“ツィタデレ(城塞)”と名付けられ、1943年4月15日に起案され、命令番号は第6号を与えられた。作戦発動は1943年5月3日と予定されたが、これには保留条項があり、結果的には行われず、逆にヒトラーは、5月3日にミュンヘンに軍の高級幹部を集めて会議を開き、前日にヴァルター・モーデル元帥から敵陣地の対戦車防御組織が非常に強化されているとの話を受けて、さらに装甲兵力(戦車)を増強することが必要だと考え、6月10日まで作戦を延期することを主張した。しかし、この会議に参加した中央軍集団司令官ギュンター・フォン・クルーゲ元帥と南方軍集団司令官エーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥は、延期すればソ連軍はドイツ軍以上に戦力を増強して態勢を整えるとして延期に反対し、さらにマンシュタインは、ドイツの北アフリカ前線は破綻しており、北アフリカが陥落して、その後、西側連合軍がヨーロッパに上陸したら、作戦自体が成立しなくなると主張した。また、ハインツ・グデーリアン上級大将は、作戦放棄論を主張し、その中で、投入される新型のパンター戦車には多くの初期欠陥があり、攻撃予定日までに改善できないと発言し、アルベルト・シュペーア軍需大臣もこれに同調した。しかし、ヒトラーは、北アフリカ戦線はチュニスへの増援が可能であり、西側連合軍のヨーロッパ上陸も、6-8週間はかかるだろうと考えており、6月中は北アフリカのことは考える必要は無いと判断して、自分の意見は変えなかった。その後、この会議では何も決まらず散会となったが、5月11日には6月中旬まで作戦延期が決定された。その2日後の5月13日には、チュニスで、北アフリカのドイツ・イタリア軍は降伏してしまい、ヨーロッパ南岸への連合軍の上陸作戦はより現実味を帯びることになった。しかし、延期されていた6月中旬になっても、作戦は発動されず、7月1日にヒトラーは、東プロイセンの総統大本営に全軍の司令官と軍団長を招集して、作戦開始を7月5日と最終的に決めた。ヒトラーもまた不利を察し、「クルスクのことを考えると、気分が悪くなってくる」という内心を吐露している。ドイツ軍の装甲部隊は、過去二年の東部戦線の激戦で消耗し切っていたが、1943年3月にその生みの親であるハインツ・グデーリアン上級大将が装甲兵総監に就任し、装甲部隊の再建にあたることとなった。これまでドイツ軍はソ連のT-34中戦車やKV-1重戦車に苦戦を強いられてきたが、1942年下半期にティーガーI重戦車が投入されたのを皮切りに、ツィタデレ作戦のためにパンター、フェルディナント、フンメルなどの新兵器が配備され、既存の戦車にも改良が加えられて、装甲部隊は自信を取り戻していた。ドイツ軍はこの作戦に東部戦線の戦車及び航空機の内6割から7割を動員し、最終的な参加兵力は兵員90万人、戦車及び自走砲2,700両、航空機1,800機に及んだが、予備兵力は皆無だった。一方赤軍は、4月11日にソ連大本営において、ドイツ軍が突出部を攻撃した場合は、強固な防御でこの攻撃を退けてドイツ軍の戦力を破壊した後、攻勢に転じてドイツ軍を撃破する、戦略守勢で後に攻撃転移という方針を暫定として決めたが、その後にヴォロネーシ方面軍司令官ニコライ・ヴァトゥーチンがベルゴロドとハリコフ方面から先制攻撃する意見具申をした。アレクサンドル・ヴァシレフスキー、ゲオルギー・ジューコフ、アレクセイ・アントーノフなどの軍の主要幕僚は反対したが、スターリン自身は、先制攻撃は魅力的だと考え迷っていたため、何度か討議が重ねられていたが、5月中旬には戦略守勢で後に攻撃転移という方針を最終的に決定した。また、反独組織により、ドイツ軍の作戦を早期に察知して、クルスク周辺一帯に大規模な塹壕、地下壕、鉄条網、地雷地帯、砲兵陣地、機関銃陣地、(対戦車陣地)を組合わせた防衛陣地帯を8つ構築して、ここに兵員133万人、戦車及び自走砲3,300両、火砲2万門、航空機2,650機に及ぶ大兵力を配置してクルスク一帯を要塞化した。さらに兵員130万、戦車及び自走砲6,000両、火砲2万5,000門、航空機4,000機を超える予備兵力をその後方に待機させた。戦闘に直接参加しなかった部隊は括弧で記した。中央方面軍(クルスク突出部の北部に配置)ヴォロネーシ方面軍(クルスク突出部の南部に配置)ステップ方面軍(後方の予備兵力)"本記事では便宜上、ドイツ中央軍集団の担当戦区を「北部戦線」、南部軍集団の担当戦区を「南部戦線」と呼称する。"作戦発動日前日の7月4日、南部では午後から第LII軍団、第48装甲軍団が、深夜から第2SS装甲軍団が観測所を確保するため小規模な攻撃を開始した。5日未明、ドイツ軍の準備地域に赤軍は大規模な破砕射撃を行った。しかし若干の損耗と、北部で2時間、南部で3時間程度作戦開始が遅れただけであった。北部を担当していたヴァルター・モーデル上級大将率いる中央軍集団の第9軍は、何重にも作られたソ連軍防御陣地に対し第20戦車師団だけを投入し、突撃砲に支援された歩兵師団主体による攻撃を開始。5回の攻撃を繰り返したものの、ソ連側陣地の防御は固く、7,200名の損耗を出しながらもオリホヴァートカ方面で3-6km前進し1日目を終えた。6日にも必死の攻撃が反復で行われ、10km前進したが、やはり損害が大きく、7日からは攻撃の主軸を約10km東方のポヌイリ方面に変更して攻撃を再開したものの、ソ連側陣地を突破できず、8日には攻撃の主軸を再びオリホヴァートカ方面に戻して攻撃を再開したものの、ソ連側陣地を突破することができなかった。7月10日には、歩兵の損耗増加と第9軍の予備兵力のすべてを投入したことにより、12km進出したのみで完全に停止し、北部のドイツ軍の攻撃は5日間で終了した。一方南部では、5日にエーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥率いる南方軍集団()の第4装甲軍の第48装甲軍団とSS第2装甲軍団が攻撃を開始。最初の攻撃は撃退されたものの、午後からはティーガーI戦車を装備した装甲部隊を主戦力とする戦法「パンツァーカイル」を導入して攻撃正面の赤軍防御線の外周部分を突破し、10km前進(損耗6,000名)した。7日未明には、攻撃の主軸をオボヤンとプロホロフカ方面に指向したため、ソ連軍は、その方面の前線を受け持つ第6親衛軍と第1戦車軍に、待機させていた方面軍予備兵力の投入を開始した。8日には、この方面で激しい攻撃を開始、第1防御線を突破して第2防衛線まで突破する勢いだったため、ソ連軍は、その突破口に方面軍予備兵力の第2・第5親衛戦車軍団、歩兵数個師団、砲兵部隊を急遽送り込み対処した。10日からは、プロホロフカ方面に戦力を結集させて再び攻撃を開始、第48装甲軍団と第2SS装甲軍団の攻撃により、第6親衛軍と第1戦車軍は大きな損害を受けてしまい、第6親衛軍の陣地は2箇所で大きな突破口を開けられてしまった。一方、これより南東方面の前線では、ケンプ軍支隊が、ソ連軍第7親衛軍の陣地を攻撃して突破したものの、陣地の防御はより強固だったため、前進が遅れてしまい、ソ連軍の東方からの増援を阻止する任務を十分に果たすことができずにいた。それとは対称的に、プロホロフカ方面の第48装甲軍団の進撃は、高い犠牲を払いつつも比較的順調であり、10日午後には攻撃開始線から25km北にあるプショール川南岸の高地まで前進した。この川は、クルスクへの最後の天然の要害と考えられていたため、突破されればドイツ軍にクルスクへの進撃を許してしまうのと同時にヴォロネーシ方面軍の防御にも穴が開いてしまう危機に直面した。ソ連大本営は、これに対処するため、後方の予備兵力であるステップ方面軍の第5親衛軍と第5親衛戦車軍を救援部隊としてヴォロネーシ方面軍に向かわせた。一方ドイツ軍の第4装甲軍司令官ヘルマン・ホト上級大将は、ソ連軍の第1戦車軍と数個の戦車軍団がクルスクに向かう攻撃を阻止するため、部隊の進撃方向の正面に展開してること、第5親衛戦車軍がステップ方面軍に所属していることを事前に承知しており、ソ連軍の東方からの増援を阻止するケンプ軍支隊の前進も遅れていたため、もし第5親衛戦車軍が進出する場合には、クルスク南部の小都市プロホロフカを通過すると考えたため、プロホロフカ奪取を第2SS装甲軍団に下命し、第48装甲軍団は東に進路を変えて、第2SS装甲軍団を援助することになった。7月11日には、プロホロフカを守備していた、ヴォロネーシ方面軍の第1戦車軍と第6親衛軍が、第2SS装甲軍団の攻撃で撃退されたため、9日の夕方にプロホロフカに到着していた第5親衛戦車軍が反撃することになり、翌12日にプロホロフカ周辺で、ここで後に「史上最大の戦車戦」いわれているプロホロフカ戦車戦が起きた。プロホロフカにはクルスクとベルゴロドを結ぶ鉄道路線があり、さらに北西部にプショール川が流れ地形も広大な草原であった。このプショール川と鉄道に阻まれた狭い地域で、7月12日、プロホロフカ占領を目指す第2SS装甲軍団のLSSAH師団と、第2SS装甲軍団を撃破し第48装甲軍団の後方遮断を意図する第5親衛戦車軍とで戦車戦が開始された。12日早朝、252.2高地から前進するLSSAH戦車戦闘団とソ連第53機械化旅団とが遭遇、戦車戦が始まった。これを皮切りに、次々とLSSAH師団の前線に戦車部隊の飽和攻撃を繰り返し、LSSAH師団は前進を中止し防御戦闘への移行を余儀なくされた。当時の戦闘記録によると、タンクデサントを満載したT-34の集団が自ら築いた対戦車壕を前に進攻が停止し、これを飛び越えようとして転落して行動不能になる戦車部隊も中にはあった。LSSAHの防御線を突破した赤軍部隊も全て撃退された。「我々より10倍もの敵戦車部隊との戦闘は、これまで経験が無かった。」(第7戦車中隊長ティーマンSS大尉)と言う程の激戦だった。13日のLSSAH師団報告によると、ソ連軍戦車192輌を撃破した。こうしたソ連側の被害は、第5親衛戦車軍司令官パーヴェル・ロトミストロフがティーガー対策に近接戦闘を指示したため、砲塔に増加装甲を装備したIV号戦車をティーガーと誤認して接近し、逆にドイツ軍の75mm砲が有効な距離で撃破されていった結果でもあった。LSSAH師団の損害は24輌(全損車はIV号戦車:4輌、ティーガー:1輌)。14日には稼動88輌に回復した。第IISS装甲軍団全体の損害もLSSAH師団24輌、DR師団16輌、T師団20輌、計60輌(全損5輌、修理可能な損傷車輌55輌)と、過去言われていたデータとは比較にならないほど小さかった。第5親衛戦車軍は「16日までにT-34:222輌、T-70:89輌、チャーチル:12輌、SU:11輌全損」と報告した。ちなみにソ連の戦史ではティーガー撃破とよく出てくるが、この時稼動していた本物のティーガーは、LSSAH戦車連隊第13中隊の僅か4輌にすぎない。これまでこの戦闘に参加した戦車数はドイツ軍600両、赤軍900両にも及び両軍の損害合わせると700両に及ぶ損耗戦だったと言われてきた。これは1981年までSSの記録が機密扱いだったため、両軍の参加した車両や構成、損害数などは資料によって、またはドイツ・ソ連から公開される不完全な資料で食い違いがあった。さらに崩壊前のソ連はプロパガンダとしてこの戦いを劇的に脚色して発表していたため、正確な情報が曖昧な状態になっている。十分な防御体制を整えて待ち受け、ドイツ側に損害を与えた赤軍ではあったが、ドイツ軍を上回る損害を受け、特に南部ではドイツ軍の突出を許し、プロホロフカで消耗したステップ方面軍は危機を迎えていた。しかし、赤軍が北部で逆攻勢『クツゥーゾフ作戦』を開始し、また米英軍もシチリア島に上陸を開始。既述の通り内心では作戦に消極的だったヒトラーはこれにイタリアの枢軸離脱、地中海戦線の崩壊の危機を感じ、作戦はわずか一週間で中止されてしまう。しかし、マンシュタインは南部での攻勢をヒトラーに承諾させて作戦の続行を試みたが、、7月17日にイジュームとミウスの防御線に対して赤軍の攻勢が行われ、これに対応する部隊の派遣のためについに中止した。ドイツ軍は最終的にはプロホロフカを占領することもクルスク突出部を殲滅することもできず、戦略的な目的を達成することはできなかった。後衛戦闘を行いつつ撤退したドイツ軍に対し、赤軍は予備兵力をまとめて反撃を開始した。これにより、前線で修理中のドイツの損傷車輌で後送の間に合わないものは自爆処分され、最終的な全損車輌の台数が増加することになった。例えば南方軍集団の戦車の全損数は7月末までに283輌であったが、その後の修理可能だった車輌の自爆処理によって、約400輌に増加している。一方、戦場に留まったソ連軍は逆に損傷車両を極力回収して修理・再生し、戦力を回復した。ドイツ軍は秩序立った後退と兵力温存には成功するが、天然の要害ドニエプル川の渡河を許してしまい、クルスク進撃どころか要衝キエフまで奪回された。クルスクの戦いは独ソ戦でドイツ軍が攻勢に回った最後の大規模な戦闘であり、赤軍が夏期においても勝利した最初の大規模な戦闘であった。これ以降、独ソ戦の主導権は完全に赤軍のものとなり、そして翌1944年のバグラチオン作戦によって事実上勝敗は決した。
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