日ソ中立条約(にっソちゅうりつじょうやく)は、1941年(昭和16年)に日本とソビエト連邦(以下ソ連)の間で締結された中立条約である。「日ソ中立条約」は略称で、正式名称は「大日本帝国及「ソヴイエト」社会主義共和国連邦間中立条約」とされる。相互不可侵および、一方が第三国の軍事行動の対象になった場合の他方の中立などを定めた全4条の条約本文、および、満州国とモンゴル人民共和国それぞれの領土の保全と相互不可侵を謳った声明書から成る。有効期間は5年であり、その満了1年前までに両国のいずれかが廃棄を通告しない場合は、さらに次の5年間、自動的に延長されるものとされた(第3条)。当時の日本はアメリカなどと関係が極端に悪化していた。当時の駐ソ連大使・東郷茂徳は、日独伊三国軍事同盟の締結に反対し、むしろ思想問題以外の面で国益が近似する日ソ両国が連携することによって、ドイツ、アメリカ、中華民国の三者を牽制する事による戦争回避を考え、日ソ不可侵条約締結を模索していた。ところが、松岡洋右が外務大臣に就任すると、構想は変質させられ、日独伊三国軍事同盟に続き、日ソ中立条約を結ぶことによりソ連を枢軸国側に引き入れ、最終的には四国による同盟を結ぶ(「日独伊ソ四国同盟構想」。松岡自身は「ユーラシア枢軸」と呼称)ことで、国力に勝るアメリカに対抗することが目的とされた。当初、ソ連は応じなかったものの、ドイツの対ソ侵攻計画を予見したことから提案を受諾し、1941年4月13日、モスクワで調印した。ソ連側はヴャチェスラフ・モロトフ外務人民委員(外務大臣)、日本側は陸軍軍人で駐ソビエト連邦大使の建川美次と外務大臣の松岡洋右が署名した。同年11月には、ソ連は極東に配備していた部隊を西部へ移送し、同年12月のモスクワ防衛戦に投入した。ドイツ軍は、ソ連軍の反撃により、モスクワ前面で100マイル近く押し戻され、1941年中にソ連を崩壊させることを狙ったバルバロッサ作戦は、失敗に終わった。また、この条約の締結に先立ち、チャーチルは松岡にドイツは早晩、ソ連に侵攻することを警告している。1945年(昭和20年)4月5日、翌年期限切れとなる同条約をソ連は延長しない(ソ連側は「破棄」と表現)ことを日本に通達した。この背景には、ヤルタ会談にて秘密裏に対日宣戦が約束されていたことがある。さらに、ポツダム会談で、ソ連は、日ソ中立条約の残存期間中であることを理由に、アメリカと他の連合国がソ連政府に対日参戦の要請文書を出すことを求めた。これに対して、アメリカ大統領トルーマンはスターリンに送った書簡の中で、連合国が署名したモスクワ宣言(1943年)や国連憲章103条・106条などを根拠に、ソ連の参戦は平和と安全を維持する目的で国際社会に代わって共同行動をとるために他の大国と協力するものであり、国連憲章103条に従えば憲章の義務が国際法と抵触する場合には憲章の義務が優先するという見解を示した。この回答はソ連の参戦を望まなかったトルーマンやバーンズ国務長官が、国務省の法律専門家であるジェームズ・コーヘンから受けた助言をもとに提示したものであり、法的な根拠には欠けていた。通達後においても日本側は条約が有効と判断して、ソ連の仲介による和平工作をソ連側に依頼した。ソ連はこれを黙殺し密約どおり対日参戦を行うことになる。ソ連は8月8日(モスクワ時間で午後5時、満州との国境地帯であるザバイカル時間では午後11時)に突如、ポツダム宣言への参加を表明した上で「日本がポツダム宣言を拒否したため連合国の参戦要請を受けた」として宣戦を布告、事実上条約を破棄した。9日午前零時(ザバイカル時間)をもって戦闘を開始し、南樺太・千島列島および満州国・朝鮮半島北部等へ侵攻した。この時、日本大使館から本土に向けての電話回線は全て切断されており、完全な奇襲攻撃となった。具体的には、日ソ中立条約は、その第3条において、とされ、前半部にて、本条約はその締結により5年間有効とされており、当該期間内の破棄その他条約の失効に関する規定は存在しない。期間満了の1年前までに廃棄通告がなされた場合には、後半部に規定される5年間の自動延長(6年目から満10年に相当する期間)が行われなくなり、条約は満5年で終了するものと解するのが妥当と解釈される。また、関東軍特種演習(通称:関特演)による日本の背信行為によって条約が破棄されたという見解に対しては、演習はあくまでも演習であり、演習以降も中立条約に基づく体制は維持されたことから、実際に中立条約破棄を行い、開戦したのはソ連であると批判する。ヤルタ会談でソ連が対日参戦を秘密裏に決めた後の1945年4月5日、ソ連のモロトフ外相は佐藤尚武駐ソ大使を呼び、日ソ中立条約を破棄する旨を通告した(モロトフが佐藤に対して「ソ連政府の条約破棄の声明によって、日ソ関係は条約締結以前の状態に戻る」と述べた)が、佐藤が条約の第3条に基づけばあと1年は有効なはずだと返答したのを受け、モロトフは「誤解があった」として日ソ中立条約は1946年4月25日までは有効であることを認めた。さらに、日ソ中立条約が破棄されるまで、ソ連は日本政府に対して日本が中立条約に違反しているとの抗議を一度もしたことがない。極東国際軍事裁判の決定については、判事団中には当事国・戦勝国としてのソ連から派遣された判事がいるし、裁判機関がすべて連合国の国民により構成されているので、公平性・中立性の観点から問題があるとの批判がある。極東国際軍事裁判など戦後裁判の審決を受諾したサンフランシスコ条約にソ連は署名していない。
出典:wikipedia
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