少年老い易く学成り難し(しょうねんおいやすくがくなりがたし)とは、若いうちはまだ先があると思って勉強に必死になれないが、すぐに年月が過ぎて年をとり、何も学べないで終わってしまう、だから若いうちから勉学に励まなければならない、という意味のことわざである。同じ出典による「一寸の光陰軽んずべからず」もことわざとして用いられる。類似したことわざには「光陰矢のごとし」、「少年に学ばざれば老後に知らず」などがある。このことわざの出典は朱熹(朱子)の「偶成」という漢詩だとされていた。少年老い易く学成り難し一寸の光陰軽んずべからず未だ覚めず池塘春草(ちとうしゅんそう)の夢階前の梧葉(ごよう)已(すで)に秋声なお、「池塘春草」は故人の句を借りたものとされていた。謝霊運の『登池上楼』には「池塘生春草」とあり、李白も『贈從弟南平太守之遙』で「夢得池塘生春草」として、『送舎弟』で「應得池塘生春草」として「池塘生春草」を引用している。しかし、朱熹の詩文集にこの作品は見当たらない。そのことはかなり以前から問題になっていたが、平成年代に入ってから、近世以前のいくつかの詩文集に、ほぼ同じ内容の詩が、異なる題と作者名を伴って収録されていることが指摘されるようになった。まず、柳瀬喜代志によって、近世初期に禅僧の滑稽詩を集めた『滑稽詩文』(『続群書類従』所収)に、「寄小人」という題で、この詩が収録されていることが指摘された。作者名は記されていない。転句が「」となっている点が、「偶成」と異なっている。柳瀬の説によると、題の「小人」は「年若い僧」を意味し、起句の「少年」は「寺院にあずけられた俗人の子弟、あるいは幼少にして出家し僧を目指している男児」であると共に、僧侶の性愛の対象である稚児の意をも含んでいる。それ故この詩は、年若い僧に対して「君の稚児さんは老け易いが、君の学業成就は難しい」、だから男色と学問とにその若い時を惜しんで過ごしなさいと勧める詩意を成す滑稽詩だという。一方、これが朱熹の作品として登場するのは、明治時代の日本の漢文教科書からである。まず、明治34年(1901年)の宮本正貫編『中学漢文読本』(文学社)に「七絶 朱熹」、同年の国語漢文同志会編『中学漢文読本』(六盟館)には「逸題 朱熹」として収録されている。その後の漢文教科書にも朱熹作として収録されているが、題は「詩」「少年易老」などとなっていることがある。明治38年(1905年)の国語漢文研究会編『新編漢文教科書』(明治書院)に「偶成 朱熹」として掲載され、以後の多くの教科書もそれを踏襲するようになった。この時期は明治政府によって学校教育の拡大施策が行われており、そのために適当な教材を求めていた教科書編纂者がこの詩を朱熹作の勧学詩と見立てて採択したかと、柳瀬は推測している。次いで、岩山泰三が、元和9年(1623年)成立の『翰林五鳳集』(『大日本仏教全書』所収)巻三七に、惟肖得巌作の「進学軒」という題で収録されていることを指摘した。これも転句は「」である。『翰林五鳳集』は南北朝時代から近世初期に至る五山詩を集成したもので、惟肖(1360~1437)も室町時代前期の著名な五山詩僧である。「~軒」は寮舎(禅寺や塔頭の中に建てられた各種の寮を有する公的建造物)を示す。題から韓愈の「進学解」を踏まえた勧学の詩と解釈でき、「寄小人」は、これが後に滑稽詩に改変されたかと、岩山は推測している。また、花城可裕が、『琉球詠詩』(ハワイ大学・ハミルトン図書館・宝玲文庫所蔵)に、蔡温(具志頭文若)の作として収録されていることを指摘した。転句はやはり「」で題はない。蔡温(1682~1761)は琉球第一の政治家と称された人物であり、花城は「このような教訓的な内容の詩を示して誰もが納得するのは、明治においては朱熹であり、琉末の琉球では蔡温であった」という。更に、朝倉和が、観中中諦の『青嶂集』(相国寺刊・梶谷宗忍訳注『観中録・青嶂集』所収)に、「進学斎」という題で収録されていることを指摘した。現在のところ、この作品の最古のテキストである。これは転句が「」となっている。「進学斎」とは書斎の名であり、張耒の「進学斎記」(『事文類聚』所収)を踏まえた勧学の詩とみられる。観中(1342~1406)は惟肖の先輩の五山僧であり、惟肖には先輩の作品などをメモした選集も残されているので、この作品もそうしたものが惟肖の作品と混同されて『翰林五鳳集』に収録されたのではないかと、朝倉は推測している。以上の作品を、収録されたテキストの年代順に整理すると、1.観中中諦「進学斎」(『青嶂集』)、2.惟肖得巌「進学軒」(『翰林五鳳集』)、3.「寄小人」(『滑稽詩文』)、4.蔡温(『琉球詠詩』)、5.朱熹「七絶」「逸題」「偶成」など(『中学漢文読本』『新編漢文教科書』など)となる。また本文は、転句が「」のもの(1)、「」のもの(2、3、4)、「」のもの(5)に分かれる。現在のところ、本来の作者である可能性が最も高いのは観中中諦であり、朱熹が作者である可能性は最も低い。なお、この詩が百年近く朱熹の作として流布し、近年になって上記のような資料が発見されるようになったのは、それまで日本漢文、特に五山文学の研究が遅れていたことによる。この分野の研究の進展によって、今後更に新たな資料が発見される可能性も考えられる。
出典:wikipedia
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