若松 勉(わかまつ つとむ、1947年4月17日 - )は、北海道留萌市出身の元プロ野球選手(外野手)・野球指導者・監督、野球解説者、野球評論家。現役時代はヤクルトアトムズ・スワローズで長きにわたって活躍し、引退後はヤクルトで打撃コーチ・二軍監督・監督を務めた「ミスタースワローズ」。また、小柄な体格ながら巧みなバッティングを披露し、数々の記録を打ち立てた事から「小さな大打者」の異名を持つ。年間打率3割12回は川上哲治と並んで歴代3位。北海高校では2年生から二塁手のレギュラー。チームは1964年夏の甲子園に進出するが、若松は病気欠場を余儀なくされる。しかし翌1965年夏の甲子園には、背番号14ながら三番打者、右翼手として出場。1回戦で佐賀商に敗退するがこの試合で4盗塁を決め、その俊足が注目される。卒業後は電電北海道に進む。北海道拓殖銀行、大昭和製紙北海道など強豪が多く、チーム自体は都市対抗に出場できなかったが、補強選手として1967年から4年連続都市対抗に出場。1967年の大会では拓銀に補強され、2回戦で本塁打を放つなど中心打者として活躍、拓銀の準々決勝進出に貢献した。本人も周囲もあまりプロを目指すことは考えておらず、プロ入りには消極的だった。しかし、当時ヤクルトでヘッド兼打撃コーチを務めていた中西太と、ヤクルトの監督であり中西の義理の父でもあった三原脩が若松の素質に目を付け、プロ入りを嫌って家を空けて逃げ回る若松のもとにはスカウトが7度も訪れた。最後には中西までもがスカウトと共に足を運び、プロ入りに反対していた若松夫人と共に口説き落とす事に成功した。また、指名の第一報は電話で球団のスカウトから伝えられたが、その声が所属チームの監督そっくりだったらしく、若松は「監督、何を冗談言ってるのですか」と信じなかったという(本人は社会人入りして5年経過しても声が掛からなかったこともあって、プロ入りはないと決め込んでいた)。公称168cm(自称166cmだった)という小柄な体型のため、プロ入り時はプロ選手としてやっていく自信がなかった。夫人に「ダメだったら北海道に帰って二人で焼き鳥屋でもやろう」と言って入団を決意した。若松は北海道から東京に夫人と共に上京することになり、入団発表でも夫人を同伴している。1970年のドラフト3位でヤクルトアトムズに入団。背番号は「57」。その後は小柄な体型ながら、プロ入り前から若松の素質に目をつけていた中西太ヘッド兼打撃コーチとのマンツーマントレーニングで猛練習を積み重ね、1年目の1971年から左翼手のレギュラーに定着。規定打席不足ながら112試合に出場して打率3割を記録した(同年のセ・リーグの3割打者は長嶋茂雄のみ)。同年オフに背番号を「1」に変更。2年目の1972年には打率.329、リーグ2位の20盗塁という成績を残して首位打者を獲得し、リーグを代表する外野手となる。1973年もリーグ2位の打率.313を記録する。1972年と1973年は2年連続でリーグで打率3割以上が2人だけだったが、どちらの年も3割を記録したのは若松のみだった。1974年は全試合出場を果たし、リーグ5位の打率.312で3年連続で3割を残した。1975年はプロ入り後初めて打率3割を逃すが、1976年は張本勲、谷沢健一と激しい首位打者争いを繰り広げ、終盤に失速したものの打率はリーグ3位の.344を記録した。しかし若松自身は首位打者を逃した悔しさから練習量をさらに増やしたという。翌1977年より中堅手にコンバートされ、同年に打率.358・20本塁打という自己最高の成績で2度目の首位打者を獲得し、Bクラスの常連だったヤクルトを2位に引き上げる。三振数は503打席に立ってわずか14だった。1978年には大杉勝男、チャーリー・マニエルと共にクリーンナップを組む。開幕時こそ腰痛や腱鞘炎に悩まされ、5月初めの時点では打率.228と不振に陥るが、5月6日の大洋戦で3イニング連続本塁打を記録するとそこから復調した。最終的に水谷実雄と首位打者争いを繰り広げてリーグ2位の打率.341を記録するなど活躍し、チームは開幕から129試合連続得点という記録を打ち立てて初優勝。若松は自身初のセ・リーグMVPに選ばれた。日本シリーズでは第5戦に本塁打を放って勝利に貢献し、優秀選手賞を獲得。シリーズ第7戦までもつれた対決はヤクルトが勝利し、チームは初の日本一となった。1979年からは再び主に左翼手を務めるようになる。1980年にはリーグ2位の打率.351、1983年もリーグ2位の打率.337を記録。1985年10月9日、対阪神戦にて、5回表にリチャード・ゲイルから右前安打を放って史上21人目となる通算2000本安打を達成。1986年からコーチ兼任となり、当時監督だった土橋正幸に栗山英樹をスイッチヒッターへの転向を進言し、栗山はセンターのレギュラーに定着している。晩年は腰痛により守備が難しくなり、代打の切り札として活躍し、1987年には代打打率.444(36打数16安打)を記録。通算代打成績は打率.349(258打数90安打)12本塁打70打点という好成績を残した。1989年に現役引退。ヤクルト一筋19年、42歳まで現役を全うした。通算打率.31918は歴代2位であり、日本人選手としては歴代最高記録である(4000打数以上対象、NPBの最高記録はレロン・リーの.320)。現役時代に付けていた背番号「1」は、若松の引退後、「永久欠番に」との署名が多く集まり、以降背番号「1」は池山隆寛・岩村明憲・青木宣親・山田哲人といったチームの顔となる生え抜き選手のみに着用が許される番号となった。引退後は1990年 - 1992年にテレビ朝日・文化放送解説者と日刊スポーツ評論家を務め、ヤクルトの一軍打撃コーチ(1993年 - 1994年)、二軍監督(1995年 - 1996年)、一軍打撃コーチ(1997年 - 1998年)、監督(1999年 - 2005年)を歴任。監督就任にあたってはスローガンに「データ+スピード&パワー」を掲げた。これは選手の地力(スピードとパワー)を向上させることで、「ID野球」を主唱した前監督野村克也時代のようなデータ重視の野球だけではなく、根本からチーム力を底上げしようと図ったものであった。若松は在任中にこの目標を完全に達成することはできなかったが、日本一に加えて球団史上初の4年連続Aクラス入りを果たした。野手の起用においては、生え抜き組・移籍組を問わずベテラン選手を多く起用する傾向があったものの、一方で岩村明憲・青木宣親らのように若松の下で大きく成長した若手選手もおり、新旧交代に著しい支障をきたすことは無かった。投手起用に関しては率直に自らの本分ではないことを認め、おおむね投手コーチの伊東昭光に一任していた。アレックス・ラミレスは特に尊敬する監督に若松の名を挙げている。2001年は川崎憲次郎がFAで移籍、ジェイソン・ハッカミーが退団、伊藤智仁が故障離脱と苦難に見舞われる中、ベテランの古田敦也・石井一久の活躍、若手の藤井秀悟や岩村の台頭、テスト入団の入来智・前田浩継の奮闘もあり、終盤で巨人を追い抜いてリーグ優勝を果たす。日本シリーズでは近鉄と対戦し、古田の活躍もあり4勝1敗で日本一に輝いた。ヤクルト監督時代は7年間でAクラス4回、優勝・日本一1回という結果を残した。ヤクルトで唯一、選手・コーチ・監督としてリーグ優勝、日本一を経験しており、ヤクルトの生え抜き監督で優勝したのは2014年までは若松ただ一人であった。日本プロ野球名球会会員。2004年のプロ野球再編問題では、大阪近鉄バファローズのオリックス・ブルーウェーブへの吸収合併に反対して、選手会の署名活動に署名している。2006年より、フジテレビジョン(2008年まで)・北海道文化放送・ニッポン放送解説者・サンケイスポーツ評論家に就任。2009年1月13日、野球殿堂表彰者選考に於いて競技者部門のプレーヤー表彰で選出され、野球殿堂入りを果たした。同年7月12日神宮球場で行なわれたヤクルト対横浜戦は皇太子徳仁親王一家が観戦した台覧試合となり、ヤクルトOBの若松が解説役を務めた。12月3日には若松の野球殿堂入りを祝うパーティーが行われ、加藤良三コミッショナー、王貞治、長嶋茂雄、金田正一、中西太、古田敦也、岩村明憲、五十嵐亮太、青木宣親ら約1,100人が出席した。2011年にはヤクルトの浦添キャンプで臨時打撃コーチを務めた。人柄は温厚で腰が低く、誰に対しても礼儀正しく接するため、年俸交渉でも球団と揉めることがほとんどなかった。球界を代表する打者として毎年好成績を残し、名球会入りするほどの選手であったにも関わらず、現役時代の推定最高年俸は5,200万円(1988年・当時のヤクルト球団の日本人最高年俸)であった。現役時代の監督でありヤクルトを日本一に導いた広岡達朗を尊敬しており、広岡が球団と対立し監督を辞めた時、「どうして辞めてしまうんですか?」と泣きながら電話してきた唯一人の主力選手といわれる。野村監督の退任を受けてヤクルト監督に就任した時も、「果たして僕に監督ができるのでしょうか」と広岡に相談している。現役引退を発表した記者会見では終始涙ながらの会見となり、発言内容よりも号泣する若松にその純粋な人柄が強く映し出され、非常に印象深いものとなった。また当時「FNNスーパータイム」の週末版スポーツコーナーを担当していた有賀さつき(当時フジテレビアナウンサー)からインタビューを受けて、既に引退が決まっていたにもかかわらず「来年も頑張ってください」と声を掛けられてしまった。現役引退後にヤクルトの打撃コーチや二軍監督を務めた頃は、生真面目な性格のためか選手やチームのことを考えすぎてストレスで胃を壊したり、腰痛に悩まされることも多かった。一軍監督時代には、シーズン終盤になってようやく当年初の一軍昇格を果たした選手に対して「遅くなってごめんな」と声を掛けてしまい、一軍チーフコーチの渡辺進から「もっと毅然と接しないと」と窘められたこともあった。また監督時代には自前の戦力が中心ながらその隙間を埋めるような形でトレードを行っていたが、いずれも球団主導で、若松自身は監督退任後に「私は誰も、チームからは出したくなかった」と明らかにしている。純朴ゆえに口下手でもあり、若松と行動を共にすることの多かった元ヤクルト監督の小川淳司によれば、イベント等でのあいさつが終わる度に「今のでよかったか? オレ、変なこと言ってなかったか」と尋ねられていたという 。また、現役時代、1978年にMVPを獲得した際には、「タイトルのない僕でいいのか」と発言している。若松の口下手で実直な人柄を最も印象づけたのが、2001年10月に監督として初のリーグ優勝を達成した際のインタビューで発した「ファンの皆様、本当にあの〜、あの…、おめでとうございます」という一言(本当は「ファンの皆様、ありがとうございます」と言うつもりだった)であるが、むしろ場内は大爆笑に包まれて和やかなムードになり、同年の流行語大賞の語録賞に選ばれた(2015年のヤクルトのリーグおよびクライマックスシリーズ優勝時、2001年優勝メンバーでもあった監督の真中満はインタビューの際にこの言葉を再度使用した)。さらにシーズン本拠地最終戦でのファンへの挨拶では「一戦、一戦、頑張りますので、オールスターでも、いや、日本シリーズでも皆様のご声援よろしくお願いします」と言ってしまい、またしても会場は大ウケとなった。そして日本シリーズ優勝を達成した際のインタビューでは「本当にファンの皆様、改めまして、日本一、おめでとうございます!!」と堂々とファンに叫んだ(先のリーグ優勝の後に「いや、元々からおめでとうございますって言おうと思ってたんだよ」とうそぶいていたが、今度は緊張せずにしゃべることができたという)。2005年10月14日、本拠地神宮球場でのシーズン最終戦対横浜試合終了を以って、7シーズンに亘って務めた監督を退任したが、辞任の記者会見では「1度しか日本一になれず申し訳なかった」と発言した。1度でも日本シリーズを制覇すれば自身の実績として大いに誇ってもいいところであるが、前任が在任中4度のリーグ制覇と3度の日本シリーズ制覇を達成した野村克也なだけに、このような発言になってしまったのは致し方なく、むしろ実直でチーム一人ひとりへの思いやりが強い若松ならではの一言と、好意的に受け止められた。温厚で選手たちからも慕われており、古田敦也は「この人を勝たせてあげないといけないと思ってしまう監督」と語っている。日本シリーズ優勝の際に、体重が軽いため胴上げの際に宙返りになった事が話題となった(石井一久のいたずらであったという)。選手時代から腰痛に悩まされていたが、本人曰く「胴上げで宙返りしてからひどくなった」という。監督としての最終試合前に退任セレモニーで選手達による胴上げが企画されているのを知り、前述の理由により固辞する旨を公言していたが、セレモニー終了後、次期監督の古田敦也から説得され胴上げを受け入れる。なお、この時の胴上げは腰に負担をかけないように低く、体が回転しない様に足首を押さえながらの胴上げだった。普段から外見通り物静かで、抗議に出ようとしてもコーチからベルトを引っ張られてベンチに下がることもあったぐらいであるが、唯一2004年6月9日の対横浜戦では7回に横浜・佐伯貴弘の一塁ゴロの判定に激怒して一塁塁審を突き飛ばし、若松にとって野球人生唯一の退場処分を受けた。東京から実家の北海道留萌市へ公衆電話をかけていたが、当時10円玉しか使えない上に遠距離の通話料も高かった時代、チームの先輩が「電話機を倒すと、10円玉が落ちるスピードが遅くなるぞ」と言った冗談を聞いて、電電公社に勤務した経験を持っていながらそれを真に受けて本当に電話機を横倒しにして通話していたことがある。プロ入り時、所属していた日本電信電話公社・北海道野球部の応援団からヤクルトの応援団に、応援歌が譲り渡された 。現在、この応援歌は専用応援歌の無い左打者用の汎用テーマ「でんでんマーチ」として使用されている。若松の個人応援歌(ペレス・プラード「闘牛士のマンボ」。2011年までの青木宣親専用のチャンステーマとして使用)とは別物である。1980年代前半、ヤクルト本社の「ヤクルト野菜ジュース」のコマーシャルモデルに起用された(その時のキャッチコピーは「クリーンヒット」と緑黄色野菜を絡ませて「グリーンヒット」)他、ストライカー(スポーツドリンク。現在は終売)のラベルのイラストのモデルを務めたともされている。ヤクルトには170cm前後の身長で体つきが小さい選手が入団することが多く、その場合「若松2世」と呼ばれる。代表的な選手に荒井幸雄と真中満などがいる(入団当初の岩村明憲も)。若松は広岡達朗の監督就任で中堅手にコンバートされたが(その後も左翼手を務めたシーズンはある)、若松の引退後は直後の1シーズンだけ中堅手を務めた杉浦享(強打者だが鈍足で守備も上手くなかったためこの起用は酷評された)を除き、歴代レギュラーは前記した二人も含め身長が175cm以下のプロとしては小柄な選手であり、ほぼチームの伝統となっている(他に栗山英樹、飯田哲也、青木宣親)。団塊の世代にあたる。1978年日本一当時のスワローズ主力選手では安田猛、松岡弘、大矢明彦が昭和22年度生まれの同級生。中でも大矢は親友で現役当時から公私共に親しい関係である。他に昭和22年度生まれを代表するプロ選手は、谷沢健一(中日)、堀内恒夫(巨人)、藤田平(阪神)、江本孟紀(阪神他)、平松政次(大洋)、門田博光(南海他)、福本豊(阪急)、鈴木啓示(近鉄)といった顔ぶれで、強烈な個性を持った投手が多い。また、若松自身も含め名球会入りした選手や「プロ野球ニュース」の歴代解説者が多い。1978年に留萌市民栄誉賞、1981年に道民栄誉賞を受賞するなど、北海道での若松の人気は非常に高い。2004年まで年に一回札幌ドーム(開場以前は札幌市円山球場)で開催されていたヤクルト主催試合は、道内での若松人気に加えて、当時は佐藤真一、五十嵐亮太、米野智人など北海道に縁のある選手が多数在籍していたこともあり、巨人戦や阪神戦に次いで多くの観客で埋まっていた(日本ハムの札幌移転とセ・パ交流戦開始に伴い打ち切り)。また日本ハムの札幌移転決定を受けて道民に初代監督としてふさわしい人物をアンケートしたところ、当時まだヤクルト監督だった若松が、日本ハムの次期監督就任が決まっていたトレイ・ヒルマンを差し置いて、最も多くの支持を集めたこともあった。2005年5月28日には円山球場開場70年を記念して行われた日本ハムvsヤクルト戦の始球式で打者として打席に立った。現役監督が公式戦の始球式に参加するのは異例だが、ビジターであったにもかかわらず若松には大声援が送られた。
出典:wikipedia
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