人名(じんめい)は、特定の人間社会において特定の個人を弁別するために使用される言語的表現又は記号の一つ。その人物の家族や家系、地域など共同体への帰属、信仰や願い、職掌、あるいは一連の音の繋がりなどをもって、人(ひと)の個人としての独立性を識別し呼称する為に付けられる語。「人名」事典は便宜上、戸籍名や通称などを使用する場合が多い。本項で扱う「人名」とは一般に「正式な名」「本当の名前」といった意を含む。名前と人間の関わりは古く、名の使用は有史以前に遡るとされる。姓などの氏族集団名や家族名の使用も西方ではすでに古代ギリシアなどにその形跡があるとされ、東方では周代から後世につながる姓や氏の制度が確立されていることが確認できる。ある社会においては様々な理由で幼児に名前を付けない慣習が見られる地域もあるが、1989年に国連総会で採択された児童の権利に関する条約7条1項は、「児童は、出生の後直ちに登録される」「ただの出生児から1つの名となる権利を有すべきである (shall have the right from birth to a name)」と定めている。日本の場合は民法により氏+名という体系をもつ。呼称される場合は、氏のみ・名のみやあだ名、敬称・職名などとの組み合わせ、同一の人名の世襲などがある。氏名は他に、姓名や名字(苗字)と名前ともいう。縦書きにしたとき、氏は上部、名は下部になるため、氏を上の名前、名を下の名前と呼ぶこともある。後述するように、氏+名という構成は日本の文化に基づいた体系である。人名は、共同体の慣習により異なる名付けの体系を持ち、また、呼称する場合も慣習によって独特の方法を持つことが多い。漢字文化圏において姓と氏、さらには日本における苗字は本来は互いに異なる概念だが、今日では同一視されている。日本でも、明治維新以前は氏(ウヂ:本姓)と苗字に代表される家名は区別されていた。名は名前とも呼ばれる。人名は、呼ぶ側と呼ばれる側が互いに相手を認識し、意思の疎通をとる際に使われる(記号論)。多くの場合、戸籍など公的機関に登録される名前を本名として持つ。呼び名としては、戸籍名のままや、「さん」、「君」、「ちゃん」等の敬称が付け加えられたり、名前を元にした呼び方、あだ名との組み合わせなどとなることが多い。名前にはその主要な属性として、音と表記がある。例えば日本人の個人名が外国の文字で表記されることがあるが、これは1つの名前の別表記と考えることができる。逆に、漢字名の場合、複数の読み・音と訓の組み合わせによって読み方が変わることがある。こういった表記、発音の変化に対する呼ばれる側としての許容範囲は様々である。また、名は特定の個人を指し示す記号であることから、人名そのものが、自己、自我、アイデンティティ、自分というクオリアに大きく関係するという考え方がある。各国・各文化の歴史を見ても、霊的な人格と密接に結びついていると考えられていたり、真の名を他者が実際に口にして用いることに強いタブー意識を持っていたりする社会は多くあった。たとえば日本では、実名(諱)がこれにあたる。これは、元服前の幼名(字(あざな))、出家・死去の際に付ける戒名などと合わせて、名を単なる記号として扱おうとしない一つの文化である。この文化は近世・近代と実名(諱)(または忌み名)を持つ層が減り、逆に苗字を持つ層が増えるにしたがい(苗字帯刀御免、平民苗字必称義務令)、希薄化してきたと言える。だが、21世紀初頭の日本においても、名付ける者が名付ける対象に特別な読みを与えることで特別な意味を見い出そうとして名付けたと解釈する限りでの難読名などに見られるように、名に"特別な意味"を与えようとする思いは、散見されるものである。日本では現代社会の一般人の日常生活でもインターネットを用いたコミュニケーションが普及するにつれ、見ず知らずの相手には、名前は一切開示せず接触し、相手の素性を知ってから段階的に開示するということは、よく行われる。また、インターネット上のコミュニティなどでは、本名は出さず、ハンドルネームなどを示すのが一般的である。様々なことを考慮すると、やはり本名をあまりに安易に不特定多数に開示してしまうことはそれなりにリスクが伴う、という判断がある(関連する事象として、名誉毀損やプライバシーなどの項も参照可)。また、多少意味合いが異なることは多いが、芸術家・作家・評論家などで、ペンネーム・アーティスト名などを用いて、本名は開示しないことは多々見られる。一方、個々の名前のアイデンティティの重要性は、幼名などが一般的だった江戸時代、養子などが一般的であった戦前などと異なり、増している。近年の選択的夫婦別姓を求める声などは、現代で、個々の名前のアイデンティティの重要性が増してきたことの表れである。人の名前は多くの文化で、2つかそれ以上の種類の部分からなる。多くの場合、「所属を示す名前」と「個人を指す名前」の組合わせが用いられる(ここでは便宜上仮にそれを"個人名"と呼ぶことで説明する)。あるいはそのどちらか1種類だけの場合もある。その数や扱いについては様々な習慣・制度が見られる(詳細は後述)。分かりやすい例としては、その個人が属する「家(家族)の名前」と「個人の名前」の組み合わせである。英語圏では、個人名(与えられた名 = "given name")+ 家族名("family name")の順に表記されることが多い(配置に着目し、ファーストネーム = "first name" + ラストネーム = "last name" とも呼ばれるが、文脈に応じ逆順で表記されることや文化混合による混乱を避けるために、"given name"という呼称を用いる流れがある)。現代の日本の一例を挙げれば「山田 + 太郎」であり、この場合は「家族名 + 個人名」の並びとなる。家族名、個人名はそれぞれ、姓(せい)、名(めい)などと呼ばれる。家族名はまた苗字、名字とも呼ばれる。"個人名"の部分は「名(な)」と呼んだり、なんら明確には呼ばずに済ませたりする。姓名の構成要素の数、すなわち、ある個人のフルネームがいくつの部分から構成されているかは、文化によって異なっている。アメリカ大陸の先住民族など、個人を指す名前のみを用いる文化もある。サウジアラビアのように、3代前にまで遡って4つの部分からなるフルネームを用いることが当たり前の文化などもある。ブラジルのように一貫していない場合もある(これは、姓を持つ習慣が普及しつつあるが、完全に普及しきっていないためであると考えられる)。また、親子の間での姓をめぐる取扱いも文化によって異なる。子供が両親のいずれか、あるいは両方の名前を受け継ぐ習慣や制度があるかどうかは文化によって異なっている。受け継がれていくのは姓に代表される血縁集団名、家系名であるとは限らない。姓を持たない文化においては、一連の名と続柄の連続をフルネームとする場合もある。(たとえば、姓を持たない文化に生まれた小泉純一郎は、「純一郎、純也の息子、又次郎の孫」といった名前になる。)インドでは逆に「taro、taichiroの父」などといった形で、ある子供が生まれた時に与えられる名前に、さらにその子供の名前として使われるべき名 (taichiro) が含まれているものもある。姓名の構成要素の順序についても、民族・文化圏・使われる場面などにより異なることが知られている。例えば、ヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国では、日常的な文書や会話などでは、名前は名→姓の順をとることが多い。ただし、公的文書や学術文書などにおいては順序が逆転することがある。姓を前置することで検索性の向上や誤認の回避につながるためである。文献表においては第一著者については姓→名の順を取り、第二以下は名→姓で示す。この場合姓の後にカンマを付ける。日本、中国、朝鮮、ハンガリーなどでは名前は姓→名の順をとる。つまり、あえてフルネームで呼んだり記したりする場合には、その順で呼んだり記したりする、ということである。名前を記す際などに、その一部を省略することも多く行われる。英語圏ではミドルネーム()はイニシャルだけが記されることが多くある。スペイン語圏では、複数部分からなる姓の一部が省略されることがある。また古代ローマでは使われていた名の種類がとても少ないため、1~2文字に略して評することがあった。基本的には、人名は通常、慣習や法などによって決まっている部分(姓)や生まれた時に両親などによって与えられ、それ以後変わることのない部分(名)のいずれか、またはその組合わせからなることが多く、生涯を通じて変わらない文化も多い。だが、ここにも例外がある。例えば、婚姻や婚姻の解消に際して、夫婦間の姓の変更が行われる文化がある。婚姻やその解消は親子関係の変更を含むこともあるため、子の名前の変更を伴うこともある。婚姻以外にも、人生の節目において名前を与えられたり改めたりする場合がある。一部のドイツ人の間では洗礼に伴ってミドルネームが与えられ、以後はファーストネームではなくその洗礼名が頻繁に用いられることになる。また、家系名や個人名の多様性も文化によって大きく異なる。日本人の苗字の種類は10万とも30万ともいわれ(推計値の為、様々な説がある。丹羽基二は30万姓としている)、世界でも特に苗字の種類が多い民族とされる。一方、中国人の姓は5000以下であるとされる。最近の中国科学院の調査では、李・王・張・劉・陳がトップ5とのことで、特に李 (7.4%)・王 (7.2%)・張 (6.8%) の3つで20%強(約3億人)を占める。ベトナム人は、最も多い3つの姓で59%を占める(百家姓参照のこと)。韓国人の姓は、金()・李()・朴()・崔()・鄭()の5種類で55%にのぼり、「石を投げれば金さんに当たる」「ソウルで金さんを探す(無駄な努力の喩え)」などという成句もある。。フランスにおいても、ナポレオン法典の時代には、新生児の名は誕生日ごとに決められた聖人の名前から選ぶこととされていた。このため、既存の名前を組み合わせることが流行した(例えばルイ=ニコラ・ダヴーの名ルイ=ニコラは、聖人の名前ルイとニコラを組み合わせたものである)。さらに、多くの文化においては、正式な名前とは別に愛称・敬称などがあり、そのパターンは文化ごとに異なっている。そうした呼称は名前を省略したり変形して用いる場合もあり、名前ではなく帰属や当事者間の関係(父と子など)を用いる場合もある。人名をめぐる習慣や制度は一般的に、次のような文化的・社会的事象と結び付いている傾向にある。また、こうした姓名についての知識は次のような場面で活用される。明治維新以前の日本の成人男性は、とりわけ社会の上層に位置する者は、家名(カメイ)と氏(ウヂ。本姓)の2つの一族名、仮名(ケミョウ。通称)と実名(諱)(ジツメイ、イミナ)の2つの個人名を持っていた。そして、人名としての実際の配列は、家名、仮名、氏、実名の順である。例えば、忠臣蔵で知られる大石内蔵助のフルネームは「大石内蔵助藤原良雄」(おおいしくらのすけふじわらのよしたか)」である。家名(名字)が「大石」、通称が律令官名で内蔵寮の次官を意味する「内蔵助」、氏が「藤原」、実名(諱)が「良雄」となる。この4つの組み合わせ方は決まっていた。「大石内蔵助」のように、家名と仮名(通称)、氏と実名(諱)が組み合わされた。家名と実名(諱)を組にすることはなかった。同じように、「織田弾正忠平朝臣信長」(おだだんじょうのちゅうたいらのあそんのぶなが)は、現在は織田信長と呼ばれるが、当時は織田弾正忠あるいは織田弾正忠信長と呼ばれ、朝廷の公文書には平朝臣信長と記された。「織田信長」という呼び方は、呪詛など特殊な場面以外はほとんど用いられなかった。ただ、これが厳密に守られたわけではない。例えば、浮世絵瓢軍談五十四場には織田信長をモデルにした尾田春長という架空の人物が描かれているが、彼の名は「尾田春長」とだけ書かれている。このように、当時にも家名と実名(諱)を組み合わせる呼び方も存在した。参考までにその他の武士の名の実例を江戸期の随筆「蘿月庵國書漫抄」が引用する高田馬場流鏑馬の上位入賞者名から数名を抜粋すると以下の如くになる。(家名、仮名、氏、実名の順である。)次に、明治維新以前の日本人男子名の構成要素を中国の漢文表現と対比させると以下のようになる。前者が日本の固有表現、後者が中国の漢文表現である。※中国でも同姓族集団の解体と氏の発生が起きたが、これは日本での同姓族集団の解体と家名の発生と並行する現象ではなく、中国での氏の扱いは父系血統を示すため、日本の姓の扱いに近い。ただし、日中両国共、姓概念と氏概念の混同が起きているし、日本では国内の固有概念と中国の漢文概念の混同がしばしば見られ、実際の用例に当たるに際して注意を要する。以下、家名(名字)、仮名(通称)、氏(姓)、実名(諱)の順に記述する。平安時代には、古代から中世への社会変動の中で古代的な氏族組織は衰退し、社会の上層から「家」を単位とする組織化が進行した。古代的な姓(カバネ)は、朝廷との関係についてしか使われなくなった一方で、家名を名乗るようになった。例えば、摂関家の近衛家の人物は、朝廷では藤原という姓(セイ、本姓)を、家名(のちの苗字に相当)としては近衛を名乗った。こうした家名の中で、領主身分を獲得した武士によって用いられ始めたのが、今日の名字である。在地社会では、古代の豪族が率いる伝統社会が崩壊した後、貴族や大寺社の寄人(よりうど)となることなどを通じて、それに応じた姓(セイ)が与えられるようになり、百姓身分であっても藤原・紀・秦・清原といった古代豪族や朝廷貴族と同じ姓を名乗るようになった。そうして得た姓を同じくする者同士で、律令戸籍の姓(セイ)とは全く別の、実利を重視した氏(ウヂ)集団が形成されていった。例えば、大貴族の○○家から秦という名を与えられた者の集団が、秦一族という具合に。しかし、鎌倉時代末期頃を境に、百姓身分も安定した婚姻関係を基礎にした継続的な家組織を持つようになり、氏集団への依存度が減少した。この頃から庶民が姓(セイ)を名乗る習慣は消滅していき、代わって、独立的な家名としての名字を名乗ることが一般的になった。本姓・氏(ウヂ)は、父系の血統を示すため、養子に入っても変えることはできないのが原則であった。しかし、後世になるほどこの原則の適用は緩くなり、他家の名跡を継いだ場合などには、その家の本姓に変わる場合も少なくなかった。例えば長尾景虎は、長尾氏は平氏なので平景虎だが、上杉氏の名跡を継ぎ上杉輝虎(上杉謙信)となった後は、上杉氏の姓は藤原であるため藤原輝虎となった。女性の場合、本姓は婚姻後も変わらず、家名を女性の名前に冠することは通例ではなかったようである。例えば、北条政子は、当時は「平政子」と称した。賜姓という姓を授ける習慣もあった。豊臣秀吉の賜姓の例として、羽柴姓では徳川家康が羽柴武藏守大納言、前田利長が羽柴肥前守など、豊臣姓では真田信繁等がある。江戸幕府では、外様大名の宗家へ賜姓が行われ、前田利常の松平筑前守(前田氏は後に松平加賀守となった)、島津家の松平薩摩守、毛利家の松平長門守などがある。なお、これらの大名家は戊辰戦争後に元の姓に復帰した。江戸時代には、名字は、支配階級である武士や、武士から名乗ることを許された者のみが持つ特権的な身分表徴とされた。公式な場で家名を名乗るのも武士や公家などに限られていた。しかし、百姓身分や町人身分の者も、村や町の自治的領域内では個々の「家」に属しており、当然のながら家名を有した。こうした百姓や町人の家名は私称の名字と言える。武家政権は、村や町を支配しても、その内部の家単位の組織編制には立ち入らなかったため、個々の百姓や町人を呼ぶ場合は家名を冠せず、百姓何某、町人何某と呼んだ。しかし、武士や公家は名字と、それに付随する姓を持っていたが、名字を私称した百姓や町人は、姓は持たなかった。町人には、大黒屋光太夫など屋号を名字のように使う例も見られた。東日本では、百姓も屋号を名乗ることが多かった。八左衛門などといった家長が代々襲名する名乗りを屋号とすることが多く、これをしばしば私称の名字と組にして用いた。中国、朝鮮、日本、ベトナムなど漢字文化圏では、人物の本名(諱、いみな)はその人物の霊的な人格と強く結びつき、その名を口にするとその霊的人格を支配することができると考えられた。そのため諱で呼びかけることは親や主君などのみに許され、それ以外の者が目上に当たる者の諱(本名)を呼ぶことは極めて無礼とされた(実名敬避俗)。これを貴人に対して実践したものが避諱(ひき)である。特に皇帝とその祖先の諱については、時代によって厳しさは異なるが、あらゆる臣下がその諱あるいはそれに似た音の言葉を書いたり話したりすることを慎重に避けた。中国などでは避諱によって、使用する漢字を避けて別の漢字を充てる偏諱が行われた。日本においては仮名(けみょう)と呼ばれる通称が発達した。(一方で、律令期に遣唐使の菅原清公の進言によるとする諱への漢風の使用が進められ、これに貴人から臣下への恩恵の付与、血統を同じくする同族の証として通字も進んだ。後述の「実名(諱)」を参照。)男性の場合、こうした通称には、太郎、二郎、三郎などの誕生順(源義光の新羅三郎、源義経の九郎判官等)や、武蔵守、上総介、兵衛、将監などの律令官名がよく用いられた。後者は受領名や自官の習慣と共に武士の間に広がり、百官名(ひゃっかんな)や東百官(あずまひゃっかん)に発展した。女性の名前は、庶民が氏を名乗っていた中世前期までは、清原氏を名乗る百姓の女性ならば名前は「清原氏女」(きよはらうじのむすめ)などと記され、婚姻後も出自する氏(清原氏)の構成員として扱われた。官職を得て出仕するような地位を得たとしても、紫式部や清少納言、春日局のように通称で呼ばれた。枕草子を書いた清少納言は、父清原元輔が少納言であったことから清原の「清」を取って名付けられたと言われており、これらは「女房名」と呼ばれる。○○宮、御屋形様、大殿、大御所、政所、御台所や、上皇や女院の○○院という呼び名も、直接名を口にするのを避けて居所で呼んだところに由来する通称である(詳しくは仮名 (通称)の頁を参照)。女性の場合は諱が記録に残ることが少なく、後世でも通称でしか知られず諱が不明のままとなっている例が多い。しかし、庶民が名字を名乗った中世後期には、庶民の女性も、童名のままながら、「ねね」「やや」「とら」など、より独立した存在として記録に残されるようになった。その一方、女性は婚姻後は出自の家ではなく婚家の家組織に従属するという習慣も明瞭となってきた。江戸時代には、関白の母を大政所、正妻を北政所、征夷大将軍の正妻を御台所と区別して呼ぶことが定着し、女性は婚家の夫・子供の視座から呼称されるようになった。明確に避諱を目的とするのではなく、隠居時や人生の転機などに、名を号と呼ばれる音読みや僧侶風・文化人風のものに改める風習もあった(例:島津義久→島津龍伯、穴山信君→穴山梅雪、細川藤孝→細川幽斎など)。この風習は芸能関係者にも広まり、画家・書家や文人の雅号も広く行われた。狩野永徳、円山応挙等の画号、松尾芭蕉、与謝蕪村のような俳号、上田秋成、太田南畝のような筆名も広く行われた。中には、曲亭馬琴や十返舎一九のように本名と全く異なるものも現れた。これが、現在の芸能人の芸名や俳名、源氏名などの習慣につながっている。なお、藤原定家(ふじわらのさだいえ)を「ふじわらのていか」と呼ぶなど、過去の文化人の名を漢風に音読みすることを有職読み(ゆうそくよみ)というが、これは号や仮名とは別物である。古代の律令国家の時代には、庶民も姓(セイ)を持っていたことが、現存する当時の戸籍から明らかとなっている。この姓(セイ)は、その氏(ウヂ)集団(氏族組織。古代社会の単位の一つ)の一員であることを意味し、今日の苗字と同義の姓(セイ)とは性質が大きく異なる。支配者層の姓(セイ)である氏(ウヂ)には、氏姓の制により、朝廷とその氏(ウヂ)との関わりを示す姓(カバネ)が付された。例えば、今日藤原鎌足として知られる藤原朝臣鎌足(ふじわらのあそんかまたり)は、藤原が氏(ウヂ)=姓(セイ)、朝臣が姓(カバネ)、鎌足が名である。個人名である実名(じつみょう)(諱(いみな))は、公家武家を問わず、通字を用いる習慣が見られる。鎌倉北条氏の「時」、足利氏の「義」、武田氏や織田氏の「信」、後北条氏の「氏」、徳川氏の「家」、伊達氏の「宗」などが有名である。家祖あるいは中興の祖として崇められるような家を飛躍させた祖先にあやかり、同じ実名(諱)を称する先祖返りという習慣もあった。これは伊達政宗が有名である。先祖や創始者の実名(諱)を代々称する武家もあった。これは、市川團十郎・中村歌右衛門のような歌舞伎役者や笑福亭松鶴・柳家小さんなどの落語家などで名人とされた人の名を襲名する習慣や、上記のような商人の屋号の継承(茶屋四郎次郎など)という形で庶民にも広がった。武家では、主君の実名(諱)の一字を拝領をすることが栄誉とされた。与えられた字のことを偏諱(へんき・かたいみな)と言う。北条高時→足利高氏・足利尊氏←後醍醐天皇“尊治”が有名。烏帽子親の一字を受けることも多かった(北条高時は高氏・尊氏の烏帽子親である)。偏諱には、代々の通字を与える場合と通字ではない方の字を与える場合があった。前者は特に主家に功績のあった者や縁者、後者は与えた人物との個人的な主従関係による例が多い。豊臣秀吉の場合、前者に小早川秀秋、宇喜多秀家、後者に田中吉政、堀尾吉晴、大谷吉継がいる。偏諱の授与によって、改名を繰り返した例もある。上杉謙信は、元服時の長尾景虎(景は長尾氏の通字)→上杉景虎(関東管領山内上杉氏から姓を授かる)→上杉政虎(上杉憲政の偏諱)→上杉輝虎(足利義輝の偏諱)→上杉謙信(出家による戒名)と目まぐるしい。江戸時代には、将軍から偏諱を受けることが決まっていた大名家もある(島津氏、伊達氏など)。実名(諱)は、朝廷との関わりが生じるような階層以外は、実生活で使うことが滅多になかったため、周囲の者が実名(諱)を知らなかったり、後世に伝わらないことも起こった。「西郷吉之助平隆永」(さいごうきちのすけたいらのたかなが)は、親友の吉井友実が父の実名(諱)「隆盛」を彼のものと勘違いして朝廷に奏上してしまったため、新政府の公文書では「平朝臣隆盛」、戸籍令以降は「西郷隆盛」と呼ばれるようになってしまったという逸話が知られる。在家の者の実名(諱)に対し、僧侶や出家した者は戒名を名乗った。禅僧は戒名の上にさらに法号を付けることもあった。一休宗純は、一休が法号、宗純が戒名である。出家するということは、俗世との縁を絶つということを意味したため、世俗の名字・姓や実名(諱)を捨て、仏門の戒律を守る者の名という意味の戒名を漢字二字でつけた。従って、上杉謙信や武田信玄のように、世俗の名字の下に戒名を付けて名乗るのは、本来はおかしなことである。歴史をさかのぼり、過去をひもとくと、封建時代のイエズス会士ロドリゲスの記録(日本語小文典)によれば、「高貴な人は仮名(かりな)の他、実名(名乗り)も命名されていた」という。ここで「仮名」とは、のちに官職を得て、その官職名(百官名、受領名)を名乗ることができるまでの間の仮の名である。また、「実名」の命名にあたっては、「漢字2文字の4音節」で、上下の語ともに特定の82種の語中から選択されたという。(官職者・人名一覧の記載された歴史書は、このような命名法の参考資料となると思われる。)なお、漢字での名付けの弊害とも言える事例として、歴史上の人物の名で、変わった読み方をする場合、正しい読み方が現代まで伝わっていないことがある。明石全登など、未だに読み方に諸説ある武将もいる。他にも最上義光は当初、名は「よしみつ」もしくは「よしてる」と読まれていたが、妹の義姫に宛てた手紙が近年発見され、その手紙で自身の名を「よしあき」と平仮名で書いていたため、ようやく正しい読みが判明したという事例もある。また、僧侶の名前などは音読みとなる場合が圧倒的に多い。文筆家の号も音読みのことが多く、藤原俊成(としなり・しゅんぜい)や藤原定家(さだいえ・ていか)、藤原家隆(いえたか・かりゅう)のように、本来訓読みでも音読みで読み慣わしている例もある(→有職読み)。江戸期の女性の名の例を大田南畝(蜀山人)の随筆「半日閑話・女藝者吟味落着」から引用する。(50音順にした。)(あ行)長助娘いと、助七娘いと、甚之助妹いね、孫兵衛姪いよ、平七娘うた。(か行)寅吉娘かつ、小助娘かよ、十次郎従弟女きち、喜右衛門娘きち、藤五郎娘きの、五郎娘うた事こと。(さ行)文六娘さと、藤兵衛娘しほ、長八娘せん、権右衛門娘そめ。(た行)善蔵姉たか、藤助娘たみ、八右衛門娘たよ、十次郎従弟女ちよ、源八娘ちを、権右衛門姪つる、鉄次郎姉つる、 武兵衛娘でん、清九郎娘とき、新兵衛妹とみ、佐兵衛娘とみ、助八娘とよ。(な行)磯治郎娘なみ、金次郎従弟女なみ、小三郎妹なを。(は行)清八娘はつ、大吉娘はな、半兵衛娘はま。(ま行)宇右衛門娘まさ、新右衛門姪みよ、半七姪みよ、伝兵衛妹みわ、平吉妹みを、藤次郎娘もよ。(や行)新八姉よし。(ら行)孫兵衛方に居候りう。北海道、樺太、千島列島の先住民族であるアイヌは、今でこそ彼らが居住する地域の大勢を占める日本式やロシア式の姓名を名乗っている。しかし、日本ないしロシアの支配に置かれる以前は、民族の伝統に即した命名のもとに人生を送っていた。生まれて間もない赤子には正式の名前を付けず、泣き声から「」、あるいは「」(濡れたもの)、「」(小さな糞)、「」(糞の固まり)など、わざと汚らしい名前で呼ぶ。死亡率が高い幼児を病魔から守るための配慮で、きれいなものを好み、汚いものを嫌がる病魔から嫌われるようにとの考えである。あるいは「」(名無し)など、はじめから存在しないことにして病魔を欺く。ある程度成長して、それぞれの個性が現れ始めると「本式」の名前がつけられる。「ル」(あわて者)、「」(弓を作る者)、「」(弓と毛皮干しの枠を持つ者)、「」(掃く女)、「」(蒲の節をいじる者)、「」(種まき女)、「」(杵の女)、「」(ナマコのように寝転ぶ)、「」(熊の肉を焼く)など。また、病弱な子供や並外れて容貌に優れた子供は、綺麗なものを好むという病魔から嫌われるよう、神に見込まれて天界に連れて行かれる=死ぬことのないよう、幼児と同じように汚らしい名前をつける。「」(垢まみれ)、「」(爺さんの肛門)などの例がある。このような例は、諸民族においても珍しい事例ではなく、例えば日本では牛若丸など武士の子の幼名に頻繁に使われた「丸」という字は、古来、糞を意味していた。また、中国でも前漢の武帝は、魔除けのために「彘(てい:ブタの意)」という幼名を付けられた。妻は夫の名前を呼ぶことが許されず、すでに死んだ人間の名を命名することは不吉とされ、他人と似た名はその人に行くはずの不幸を呼び込むものとされていたので、とにかく人と違う、独創的な名前を命名するよう心がけていた。また、大きな災難に遭遇したり、似た名前の者が死んだりした場合は「名前が災難に好かれた」との考えから、すぐに改名した。そのためアイヌ民族には「太郎と花子」「ジョンとエリザベス」のような、「平凡な名前」「民族を代表する名前」が存在しない。日本においては明治初期になると戸籍法の浸透から、アイヌもそれまでの名前を意訳、あるいは漢字で音訳した「日本式の姓」を名乗るようになったが、「名前」は明治中期までは、それまでのアイヌ語式がかなりの例で受け継がれていた。戸籍に名を記入する際は、アイヌ語の名前を見ただけでは男女の区別がつきかねる和人のために、男性はカタカナで、女性はひらがなで記入されていた。史料から見る限り、1392年に帰化したといわれる閩人三十六姓及びその子孫である久米村士族を例外として、第一尚氏王統が成立するまでの王名を始めとする人名のほとんどは「琉球語/琉球方言」によると推測される名のみであり、姓ないし氏があったことは確認できない。尚巴志王が三山を統一し明に朝貢すると、国姓として「尚」を賜り、以後の王は中国風の姓名をもつようになった。中国風の姓名は「唐名(からなー)」と呼ばれ、以後士族一般に広がった。これに対し、第二尚氏王統成立後、士族はその采地(国王より与えられた領地)の地名を位階称号に冠して呼ばれる慣習が一般化し、さらに日本風の「名乗り」(前節の「諱」に相当、ただし全て音読みで読まれる)を持つことが普通になると、「采地名」+「位階称号」+「名乗り」が別の呼称システムとして確立した。これを「大和名(やまとぅなー)」と呼ぶことがある。「采地名」の人名化は日本における「氏」(苗字)の起源と並行するが、日本のように「采地名」が固定化した「氏」になることはなく、采地の変更にともなって変わりうる一時的な呼称にとどまった(王の世子は中城を所領とし、常に「中城王子」と称した。つまり「中城」という「采地名」は王世子のみに与えられる称号であり、継承されない)。また、それまでつけられていた「琉球語/琉球方言」による名は「童名(わらびなー)」とカテゴライズされ、公共領域からは排除されていった。このようにして、同一人物が「大和名」と「唐名」の双方を持つようになったため、後世、特に近代以降にそれ以前の歴史上の人物を呼ぶ場合、人物によって通用する名前が異なる現象が生じている(主に久米村士族が「唐名」で呼ばれる)。例えば羽地朝秀(唐名:向象賢)は「大和名」が、蔡温(大和名:具志頭文若)は「唐名」の方が通用している。薩摩藩の琉球侵攻以後、「大和めきたる」風俗の禁止に伴い、多くの地名(したがって「采地名」)の漢字が日本本土に見られないものに置き換えられたため、本土と語源が共通する「采地名」も異なる漢字で書かれるようになった。琉球処分後、日本の戸籍制度が沖縄県にも適用されると、国民皆姓制度の導入と姓名の単一化が迫られた。士族、及び分家として「采地名」をもっていた王族はすべて「大和名」(「采地名」+「名乗り」)を戸籍名としたが、尚泰王のみは「采地名」をもたなかったため、王とその直系の子孫のみは(「采地名」をもっていても)「尚」を姓とし、「唐名」を戸籍名とした。このため、王族出身者でも「大和名」を名乗った分家(伊江家、今帰仁家など)では姓名の形式がより「本土風」であるのに対し、「尚」家の多くの男子は今も原則として漢字一字をもって命名されている。また、全体として王族、士族出身者の名の読みには音読みが根強く残っている。その後、独特の漢字遣いをする姓を「本土風」の漢字に置き換える改姓を行ったり、逆に同じ漢字を使いながら読みを標準語に近づけるなど、日本本土への同化傾向が見られる。先島諸島においても、尚真王による征服以前に分立していた領主の名前には、領地名を名に冠したと考えられるもの(石垣島の平久保加那按司)、名だけが伝えられているもの(石垣島のオヤケアカハチ、与那国島のサンアイイソバなど)など、独特のものがある。明治維新によって新政府が近代国家として国民を直接把握する体制となると、新たに戸籍を編纂し、旧来の氏(姓)と家名(苗字)の別、および諱と通称の別を廃して、全ての人が国民としての姓名を公式に名乗るようになった。この際、今まで自由だった改名の習慣が禁止された。明治以降の日本人の戸籍人名は、氏は家名の系譜を、名は諱と通称の双方の系譜を引いている要素が大きい。例えば夏目漱石の戸籍名である夏目金之助は通称系、野口英世は諱系の名である。日本人の名前は、法律上、原則として「氏」(うじ)と「名」(な)との組み合わせから成る「氏名」(しめい)で呼称され、戸籍上「氏」「名」で記録される。「氏」は民法の規定によって定まり(民法750条、810条等)、「名」は戸籍法に定める出生届に際して定められる(戸籍法29条柱書、50条、57条2項等)。「氏」は現代においては姓(せい)または苗字・名字(みょうじ)とも呼ばれ、古くは一定の身分関係にある一団の、近代以降は家族の人間の共通の呼称として、個人がその集団に属することを示す。「名」はさらにその集団の中の個人を示す役割を果たしている。日本人の氏名を含む身分関係(家族関係)は、戸籍に登録される。例外として、天皇及び皇族の身分関係は、戸籍ではなく皇統譜に登録される(皇室典範26条)。また、天皇及び皇族は、「氏」を持たない。これは歴史的に氏や姓が身分が上の者から与えられるものだったためである。氏の種類は、30万種を超えるとされている。氏の多くは2文字の漢字から成っており、人数の多い上位10氏はすべて漢字2文字から成る。なお、とされる。氏の多くは地名に由来するため、地名に関する漢字を含むものが多い。海外からの移民を除き、基本的に日本人の氏は漢字である。氏の大半は地名に基づいている(この理由を17世紀のイエズス会士ロドリゲスは「日本語小文典」のなかで、「名字(苗字のこと)は個々の家が本来の所有者として、所有している土地に因んでつける」と記述している。)。このため、地名に多い田・山・川・村・谷・森・木・林・瀬・沢・岡・崎など、地形や地勢を表す漢字、植物や道に関するものなど及び方位を含む氏が多数を占める。色彩の一字のみで表される氏(白・黒・赤・青・黄など)だけは存在しない。現在、日本では氏の取得と変動は民法の規定によって定まる。夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する(民法750条)。嫡出である子は父母の氏を称し、嫡出でない子は母の氏を称する(民法790条)。また、養子は養親の氏を称する(民法810条)。この法では、夫婦の「氏」は夫婦が互いの氏から自由に選べる。しかし慣習的に多くの夫婦は、夫の氏を選択している(2005年度(平成17年度)の1年間に婚姻した夫婦を対象とする調査によれば、全体の96.3%の夫婦が夫の氏を選択した)。これは1948年(昭和23年)の改正前民法(家族法)に見られるように、婚姻を妻が夫の「家」に入ると考える(家制度)と、全ての「家」の構成員が、夫を筆頭とする「家の氏」にまとめられるという、男系家制度の慣習を反映している。婚姻又は養子縁組によって氏が変更があると、もとの氏を「旧姓」という。なお、夫婦同氏制(夫婦同姓)については、1996年(平成8年)に法制審議会が出した「民法改正案要綱」で、選択的夫婦別氏制度(夫婦別姓)が定められたことをきっかけに、その賛否が論じられている。尚、アジアの多くの国、韓国、中国、インドでは、夫婦別姓であり、日本も明治31年以前は夫婦別姓であった。夫婦同氏のみを原則とする国家は以前はタイ、ドイツ等あったが、現在では、日本以外の国家はすべて選択的夫婦別姓制度に移行し、夫婦同氏のみを原則とする国家は日本のみとなっており、人権的にも国際的な批判がある。新生児が生まれたときには、14日以内(国外で出生があったときは、3ヶ月以内)に届け出なければならず(戸籍法第49条)、事実上、新生児の名はこの出生届のときに定められる。子の命名において使用できる文字には制限が設けられている(戸籍法50条1項、戸籍法施行規則60条参照)。人名については固有の読み方をさせる場合があるが、法的な制限はない(→人名訓)。そのため、漢字表記と読み仮名に全く関連がないものや当て字なども許容される(例:風と書いて「ういんど」、太陽と書いて「サン」など)。 また、文字数にも制限はない。皇族の場合、生後7日(御七夜)を迎えた時に命名の儀が行われ、命名される。(同じ戸籍内にいる人物と同じ文字の名を付けることはできないが、同じ読み方の名を付けることはできる。例えば「昭雄(あきお)」と「昭夫(あきお)」のように同音異字の場合は可能であり、「慶次(よしつぐ)」と「慶次(けいじ)」のように異音同字の場合は不可能である。なぜなら、戸籍に読み方は記載されないからである(翻せば、読みを替えるだけなら改名の必要はないことになる)。なお、「龍」と「竜」のように新字体と旧字体とは同じ字とみなされるため、「龍雄」と「竜雄」のような場合は不可能である。稀に夫婦で同名というケースもあるが、これは問題ない。)氏・名のどちらも、比較的独自の語彙があるため、ある人の氏名を聞いて、それが人の氏名とわかるのが普通である。また、氏か名かいずれかを聞いた場合、「ゆうき」「しょうじ」「はやみ」「わかな」「はるな」「よしみ」「あいか」「まさき」「とみお」などのごく稀な例外を除いて、それがどちらであるかを区別することも比較的易しい(これは、例えば英語でRyan, Douglas, Scottのように氏にも名にも用いられる語がかなり多くの人名に使われていることと対照的である)。しかし、氏名を聞いた時にそれがどのような文字で書かれるかについては必ずしも分からない場合が多い。これは同じ読みの漢字がたくさん存在するという日本語の特徴のためである。また、漢字で書かれた氏名から正しい読み方が特定できない場合もある。これは、馴染みの薄い読み方(難読人名)であるために起こることもあるが、単に2つ以上のよく知られた読み方があるために起こる場合もある。日本の漢字は読み方が多いためこのようなことが起こりやすい(例えば、「裕史」という名はひろし、ひろふみ、ゆうし、ゆうじ、などと最低4通りの読みがある / 字面通りの読みである必要はないので、実際にそれ以上存在する)。そのため、各種の申込書・入会書・願書・申請書などに名を記す時に振り仮名の記載を求められる場合が多いが、法的にそれを証明する手段は少ない。これは、戸籍が読みではなく字を基準にした制度であるためである。人が互いを呼び合う際には、氏と名の全て(フルネーム)を呼ぶことは多くない。あだ名や、氏・名に「さん」「ちゃん」などの呼称を付け、あるいは、肩書きや続柄に関する呼称、二人称代名詞、まれに字(あざな)などを用いることが多い。また、親しくない相手に、名のみで呼びかけるのは失礼との考えを持つ人が少なくない。一般に、呼称をめぐる習慣は非常に複雑であり、簡潔に説明することは困難である。当事者間の年齢や血縁や仕事上の関係、社会的な文脈などによって大きく変化するが、そうした文脈の制約条件だけからは一意的に決まらないことが多く、個人的な習慣や好みなども影響する。さらに、方言などと絡んだ地方差も認められる。日本人の多くは、死亡すると、仏教式の葬儀を行い、戒名(法名)を付ける。戒名とは、仏門に帰依して授戒した出家・在家の者に与えられる名で、多くは僧侶が与える。戒名の形式はそれぞれの宗派によって異なる(例:○○大居士、○○居士(大姉)、○○信士(信女)、釈○○など)。中国人の名前は漢字一字(まれに二字)の漢姓と、一字か二字の名からなり、「父方の姓」「その父系血族の同世代に共通の漢字(輩行字)」「子に特有の漢字」という順に表記される(現在では輩行字に従わない命名もある)。例えばには2人の弟がおり、それぞれ、という名であったが、この3人に共有されている「」が輩行字である。まれに輩行字と特有の漢字は逆になる場合もある(例えばと)。漢字一文字名には輩行字がないことになるが、その場合でも同世代で共通の部首を持つ字のみを名付けることがある。たとえば「紅楼夢」の主人公賈宝玉の父の名は賈政であるが伯父の名は賈赦、賈政と同世代の親族の一人は賈敬である。元来姓は父系の血統を示すので原則としては夫婦別姓であるが、現代の中国や台湾では、男女平等の観点から、女性は結婚に伴って、夫の姓を名乗ることも選択可能なことが法律で保証されている。夫の姓に続けて自分の姓を書く(従って漢字四文字になる)場合もある。二文字の姓(複姓)もあり、・・・・などが有名である。また百済・高句麗等を建国した中国人(高句麗人)達のように、当時は各地で三文字以上の姓を持つ中国人は珍しくはなかった。また、歴史を遡れば姓と氏は別のものであった。の代には王「「」の一族は「」、太公望「」の子孫である「」公の一族は「」、後に始皇帝を出した「」公の一族は「」といった姓を持ったが、これは漢族形成以前の部族集団の呼称とでもみるべきもので、族長層だけがこれを名乗った。こうした族集団の内部の父系血族集団が氏であった。例えば周代の姫姓諸侯である晋公の重臣であり、後に独立諸侯にのし上がった「」氏は「」姓であっての族長層に出自するが、氏は「」であった。しかし戦国時代になると社会の流動性が高くなり、それによって姓はその根拠となる族集団が形骸化していった。また姓を持たず氏のみを持つ非族長層も社会の表舞台に立つようになっていった。そして「」の代になると古代の姓の多くが忘れられ、氏が姓とも呼ばれて両者が混同される形で父系の血縁集団を示す語として用いられるようになったのである。前漢の皇帝を出した劉氏も姓を持たない階層に出自した。さらに伝統的に下層階級以外の男性は目上の者だけが呼んでよい名(「」とも言う)と別に同等者や目下の者が呼ぶ「字(あざな)」という呼び名を持った。現在は字の風習は廃れつつあるようである。香港や台湾のように、外国に支配されていた期間が長かった地域は、欧米や日本などの名前を模して、本名とは別の名前を持つ場合がある。特に香港は、近年までイギリスの支配下であったため、イギリス風の名前を持っている場合が多い(ジャッキー・チェン、アグネス・チャン、ブルース・リー)。台湾でも65歳以上の女性には日本式に「」を止め字とする名前も少なからず見られる。中国では婚姻による名字の変更はなく、子供の名字は、父親の名字を名乗るのが通例である。香港では、イギリス風の名前はパスポートなどの身分証明書にも使用できるなど、広く使われている。名づけ方は、キリスト教徒の家系なら洗礼名という形で親が付ける場合もあるが、学校の先生が付けたり、本人が自分で付けたりする場合もある。名づけ方はかなり自由度が高く、英語圏には存在しない名前も多く、男性名が女性にも使用される事もある。朝鮮半島の人の名前は中国の影響を受けて、典型的には漢字一字(まれに二字)の漢姓と、一字か二字の名からなる。特に、・・・・の姓を持つ人は非常に多く、この5つの姓だけで、国民の約54%を占める。同じ姓でもいくつかの氏族に別れており、が最も多い。統一新羅の時代以前は今とまったく違う名前を用いていた。『日本書紀』や『古事記』に見られる朝鮮半島系の渡来人の名は中国式の名(当時の百済・高句麗などの非朝鮮系の人々は現在の中国人名とは異なる名前であった為)ではなかったことからもわかる。例えば、高句麗王朝末期の貴族、淵蓋蘇文は今日の韓国では漢語発音で「」と呼ばれているが、『日本書紀』の「伊梨柯須弥」という表記から当時の高句麗では「」と発音したことが知られている。「」は高句麗語で淵を意味すると言われており、日本語の訓読みに類似した表記方法、「」を「蓋蘇文」とするのは漢語の発音を用いて高句麗語を表現した、日本の万葉仮名に類似した表記方法と考えられる。現在の姓名体系は統一新羅の時代に中国式を真似たものである。姓は基本的には漢字一文字であるが、皇甫などの二字姓(複姓)も少数だが存在する。これとは別に、祖先の出身地(本貫)を持ち、同じ姓・同じ本貫(同姓同本)を持つ者を同族と見なす。この同族意識はかなり強固なものであり、かつては同姓同本同士の結婚は禁じられていた()。ただし、同姓でも本貫が違う場合は問題ない。現在、朝鮮半島内で最も多いのは(釜山広域市付近の金海市を本貫とする「」氏)である。族譜()という先祖からの系図を書いたものがあるが、女性の名は族譜に記載されない。族譜は李氏朝鮮頃に党争の激しくなった頃から作られ始めた。族譜の中で始祖の頃の系図は伝説に依拠していたり、古代の偉人に結びつけただけのものが多く、信憑性はあまりない。名が漢字二文字の場合、同族で同世代の男子が世代間の序列を表すために名に同じ文字を共有する行列字()という習慣がある。行列字は中国の輩行字と同様のもので、陰陽五行説に基づいて決められる。つまり「・・・・」の入った字を順番に付けていく。たとえば、ある世代で「」の入った字(、)、次の世代は「」の入った字(、)、次の世代は「」の入った字(、)……と続く。十干(・・・・・・・・・)、十二支(・・・・・・・・・・・)を使うこともある。ある世代で名前の漢字二文字のうち前の字を行列字にしたら、次の世代は後の字を行列字にする。現在の韓国においては漢字を普段使わないため姓名はハングル表記であり、若い世代では名の部分に関して漢字では表記できない固有語を用いる例もある(金ハヌル、尹ビッガラムなど。今日では日本語のように固有語に漢字を当てる訓読みの慣習を有さない故)。在日韓国・朝鮮人は韓国・朝鮮式の本名のほかに日本式の通名を持っている場合が多い。原因としては創氏改名の名残や戦後の混乱期の様々な事情によるものとされるが在日の世代交代や時流の変化により通名使用は減少しつつある。また、子に関しては、原則的に父親の姓を名乗っていた。しかし、2005年改正により、子は、父母が婚姻届出の時に協議した場合には母の姓に従うこともできるようになった。モンゴル人は縁起の良い言葉や仏教的な言葉を選んで子供を名付ける。姓にあたるものはないが、氏族(オボク)の名称が姓に近い役割を持ち、中国の内モンゴル自治区では氏族名を姓として中国式に姓名で表記することがある。例えば、家のは氏族(孛儿只斤氏)であるため、内モンゴル出身のの子孫は・()と称する。これに対し、モンゴル国ではロシアの影響で父の名を姓の代わりに使い、本人の名の前に置く(父称)。例えば、朝青龍明徳の本名は、が本人の名、が父の名である。また、夫婦別姓である。ベトナムは漢字文化圏に属しており、人名も主要民族であるキン族を中心に、漢民族の人名に類似する。典型的な人名は、(グエン・ヴァン・フエ、阮文恵)のように、漢姓である一音節の'(姓)と、一音節の'(間の名、直訳すると「苫の名」)、一音節の(称する名)からなる構造である。相手が地位の高い人間であっても、人の呼称として使うのは姓ではなく「称する名」である。例えば「大統領」は、姓が「ゴ」、間の名が「ディン」、称する名が「ジエム」であるため、「ゴ大統領」ではなく「ジエム大統領」と呼称する。姓を呼称に使うのはきわめて例外的な高い敬意を表すときに限られ、これは(ホー・チ・ミン、)を「ホーおじさん(、伯胡)」と呼ぶような場合である。ベトナムを除いて、伝統的にこの地域では姓はない。しかし、カンボジア、ラオスでも旧宗主国フランスの影響で父の名などを姓として名のうしろに付加するようになった。ミャンマーには家系に共通の姓はなく、必要な時には両親いずれかの名と自分の名が併用される。戸籍名を付ける際には、その子が生まれた曜日によって頭文字を決め、ビルマの七曜制や月の名前、土地の名前等から名付けられることが多い。また成長につれ、隣近所で通用する幼名、学校内で通用する通称、大人になってからの自称など、複数の名をもつことが多い。外国との交渉(旅券等の発行や移住時に姓や氏の記入を求められる情況)では、便宜的に敬称や尊称や謙称(社会的地位のある男性であれば「ウ」、若い男性であれば「マウン」、成人女性なら「ドー」など)を使って、苗字とする場合もある。例えば、元国連の事務総長の「」は敬称である(しかし、本人は謙遜故か「マウン・タント」と署名することが多かった)。タイに関しては、タイの人名を参照。この両国でも姓は義務づける法はなく、例えばスハルトやスカルノは姓を持たないが1つのファーストネームのみで正式なフルネームである。スマトラ島のバタク人や、マルク諸島(モルッカ諸島)、フロレス島などでは氏族名を姓のように用いる。ジャワ島のジャワ人とスンダ人の多くは名しか持たないが、貴族の家系は姓を持っていて名の後ろにつける。イスラム教徒のマレー人、アチェ人、ジャワ人、スンダ人はアラブ式に父の名による呼び名を持ち、名の後ろにつけて姓のように使う場合もある。フィリピンのキリスト教社会では、名前は西洋式に「名、ミドルネーム、姓」の3つの部分からなる。その場合、未婚者および男性は母親の旧姓を、結婚して夫の姓となった女性は自分の旧姓をミドルネームとしていることが多い。ミドルネームはイニシャルのみを記す場合と、そのまま書き表す場合がある(例:)。姓は植民地時代にスペイン人の姓から選んで名乗ったため、スペイン語姓が主流であるが、華人系の姓も多い。名は旧来のスペイン語の名前に加えて、英語その他主にヨーロッパ系の名前が自由につけられている。婚姻の際には、従来の法律では、結婚時に女性側は、自分の姓を用い続け相手の姓をミドルネームとして加えるか、相手の姓を用いるか、相手のフルネームにMrs.をつけるか、を選ぶことが可能、とされていたが、2010年に、裁判所は、女性の権利を守る観点から、これらに加えて、相手の姓を用いず自分の姓のみを用い続けることも可能、との判断を下した。アラブ人の伝統的な名前はクンヤ(「某の親」)、イスム(本人の名)、ナサブ(「某の子」)、ニスバ(出自由来名)、ラカブ(尊称・あだな)の要素から成り立っている。以上から分かるように、本来アラブ人には親子代々が継承する姓は厳密には存在しないが、部族民や上流階級などの成員で、祖先がはっきりしている者は、ナサブやニスバやラカブが『家名』のように用いられることもある。日本や欧米の人々には一般に姓と見なされているウサーマ・ビン=ラーディンのビン=ラーディンは、何代前もの先祖某の名を使った「ビン=某」がいわば『家名』のようなものとして用いられた例にあたるが、ビン=ラーディンの場合は近代になってビン=ラーディン財閥が形成されたことによりラーディン族とも呼べる新しい部族が誕生したという経緯がある。現在はスンナ派とシーア派、北アフリカ地域とアラビア半島地域とで異なるというように、集団・地域による傾向に大きな差が存在する。例えばサウジアラビアではパスポートに記載される名前は、「本人の名(イスム)、父の名によるミドルネーム(ナサブ)、祖父の名によるミドルネーム(ナサブ)、『家名』(先祖のナサブ、ニスバ、ラカブなど)」という順に表記される。特にニスバ(家名)は身分を表しておりナサブから出身部族が識別される。サウジアラビアにおいて家名がアル・サウードとなっている人間は必ずサウード家の人間である。家名は生涯普遍が原則で結婚によって変わることは無い。生まれた子供は必ず父親の家名を継承する。このため王妃の家名はアル・サウードではないが、王女の家名はアル・サウードとなる。イラクの場合は、元大統領サッダーム・フセイン・アブドゥル=マジード・アッ=ティクリーティー (Ṣaddām Ḥusayn ʿAbd al-Majīd al-Tikrītī) はティクリート出身のアブドゥル=マジードの子フセインの子サッダームと読み解ける。サッダームの長男ウダイ・サッダーム・フセイン・アッ=ティクリーティー (Uday Saddām Husayn al-Tikrītī) はティクリート出身のフセインの子サッダームの子ウダイ、サッダームの次男クサイ・サッダーム・フセイン・アッ=ティクリーティー (Qusay Saddām Husayn al-Tikrītī) はティクリート出身のフセインの子サッダームの子クサイとなる。ウダイとクサイの例からわかるように、地名によるニスバは必ずしも当人の出身地を表すのではなく、父や祖先の出身地を表す場合もあるので注意が必要である。非アラブのイスラム教徒の間では、ペルシア語で「息子」を意味する「ザーデ」、トルコ語で「息子」を意味する「オウル(オグル、オール)」の語を、ナサブに該当する部分に用いる他は、概ねアラブ人の名と似通った名が伝統的に使われていた。しかし、トルコとイランではそれぞれ1930年代に「創姓法」が制定され、全ての国民に姓をもつことが義務付けられたため、上流階級はアラブと同じように先祖の名前や出自に由来する『家名』を姓とし、庶民は父の名、あだ名、居住地名、職業名や、縁起の良い言葉を選んで姓をつけた。この結果、両国では姓名は「本人の名」・「家の姓」の二要素に統合された。例えば、トルコ人レジェップ・タイイップ・エルドアン (Recep Tayyip Erdoğan) はレジェップ・タイイップが名、エルドアンが姓であり、イラン人マフムード・アフマディーネジャード (Mahmūd Ahmadīnejād) はマフムードが名、アフマディーネジャードが姓である。また、旧ソ連のアゼルバイジャン・トルクメニスタン・ウズベキスタン・タジキスタン・キルギスタン・カザフスタンやロシアに住むチェチェン人などのイスラム教徒は、長くロシア人の強い影響下にあったために、スラブ語の父称を用いたスラブ式の姓が一般的である。例えば、アリーから創られた姓はアリエフ、ラフマーンから創られた姓はラフモノフと言い、ソビエト連邦解体後もそのまま使われている。キリスト教圏
出典:wikipedia
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