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李氏朝鮮

李氏朝鮮(りしちょうせん、韓国語ハングル表記:이씨조선)は、1392年から1910年にかけて朝鮮半島に存在した国家。朝鮮王朝とも呼ばれる。朝鮮民族国家の最後の王朝で、現在までのところ朝鮮半島における最後の統一国家でもある。李朝(りちょう)ともいう(「李王朝」の意)。高麗の次の王朝にあたる。1392年に高麗の武将李成桂太祖(女真族ともいわれる)が恭譲王を廃して、自ら高麗王に即位したことで成立した。李成桂は翌1393年に中国の明から権知朝鮮国事(朝鮮王代理、実質的な朝鮮王の意味)に封ぜられた。朝鮮という国号は李成桂が明の皇帝朱元璋から下賜されたものであり、明から正式に朝鮮国王として冊封を受けたのは太宗の治世の1401年であった。中国の王朝が明から清に変わった17世紀以降も、引き続き李氏朝鮮は中国王朝の冊封体制下にあった。1894年の日清戦争後に日本と清国との間で結ばれた下関条約は李氏朝鮮に清王朝を中心とした冊封体制からの離脱と近代国家としての独立を形式的かつ実質的にもたらした。これにより李氏朝鮮は1897年に国号を大韓帝国(だいかんていこく)、君主の号を皇帝と改め、以後日本の影響下に置かれた。大韓帝国の国家主権は事実上、冊封体制下における清朝から日本へと影響を受ける主体が変化するものであった。1904年の第一次日韓協約で日本人顧問が政府に置かれ、翌1905年第二次日韓協約によって日本の保護国となり、1907年の第三次日韓協約によって内政権を移管した。こうした過程を経て1910年8月の「韓国併合ニ関スル条約」調印によって大韓帝国は日本に併合され、朝鮮民族の国家は消滅した。高麗王位を簒奪して高麗王を称した太祖李成桂は即位するとすぐに明に使節を送り、権知高麗国事としての地位を認められたが、洪武帝は王朝が交代したことで、国号を変更するよう命じた。これをうけた李成桂は、重臣達と共に国号変更を計画し、「朝鮮」と「和寧」の二つの候補を準備し、洪武帝に選んでもらった。「和寧」は李成桂の出身地の名であったが、北元の本拠地カラコルムの別名でもあったので、洪武帝は、むかし前漢の武帝にほろぼされた王朝(衛氏朝鮮)の名前であり、平壌付近の古名である「朝鮮」を選んだ。そして李成桂を権知朝鮮国事に封じたことにより、「朝鮮」は正式な国号となった。「和寧」が単に李成桂の出身地であるだけなのに対し、朝鮮はかつての衛氏朝鮮・箕子朝鮮・檀君朝鮮の正統性を継承する意味があったことから本命とされており、国号変更以前からそれを意識する儀式が行われていた。日本や中国では朝鮮半島にかつて存在した朝鮮を国号に持つ王朝と区別する為に「李氏朝鮮」あるいは「李朝」と呼ぶことが多い。学術的には日本でも近年「朝鮮王朝」という呼び方が広まりつつあるが、この呼び名は広義には「朝鮮半島」の「王朝」という意味にも理解されるため李氏朝鮮だけを特定して指すには不適切だとする意見もある。韓国では、「李氏朝鮮」「李朝」と言う名称は植民地史観に基づくものとされるため、国内では一般的に使用されていない。通常、李氏朝鮮が統治していた国は「朝鮮」、李氏朝鮮の王室は「朝鮮王朝」と呼ぶ。古代に存在した朝鮮の国号を持つ国は古朝鮮と呼び区別している。北朝鮮では政治的な忌避の所為で、「朝鮮王朝」の名が使用されていない、「李王朝」、「朝鮮封建王朝」と呼される。中国においては日本と同様「李朝」という用例が見られる。当初より中国王朝の冊封国として建国された朝鮮だが、近代に入ると冊封体制からの離脱を指向する動きから大朝鮮国の国号も用いられた。また、李鴻章が編纂させた『通商章程成案彙編』には、古い太極旗が収録されているが、それには「大清国属高麗国旗」と書かれている。1897年、国号を大韓帝国(だいかんていこく)と改称し、国王号を皇帝号に改めた。朝鮮の歴史は、国内政治的には、建国から端宗までの王道政治の時代(1393年 - 1455年)、世祖の王権簒奪から戚臣・勲臣が高官をしめる時代(1455年 - 1567年)、士林派による朋党政治(1567年 - 1804年)、洪氏・安東金氏・閔氏などの外戚による勢道政治(1804年 - 1910年)の区分に分けられる。一方、対外関係を主体にみると、約500年に及ぶが明の朝貢国であった時代(1393年 - 1637年)と、清の朝貢国であった時代(1637年 - 1894年)、清と欧米の列強および日本が朝鮮に対する影響力をめぐって対立した末期(19世紀後半 - 1910年)という3つの時代区分に大きく分けられる。第1の区分の末期には、文禄・慶長の役と胡乱(後金(のちの清)による侵攻)という大きな戦争が朝鮮半島内で発生し、この影響で国土が焦土化し、社会形体が大きく様変わりしている。第2の区分の時代には、清の支配を反映して、中国が夷狄の国である清に支配されている以上、自国が中華文明の正統な継承者であると言う考え(小中華思想)や、逆に現実には武力と国力で清に太刀打ちすることは難しいことから臣下の国として礼を尽くすべきとする思想(事大主義)や、中国から離れている日本を野蛮であると蔑視する中華思想などが保守的な儒学者を中心として広く根付き、朝鮮朱子学の発達が進んだ。その後は儒教内部で改革的な実学思想が生じ、又洋学などが発生した。これらは支配層からたびたび強い攻撃を受けたが、開港後の改革運動の母体ともなった。19世紀末期になると、清以外にも欧米列強や日本(大日本帝国)の介入が起こる。1894年の日清戦争で日本と清朝が戦って日本が勝ち、清朝との冊封関係も消滅したことで日本の強い影響下に置かれ、朝鮮は第3の区分に入った。しかしこの時代は、国内的にはロシアと日本の対立に巻き込まれ、派閥の対立も絡んで深刻な政治状況に陥った。親日路線派は、親ロシア派や攘夷派などの妨害を受けた。近代化論者の中にも親日派や親露派、攘夷派が混在しており、それが混乱に拍車をかけた。日露戦争後は日本の影響力の向上に伴い宮廷内では親日派の力が大きく伸張した。日本と韓国内部の李完用などは日本が大韓帝国を保護国化・併合する方針を採り、一進会は「韓日合邦」を主張した。日露戦争後の第二次日韓協約で日本は大韓帝国を保護国化し、実質的な支配権を確立した。1910年に日本と大韓帝国は韓国併合ニ関スル条約を結び、大韓帝国は日本に併合された。李王家や貴族は李王家・朝鮮貴族として華族制度に統合された。13世紀以来、元の属国となっていた高麗は、元の衰退に乗じて独立を図るが、北元と明の南北対立や倭寇の襲来によって混乱し、混沌とした政治情勢にあった。14世紀後半、中国遼東の納哈出征討と元の干渉からの脱却、遼陽制圧、女真や倭寇討伐などでの数々の武功で名声を確固たるものにした高麗の武将、李成桂は1388年、明が進出してきた遼東を攻略するため出兵を命じられ鴨緑江に布陣したが、突如軍を翻してクーデターを起こし(威化島回軍)、高麗の首都開城(開京)を占領、高麗の政権を完全に掌握した。その背景には、李成桂がもともと反元・親明派であって王命に対する反発があったことに加え、当時行き詰まっていた高麗の政治を改革しようとする新興の儒臣官僚たちの支持があった。遼東攻撃を不当とした李成桂は、当時の王(王(は示禺))に対してその不当性を主張し、これを廃して昌王を王位につけた。この時の李成桂の主張には「小国が大国に逆らうのは正しくない」というものがあり、事大主義だと批判する歴史家もいる。一方で、当時の高麗の軍事力で明と戦うのは無理であり合理的選択であったと考える見方もある。李成桂を支持した両班たちは、朱子学では中華を尊んで、夷狄を斥けるから、漢民族の明こそ正統な天子であり明に歯向かうことは天子の国を犯すことになるから、軍を翻した行為こそ、君臣父子の名分をわきまえたものであり、朝鮮を統治した聖人箕子の正統をつぐ資格があると正当化した。高麗の政権を掌握した李成桂は、親明政策をとり明の元号を使用、元の胡服を禁止し、明の官服を導入するなど政治制度の改革を始めた。だが、昌王の即位に対しては李成桂の同志でライバルでもあった曺敏修との対立があり、李成桂は昌王を廃位し、1389年に最後の王恭譲王を即位させた。その際、先々代と先代の王と昌王は殺された。家臣の中には李成桂を王位に就けようという動きが有ったが、李成桂はこの時は辞退している。だが、やがて李成桂を王にしようとの勢力は次第に大きくなり、この勢力に押されて、1392年に恭譲王を廃位し、自らが高麗王になった。高麗王家一族は都を追放され、2年後の1394年に李成桂の命令で処刑された。このとき李成桂は王姓を持つものを皆殺しにしようとしていたため、多くの者が改姓をしたと言われている。李は高麗王として即位後、明へ権知高麗国事と称して使者を送り、権知高麗国事としての地位を認めてもらう。明より王朝交代に伴う国号変更の要請を受けた事をきっかけに家臣の中から国号を変えようとする動きが活発化し、李成桂もそれを受け入れた。しかし李成桂は明に対して高麗王の王、昌王を殺し、恭譲王を廃位して都から追い出した負い目があり、明へ国号変更の使者を出した際、自分の出身地である「和寧」と過去の王朝の国号である「朝鮮」の2つの国号の案を明に出して恭順の意を表した。翌年の1393年2月、明は李成桂の意向を受け入れ、李成桂を権知朝鮮国事(朝鮮王代理)に冊封して国号が朝鮮国と決まった。朝鮮は李成桂が新たな国号の本命として考えていたものであり、この結果は彼にとって満足の行くものであった。しかし明は李成桂が勝手に明が冊封した高麗王を廃位して代わりの王を即位させたり、最後には勝手に自ら王に即位して王朝交代したことを快く思わず、李成桂は朝鮮王としては冊封されずに、権知朝鮮国事のみが認められた。明と朝鮮の関係は、宗主国と属国、君臣父子の関係であり、李氏朝鮮は中華の分身の小中華・東方礼儀の国と自称して、事大とは君臣父子の礼をもって宗主国の明に仕える関係に立って中国と事大外交を繰り広げた。そこでは事大・属国とは征服・植民地とは異なり、道徳的・観念的なものであり汚らわしいものではないとする。この関係を陸奥宗光は、朝鮮との折衝で、中国と朝鮮の宗属関係はなんとも複雑怪奇だと、嘆いている。 朝鮮に国号を改称した李成桂は新たな法制の整備を急ぎ、また漢陽(今のソウル)への遷都を進めた。崇儒廃仏(儒教を崇拝し、仏教を排斥する)政策をとり、儒教の新興と共に仏教の抑圧を開始した。しかし、この政策は李成桂が晩年仏門に帰依したため一時中断され、本格的になるのは李成桂の亡くなった後の第4代世宗の時代になる。仏教弾圧の理由には、前王朝高麗の国教が仏教であったということが大きな理由の一つとして挙げられる。李成桂は新王朝の基盤を固めるため、八男・李芳碩を跡継ぎにしようと考えていたが、他の王子達がそれを不満とし、王子同士の殺し合いまでに発展した。1398年に起きた第一次王子の乱により跡継ぎ候補であった李芳碩が五男・李芳遠(後の太宗)により殺害され、このとき病床にあった李成桂は、そのショックで次男の李芳果に譲位した。これが第2代定宗である。しかし定宗は実際は李芳遠の傀儡に過ぎず、また他の王子達の不満も解消しないことから1400年には四男・李芳幹により第二次王子の乱が引き起こされる。李成桂はこれによって完全に打ちのめされ、仏門に帰依する事になる。一方、第二次王子の乱で反対勢力を完全に滅ぼした李芳遠は、定宗より譲位を受け、第3代太宗として即位する。太宗は、内乱の原因となる王子達の私兵を廃止すると共に軍政を整備し直し、政務と軍政を完全に切り分ける政策を執った。また、この時代は朝鮮の科挙制度、身分制度、政治制度、貨幣制度などが整備された。明に対しては徹底的な親明政策を執り、1401年には明から正式に朝鮮王の地位に冊封される。太宗は、1418年に世宗に王位を譲り上王になったが、軍権はそのまま維持し、1419年の応永の外寇と呼ばれる対馬への侵攻を指示したが、対馬国守護大名の宗貞盛の奮戦により大損害を被り、撤退した。次代の世宗、いわゆる世宗大王の時代が、朝鮮の中で政権が最も安定していた時代とされる。王権は強固であり、また王の権威も行き届いていた。一方で1422年まで太宗が上王として実質的な権力を保持していた。世宗は、まず政治制度を王の一極集中型から議政府を中心にした官僚主導の政治に切り替えた。これには世宗の健康問題もあったと言われている。また、明との関係を良好に保つための人材育成にも力を入れた。その中の作業の一環として、現在のハングルの元になる訓民正音の編纂作業が行われた。世宗の時代は31年に及び、軍事的安定と政治的安定のバランスが取れていた時代である。またこの時代に貨幣経済の浸透が進んでいった。対外的には侵攻戦争をたびたび行い、1437年には豆満江以南の女真地域を侵攻し制圧、六鎮を設置して支配した。その後も女真とは対立を続け、幾度も侵攻に乗り出している。第6代の端宗(第5代文宗の息子)は11歳で即位したため、政治に関しては官僚が全てを決裁する形となり王権の空洞化が進んだ。それに伴って他の王族の勢力が強くなり、たびたび宮廷闘争などが頻発する様になる。その混乱の中で、文宗の弟であり端宗の叔父である首陽大君は巧みに勢力を拡大し、1455年に端宗に圧力をかけて王位を譲らせ、自ら国王となった(世祖)。世祖は反対勢力を強力に排除し、王権を集約する。軍政や官制の改造を行い、軍権を強めると共に職田法を導入して、歳出を抑えた。これらの政策は地方豪族の反発を招き、地方反乱が頻発するが、世祖はこの反乱を鎮圧することで中央集権体制を確立させるのに成功する。一方で、日本とは融和政策を採り外交を安定させると共に、民生を安定させた。しかし強権的な中央集権主義により、自らに服従する功臣達を優遇し、高級官僚は自らの側近で固められ、実力のある者も高位には就けなくなった。これらの世祖に優遇された功臣達は後に勲旧派と呼ばれる様になる。また、儒者の多い批判勢力を牽制するために仏教優遇政策を取った。1467年の李施愛の乱では批判勢力を弾圧したが、鎮圧に活躍した亀城君(世宗の四男の次男)ら王族が台頭した。世祖の死後、睿宗が即位したが19歳で逝去。1469年に13歳の幼い王成宗が即位し、貞熹大妃が垂簾聴政を行なったが国政は不安定になった。1470年、王族である亀城君が世祖と同じ事をするのではないかと恐れた大臣達は彼を追放し、王族の政治への関与を禁止した。これによって、政治の中枢から王族は排除され、臣下の牽制としての王族の役割は終了する。政治の中枢は勲旧派が占めており、かれらが政治を壟断していたが、成宗の親政時代になると士林派勢力を取り入れるようになり、これに脅威を感じた勲旧派や外戚と士林派勢力の対立を産むが、成宗の治世(1469年 - 1494年)では政治的には一応の安定を見た。成宗の母仁粋大妃と2番目の王妃斉献王后が対立し、1482年に廃妃尹氏は賜死した。成宗が亡くなり燕山君が王位に就くと、勲旧派と士林派による対立が表面化し、1567年まで続くことになる。燕山君は士林勢力を疎ましく思っており、それと勲旧勢力による諫言などもあり、それが1498年の最初の士禍、戊午士禍と言う形で現れる。この時、士林勢力の筆頭・(1431年 - 1492年)の弟子を始め多数の士林派が王宮から追放された。その後も燕山君は、生母廃妃尹氏の死の経緯を知り、1504年の甲子士禍で士林勢力と勲旧勢力の無差別大量殺戮を行い、この勢力を殺ぐ事につとめていたが、1506年、朴元宗・・らのクーデター中宗反正()により廃位、追放された。同年、朴元宗の姪にあたる章敬王后が中宗の後宮に入り、大尹派が形成されていく。次代中宗の時代も勲旧派と士林派の対立は止まらず、政局の混乱が続いていた。その中で、朝鮮居住の対馬の民などによる三浦の乱が、1510年に起きている。中宗は最初、士林派を積極的に登用していたが、士林勢力の首魁であった趙光祖の改革があまりに性急であるため、中宗はかえって不安を感じ、勲旧勢力の巻き返しもあって、1519年に趙光祖一派は投獄、追放、死刑などにされ(己卯士禍)、士林派の勢力は大きく後退してしまう。その後も勲旧勢力と士林勢力は繰り返し衝突し、政局は混乱を続けていた。1545年に明宗が12才で即位すると、文定王后が垂簾聴政を行なったが、同じ尹氏の仁宗の伯父・の率いる大尹派から批判を受けると、同年に文定王后の次兄・尹元衡の率いる小尹派による乙巳士禍で粛正された。この時代に起きた、戊午士禍、甲子士禍、己卯士禍、乙巳士禍の事を「四大士禍」と呼ぶ。1567年の宣祖の即位により、士林勢力が最終的に勝利を収め士林派が中心となって政治を行う時代が始まったが、士林勢力は1575年には西人と東人と呼ばれる2つの勢力に分裂し、主導権争いを続けるようになった。この時代に見られる派閥に別れて論争を繰り広げる政治体制の事を朋党政治と呼ぶ。党派の分裂は再度の政局混乱を呼び、各王はその安定を求めて様々な施策を試みなければならなくなった。東西に別れた士林派は互いを牽制していたが、李珥(李栗谷)がこの対立を抑えている間は両党派とも目立った動きは起こさなかった。1584年に李珥が亡くなると両党派ともに政治の主導権を抑える為に活発な動きに出る。当初は東人有利に進んでいたが、朝廷をほとんど掌握しかけたところで、鄭汝立の謀反事件が起こり、西人が主導権を握るようになる。しかし1591年に世子冊立の問題で西人が失脚すると東人が勢いを盛り返し、以後30年に渡って政権を掌握した。東人は西勢力の処罰の件で、死刑などを主張した強硬派のを中心とした北人と穏健派のを中心にした南人の2つの派閥に分裂した。その頃、日本を統一(天下統一)した豊臣秀吉は大陸への進出のために1589年、対馬を通じて、日本に服属し明征討の為の道を貸すべしとする外交を取り始めた。朝鮮側では日本の真意をはかりかね、日本の本意を探るため1590年3月、西人の黄允吉を正使、東人の金誠一を副使とし、通信使を送ることにした。この使節が日本に滞在している間に、朝鮮内の勢力は西人優勢から東人優勢に変化しており、そのことがその後の判断に影響を与えた。1591年3月に通信使が帰朝すると正使・黄允吉は、「日本は多くの軍船を用意して侵攻の準備をしている」と報告したのに対し、副使・金誠一は正反対の「秀吉は恐れる必要は無い」と報告をした。相反する報告を受け取った為、西人・東人ともに自派の意見を擁護し論戦になったが、このとき既に東人が朝廷を掌握していたことと王自身が戦争を心理的に忌避していたことなどから「侵攻説をむやみに流布することで民心を乱す行為は良くない」と言う結論に達し、一切の防衛準備を放棄し、またそれに準じる行為も禁止した。しかし1592年になり、朝鮮の倭館に居た日本人が次々に本国に帰っていくのを見ると、遅まきながら秀吉の朝鮮出兵は本気であることに気が付き、防衛準備を始めるが、時既に遅しであった。1592年4月13日の文禄の役では態勢の整わない朝鮮軍は各地で敗北を重ね、豊臣軍に国土を制圧された。豊臣軍は開戦半月で首都漢城を攻略し、数ヶ月で朝鮮の咸鏡道北辺まで進出した。当時腐敗が進んでいた朝鮮政府は有効な手立てを打てず治安悪化により全土で国土は疲弊した。それに対して危機感と、日本への反感を持った民衆が抵抗を開始した。民衆の中には朝鮮の圧政や腐敗に不満を持っているものも多く、豊臣軍に味方した者も相当数に上った。明の援軍が進出すると豊臣軍は交渉解決へ移行して戦線が膠着し、翌年、日本と明は和議交渉の過程で朝鮮南部の沿岸へ一旦兵を引き上げた。しかし、和議は失敗に終わり、1597年1月15日、秀吉は再び朝鮮半島へ侵攻する(慶長の役)が、2回目の侵攻では全羅道と忠清道への掃討作戦を行い、明軍が漢城を放棄しないと見ると越冬と恒久占領の為に休戦期の3倍ほどの地域へ布陣した。翌年から本土で指揮を執っていた秀吉の健康が損なわれて消極的になり、泥沼状態になった戦争は秀吉の死去によって終結し、豊臣軍は引き上げた。この7年に及ぶ戦乱により、腐敗が進んでいた朝鮮の政治・社会は崩壊寸前まで追いやられ、経済的にも破綻寸前の状態に陥った。朝鮮は増収案として「納粟策」を提案したが、これは穀物や金を朝廷に供出した平民・賤民などに恩恵を与える政策である。賤民も一定の額を払えば平民になれ、平民も一定の額を出せば両班になれることとなった。この制度によって朝鮮の身分制度は大きく流動し、その構成比率は大幅に変化した。新しい体制が生まれ、腐敗は一時的に刷新された。政治には一時的に再び活気が蘇った。一方、この戦争に明は多大な出費を余儀なくされ、国力の弱体化をもたらした。これは周辺異民族への明の抑えが利かなくなるという事でもあり、女真族の勢力伸張をもたらし、後の胡乱や明滅亡の遠因になった。朝鮮では戦争終結後、政権の腐敗などで改善があったものの政争は続いていた。特に問題になっていたのが宣祖の世子(跡継ぎ)問題である。世子問題は文禄の役直前の1591年から激しくなっていたが、戦争の最中も続いていた。長男の臨海君は世子に相応しくないと言う理由で排除され、光海君を世子とすることに決まったが、1594年に明から世子冊封の要請を拒絶されたため、再び世子問題は宙に浮いたままになった。1606年、正妃の仁穆王后が永昌大君を産むとまた世子問題が再発し、光海君派と永昌大君派に別れての派閥争いが起こった。北人の中の小北と呼ばれる一派は、永昌大君派は正妃の嫡子であるからこれが正統であるとし、いま一方の大北は、光海君を世子として擁立するよう働きかけた。1608年、宣祖が重病に陥ると周囲は慌ただしくなり、後継王を決めないまま宣祖が亡くなった為、現実的な選択肢として光海君が王位につくことになった。光海君は即位すると破綻した財政の再建と現実的な外交施策を展開した。既に江戸時代に移行していた日本とは1609年に和約し、日本との外交関係の修復にも力を入れた(朝鮮通信使)。また党争の終結に力を入れようとしていたが、党争終結の為に王権を強化するには大規模な粛清を行わざるをえなかった。その範囲が反対派閥、兄弟にまで及んだ1615年まで続く粛清によって、大北派と光海君は一応の政権の安定を確保する事になる。また、民政では大同法を導入するなどの改革を行った。一方、弱体化した明とそれに乗じて伸張してきた後金(清)の間に挟まれ(サルフの戦い、1618年 - 1619年)、二極外交を展開することになる。しかし光海君によるこれらの政策は、民衆や大北以外の西人や他の派閥、他の王族や二極外交に反対する保守的事大主義者などの恨みを買うことになった。1623年2月12日、光海君は自身の甥にあたる綾陽君と西人を中心とした勢力によって、宮廷を追放され廃位に追い込まれた。西人勢力は大北勢力を宮廷から追放し、綾陽君を擁立、仁祖として即位させた。この事件をと言う。仁祖と西人派はクーデターの後、大北派の粛清を行い、これによって北人の勢力は小北派の一部を除いてほぼ消滅する。そして、西人を主とし南人を副とする党派体制を確立する。しかし仁祖即位直後の1624年には、李适による反乱事件()が起こり、仁祖が一時期漢城から避難、北方の正規軍を乱の平定のために投入しなければならなかった。外交政策は、明と後金の二極外交から、親明背金の親明外交を展開したが、この政策は裏目に出た。二極外交を破棄された後金は、1627年、3万の兵力で朝鮮に侵入した(丁卯胡乱)。朝鮮側は、破竹の勢いを続ける後金軍を相手に敗北を重ね、仁祖は一時江華島へ避難することになった。その後、朝鮮側の抵抗により戦局が膠着し始めると、打開の策を持たない朝鮮側と、朝鮮を通じて明との交易を維持したい後金側は講和に応じた。だが後金の提示した条件に対し、主戦派の斥和論と講和派の主和論を巡って論争が繰り広げられた。既に後金と戦う余力が無い朝鮮側は結局講和を呑むことになり、後金を兄、朝鮮を弟とする条件を呑んで、以後一切朝鮮は後金には敵対しないとして講和した(丁卯約条)。講和が成立すると、一旦後金軍は撤収する。のち仁祖は国防対策を見直し、北方と沿岸地域の防衛力を強化し、1628年に漂着したオランダ人ペルテブレより大砲を導入するなど軍事力を強化した。1636年、後金は清と国号を変更し、朝鮮に対して清への服従と朝貢、及び明へ派遣する兵3万を要求してきた。この時の朝鮮は斥和論が伸張しており、この要求を拒むと、同年、清は太宗(ホンタイジ)自ら12万の兵力を率いて再度朝鮮に侵入した(丙子胡乱)。朝鮮側は南漢山城に籠城したものの、城内の食料は50日分ほどしかなく、その中で主戦派と主和派に別れての論戦が繰り広げられていた。しかし、江華島が攻め落とされたと言う報告が届くと45日で降伏し、清軍との間で和議が行われた。この和議の内容は清に服従すること、明との断交、朝鮮王子を人質として送ること、莫大な賠償金を支払うなど11項目に及ぶ屈辱的内容であり、三田渡で仁祖はホンタイジに対し三跪九叩頭の礼(三度跪き、九度頭を地にこすりつける)をし、清皇帝を公認する誓いをさせられる恥辱を味わった(大清皇帝功徳碑)。清に対する服属関係は日清戦争の下関条約が締結され、朝鮮が清王を中心とした冊封体制から離脱する1895年まで続くことになる。三田渡の屈辱により仁祖は逆に「反清親明」路線を強く出し、滅亡寸前の明へ一層事大していった。政治・経済・外交とも混乱の極みの時代ではあったが、この時代には、宋時烈・宋浚吉などの学者を輩出し、朝鮮朱子学である性理学の大きな発展が見られた。一方でこれらの朱子学は党争をかき立てた。仁祖は貨幣経済の立て直しを図った。朝鮮では貨幣の材料である銅を日本に依存していた為、慶長の役以降はまともな貨幣が造れない状態が続いていた。仁祖は貨幣としての価値を失った「朝鮮通宝」の代わりに「常平通宝」を流通させ、貨幣経済の流通を促そうとしたが、後の2つの胡乱などにより、思うように進まなかった。再び充分な量の貨幣が流通し出すのは1678年の粛宗の時代に入ってからになる。次代の孝宗の時代に入ると反清論はさらに高まり、が持ち上がり、軍備の増強が進められた。しかし、征清の機会は訪れないまま北伐は沙汰止みに終わった。この時期、ロシア・ツァーリ国が満州北部の黒竜江まで勢力を広げており、清の要請に応じ、征伐のための援軍を派遣(1654年と1658年の)している。清の中国での覇権が確立した第18代顕宗の時代に入ると、社会的には平穏な時代が続く。しかし発達した朝鮮朱子学が禍となり、西人と南人により礼論と呼ばれる朝廷儀礼に関する論争を原因とする政争が政局の混乱をもたらした。その中でも服喪期間に対する論争で、西人派が勝利し、南人派は勢力を殺がれた(己亥礼訟) 。顕宗は終わり無きこの論争を止めさせるため、1666年に服喪期間に関する取り決めを行い、これ以上論争を起こした場合は厳罰に処すと取り決めた。だが1674年に孝宗妃の仁宣王后が亡くなると再び服喪期間の論争が巻き起こり、今度は逆に西人派が失脚し南人派が朝廷を掌握する様になる(甲寅礼訟)。次代、粛宗の時代に入ると党派政争はさらに激しくなり、その対策として粛宗は礼論を逆手にとり、わざと政権交代を繰り返す換局政治を行う事で、党派勢力の弱体化と王権の拡大を試みた。1680年の庚申換局(キョンシンホァングク)で西人に権力を掌握させると、1689年には、(キサファングク)で今度は南人の手に政権が移った。1694年の(カプスルファングク)で再度西人に権力が移るという具合であった。その後西人は老論と少論に分裂する。粛宗は胡乱以来続いていた民政の安定を図り大同法の適用を拡大し、社会の安定に力を入れた。また常平通宝の鋳造・流通を行うなど経済政策にも力を入れた。この時代には清との間での領土問題や日本との間に鬱陵島とその周辺の島々をめぐる帰属問題が起きた。江戸幕府は鬱陵島を朝鮮領土として承認し、同島への日本人の立ち入りを禁止するという協約を結んだ。猶現在日韓で問題となっている竹島=独島の帰属問題で、韓国側はこの交渉の際竹島=独島は鬱陵島と同様に朝鮮領土と合意されたと主張しており、対して日本側はこの交渉に竹島=独島は含まれていないと主張している。1720年に粛宗が亡くなると再び党争は激化し、老論と少論の間での政争は絶え間なく続いた。景宗が即位すると、主力勢力であった老論が権力争いに敗れ、少論が政局を握った。政権を奪った少論派は1721年から1722年に渡って、老論の粛清を行った()。景宗は短命で亡くなり、1724年に第21代王として即位した英祖は熾烈な党争を抑えるために、を行い、要職に就く者を各党派からバランス良く登用する事で政争を抑えた。蕩平策は始め老論、少論を中心に人材登用していたが、1728年には朝廷から追放された少論、南人派によるの乱が起きるとそれを逆手にとり、南人、小北にもその適用を拡大し、これら4党派を均等に登用する事で政治のバランスを取ろうと試みた。各党派は自己の党勢の拡大のため、様々な策を弄してこれに対抗したが、英祖は逆に蕩平策を強化し、同党派同士の婚姻の禁止、蕩平科の設置など、更に蕩平策を強化し、政治は安定した。その裏で各派は、世子問題などを利用して主導権を握ろうとの計略を何度も実行していた。代表的なのが荘献世子事件である。1762年英祖が、健康上の理由で荘献世子に公務の代理を務めさせようとすると、南人・少論・小北の勢力は荘献世子側に付き、老論の勢力はこれに反発する継妃の貞純王后や王女のなどを巻き込み、英祖との離間策を試みた。この策は上手くはまり、荘献世子は精神を病んでしまい異常行動を取るようになった。それに激怒した英祖は自決を命じ、最終的に荘献世子は庶民に落とされ、米びつに閉じ込められ餓死させられる。事件後、荘献世子には「思悼」と言う諱号が送られた。この事件を深く悔やんだ英祖は蕩平策をさらに強めるが、朝廷内の党派はさらに分裂を生じ、荘献世子の死は正当であるとする老論を中心とした(時流に逆らう派閥という意味)とその死に同情し、不当とする南人・少論を中心としたに別れ、それぞれの党派がどちらかに属すなど、党派の分裂はさらに混乱を極めた。なお、この時代の1763年には日本へ赴いた朝鮮通信使がサツマイモを持ち帰っており、飢饉時の食糧対策として取り入れられた。英祖の晩年になると、水面下で行われていた党争は再び表面に現れて来る。英祖の治世期間は52年と非常に長く、次代の正祖の時代に入ると新たな局面を迎える。謀殺された荘献世子の息子であった正祖は、1776年、王位に就くと反対勢力である老論の排除を始め、自らの側近で朝廷内を固めた。その代表格が洪国栄であり、洪国栄が実際の政務を取り仕切っていた。この時代を洪国栄の勢道政治の時代と呼ぶ。しかし1780年王妃毒殺未遂事件が発覚すると洪国栄は追放され、正祖による文化政治が行われる。基本的には英祖の蕩平政治の継承であり、派閥ではなく実力によって、人材登用を行うという政策であった。英祖晩年に劇的に構成が変化した党派、僻派と時派を中心にした蕩平策を取り入れた。正祖は党争を嫌っていたものの、父の死を正当とする僻派勢力よりも父の死に同情的な時派寄りの立場を取った。しかし、僻派と時派による政治的党争は依然として続いたままであった。この頃に中国を経由してカトリックが流入してきており、そのカトリックの儀式が儒教の儀式と相反する事から、このことが党争の争点となってくる。僻派はカトリック葬礼などの儀式は儒教の礼儀に反するものだと攻撃し、攻西派を形成した。一方、時派勢力はカトリックを黙認したり、受容するなどの動きを見せ信西派の勢力を形成した。この問題は朝廷でも問題になってきており、1791年に最初のカトリック弾圧事件()が起きた。攻西の僻派は徐々に勢いを取り戻してくる。1795年に中国人神父の密入国事件が起きると、更に僻派は勢いを増し、は崩壊する。信西派の多い南人勢力はほとんど追放され、老論僻派のみが朝廷に残っているという状態であった。この時代は英祖の50年以上にわたる文化政治と清からの西洋文明の流入も相俟って、文化的発展を見た時代でもあった。しかし党争の激しい朋党政治は行き詰まりを見せ、既に崩壊寸前であった。1800年、純祖は10歳で即位したため、英祖の継妃であった貞純王后が代わりに執政を行った。貞純王后は蕩平政治を完全にやめ、僻派の利権を優先する政策を採った。そのために支持派の勢力を大量殺戮し、僻派の要人を大量登用して僻派政権を樹立させる。一方で、1801年、王朝を守るためとの理由でカトリックの弾圧を強化した()。この弾圧でカトリック信者、巻き込まれた者もあわせて数万人が犠牲になったと言われている。カトリックへの弾圧はこの後も1815年、1827年、1838年、1839年()、1846年()、1866年(丙寅教獄)など、断続的に行われた。1802年、の娘が王妃純元王后になる。1804年、14歳になった純祖による親政が始まった。金祖淳は時派に属していたが、党派色を表に出さない事で貞純王后の士禍から逃れることが出来た。1805年貞純王后が亡くなると、金祖淳は王の外戚として政治の補佐を行うようになり、貞純王后によって登用された僻派の要人を大量追放する。その一方で、王の政治を補佐するとの名目で、自分の本貫である安東金氏の一族から大量に人材を登用する。このことで士林派による政治は終焉を迎え、金祖淳を筆頭にした安東金氏が政治を壟断する勢道政治の時代が始まる。安東金氏による政治の専横が始まると、官職から追放された両班があぶれ、また政治綱紀が乱れ汚職・収奪などの横行が頻繁に起こるようになり(三政の紊乱)、農民反乱が頻発した(朝鮮後期の農民反乱)。1811年に起きた洪景来の乱は農民だけでなく、西北地方への地域差別に対する反発や没落両班、新興地主などを巻き込んだ大規模な反乱となったが、1812年に鎮圧された。安東金氏は次代、わずか7歳で即位して22歳で崩御した憲宗、次々代王哲宗にも王后を送り込み、外戚として権勢を振るった。勢道政治は、哲宗の時代に絶頂を迎え、59年にわたって朝鮮の政治を牛耳っていた。1845年にはイギリスの軍艦が済州島付近の海域に侵入。1846年には、フランス海軍によるカトリック弾圧に対する抗議など、西洋列強の干渉が始まる。安東金氏による勢道政治は、王権の弱体化と王朝の混乱を生じさせた。王族は直接政治へ関与できなかったために手をこまねいているしかなかったが権力奪取の動きが出てくる。1863年に第26代王高宗が即位するまで、依然、朝廷の権力は安東金氏が掌握していた。憲宗の母である神貞王后(趙氏)と応(は日の下に正。興宣君)は、この権力構造を打ち破り、王権を取り戻そうと策を巡らせていた。応は、安東金氏の目をそらすために安東金氏一門を渡り歩いて物乞いをするなどし、安東金氏を油断させる事で護身を図った。やがて哲宗が重病に陥ると、自らの次男の聡明さを喧伝し、哲宗が亡くなると神貞王后と謀り、自分の次男を孝明世子(翼宗)の養子とし、そのまま高宗として即位させた。神貞王后が高宗の後見人となり、李昰応は大院君に封ぜられ(興宣大院君)、摂政の地位に就いた。このとき高宗は11歳であった。興宣大院君が摂政になるとまず行ったのは、安東金氏の勢道政治の打破であった。安東金氏の要人を追放し、党派門閥を問わず人材を登用し、汚職官僚を厳しく処罰するなどして、朝廷の風紀の乱れをただす事に力を入れた。また税制を改革し、両班にも税を課す事とし、平民の税負担を軽くした。大院君政権は、迫り来る西洋列強に対しては強硬な鎖国・攘夷策を取った。この極端な攘夷策が、後の朝鮮朝廷の混乱の遠因となった。まずカトリックへの弾圧を強化し、1866年から1872年までの間に8千人あまりの信徒を殺害した(丙寅教獄)。この折のフランス人神父殺害の報復としてフランス政府は、1866年、フランス軍極東艦隊司令官のローズ提督は戦力のほぼ全てを投入して(軍艦7隻、兵約1300名)して江華島の一部を占領し、再度の侵攻で江華城を占領する。しかし首都漢城へ進軍中に文珠山城と鼎足山城で発生した2つの戦闘で立て続けに敗北したフランス軍は漢城への到達を諦め1ヶ月ほどで江華島からの撤退を余儀なくされる(丙寅洋擾)。一方、この事件の2ヶ月前にはアメリカ商船ジェネラル・シャーマン号が通商を求めてきたが、地元の軍と衝突し、商船は沈没させられてしまう(ジェネラル・シャーマン号事件)。アメリカは同事件を機に朝鮮へ通商と損害賠償を求め、1871年には軍船5隻を率いて交渉に赴いた(辛未洋擾)。この交渉が朝鮮側の奇襲攻撃によって拒絶されるとアメリカ軍は江華島を占領し、通商を迫った。しかし大院君の強硬な開国拒絶により、アメリカ軍は1ヶ月で交渉を諦め撤退する。大院君はこれらの攘夷政策の成功を以って、さらに攘夷政策を強化するが、1866年になると王宮に入った閔妃の一族や大臣達が、大院君の下野運動を始める。1873年、閔妃一派による宮中クーデターが成功、高宗の親政が宣言され、大院君は追放される。一方で政治体制は閔妃の一族である閔氏が政治の要職を占める勢道政治へと逆戻りしていった。これ以後大院君は、政治復帰のためにあらゆる運動を行う事になり、朝廷の混乱の原因の一つとなった。閔氏一族は、大院君の攘夷政策から一転し開国政策に切り替える。1875年には日本軍が開国を求めて江華島に侵入してきた(江華島事件)。開国派が主流をなした閔氏政権は、1876年に日朝修好条規(江華島条約)を締結する。それに引き続いて、アメリカ(米朝修好通商条約)、フランス、ロシアなどとも通商条約を結ぶ事になる。一方で、開国・近代化を推し進める開化派と鎖国・攘夷を訴える斥邪派の対立は深刻になっていた。また、日本から顧問を呼び近代式の新式軍隊の編成を試みていたが、従来の旧式軍隊への給与不払いや差別待遇などが行われていた。これらに不満を持った旧式軍隊は、大院君・斥邪派(攘夷派)の煽動も有って、1882年に閔妃暗殺を狙い、クーデターに動いた(壬午事変)。この軍乱で新式軍隊の教育を支援していた日本も標的とされ日本公使館が焼き討ちにされ日本人が多数殺害された。一時的に大院君が政権を掌握するが、閔妃は清の袁世凱に頼みこれらの軍を排除、大院君は清に連行された。事変後には済物浦条約が締結され、日本に謝罪を行うとともに日本人保護のために日本軍の朝鮮駐留が認められた。壬午事変により閔氏政権は、親日開明政策から開明に消極的な親清政策へ大きく転換する事になる。清と結ぶ保守的な事大党が権力を握り、日本と結んで朝鮮の清からの自主独立と近代化をめざした開化派(独立党。金玉均、朴泳孝ら)と対立し、親日開化派は孤立した。また混乱から国内では反乱が生じる。1884年12月、開化派がクーデターを起こし、閔氏を排した新政府を樹立するものの、袁世凱率いる清軍の介入により3日間で頓挫し、清国軍と朝鮮人によって日本公使館は焼き払われ日本人数十人が殺害され、金玉均らは日本に亡命した(甲申政変)。事件後には守旧派によって開化派への処刑が徹底的に行われ、開化勢力は消滅し、清国の影響力が増大した。1885年にはイギリス軍によって巨文島が占領された()。また1894年には東学党の乱(甲午農民戦争)が勃発すると親清派の閔氏勢力は清に援軍を求め、一方日本も条約と居留民保護、列強の支持を盾に介入し、乱は官軍と農民の和議という形で終結するが、清王軍と日本は朝鮮に駐屯し続けた。日本は閔氏勢力を追放し、大院君に政権を担当させて日本の意に沿った内政改革を進めさせた。しかし、攘夷派であった大院君はもはや傀儡に過ぎず、実際の政治は金弘集が執り行っていた。なお東学党の乱に先立つ1894年3月28日、金玉均が上海で閔氏勢力の差し向けた刺客により暗殺されている。1894年、駐留していた清軍と日本軍との間の軋轢から日清戦争が勃発し、日本軍が勝利すると、下関条約によって朝鮮と清朝の冊封関係は終わり、朝鮮は清への服属関係を廃棄し、独立国となった。しかしその後、朝鮮は宗主国をロシアに変える動きを見せ、閔妃はロシアに近づき、親露政策を取る事になる。これにより1895年10月に閔妃が惨殺される(乙未事変)。自分の后が暗殺された高宗は1896年、ロシア領事館に退避する(露館播遷)。1年後高宗は王宮に戻るが、これは国としての自主性を放棄するのに等しい行為であり、これにより王権は失墜し、日本とロシアとの勢力争いを朝鮮に持ち込む結果となった。1897年、朝鮮は大韓帝国と国号を改称し、元号を光武とした。1904年になると、日露戦争が勃発し、日本が勝利する。1905年には第二次日韓協約が締結された。日本は朝鮮(大韓帝国)の外交権を接収し、内政・財政に関しても強い影響力を得て朝鮮の保護国化を推し進めていく。これら一連の主権接収の責任者となったのは伊藤博文であった。一方、高宗も1907年オランダのハーグに密使を送り、列強に保護国化政策の無効化を訴え出るが(ハーグ密使事件)、この主張は国際社会に拒絶された。これらの動きに対し李完用などの親日派勢力、及び韓国統監伊藤博文は高宗に譲位するよう迫り、同年退位した。代わりに最後の朝鮮王、大韓帝国皇帝である純宗が即位した。1906年、日本は韓国統監府を置き、伊藤博文を初代統監とした。日本政府内では併合派と反対派が拮抗しており議論が紛糾していた。元老でもあり日本政界に発言力を持っていた伊藤博文は併合派に対して異論を唱え、併合には反対の姿勢をとった。彼が併合に反対する理由として述べたのは、1909年10月26日に伊藤博文が安重根によって暗殺されると、韓日合邦を要求する声明書が朝鮮人によって出されるなど併合派が優勢となり韓国併合および大韓帝国の滅亡は決定的なものとなった。日本政府は韓日合邦を掲げる韓国一進会や日韓併合派の李完用とともに交渉を進め、1910年8月22日に韓国併合ニ関スル条約が締結、ここに大韓帝国は日本の一部となり、朝鮮半島の国家は完全に消滅した。なお、韓国皇族は日本の皇族に準じる地位(王公族)に封ぜられ、処刑もしくは追放などの厳罰処置は行われなかった。日本に併合されて(大韓帝国が滅亡して)まもなく、朝鮮人の一部宗教家や学生らによる三・一独立運動又は「三・一鮮人暴動」と呼ばれる反日蜂起が起こったが、朝鮮総督府当局の鎮圧により終息した。朝鮮の国王は、全州李氏の出自である初代国王李成桂の子孫(李王家)によって世襲され、国号を大韓帝国と改めた高宗までの間に26代を数えた。中国に倣った朝鮮の国制によれば国王は国家の最高権力者であるが、明では廃止された合議制による宰相の制度があり、中国ほど徹底した専制制度ではない。また、上述のとおり王族の李氏は女真族系の出自であるとする説がある。明や清の皇帝に臣従する立場から、国王・王妃・大妃の敬称に殿下を用いた。王位継承の第一順位の王子も「太子」という称号は使えず王世子と呼ばれ、王世子・世子嬪の敬称には邸下が用いられた。1894年に独立を宣言してからは王・王妃等の敬称を陛下に改め、殿下は王太子・王太子妃の敬称となった。官の上下関係は、中国に倣った官品制をとる。それぞれの官には対応する品が定められ、品は一品を最上位とし、以下、二品、三品、と一品から九品までの九階に分かれていた。各品には正と従の区別があり、正一品の官が最上位、従九品の官が最下位となる。その中で正三品は堂上と堂下に別れ堂上官は王宮に上がり王と対面する事が可能だった。一般的に高官と呼べるのは従二品以上であり、品階により、住居・衣服(〜従三品:赤官服、正四品〜従六品:青官服、正七品〜:緑官服)・乗り物などに差が付けられていた。これらの官職は常時改変が為されていたが正式にまとめられた形で出てくるのは世祖時代の『経国大典』による。官は、大きく内府である女官の内命婦、外府である京官職および外官職に分かれる。また、王族女子・功臣・文武官の妻に対する官位(外命婦に属す)もあるが、名目上のものであった。それ以外では、中国からの使節の応対を行う非常勤職の名誉職奉朝賀、宮殿の内侍を行う内侍府(大抵、宦官が職務に付き王の身の回りの雑務を行う)、雑役に従事する雑職などがあった。王朝に仕える諸官は科挙を通じて、文官は文科、武官は武科によって選抜され、武官は文官に比べて常に地位が低く置かれていた。また中人階級が就ける技術職は更に下に位置し、雑科によって選抜された。特に李氏朝鮮初期の王子達の私兵による争いの後は、武官・軍事に関しては厳しく管理されていた。また、各官府には官職・官位の上限があり、決められた品以上に就くことは出来なかった。王族は宗室と呼ばれ、自動的に京官職の宗親府に属する。宗室も一般の官と同様に正一品が最上位になるが、王の子(大君・王子君・公主・翁主)は位階制度の上にあって品を持たない。最も上の官職は君と呼ばれ、正一〜従二品が与えられる。外戚や功臣なども忠勲府に属し、最高位を正一品とした官職が自動的に与えられた。忠勲府の最高位は府院君であり、次が君である。従って君と言う称号は王子・王族の事を差す訳ではない。行政の最高機関は議政府であり、基本的に文官のみが付くことが出来た。議政府の最高位は正一品の領議政であり、その下に同じく正一品の左議政と右議政が居た。他の正一品の官職には各院・各府の都提調・領事などがある。議政府の次に位置するのが正二品の判書であり六曹の大臣やその他の官衙長官の職務を担当し、判書を補佐するのが従二品の参判や、正三品堂上の参議であった。また、功臣の子弟や外戚は成年すると自動的に忠勲府や宗親府に配された為に科挙を受けなくても官品を受けることが可能であり、まず役職を授かってから科挙を受け、官僚になることが多かった。朝鮮八道という、大きく8つの道に分けて行政を行った。現代の北朝鮮・韓国の行政区分もこの朝鮮八道を元にしている。また、首都漢城と開城・江華・水原・広州の4都は直轄地とされ京官府に属し、漢城は漢城府が、四都は各府の留守職がこれを治めた。朝鮮時代の特徴は500年の長きにわたって続いた儒教道徳に基づく統治である。これは身分制度を強固なものとし、差別意識を助長したり、数多くの派閥抗争を引き起こし、かつ対抗派閥への攻撃の大義名分などの手段として使われ、さらに技術・労働階級の蔑視による技術発展の阻害、軍事の弱体、愚民化や現実に沿わない外交、内政を支配者に行わせる原因となった。その一方で儒教は高麗末期の腐敗仏教を打破し、また王朝後期には革新思想が生まれてきたように知識人が政治や社会の変革を考える要因ともなった。儒教の影響力がかなりの程度減じた現在の韓国・北朝鮮でも、このような儒教の二面性は形を変えつつ存続しているとされている。日本の統治下で育った韓国の朴正煕元大統領は自著『国家、民族、私』で、朝鮮について次の言葉を遺している。「四色党争、事大主義、両班の安易な無事主義な生活態度によって、後世の子孫まで悪影響を及ぼした、民族的犯罪史である」「今日の我々の生活が辛く困難に満ちているのは、さながら李朝史(韓国史)の悪遺産そのものである」「今日の若い世代は、既成世代とともに先祖たちの足跡を恨めしい眼で振り返り、軽蔑と憤怒をあわせて感じるのである」現在の韓国では、この考え方は当時の大日本帝国の教育体制の影響を受けた「植民地史観」であり。つまり当時の日本は自分の支配を正当化するため、態々「宗主国の日本こそ、朝鮮半島の人々を苦痛や悲しみや奴隷状態から解放させた恩人だ」という思考を植民地人である朝鮮人に教えたとされ、歴史教科書等では逆に「朝鮮時代は素晴らしかったが、それを日本が奪った」と記述されている。当初は高麗を踏襲して開城を首都と定めていたが、間もなく漢陽(漢城、現在のソウル)へと遷都が行われた。その後、王子の乱等によって生じた混乱から、開城と漢陽を行き来していたが、第3代太宗以降は漢陽に落ち着く。李氏朝鮮末の漢陽の人口は約25万と推定されている。儒教思想により、王宮より高い建物を建てることはできず、街には2階建ての建物は存在していなかった。風水思想とオンドルの効果を高める為に半階建てとも言える低い家が建てられていた。漢陽内の土地は全て国の所有物であり許可無く建物を建てることができず、階級・派閥によって居住区が指定されていた。首都内に土地を借り、建物を建てる許可を得るには年月がかかるため、民間人による街路の占拠が盛んに行われ、仮屋と呼ばれる建物により道幅は非常に狭くなっており、商店の建ち並ぶ通りは雑然とした雰囲気に充ちていた。また汚水処理の施設や対策は1905年の第二次日韓協約の直前の10月までに行われず、韓国政府と皇太子(後の大正天皇)の寄付をもってようやく本格的に公衆トイレの設置と道路の清掃作業が行われるようになった。それ以前の漢陽は道路も河川も汚物に汚れるに任せていた。19世紀初めのロンドンの下町では、アパートの上層の住民が排泄物をおまるで路上にぶちまけるので、常に頭上を注意しなければならなかったという逸話があるが、そのイギリス人で開国後の李氏朝鮮を旅行したイザベラ・バードや、李氏朝鮮末期の開国前にキリスト教布教に携わった宣教師などの西洋人ですら、漢陽(現在のソウル)を「世界でも指折りの不衛生な都市」と指摘している。イザベラ・バードが漢陽(現在のソウル)を訪れた時、漢陽を世界有数の不衛生な街と評したが、これは公衆衛生という概念が無く汚水の処理などが殆ど行われていなかったためである。朝鮮は20世紀初頭からの日本に併合されるまで、糞尿を道端ですることがごく当たり前に行われていた。かつては緑で覆われていた朝鮮の国土であったが、冬の寒さの厳しさからオンドルに使う薪にすることや、伝統的な焼畑農業のために大量の樹木を伐採した。朝鮮の大地は岩盤でできているため、木を切ると表土が流れ出してしまい、また植林をほとんど行わなかったため、李氏朝鮮末期には多くの山が禿げ上がっていたといわれる。このため農業生産が壊滅し、農民は肥沃な満州に移民した(間島)。そのため国家的に松の伐採を禁止したりした(禁松令)。なお、日本による統治時代に多くの山で総督府による植林が行われ、現大韓民国においても計画的な植林事業が行われた結果、少なくとも韓国側では植生は大幅に回復している。半島の北の満洲("マンチュリア")に住んでいた女真人とは紛争が繰り返されるとともに交易も行われていたが、朝貢に近い儀礼関係を結ばせていた。しかし、女真は同時に明に対しても服属していたため、朝鮮が女真に対して朝貢させていたことを明が咎めたこともある。朝鮮政府は女真を「胡」だとして「オランケ」と呼び、蔑視の対象にしていた。それだけに、17世紀に女真の建てた後金(のち清)に武力で服属させられ、さらに清に明が滅ぼされたことは朝鮮の思想界に大きな衝撃と影響を残すことになり、小中華思想となって表れた。その後、日清戦争に至るまで500年に渡り、李氏朝鮮は中華王朝たる明および清の冊封体制の中にあり、中華王朝に事大の礼を尽くしていた。朝鮮の君主は中華王朝の皇帝を世界でただ1人の天子として敬い、皇帝に対する朝貢や、朝鮮に対する使節の歓待を礼を尽くして行い、「東方礼儀之国」と呼ばれた。このような思想を朝鮮の人々に浸透させるイデオロギーとして儒教が活用され、儒教の本場として中華王朝には敬意が払われた。秀吉の日本軍の侵攻に際して明が援軍を出して助けたことは「再造の恩」と呼ばれ、17世紀には実力で屈服させられている清よりも恩のある明を敬うべきとする議論がなされる。事実、明から下賜された諡号は公式記録に残しているが、清に恭順した16代の仁祖以降は清から下賜された諡号を外交文書を除き、朝鮮王朝実録を始めとする全ての公文書から抹消し国内では隠していた。事大主義をとっていた李氏朝鮮では、中華王朝の人間はたとえ犯罪者でも裁くことができず、本国へ丁寧に輸送すべきものとされていた。そのため後期倭寇最盛期には明人倭寇を討ち取ってしまい処罰される者が出るほどであった。朝鮮が朝貢していた明や清の皇帝からはしばしば使節が派遣されるが、このとき朝鮮王みずからが皇帝の勅使に対して三跪九叩頭の礼を行い、皇帝に臣従する意を確認する儀礼が行われた。この儀礼のために漢城の郊外に作られたのが慕華館・迎恩門であり、国王は使節が漢城に至ると慕華館で出迎えて礼を尽くす慣わしであった。後に李氏朝鮮と清の冊封関係が終わると、慕華館は独立館となり、迎恩門は破壊された(後述)。中国以外の国や民族に対しては、自身を中華世界の上国として位置付け、交易や政治関係において朝鮮国王への服従を要求する擬似朝貢体制をとった。明が滅び清が興ると中原の中華文明は滅んだとみて、朝鮮が中華文明の正統な継承者だと考えるようになった。いわゆる小中華思想である。そこで李氏朝鮮は、周辺国の女真・琉球・日本とは交隣外交を繰り広げた。それは、女真・琉球・日本の野蛮国は獣の類だから人間付き合いはできないが、放っておいたら噛みつくため適当にあしらうという外交である。南の日本人に対しては、倭寇を防ぐために、交易を認めた者も倭館と呼ばれる居留地への居住を義務付け、厳しく取り締まった。倭館ははじめ富山浦(釜山)、乃而浦(昌原)、塩浦(蔚山)の三浦にあり、三浦倭館と呼ばれたが、1509年に起こった三浦の乱やその後の倭寇事件で釜山一港に限定された。また1592年に勃発した文禄・慶

出典:wikipedia

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