斉(齊、せい、、紀元前1046年 - 紀元前386年)は、周代、春秋時代、戦国時代初頭に亘って現在の山東省を中心に存在した国(諸侯)。周建国の功臣太公望によって立てられた国である。姓は姜(羌とするのは誤り)であるため、戦国時代の斉(嬀斉・田斉)などと区別して姜斉または呂斉とも呼ばれる。紀元前386年に有力大夫の田和によって乗っ取られ、姜斉はこの時点で滅ぼされた。首都は臨淄。殷を倒した後に太公望が斉に封じられたが、当時の周の実力では東方には影響力を及ぼせず、莱(らい)と呼ばれる族がこの地域にいた。領地を与えたと言うよりは、太公望に東方を制圧する事を命じたと言った方が実情に近いだろう。太公望は萊を討ち、現地の風俗に合わせて政治を簡素にし、この地方を安定させた。三監の乱の時、成王は「東は海に至り、西は河水に至り、南は穆稜に至り、北は無様に至る間の五侯九伯が罪を犯した場合、これを討伐して良い」と命じた。その後も領土を拡大し、春秋時代に入る頃には東の強国となっていた。斉は海に面していることより塩の生産が行われ、鉄の産出地でもあったため、大いに富み栄えた。第15代桓公の時代には管仲の補佐により強大となり、周王朝に代わり諸侯の主導を取るようになり、南の楚の脅威に対抗した。紀元前667年、桓公は周王から覇者として認められ、後世春秋五覇の一人に数えられる。しかし桓公の死後に後継争いが続き、覇者の地位は晋の文公へと移った。その後も大国ではあったが主役は北の晋と南の楚に移り、それに斉と秦が絡んでくると言うのが春秋時代中期の情勢となった。この頃から徐々に大臣の力が強くなり、君主の力は弱くなっていた。斉は公族をふくむ強大な貴族である国氏・高氏・鮑氏・崔氏・慶氏・陳氏の六氏があった。24代荘公光の時の宰相崔杼は、荘公が妻と密通していた事に怒り、荘公を殺した。崔杼は別の君主を立てたが、後に殺される。その後の紀元前532年に晏嬰が宰相となり、軍事面では司馬穰苴を登用し、国政を安定させた。晏嬰は羊舌肸(叔向)との会話で、「斉はいずれ田氏に簒奪されるだろう。」と言っていた。ここでいう田氏とは上述の陳氏のことである。陳氏=田氏は紀元前672年に陳から亡命してきた田完の血筋の事である。有力な貴族たちは抗争を通じて徐々に脱落していき、最後にこの田氏が勝ち残る。晏嬰の予言通り、紀元前386年には田氏の田和が姜姓の呂氏の君主としては最後の康公に代わって斉の君主となった。これ以降の斉は田斉と呼ばれる。姜斉は、康公を君主としてなおも存続し、田斉によって渤海湾に面した莱の地(前述した莱族の故地)にわずかな領土を与えられしばらくは存続していたがやがて滅ぼされた。
出典:wikipedia
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