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ルドルフ・シュタイナー

ルドルフ・シュタイナー(, 1861年2月27日 - )は、バルカン半島のクラリェヴェクで生まれ、オーストリアやドイツで活動した神秘思想家、哲学者、教育者である。ゲーテの自然科学論や学芸雑誌の編集に携わりながら、前衛的な団体やアナキズムの傾向をもつ人々と関係するようになり、ニーチェ主義的な自由思想の立場に至るが、神秘思想の講演者に転身し、人智学(アントロポゾフィー)と称する精神運動を創唱した。人智学運動は神智学協会の神智学運動から派生したものであるが、インド思想に傾倒した神智学協会よりもキリスト教神智学に近い性格をもっており、ロマン派の自然哲学、グノーシス、薔薇十字思想の流れも汲んでいる。シュタイナーの思想はカール・グスタフ・ユング、パウル・クレー、アルベルト・シュヴァイツァーにも何らかの影響を与えた。ドイツ哲学研究者の三島憲一は、1970年代以降のドイツで緑の党に集まった知識人たちのなかに人智学に学んだ人々が多いと述べているが、その一方で、1920年代にヴァルター・ベンヤミンはシュタイナーについて「前近代への願望でしかないと見て深く軽蔑していた」(三島 2002 : 596)とも指摘している。シュタイナーは20代でゲーテ研究者として世間の注目を浴びた。1900年頃からドイツの神智学サークルと関係するようになり、神智学徒たちの集まりで講演を行うようになった。1902年に神智学協会の正会員となり、同年ベルリンで「神智学協会ドイツ支部」が設立されると、その事務総長(書記長)に選ばれた。1912年に同協会を脱退し、友人らによって設立された人智学協会(アントロポゾフィー協会)の指導にあたった。晩年の1923年末には「一般人智学協会」(普遍アントロポゾフィー協会)を創設してその代表に就任し、亡くなるまで活動を続けた。人智学について多くの著作を物し、物質世界を超えた超感覚的世界(精神界)に関する事柄を語った。その思想の詳細は、ヨーロッパ各地で行われた生涯6千回にも及ぶ講演を通じて明らかにされた。そのテーマは教育、芸術(オイリュトミーと呼ばれる舞踊など)、医学、農業、建築、経済など、多方面にわたった。シュタイナーは、ヨーロッパの秘教伝統のなかでもとりわけ重要な人物とみなされており、シュタイナーの遺したさまざまな構想は、特にドイツ語圏の国々で、小規模とはいえ存在感をもって実践され続けている。シュタイナーの著作や講演集は現在も継続してドイツ語で出版され、版を重ね、外国語にも翻訳されている。教育の分野においては、ヴァルドルフ教育(シュタイナー教育)およびヴァルドルフ学校(シュタイナー学校)が代替教育として広く普及し、日本でも、世界のヴァルドルフ学校の教員養成で学んだ者を中心にヴァルドルフ教育は実践されている。シュタイナーはドイツの観念論とロマン派の影響下でみずからの思想を形成し、ドイツ近代哲学の認識論の系譜を引いているほか、ドイツ神秘主義の影響も受けた。また、教育学者の菱刈晃夫によると、シュタイナーはヨーロッパ中世・ルネサンスから続く「魔術」の水脈を受け継いでいる。三島憲一の説明によると、ゲーテの自然科学論の影響下でシュタイナーが展開したのは、当時さまざまに模索されていた総合知のひとつのかたちであり、その背景には新プラトン主義、ドイツ神秘主義、ヨーロッパの古典的な自然科学があった。シュタイナーは宇宙の精神とむすびついた人間の内なる霊性についての認識の基礎づけを図り、また、近代社会の諸問題の克服に向けた調和への道筋を探った。22歳の学生であった時に、ゲーテの自然科学に関する著作を校訂して序文を書く仕事を依頼され、13年間かけて完成させた。その成果は1897年に『ドイツ国民文学』という叢書の第一巻として出版された。このシュタイナーの業績は識者たちから高く評価された。ロストック大学で哲学の博士号を取得し、その学位論文を編集して『真理と科学』として出版した。1894年には哲学的主著『自由の哲学』を出版し、その5年後には自身のゲーテ研究の集大成として『ゲーテの世界観』を出版した。しかし哲学の研究者たちからはほとんど評価を得られなかった。『自由の哲学』では、あらゆる哲学の試みを検討しつつも、複眼的視点においてその欠陥を確定し、別の観点を試みている。自由とは結局、一つのものの見方よりも、より多くのものの見方を得た時にのみ得ることができる、というようなことを示唆している。シュタイナーによれば、人間の持っている通常の五感では事物の表面しか捉えることができず、五感を超えた高次の感覚(霊的感覚、超感覚的認識)によって初めて事物の本性を把握することができるという。シュタイナーは透視能力を持っていたといわれ、それによって得た超感覚的世界の実相に基づいて人智学を創始して、人類の霊的向上を促そうと啓蒙を行った。シュタイナーは、物質偏重に傾きすぎた今の文明の在り方を正すために、古代から受け継がれた秘教的・霊的知識を総合し、万人に公開し、それを近代的認識批判の立場からも受け入れられる言葉で語ることが必要と考えた。近代神智学から受け継いだ伝統的な東西の秘教の教義をバックボーンに、整合性と合理性のある体系を作り上げた。彼は近代神智学の創始者ヘレナ・P・ブラヴァツキーのような純粋な霊媒ではなく、見霊能力者(透視能力者)であると同時に、「自然科学者の目と哲学者の論理的思考能力、それに芸術家の文章構築構築力」を備えており、神秘学を学問として成立させようとした。人智学が一つの学問になるためには、全ての人が彼の言う「超感覚的認識」を持つ必要があるが、シュタイナーはそれが誰にでも獲得できる能力であると考え、人智学の方法に従った修行、特にその「瞑想」と「集中」の行を毎日15分間行いさえすれば、自然と見霊能力が発現すると主張した。この点によって、シュタイナーは従来の神秘主義と一線を画している。霊的な事柄についても、理性的な思考を伴った科学的な態度で探求するということを重要視していた。シュタイナーは神秘学を学問にするために、神智学協会の「マハトマ」のような、教祖にしか把握できず、教祖を介さなければ接触できないような神秘的存在を遠ざけた。霊媒や降霊術等の、理性的な思考から離れて感情に没入する“神秘主義”については、科学的でなく、まちがった道であると警鐘を鳴らしていた。自著『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』では、具体的な霊的体験を得るための修行法について記しているが、第二部を作る前に世を去った。人類史上初めての世界的戦争である第一次世界大戦後の最中にあって、戦争をはじめとした社会問題の解決策として、「社会有機体三分節化」運動を提唱した。社会を有機体として捉え、精神生活(文化)、法生活(政治)、経済生活の三つの部分が独立しながらも、精神生活においては「自由」を、法生活(政治)においては「平等」を、経済生活においては「友愛」を原則として、この3つが有機的に結びつくことが健全な社会のあり方であると説いた。当時のドイツの外務大臣を初めとする国家の指導者たちに提案するも、政治的に採用されるには至らず、長い間顧みられなかった。1970年代後半頃から再び検討されるようになり、1980年代の西ドイツの緑の党 () の創立理念に影響を与えた。シュタイナーは独自の宇宙論の中でキリスト存在の中心性を重視した。一方、神智学協会はすべての宗教の本質は同一であるという立場を取っていたものの、なかでもインド思想を偏重しており、それに比べるとキリスト教は他の一宗教に過ぎなかった。神智学協会内でシュタイナーの支持者と主流派との間に対立が起こったのも、そうしたキリストに対する立場の違いに起因していた。また、シュタイナーのキリスト論はキリスト教の主流派からは認められない異端的なものであり、人智学は神学者たちからも厳しく批判された。シュタイナーの弟子であったルター派の牧師の主導で、1922年、シュタイナーの特異なキリスト教思想に基づく「キリスト者共同体」が設立された。運動の中心は司祭の養成学校のあるドイツのシュトゥットガルトで、イギリス、オランダ、スカンディナヴィアにもある。この団体は普遍アントロポゾフィー協会から独立した宗教組織で、シュタイナーはこの組織に属さないで外部から司祭たちに助言を与え続けた。シュタイナーの人間観に基づき、独自の教育を行う「自由ヴァルドルフ学校」は、1919年にシュトゥットガルトの煙草工場に付属する社営学校として開校された。この工場に働く労働者の子弟が生徒であったため、初等・中等教育および職業教育を行う総合学校の形態をとった。このタイプの学校がドイツ内外で次々に設立された。現在ドイツのそれらは自由ヴァルドルフ連盟に属している。ヨーロッパ地区では「ヴァルドルフ学校」または「ルドルフ・シュタイナー学校」と総称され、600校(うちドイツに200校)ほどが各国連盟ごとに存在している。日本およびアジア各国においては「シュタイナー教育」という呼称が一般的である。2013年に日本シュタイナー学校協会が設立され、学校法人シュタイナー学園など、全国の学校法人およびフリースクールを含めた全日制7校が加盟している。ヴァルドルフ学校は、自由ヴァルドルフ連盟に登録されていないものまでを含めると世界中に900校以上あると言われる。シュタイナーは、1920年6月に自由ヴァルドルフ学校の教員会議で次のように発言した。「ほんとうは、幼稚園の頃から子どもを預かることができるとよいのです。子どもたちを受け持つ時間が長ければ長いほどよいのです。就学以前の子どもたちを受け入れることができるはずです。(中略)幼い子どもたちの教育の方が重要なのです。」このように、幼児教育の重要性を説き、自らの指導のもと、E.M.グルネリウスにシュタイナー幼稚園を設立させる意向であった。しかしシュタイナーの存命中にはこれは叶わなかった。亡くなった翌年の1926年に、グルネリウスらによってシュタイナー教育の理念に基づく幼稚園が始まった。障害を持つ子どもたちを受け持っていた学生たちが、シュタイナーから受けた助言をもとに、ドイツのイェーナ近郊に治療教育施設「ラウエンシュタイン治療教育院」を作った。ちょうど同じころスイスのにある臨床治療院(現在はイタ・ヴェークマンクリニックと呼ばれている)では、心身に何らかの障害を持つ子どもたちが入院し、その入院施設が後に発展して、1924年に治療教育施設「ゾンネンホーフ」が成立した。シュタイナーは治療のために薬以外にも、音楽、絵画、彫塑、オイリュトミーなどの芸術や宗教による特別の教育を示した。イギリスにおいては治療教育は、シュタイナー教育の代名詞と言われるほど評価が高い。シュタイナーは、人間は7年毎に体を完成させてゆき、63歳で成長の頂点を迎えるとしている。7歳までを肉体、14歳までをエーテル体、21歳までをアストラル体の完成とし、それ以降は自我が独立して発達するとし、それ以前の期間を教育が必要な時期とした。シュタイナーは、西洋医学(ギリシャ・アラビア医学、ユナニ医学)の伝統的な病理説で、1858年のウィルヒョーの細胞病理説の登場まで約1800年間信じられていた四体液説の体液の分類とそれに基づく伝統的な気質説を取り入れている。自我が優勢な胆汁質、アストラル体が優勢な多血質、エーテル体が優勢な粘液質、肉体が優勢な憂鬱質があるとし、それぞれの気質のどれが優勢かで子どもを分類し、分類に合わせて教育者の対応を変えるとしている。この気質は誰もが四つ持っているが、優勢なものが一つあり、個人における四気質を調和へと導くことが教育の課題であるとしている。自分たちの活動にふさわしい形の建物が必要だとの考えから、シュタイナーはゲーテアヌムと呼ぶ独特の形姿を持つ建物の設計を行った。最初に建設されたゲーテアヌムは、二つの天蓋が有機的に交わる木製の建築物であったが、火事により消失した。現在はミュンヘンのピナコテーク・デア・モデルネに模型が置かれている。第二ゲーテアヌムについては、シュタイナー自身が粘土で模型を制作し、現場で建築作業を直接指導して、小ドームの絵の大半を自ら描いた。そこは普遍アントロポゾフィー協会(一般人智学協会)の所在地であり、人智学運動の中心地となっている。シュタイナーは芸術を、感覚でとらえることのできる世界における超感覚的世界の表現だとしており、美は理念(イデア)の表現ではなく、表現によるイデアそのものだとしている。美的な体験はアストラル体(感情、感受的心魂の表現)を通じるものだとし、芸術によるいくつかの療法も行っている。シュタイナーは医師や薬剤師、医学生などの前で、自らの精神科学に基づく医学に関する講演を多く行った。また、医師たちの診療に同行し、助言を与えたりした。その結果、オランダの女医博士の主導で「臨床医療研究所」や製薬施設が作られた。シュタイナーが示した治療法や薬剤に関する示唆は多くの医師の関心を呼び、研究がなされ、様々な国で薬剤が生産されるようになった。その一つは、シュタイナーの理念に基づいて自然の原料のみを使った化粧品や食品を製造している会社「Weleda」(ヴェレダ)である。シュタイナーは、有機農業を地球次元だけにとどまるものと考え、天体の動きなど宇宙との関係に基づいた「農業暦」にしたがって種まきや収穫などを行い、自然そして超自然との調和を目指す独特の農業を提唱した。背景には西洋占星術的な世界観、農民の伝承文化の尊重と近代科学批判などがある。シュタイナーの農法では効率はほとんど重視されず、経済効率を超越しており(この点が経営を成り立たせる側にとって大きな欠陥となっている)、「手作業」の優越性や娯楽の問題として判断がなされ、超自然的作用だけでなく、農民の具体的な「手触り」が重視されている。シュタイナーは「動物は人間より賢い」と断言し、農地という空間、有機体において人間を一つの構成要素に過ぎないものと考え、作物以外の植物の有効性を認め、家畜以外の動物の有効性を認め、農地を再構成しようとした。それは、農地の空間と人間に対する制限を前提とするものであった。シュタイナーの農法には、既存の自然と人間の関係、農業における「人間中心主義」を変革する可能性があり、同時に閉鎖性と排他性を抱えていた。シュタイナーの死後、かれの理論づけた農法は、西洋近代の農法と区別するために「バイオダイナミック農法」(ビオダイナミック、ビオディナミとも、BIO-DYNAMIC、生物学的力動的農法)と呼ばれるようになった。ナチス時代に活躍した指導者のひとりエアハルト・バルチェによる施肥の生物学的調整という側面に注目した「生物学的」という形容詞と、エルンスト・シュテーゲマンによるエーテル的力とアストラル的力の関係性をあらわす「ダイナミックな」という形容詞が冠されることがあったが、両人が妥協しあう形で「バイオダイナミック」という形容詞が使われるようなった。 ナチス時代には生産性の低さから公けには禁止されたが、ナチスによって東欧の占領地で用いられた。バイオダイナミック農法はヨーロッパをはじめ世界各国で研究・実践されている。シュタイナーの農業理念に基づいて設立されたドイツ最古の認証機関であるデメター (demeter) は有機農法の連盟の中でも代表的な団体であり、厳格な検査によって、バイオダイナミック農法の商標の認証を行っている。日本では1985年に千葉県(現在は熊本県)の農場で「ぽっこわぱ耕文舎」が日本で初めて「バイオダイナミック農法」を始めた。批判については#論争の節を参照のこと。1912年には、明治・大正期に教育界で活躍した隈本有尚(1860年 - 1943年)による「宗教的、道徳的情操の教養上見神派の心理学の応用」(1912年、『丁酉倫理会倫理講演集』)によって、シュタイナーの教育思想が日本に紹介された。1925年から14年、ドイツ人哲学者フリッツ・カルシュが旧制松江高等学校(現島根大学)にて教鞭を執っていたが、その授業の中で人智学を教えている。カルシュはマールブルク大学在学中にゲーテアヌムでシュタイナーと直接会ったのをきっかけに人智学に傾倒しており、人智学に関して綴ったノートを妻エッメラ宛に送っている。また、長女メヒテルトは関連文献の英語訳者として活動、次女フリーデルンはマールブルクのシュタイナー学校に通い、自由ヴァルドルフ学校でシュタイナー教育に従事、日本人親子を指導したとされる。1920年代には、シュタイナーの設計した「ゲーテアヌム」を現地で見て感激した早稲田大学の今井兼次教授によって、日本の建築関係者達の間で知られるようになった。1970年代頃から、娘の教育のため、家族でドイツに留学した早稲田大学教授の子安美知子が『ミュンヘンの小学生 : 娘が学んだシュタイナー学校 』(中公新書 1975年)を初めとした一連の教育体験報告が反響を呼び、新しい教育方法としてシュタイナー教育が注目された。1970年代後半になって、哲学関係の出版社「イザラ書房」がシュタイナーの翻訳出版(『神智学』1977年)を始める。1996年には、NHKのNHK衛星第2テレビジョンの「素晴らしき地球の旅」という番組で、シュタイナー教育を行うヴァルドルフ学校が紹介された。また、イタ・ヴェーグマン医師とシュタイナーが共同で創始したシュタイナー医学に関しては、2004年春から、「ゲーテアーヌム精神自由大学」の主催で医師向けの専門的な訓練が日本国内でも開始されており、2005年5月5日には「日本アントロポゾフィー医学のための医師会」が設立された。2000年・2001年には、東京と大阪で、シュタイナーが生涯を通じてひそかに書きためていた600冊のノートを分析して思想を探り、うち100冊を公開する展覧会が開催された。(4月14日から8月27日は東京のワタリウム美術館で、2001年3月3日から4月5日はKPOキリンプラザ大阪で開催。)翻訳はシュタイナー研究者・人智学徒の高橋巖。シュタイナーの存命時は1914年までにヨーロッパに広い範囲に支持者ができた。第一次世界大戦後にシュタイナーの名が大きく知られるようになり、評価する人が増えた。日本では、一昔前にシュタイナー教育が流行した影響もあり、日本の人文学系の大学の研究者にはシュタイナーの信奉者がかなり存在しているが、その思想や世界観の全体像は、必ずしも明確に理解されているわけではない。ルドルフ・シュタイナーの思想と実践は、その存命時から多くの議論を巻き起こした。主な批判としては、客観的の論証不可能な「人智学の科学性」に対する批判、教会関係者や主流キリスト教の信者による、シュタイナーのキリスト論の「グノーシス主義的な諸前提」に対する批判がある。近年では、シュタイナーの民族論に対する「人種差別的」という批判などがある。樋口聡は、ドイツのアカデミズムの世界には、「シュタイナーの扱いにくさ、彼について語ることへの戸惑い」が、確かに存在していると述べ、ドイツでシュタイナーを主題に博士論文を書くことが困難な状況(2000年代半ばの事例)を紹介している。一方日本では、シュタイナーを主題にした博士論文が書かれ、その成果は出版もされている。アドルフ・ヒトラーの師であったとされるデートリヒ・エッカルトは、シュタイナーを敵視し、シュタイナーが社会有機体三分節化運動を開始した直後に、彼はユダヤ人である、敗戦をもたらした催眠術師・魔術師で、性魔術に関係している、ユダヤ人組織の政治機関である共産主義者の代表であるなどの扇情的なデマを広め、以後ナチスはシュタイナーの活動に対して様々な攻撃を行った。両者の関係はしばしば、悪のナチス対善のシュタイナーという単純な構図で理解される。その一方、現代では、シュタイナーの言説には人種主義的要素があったとして、かれがナチスと同じような思想を展開したと取られかねないような告発もある。(「#人種差別」の節を参照)シュタイナーとエッカルトは共にドイツ神秘主義の流れをくみ、シュタイナーはエッカルトのような同時代のドイツのフェルキッシュ思想家たちと同じ精神的土壌に根差していた。評論家・翻訳家の小杉英了は、両者が同じ精神文化の流れにありながら、エッカルトがシュタイナーを執拗に敵視したのだから、決定的な対立点があるだろうと述べ、その思想の違いを次のように説明している。シュタイナーが「全ての存在の中に神の種が宿っているという直感」に始まり、諸民族の融和と共存を訴え、より良い人間関係のための社会的要請として霊的な修行の必要性を説いたのに対し、エッカルトは「ただドイツ民族の中にのみ神の種が宿っているという直感」に端を発し、その顕れと本来あるべき栄光はユダヤ人によって阻害されていると考え、反ユダヤ主義を展開した。ヨーロッパでは、ナチスによるユダヤ人、ロマ、障害を持つ人々に対する未曽有の大虐殺を決して忘れず、このような事態を二度と起こさないという決意から、特にドイツにおいては、ナチスの犯罪行為に真摯に対峙し反省することで国際的信用の回復を目指す立場から、過去の記憶を風化させないために様々な活動が行われ、「ポスト=ホロコースト現象」と呼ばれた。ポスト=ホロコーストの流れの中で、シュタイナーの思想も検討の対象となった。シュタイナーの人智学やシュタイナー教育(ヴァルドルフ教育)に人種差別的教義があるという批判が、ドイツやスイス、オランダなどでなされるようになり、フランスとベルギーでは公的機関が人智学協会をセクトとみなし、内部審査を要求した。オランダ人智学協会はこのような事態を受け、シュタイナーの著作を精査し、人種差別的教義は見られず、特定の民族や人種を侮蔑することを意図した言説はなく、反ユダヤ主義ともナショナリズムとも反対の立場にあったと結論付けた。ただし今日の観点から言えば、差別的要素や差別的と受け取られるような言説があることは確かであると述べ、シュタイナー選集のうち16か所をピックアップし、今日誰かがこのような発言をすれば、オランダ刑法の人種差別禁止条例に違反する恐れがあると警告した。小杉英了は、シュタイナーの文献を長年読んできた「アジア人」としては、彼の思想に深い感銘を受けつつも、彼の人種差別的表現には幾度も不快な思いをさせられ、幻滅させられたと述べている。小杉英了は、現実は複雑であり、差別的表現と指摘された箇所を前後の文脈抜きで見るような安易な判断は適当ではなく、また、シュタイナーが19世紀後半に自己形成し20世紀初頭に活躍したヨーロッパ人であり、ヨーロッパを一歩も出ておらず非ヨーロッパ人と直接対峙したことがほとんどないという、時代と環境の限界を考慮すべきであるとしている。シュタイナーは霊的ヴィジョンを持っていたのだから認識の限界は超越できたのではないかという反論に対しては、ヴィジョンの是非は検証不可能であり、検証できるのは残された言説だけであるとし、「この時代のヨーロッパ人が、非ヨーロッパ人に対して抱いていた認識から、シュタイナーが完全に超越していたと考えるのは、信者の態度である」と述べている。大田俊寛は、シュタイナーの思想は、彼に大きな影響を与えたヘレナ・P・ブラヴァツキーらの神智学と同様に、当時のマックス・ミュラーらのアーリアン学説の影響を受けたアーリア人種中心史観や優越論の傾向があることを指摘している(ブラヴァツキーは現在の人類である第五根幹人種をアーリア人と呼び、シュタイナーもこれを踏襲している)。ただし、人類の霊的進化は途上であり、のちに新しいより優れた人種が現れると考えており、アーリア人中心史観の傾向があるとしても、アーリア人種至上主義とまでは言えないと述べている。シュタイナーの信奉者など、シュタイナーの思想に人種差別的側面は存在しないという主張もある。いわく、シュタイナーの思想は、カルマの法則により同じ民族の元には再び生まれてこない「生まれ変わりの思想」を前提としており、人智学徒以外の人にとって、これが大きな誤解のもとになっているという。シュタイナーは民族を超えた生まれ変わりを前提として、本当の神秘学の実現のためには「自分の属している民族という殻から脱しなければならない」、「一つの民族だけに役立つような霊性を持ってはならない」「人間は輪廻転生をとおして、さまざまな人種に受肉していきます。ですから、仮にだれかが『ヨーロッパ人は黒人や黄色人種よりも優れている』と異議を唱えようとも、実際は、そのようなハンディキャップは大きな意味で全く存在しないのです」とも述べている。アメリカの人智学協会は、断固としてすべての人種差別を拒否すること、シュタイナーによる、人種の垣根を捨てるべきであり、全ての人種と国の融和を探求すべきであるという原則を守り、なおかつ、シュタイナーの思想の一部にある、人種差別的と解釈される可能性がある人種論を受け入れないことを1998年に表明している。シュタイナー教育は代替教育として評価され、成功した学校も多くあるが、その根底にある人智学的認識論は検証困難であることから、経験的実証主義の立場からシュタイナー教育の非科学性を指摘し懐疑的に見る立場や、生徒に特定の世界観を教える世界観学校であるという意見などがある。シュタイナーの農法は、農学者、化学肥料メーカーと敵対した。学者はシュタイナーが配合を考えた調合薬品の有効性や作物の品質に疑念を呈し、メーカーはバイオダイナミック農法の背後にある精神世界に対して攻撃を行った。支持者たちは攻撃から身を守るために、1933年に「BD農法全国連盟」としてまとまり、ナチス支配下のドイツで活動していった。シュタイナーのバイオダイナミック農法と双璧をなす初期有機農業の源流で、現在最も広く普及している有機農法インドール式の創始者(1873 – 1947年)は、西洋の近代農法を批判したが、同時にシュタイナーのバイオダイナミック農法も批判している。シュタイナーが人糞尿の肥料としての利用を漠然とした説明で否定したことに疑念を呈しており、また、バイオダイナミック農業の肥料の配合方法の秘儀的な要素、農法の伝承が人智学徒以外に必ずしも開かれているとはいえない点も批判している。シュタイナーは自らの農法の実践者を精神修行を行った人智学徒に限ると明言しているわけではないが、伝える相手を厳しく制限することを望んでいたことが伺われ、またシュタイナーが一方的に教えるという関係は揺らぎないものであり、「授ける側」-「授けられる側」という権威的な構図が固定していた。ハワードは、自らの有機農法・インドール式はバイオダイナミック農法と違い、明快で広く開かれた農法であると考えていた。藤原辰史は、シュタイナーの農法は、人間を農場という有機体の一構成要素に過ぎないものとする、ラディカルな「生物圏平等主義」といった思想であるが、この農法がナチスによって東欧の占領地で用いられたことで、「生物の多様性」という言葉の中で「人間の生活様式の多様性」は希薄になり、結局は「人間集団に対する搾取や抑圧」を認めてしまったと指摘している。歴史学者のセオドア・ローザクは、シュタイナーの聖書解釈は「キリスト教史においてもっとも異様なもの」であると激しく批判している。シュタイナーの講義の多くは、専門の職人による速記録や聴衆がメモで残した記録として残されており、シュタイナーの生前には、それらをもとに私家版や雑誌掲載のかたちで発表されていた。後年それらはシュタイナー自身の著作を含め、「ルドルフ・シュタイナー出版」 (Rudolf Steiner Verlag) によって、『ルドルフ・シュタイナー全集』 (Rudolf Steiner Gesamtausgabe) というかたちで系統的に出版されており、2006年現在においては最も手に入れやすく、また、ポピュラーな版となっている。それは354巻のシリーズであるが、その編纂は現在も未だ完了していない。全集の著作権はスイスのドルナハにある「ルドルフ・シュタイナー遺稿管理局」が保有している。ルドルフ・シュタイナー全集は「著作」・「講義録」・「芸術作品の複製品」の三つに分類されており、全集は部門・分野ごとに分割された後、年代順に「全集」を表す Gesamtausgabe という言葉の頭文字をとり、GA-番とナンバリングされている。ルドルフ・シュタイナーの著作は決して少なくはないが、講義録の分量はその十倍の数にも上る。講義録は以下のように三分割されており、「II.」のような学問的ないわゆる「人智学一般」の内容を扱ったものは「 - 講義」とよばれ、「III.」の様に職業や芸術などの言わば専門分野を扱った、具体的な内容のものは「 - 講座」と呼ばれる。上記の生涯に関する記述においては紙面の都合上、基本的には後者のみ掲載した。出版社はシュタイナーの絵画作品のレプリカ(ポスターや絵葉書)、絵画の授業に使った習作、オイリュトミーの動き方や形態に関するスケッチ、黒板絵、ゲーテアヌムの写真などを画集として出版している。それらは芸術 に関するものなので、K-番という表記でナンバリングされている。平均約60頁のB5の小冊子で、2006年現在、122巻まで発行されている。1949年以降、年平均2巻強のペースで刊行されており、現在も刊行中。

出典:wikipedia

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