弩級戦艦(どきゅうせんかん、)は、20世紀前半の戦艦の典型的なタイプを言う。1906年に進水したイギリス海軍の「ドレッドノート」は、単一口径巨砲(all-big-gun)による武装と蒸気タービンによる高速で大きな衝撃をもたらし、以後の戦艦のタイプを普通名詞として「ドレッドノート (dreadnought)」、それ以前のものを「プレ・ドレッドノート ()」と呼ぶようになった。日本語では略してそれぞれ「弩級戦艦(弩級艦)」、「前弩級戦艦(前弩級艦)」と呼ぶ。なおこの「弩」はドレッドノートの頭の音を取った当て字であり、漢字の意味(おおゆみを表す)とは関係無い。そのため、ド級とカタカナ表記する場合もある。戦艦ドレッドノートには2つの革命的特長があった。1つは「単一巨砲」による武装であり、もう1つは蒸気タービン推進である。ドレッドノートの出現によって在来艦が一気に旧式化し、“弩級かそれ以下か”が軍事力の重要な象徴となったため、新たな海軍建艦競争が始まることになった。特にイギリスとドイツの建艦競争が著しかったが、それ以外にも影響は世界中に及んだ。「単一巨砲」のコンセプトによる軍艦の開発はドレッドノートの建造の数年前から行われていた。日本帝国海軍は1904年に単一巨砲艦の研究を開始したが、結局前弩級戦艦に落ち着いた。アメリカ海軍もまた単一巨砲艦を建造していた。弩級戦艦時代には目覚しい技術革新が続き、新しい艦になるごとにどんどん大きくなり、また武装や防御や推進機関も進歩した。新戦艦がドレッドノート自身を凌駕するのに10年もかからなかった。これらのより強力な艦は「超弩級戦艦 ()」と呼ばれた。弩級戦艦の多くは第一次世界大戦後のワシントン海軍軍縮条約の下で廃棄されたが、より新しい多数の超弩級戦艦が第二次世界大戦を通して活躍した。20世紀初頭は弩級戦艦建造に莫大な資源が投入されたが、弩級戦艦による艦隊同士の決戦が行われたのはユトランド沖海戦のただ1回のみであった。イギリス艦隊とドイツ艦隊が激突したその海戦は、結局双方とも決定的な結果を得ることなく終了した。第一次世界大戦後、すべての戦艦が弩級戦艦の性格を持つことになったため、「弩級艦」という用語はあまり使われなくなった。また、「弩級艦」という用語は、ドレッドノートの革命が生み出したもうひとつの艦種である巡洋戦艦についても用いられる。弩級戦艦の画期的な単一巨砲による武装は、20世紀初頭、各国海軍がその戦艦の火力と射程距離を増大しようとしたことの帰結である。それまでの前弩級戦艦の大多数は口径12インチ (305 mm) 程度の主砲4門を持ち、副砲として7.5インチ (190 mm) から4.7インチ (120 mm) 程度の速射砲を6門ないし18門装備していた。また、8インチ (203 mm) ないし9.2インチ (234 mm) 程度の中間砲を備えているタイプもあった。しかし、いくつかの国では、すでに1903年頃までに、単一巨砲装備に関する重要な提案が行われていた。単一巨砲装備(片舷火力8門以上)の設計は3ヶ国の海軍でほとんど同時に開始された。日本帝国海軍では、1904年度の薩摩型戦艦の計画の際、12インチ (305 mm) 砲8門搭載とする案があった(結局2巨砲混載の前弩級戦艦となった)。イギリス海軍は戦艦ドレッドノートの設計を1905年1月に開始し、その年の10月に起工した。アメリカ海軍は、1905年3月に12インチ砲8門を持つ戦艦ミシガンの承認を獲得し、1906年12月に起工した。単一巨砲設計への移行は、均一かつ大口径の砲による武装が火力と射撃管制の両面で有利であることから行なわれた。最新の12インチ (305 mm) 砲は、10インチ (254 mm) または9.2インチ (234 mm) 砲よりも射程が長かった。大部分の歴史家はまた、射撃管制での利点も指摘する。長射程砲は、一斉射撃の結果として得られる着弾を観測することで照準を調整できるが、口径が異なる場合は、着弾もまちまちとなるため、それを照準に反映させることは困難だった。しかしこの点が重要なポイントであるかどうかについてはまだ多少の議論が残されている。1890年代の海戦では、海戦を決するのは中程度の口径(主に6インチ (152 mm))を持つ比較的短射程の速射砲であった。海軍の砲術は、目標を遠距離から砲撃するにはまだあまりにも不正確だった。近距離ではより軽い砲の方が正確さで勝っており、速射砲の高い発射率は、目標に関して大量の弾丸を投射することを可能にした。1894年の日清戦争の黄海海戦では、勝利した日本海軍は距離が3,900 mを切るまで砲撃を開始せず、しかも大部分の戦闘は距離2,000 mで行われた。1900年代初期には魚雷の射程が増加を見せ、イギリス、アメリカ両国の海軍首脳は、将来の戦艦はより遠距離で交戦することになると予想した。1903年にアメリカ海軍は射程4,000ヤード (3,700 m) の魚雷を発注した。イギリス、アメリカ両海軍の首脳は、より遠距離で敵と交戦する必要があると結論づけた。1900年、イギリス海軍の地中海艦隊司令長官のサー・ジョン・「ジャッキー」・フィッシャー提督は、6インチ (152 mm) 砲による6,000ヤード (5,500 m) での砲術訓練を命じた。1904年には、アメリカの海軍大学校は、7,000 - 8,000ヤード (6,400 - 7300 m) の射程を持つ魚雷の戦艦戦術に対する影響を研究していた。軽量の中口径砲の威力は限られており、遠距離射撃ではその正確さは著しく減少した。また遠距離では高い発射率の利点も減少した。正確な射撃を行なうには、その前に行った斉射の着弾位置を観測することが必要であり、発射率が高ければ良いというものでもなかった。20世紀初頭、大口径砲の有効射程は増加した。これは1904年までに砲術訓練によって確立され、1905年の日本海海戦において、実戦で裏付けられた。より強力な戦艦を作るための1つのアプローチとして、副砲を減らし、代わりにより大口径の砲、たとえば9.2インチ (234 mm) あるいは10インチ (254 mm) の砲を装備するという手段がある。そうした戦艦は一般に「巨砲混載艦」、のちには「準弩級戦艦」と言われ、イギリスのキング・エドワード7世級やロード・ネルソン級、フランスのダントン級、日本の薩摩型などがそれに当たる。これらの戦艦の設計にあたっては、その過程でしばしば「単一口径巨砲」という選択肢についても議論されていた。「アメリカ海軍協会報 (")」1902年6月号には、アメリカ海軍の主導的な砲術の専門家であるP・R・アルジャー教授の、12インチ (305 mm) 砲8門を連装砲塔4基に納めるという提案が掲載されている。建艦補修局 () は1902年5月、12門の10インチ (254 mm) 砲を連装砲塔に納め、前後に2基、両舷に4基配置する戦艦の提案を行った。H・C・パウンドストーン少佐はより大きな戦艦に関する建白書を1902年12月にセオドア・ルーズベルト大統領に提出したが、その文書の付属別紙において、多数の11インチ (279 mm) 砲と9インチ (229 mm) 砲は、より少ない数の12インチ砲と9インチ砲より好ましいと述べている。海軍大学校と建艦補修局は、1903年から1905年にかけての研究で単一巨砲のアイデアをつかんだ。すなわち、1903年7月に開始された兵棋演習において、『11インチ (279 mm) か12インチ (305 mm) の砲を六角形に配置した戦艦1隻は、在来型戦艦の3隻またはそれ以上に匹敵する』ことが明らかになったのである。イギリス海軍でも同様な流れが生じていた。1902年から1903年にかけて、備砲を2種類の口径を持つ大口径砲(すなわち12インチ (305 mm) 砲4門と9.2インチ (234 mm) 砲12門など)とする設計が提出されたが、結局海軍本部は、1903–04年の建艦計画ではキング・エドワード7世級(12インチ、9.2インチ、6インチ (152 mm) の混載)をもう3隻造るという決定を下した。この考えは1904–05年の計画で復活し、ロード・ネルソン級となった。同級は、船体中央部の長さと船体幅の制約から、中央の9.2インチ砲の砲塔は連装でなく単装となったが、12インチ砲4門と、9.2インチ砲10門を備え、6インチ砲は持たなかった。この設計者J・H・ナーベスは12インチ砲12門という代替案も提出していたが、海軍本部にはまだそれを受け入れる用意ができていなかった。多種口径砲の混載の背景には、日露戦争がもたらした国際緊張に対応するために出来るだけ早く戦艦を建造するという差し迫った理由があった。副砲である6インチ (152 mm) または8インチ (203 mm) の砲を9.2インチ (234 mm) または10インチ (254 mm) の砲に置き換えることで戦艦の打撃力は増大し、特に遠距離の場合に著しかった。しかし、単一口径巨砲の利点は他にも多々あった。ひとつは補給の簡素化である。例えばアメリカがサウスカロライナ級戦艦の多口径砲混載を研究していたとき、ウィリアム・シムズとホーマー・パウンドストーンは、弾薬の供給と、負傷した砲手を非戦闘側の砲手に交替させる場合の砲の統一の利点を強調した。砲の口径の統一は射撃管制の合理化をもたらした。ドレッドノートの設計者が単一巨砲の設計を選んだのは、射距離を修正するための計算が1回だけですむからだった。今日の研究者の中には、12インチ (305 mm) 砲の着弾による水柱と、より口径が小さい砲の水柱とを混同する可能性が正確な射距離測定を困難にしており、そのことが口径の統一にあたって特に重視されたという意見がある。しかし、この点については異論もある。1905年時点の射撃管制は、斉射(一斉打ち方)のテクニックを用いるほど(つまり水柱の混同が重大問題になるほど)にはまだ進歩していなかったし、単一巨砲設計に取り組んだ人たちが水柱の混同を心配していたようにも見えない。それでもなお、交戦の遠距離化が見込まれたことは、標準とすべき最大の砲の口径が10インチ (254 mm) でなく12インチ (305 mm) でなければならないと決めるにあたって重要な要素となった。さらにまた、新設計による12インチ砲搭は発射速度のかなりの向上をもたらし、以前の小口径砲が持っていた利点を帳消しにした。12インチ砲は1895年には4分毎の発射がやっとだったが、1902年には毎分2発の発射が当たり前になっていた。1903年10月に、イタリアの海軍造船官ヴィットリオ・クニベルティはジェーン海軍年鑑に「イギリス海軍にとっての理想的戦艦」という文章を書き、その中で、それは主砲として12インチ砲12門を持ち、12インチ厚の装甲によって防御され、24ノットの速力を持つ、としていた。クニベルティの発案(彼はそれをすでに自分自身の所属するイタリア王国海軍にも提案していたのだが)は、小口径砲からの「雨霰」のような砲弾の代わりに、新型の12インチ砲からの矢継ぎ早の発砲によって、重砲による破壊的な「速射」を実現するというものだった。日本海軍の大口径砲志向への背景にもある種の類似したものがあった。日本海海戦において日本の砲弾は通常の炸薬より高感度の下瀬火薬を使用しており、それは目標に接触するとすぐに爆発し、装甲を突き破るのではなく火災を引き起こした。発射率の増大は、将来の射撃管制の進歩の基礎をなすものだった。日本の1903–04年度計画の戦艦2隻(薩摩と安芸)は12インチ (305 mm) 砲8門の搭載が考えられており、世界初の単一巨砲艦となる可能性があった。しかしその設計の装甲はあまりに薄いと判断され、根本的な再設計を要求された。そして日露戦争による財政的な圧迫と、イギリスからの輸入に頼っていた12インチ砲の供給不足から、最終的には12インチ砲と10インチ (254 mm) 砲の混載艦として完成した。また1903–04年度艦は、主機も、ドレッドノートと異なり、従来型の三段膨張式往復蒸気機関であった。弩級戦艦への躍進は1905年10月に英国で起こった。新任の第一海軍卿ジョン・アーバスノット・フィッシャーは長い間イギリス海軍の技術革新を唱えてきた人物で、単一巨砲艦のアイデアに確固たる信念を持つに至っていた。フィッシャーはしばしば弩級戦艦の発案者かつイギリスの大弩級戦艦艦隊の父と信じられており、彼自身その印象を強めようとしている。しかし、当時のフィッシャーの関心の中心は戦艦でなく巡洋戦艦であったと考えられている。フィッシャーは就任後まもなく、将来の戦艦と装甲巡洋艦の設計を考える委員会を設立した。委員会の最初の仕事は新しい戦艦を考えることだった。新戦艦の仕様は、口径12インチの主砲と対水雷艇用の砲を持ち、中間砲を持たず、既存の戦艦より2、3ノット速い21ノットの速力を持つというものであった。最初に考えられたデザインは12インチ砲12門というものであったが、これは砲の配置が困難であり、造船官は初め12インチ砲4門に9.2インチ (234 mm) 砲16ないし18門の設計に戻すよう求めた。結局、公式観戦士官ウィリアム・クリストファー・パケナム大佐によって編纂された日本海海戦の完全な評価報告に基づき、委員会は新戦艦に12インチ主砲10門と、12ポンド砲22門からなる副砲を備えることを決定した。委員会はまたこの新戦艦ドレッドノートを蒸気タービン推進とするという冒険を試みた。これは大型軍艦では前例のないことだった。タービンによる大きな効率は、往復動機関を使った場合より小型でかつ安価な船で、21ノットの設計速度が得られることを意味した。建造は著しいスピードで進められた。ドレッドノートは1905年10月2日に起工され、1906年2月10日には進水が行われた。そして10月3日には竣工を迎え、イギリスの工業力を強烈に印象付ける形となった。アメリカ最初の弩級戦艦はサウスカロライナ級である。本級の詳細計画は、1905年7月から11月にかけて進められ、1905年11月23日に建艦委員会の承認を得た。しかし、建造は遅れ、入札要領が示されたのは1906年3月21日、契約締結は7月21日、2隻が起工されたのはドレッドノート完成後の1906年12月になってからだった。弩級戦艦の設計者は、最高の防御、速力、火力を現実的な大きさとコストにおいて実現しようとした。弩級戦艦の特質は「単一口径巨砲」だったが、防御の面でも、水線部分の厚い装甲帯と1層ないし複数層の装甲甲板とに集中させた装甲を備えていた。加えて船体内には、副砲、火器管制装置、指揮装置、対魚雷防御などが組み込まれなければならなかった。速力、火力、そして耐久力のあくなき追求により、弩級戦艦の排水量とコストが増加するのは避けがたい結果であった。1922年のワシントン海軍軍縮条約は、主力艦の排水量を35,000トン以下に制限した。軍縮条約期間内に、この制限内で新規に建造された戦艦はネルソン級戦艦のみである。1930年代に日本が条約の脱退を決め、また第二次世界大戦が勃発したため、この制限は意味を持たなくなった。弩級戦艦は均一かつ大口径の主砲を装備したが、その口径や門数、配置は設計によってまちまちだった。ドレッドノートの主砲は12インチ (305 mm) 10門であった。12インチ砲は前弩級戦艦時代に殆どの海軍で標準とされた口径であり、初期の弩級戦艦もこれを踏襲した。例外はドイツ帝国海軍で、280 mm砲を使い続け、最初の弩級戦艦であるナッサウ級も同様だった。弩級戦艦はより軽い砲も装備していた。初期の多くの弩級戦艦は、敵の水雷艇を撃退するために102 - 127mmクラスの小口径の副砲を搭載した。一方でフランスは13.9cm、ドイツは15cmという口径を選んだ。これは、対水雷艇攻撃を考えた英米よりも先進的な考えで小型の巡洋艦クラスでさえも副砲で対応可能とするためであった。実際に、魚雷の射程とそれを搭載する駆逐艦の排水量が大きくなるにつれ耐久力が増加したため、副砲の口径と重さも増加する傾向にあった。第一次世界大戦の終わり以降、戦艦は対空火器(通常は多数の小口径砲)も装備しなければならなくなった。弩級戦艦には魚雷発射管を装備することも多く行われた。理屈から言えば、縦陣を形成した戦艦部隊は、並行して進む敵に対して破滅的な魚雷の斉射を浴びせる事ができるはずだった。しかし実際には戦艦から発射された魚雷が命中したことはほとんどなく、むしろ保管している魚雷に敵の砲弾が命中した場合には致命的な爆発が生じる可能性があったが、イギリスでは超弩級戦艦の時代でも「ネルソン級」の例をとるまでもなく魚雷発射管搭載にこだわった。砲の効果は、砲塔の配置にも依存していた。ドレッドノートとそれに続いたイギリス戦艦は5基の砲塔を持ち、中心線上に1基を前方、2基を後方に向けて搭載した。そして残りの2基は上部構造物の左右に置いた。これにより、前方に3基、舷側方向に4基の砲塔を向け、発射することが可能となった。ドイツの弩級戦艦ナッサウ級とヘルゴラント級は、前後に各1基、左右に計4基の砲塔を六角形に配置した。これは、砲の総数はドレッドノートより多いが、舷側および前方に向けられる砲の数はドレッドノートと同じだった。フランスの弩級戦艦「クールベ級は前後の甲板に主砲塔2基ずつを背負い式配置し、船体中央部左右に主砲塔を1基ずつ計6基を配置する方法を採っており、この方式により首尾線方向に最大8門、左右方向に10門という強力な火力を向けることができた。弩級戦艦の主砲についてはさまざまな配置が試みられた。イギリスの戦艦ネプチューンは左右両翼の砲塔を互い違いに配置(エシェロン、梯形配置)して、全10門の主砲を限定的ながら同時に一方の舷側に向けられるようにした。ドイツのカイザー級もこれに追随した。しかしこれは、両翼の砲塔が反対舷にむけて発射するときの爆風が艦に損害を与えるリスクがあり、また船体のフレームにも大きな応力を生じるものだった。もしすべての砲塔を中心線上に置けば、船体に生じる応力は相対的に低下する。この配置では、前後方向に撃てる主砲は減るが、すべての主砲を舷側方向に向けることができた。また同時に全長の増大ももたらし、同等の防御を実現するためには装甲に割かなければならない重量が増大するという問題を設計者に課した。さらにそれぞれの砲塔に対応した弾薬庫は、缶と主機の配置の妨げとなった。戦艦エジンコートは中心線上に空前絶後の14門の主砲を7基の砲塔に納めて配置したが、以上のような理由により、成功したとは考えられなかった。背負式の配置は最終的には標準の方式となった。これは1基ないし2基の砲塔を、そのすぐ前または後ろにある砲塔の頭越しに発砲できるように高く配置する方式である。アメリカ海軍は1906年にその最初の弩級戦艦サウスカロライナ級でこれを採用したが、他の国はなかなか採用しなかった。他の方式と同様、この方式にも欠点があった。当初のうち、高い位置の砲塔の爆風が低い位置の砲塔に影響を与えるという懸念があった。また高くした砲塔は艦の重心を上げ、艦の復元性に悪影響があった。しかしそれでも、この配置は決まった数の砲から最大限の火力を引き出す方法であり、結局一般に採用されることになった。フランス海軍では前弩級戦艦の時代に海防戦艦「アンリ4世」で主砲塔の上に副砲塔を配置したために背負式配置と同様の問題が起きたが独自に解決した経験があり、クールベ級で背負式配置を前後に配置したが問題は皆無であった。アメリカ海軍では最終的に「ワイオミング級」において12インチ連装砲6基を全て背負い式配置で2基ずつ配置する事により片舷斉射門数12門という強力な火力を得た。イギリス海軍も1910年の超弩級戦艦オライオン級で全砲塔の中心線配置とともに採用した。超弩級戦艦以後の第二次世界大戦当時には背負式配置はまったく当たり前の方式になっていた。当初のうちはどの弩級戦艦の主砲も1砲塔に2門ずつ収められていた。しかし、砲塔配置の問題は、1砲塔に3門、さらには4門の砲を納めることによっても解決可能だった。砲塔の数を減らすことは船体を短くできるということであり、より多くのスペースを機関のために割けるということだった。しかしそれは一方で敵弾が砲塔のひとつを破壊した場合に、無力化される主砲の割合が大きいということでもあった。また、同じ砲塔の砲の爆風が相互に干渉する危険性により、発射率はいくらかの制限を受けた。3連装砲塔を最初に採用したのは1913年のイタリアの戦艦ダンテ・アリギエーリだが、すぐにロシアのガングート級、オーストリア=ハンガリーのテゲトフ級が採用した。アメリカでは超弩級戦艦の時代になってネバダ級が追随した。イギリスは第一次世界大戦後のネルソン級まで3連装砲塔は採用しなかった。フランスでは1913年度計画において世界に先駆けて四連装砲塔を「ノルマンディー級」において採用した。第一次大戦で自国が主戦場となったために実現はしなかったが、この経験は新戦艦の時代に「ダンケルク級」において実現し、この先進的な砲塔に興味を抱いたイギリスはキング・ジョージ5世級で模倣した。後にフランスは「リシュリュー級」においても同様の砲塔形式を採用している。艦上に多くの砲を搭載するよりも、個々の砲の威力を増すことの方が容易だった。それを実現するには、砲の口径を増して結果として弾丸の重量を増すやり方と、砲身長を伸ばして砲口初速を上げるやり方とがあった。これらのいずれの方法でも、射程を延ばし、また貫徹力を上げる事ができた。どちらの方法にも長所と短所があったが、一般的に言って砲口初速が増せば砲身の磨滅も早くなった。発射するたびに砲身は擦り減り、正確さが失われて、結局交換が必要となる。当時このことは問題とみなされ、アメリカ海軍は1910年、砲身の磨滅のため、重砲の実射をやめる事を真剣に検討したほどである。砲が大型化することの不利な点は2つあった。一つは砲と砲塔の重量が増すことであり、二つ目は、重くて遅い砲弾は同じ射程でも高い角度で発射しなければならないということで、これは砲塔の設計にも影響した。しかし、口径を広げること大きな利点は、重い砲弾は空気抵抗による初速の低下影響が少なく、そのため長距離を飛んでも貫徹力を保っていられるということだった。砲の口径の決定についての結論は国によって異なった。例えばドイツ海軍は、一般に同等のイギリス艦より小さい口径の砲を用いた。イギリスで13.5インチ (343 mm) 砲が標準となっている時期にドイツ海軍は12インチ (305 mm) 砲を使用した。しかしドイツの冶金学はイギリスより優れていたので、ドイツの12インチ砲の弾丸重量と砲口速度はイギリスの12インチ砲よりより勝り、砲身の磨耗度も少なく散布界も小さかった。ドイツの12インチ砲はイギリスの13.5インチ砲より軽かったので、ドイツ戦艦はより多くの重量を装甲に割く余裕があった。しかしながら全体として砲の口径は増加する傾向にあった。イギリス海軍では、1910年進水のオライオン級で10門の13.5インチ砲をすべて中心線上に置き、1913年進水のクィーン・エリザベス級には15インチ (381 mm) 砲8門を装備した。すべての海軍において、砲の口径は増大し、その引き換えに門数は減少する傾向があった。必要とされる砲の数が減ったことでその配置は問題とならなくなり、砲塔の中心線上配置は当り前のこととなった。第一次世界大戦終了後に設計され、起工された戦艦にはさらなる変化が加えられていた。1917年の日本の長門型戦艦は16インチ (41 cm) 砲を装備しており、これには直ちにアメリカ海軍のコロラド級が追随した。日本もイギリスも18インチ (457 mm) 砲を備えた戦艦を計画していたが、ワシントン海軍軍縮条約はそれらの巨砲艦を製図板から排除した。ワシントン海軍軍縮条約は戦艦の主砲の口径を16インチ (406 mm) 以下に制限した。この制限を11インチ (279 mm)、12インチ (305 mm) または14インチ (356 mm) に制限する縮小案も提案されたが、その後の条約もこの制限数値を維持した。この制限を超える唯一の戦艦は、条約失効後に建造された日本の大和型のみであり、口径46 cm(18.1インチ)の主砲を搭載した。第二次世界大戦中期に起工されたイギリス最後の戦艦ヴァンガードはクィーン・エリザベス級の予備として保管されていた15インチ (381 mm) 砲を搭載した。第二次世界大戦期に設計された艦には、さらに巨大な砲への移行を目指していたものがある。ドイツのH級戦艦は508 mm砲の搭載を考えており、ヒトラーがさらに口径を609 mm以上とすることを望んだという証拠もある。日本の超大和型戦艦も51 cm砲を予定していた。しかしこれらはいずれも予備設計以上には進展しなかった。初期の弩級戦艦は、水雷艇からの防御を目的に、極めて小口径の副砲を備える傾向があった。ドレッドノート自身は12ポンド (102mm) 砲を装備しており、その22門の12ポンド砲は、攻撃を仕掛けてくる水雷艇に対してそれぞれ1分につき少なくとも15回の発砲が可能だった。サウスカロライナ級をはじめとする初期のアメリカの弩級戦艦も5インチ (127mm) 砲を搭載した。当時の水雷艇は主力の艦隊戦闘とはまったく別の場面で攻撃を行うこととされており、したがって副砲の装甲や、操作員を主砲の爆風から守る配慮は不要であった。この見地から、小口径砲は重量を節約しながら最大の射界を持たせるために、艦の高い位置に装甲なしで置かれる傾向があった。しかし、水雷艇にも人員を殺傷する程度の武装は搭載されており、設計者の机上の空論により運用員は副砲が上部構造物に配置されるまで危険に晒され続けた。数年のうちに、主たる脅威は水雷艇から、それより大きく、重武装で、破壊の困難な駆逐艦に移った。駆逐艦の脅威は極めて深刻であり、戦艦の副砲はこれに損傷を与えるだけでは足りず、一発の命中で確実に撃沈できなければならないとされた。駆逐艦による攻撃は、水雷艇とは対照的に、通常の艦隊戦闘の一部として行われることになっていたので、副砲もまた敵重砲弾の破片や自艦の主砲の爆風から保護する必要が生じた。副砲装備についてこの方針は、フランス海軍では最初から採用されていた。すなわちクールベ級において前弩級戦艦時代から実績のある139mm砲を採用し22門を主砲の爆風を受けない舷側配置とした。ドイツでも前弩級戦艦の時代から引き続きナッサウ級において150 mm砲12門と88 mm砲16門を搭載しており、その後のドイツ弩級戦艦もそれに準じた。これらの比較的大口径の副砲は一般的に主甲板上の装甲砲座(バーベット)もしくは舷側の砲郭(ケースメイト)に単装砲架で取り付けられた。イギリス海軍も副砲の大型化を行い、12ポンド砲をまず4インチ (102 mm) 砲に、次いでフランスやドイツに遅れながら6インチ (152 mm) 砲に換装し、第一次世界大戦開始時にはそれが標準となっていた。アメリカ海軍は戦争当時は5インチ (127 mm) が標準だったが、その後の設計では6インチとなった。副砲には他にもいくつも役割があった。中口径砲は、敵の弩級戦艦の無防備な火器管制システムに打撃を与えることが期待された。また副砲は、損傷を被った戦艦に攻撃を仕掛けてくる敵の巡洋艦を追い払うという重要な役割を持つとも考えられた。弩級戦艦の副砲は、概して予期した効果を発揮しなかった。小口径砲はたとえ命中しても駆逐艦を撃退できるとは限らなかった。そして大口径副砲は、ユトランド沖海戦の結果が示すように、そもそも駆逐艦に命中しがたかった。また大口径砲のケースメイト式搭載にも問題があることが判明した。装備位置が低く容易に波をかぶったため、いくつかの艦級では艦首と艦尾の数門が取り除かれ、その場所には装甲板で蓋がされた。弩級戦艦を駆逐艦または水雷艇の攻撃から守る唯一の確かな方法は、味方の駆逐艦戦隊で護衛することだった。第一次世界大戦後、副砲は、上甲板の上部構造の周囲に、砲塔形式に収めて取り付けられるようになった。これはケースメイト方式の欠点を解消し、広い射界と良好な防御をもたらした。1920年代から1930年代を通して、大仰角の取れる両用砲が増えるとともに、副砲は対空砲火の重要な一環となっていった。弩級戦艦の排水量のかなりの部分は装甲板が占めていた。設計者は、艦が直面するいろいろな武器に対して最高の防御を提供するために多くの時間と努力を費やした。しかし、防御にいくら重量を割こうとも、速度、火力および凌波性を犠牲にすることは許されなかった。弩級戦艦の装甲の大半は防郭(シタデル)の外周に集中されていた。シタデルとは艦で最も重要な部分を覆う4枚の装甲壁と1枚の装甲された屋根で作られた箱である。シタデルの側面は艦の「装甲帯」であり、前部砲塔の前から後部砲塔の直後までの船体側面に装着されていた。シタデルの前後は2枚の装甲隔壁であり、それぞれ装甲帯の前後の端を繋いでいた。シタデルの「屋根」は装甲甲板である。シタデルの中には、機関とボイラー、主砲の弾薬庫が収められた。それらはいずれも、もし被弾した場合には艦が行動の自由を失うか、破壊される恐れのあるものだった。この箱の「床」は船殻の底であり、これは装甲されていなかった。最も初期の弩級戦艦は、最高10,000ヤード (9,100 m) の距離で敵戦艦と交戦することを想定していた。この場合、砲弾は比較的水平に近い弾道で飛来し、艦の主要部分にダメージを与えるためには砲弾が水線かその付近に命中しなくてはならない。この理由から、初期の弩級戦艦の装甲は水線付近の分厚い帯に重点が置かれ、ドレッドノートの場合、その厚さは11インチ (279 mm) だった。この装甲帯の内側には機関区画の防御の足しとなるよう石炭庫が置かれていた。この形態の交戦では、船の主要部分への軽度の間接的損害の恐れもあった。装甲帯より上で爆発した砲弾は、その危険な弾片を四方に撒き散らしたが、爆発前の徹甲弾よりは遥かに薄い装甲で食い止めることができた。上部構造物で爆発した弾片から艦の内部を保護することを目的として、甲板にはごく薄い装甲が施された。すべての戦艦において、最も厚い防御は中央シタデルに施されたが、海軍によっては装甲帯と装甲甲板を延長するかたちで、より薄い装甲で艦の両端までをおおう、つまり装甲帯を船体の外周全体に延ばしたところもあった。この「テーパード・アーマー」は主要ヨーロッパ諸国、すなわちイギリス、ドイツ、フランスで行われた。この方式は船体の大部分に一定の装甲を施すので、ごく初期の、まだ高性能炸薬弾が重要な脅威と考えられていた当時の弩級戦艦には有効と考えられた。しかしそれは結果として装甲帯の縦幅を非常に短くし、喫水線より上のわずかな幅だけを守るものにする傾向があった。そのため一部の海軍の弩級戦艦では、満載に近い状況では装甲帯が完全に水中に没してしまうという事態も生じた。代替策はアメリカ海軍で考案された「オール・オア・ナッシング(一か八か)」の集中防御方式であった。装甲帯はあくまで高くかつ厚く、また甲板の装甲も厚いものとなっており、一方で船体の端には側面ないし甲板の防御は一切施されなかった。「オール・オア・ナッシング」方式は弩級戦艦艦隊の遠距離砲戦においてはより効果的な防御であったので、第一次世界大戦後にはアメリカ海軍以外にも広まった。弩級戦艦の進化の過程で、装甲の方式には、遠距離から飛来する砲弾や航空機から投下される徹甲爆弾の、より大きなリスクに対応するように変更が加えられた。後期の弩級戦艦の設計では甲板により厚い装甲が配分された。例えば戦艦大和の場合、主装甲帯の厚さが410 mmであるのに対し、甲板の厚さは200ないし230 mmであった。初期の弩級戦艦の防御の要素としては、あと一つ、水線下の多数の水密区画を挙げることができる。これは、フランスの名造船家ルイ=エミール・ベルタンが発明した設計で、もし船殻が砲弾、機雷、魚雷、あるいは衝突によって破られても、理論的には1つの区画が浸水するだけで、船は生き残ることができた。この予防措置をさらに効果的にするために、多くの弩級戦艦の水密区画は他の水密区画との間にハッチを持たなかった。そのため水線下の1区画に予期せぬ破れが生じても沈没することはなかったが、浸水が複数の水密区画に及んだ例はいくつも存在する。フランスの弩級戦艦クールベ級は第一次世界大戦中に水密区画にケーソンを充填する事により実戦においてオーストリア=ハンガリー帝国海軍の「U-21」の雷撃を2本受けても沈没せずに帰港できた。第一次大戦当時において水線下に損傷を受けて浮かんでいられる大型艦は少なく、超弩級戦艦キング・ジョージ五世級(初代)「オーディシャス」がドイツ製機雷に触雷し大破して曳航中に爆沈した他、ドイツ式の設計であるオーストリア=ハンガリー海軍弩級戦艦フィリブス・ウニティス級四番艦「シュツェント・イストファン」がイタリア海軍の水雷艇の攻撃により撃沈された例を見る限り、フランスの水雷防御は第一次大戦当時で最優秀であると言える。弩級戦艦の防御で最も大きな進化は、いずれも水面下の機雷または魚雷の対するものとして用意された対魚雷バルジ (Anti-torpedo bulge) と防雷帯 (torpedo belt) である。これら水中防御の目的は、機雷や魚雷を最終的な防水区画から離れた場所で爆発させることにより、その衝撃を吸収することだった。これは要するに船体側面に沿った内部区画のことであり、通常、破片防御程度の軽い装甲が施され、船殻からは1つないし複数の隔壁で仕切られていた。この区画は空のままか、または石炭、水が充填されていたが、燃料の変化に伴い石炭は重油に置き換えられた。また、前述のフランスではケーソンやエボナイトなど防御専用の素材が充填されていた例がある。弩級戦艦は2 - 4軸の推進軸に3 - 4枚羽根のスクリューを組み合わせ推進された。ドレッドノート自身を含むすべてのイギリス弩級戦艦は蒸気タービンによるスクリュー推進であるが、それ以外の国の初期の弩級戦艦の中には、前弩級戦艦時代の標準だった、より遅い3段膨張式往復レシプロ機関を使ったものもあった。タービンでは、同じ重量の往復機関より高い出力を得る事が出来た。このことが、発明者チャールズ・パーソンズの保証もあいまって、イギリス海軍にドレッドノートへのタービン採用を決意させたのである。タービンはその他にも往復機関よりクリーンでかつ信頼性が高いという利点を持つとされる。しかし、1905年当時は、新型の往復機関もまた、それ以前の往復機関よりもクリーンで信頼性が高かった。タービンにもまた欠点はあった。最高速度よりはかなり低い巡航速度においては、タービンは往復機関より著しく燃料効率が悪かった。これは、特に巡航速度による長距離航行を必要とした海軍にとって重要な問題だった。例えばアメリカ海軍は、戦争となった場合にはフィリピン海域で日本と戦うために太平洋を横断していかなければならず、このことが、アメリカが一旦戦艦ノースダコタ(1907年発注、1908年進水)にタービンを採用しておきながら、その後、超弩級戦艦「ニューヨーク級」で往復機関に戻したことの背景である。アメリカの弩級戦艦にタービンが復活するのは戦艦ネバダ(1911年発注、1914年進水)になってからである。高速航行用の高速タービンと低速航行用の低速タービンを1組としてこれを2組4軸として航続性能を解決しようとしたが、後に巡航専用のタービンを加えた3基で1組とする方式までエスカレートした。タービンの欠点は結局「ギアードタービン」の採用によって克服された。タービンと推進軸に介在させた減速ギアがスクリューの回転数を減らし、効率を向上させた。しかし、この解決策にはギアに関する高い技術的な精度が必要であり、簡単に実現できるものではなかった。1つの代替策はターボ・エレクトリック推進であった。この場合、蒸気タービンは発電のために使われ、その電力でスクリューを駆動するのである。この方式は機関製造能力が低かった時代のアメリカ海軍に歓迎され、1915年から1922年後半にかけてのすべての弩級戦艦に使用された。この方式の長所は、低コストであること、水中の区画化が非常に細かくできること、それに後進性能の良さであった。その代わり、機械が重いことと、戦闘時のダメージが大きく、特に電気系統に対する浸水に弱いという欠点があった。蒸気タービンは最後まで戦艦で使われ続けた。ディーゼルエンジンが、その優れた耐久性と、艦の全長に占める割合の少なさからいくつかの列強によって採用を検討されたことはあったが、それらは重く、また垂直方向のスペースを要し、出力も少なく、信頼性にも欠けると判断された。弩級戦艦の第一世代はタービンに蒸気を供給するボイラーの燃料として石炭を使用した。石炭は最初の蒸気軍艦から使われていたが、多くの欠点があった。石炭を船の石炭庫に入れたり、それをボイラーに投入することは人手を要する作業だった。ボイラーは灰で詰まり、また濃く黒い煙は艦隊の位置を容易に敵に知らせた。加えて、石炭は非常にかさばり、熱効率は低かった。その反面、石炭は爆発するようなことはなく、船の防御の一部として使うことが可能だった。石油を燃料とすることは、造船技師にとっても、また海上で行動する士官にとっても多くの利点があった。それは煙を減らし、発見しづらくした。機関兵の手によって人力で投入する代わりに、自動的にボイラーに入れることができた。石油は石炭のおよそ2倍の熱量を持ち、ボイラー自体を小さくできた。そしてまた、同じ量の燃料ではるかに長い距離を行動することができた。また石炭のような防弾には用いる事ができないが、水面下の防禦が破られた際の浸水防止に用いる事ができた(空間に石油が充満していたほうが当然ながら浸水しにくく、また浸水しても中の石油と入れ替わるだけなので重量増加による転覆などの被害の可能性が小さくなる)。これらの利点については、早くも1901年にフィッシャーが石油燃料の長所として推奨していたが、石油燃料には石炭との重さの相違による重量配分という技術的問題があり、また粘りけがある重油をポンプで汲み上げることも解決すべき課題であった。しかし、列国海軍にとって戦艦艦隊に石油燃料を使用する場合の最大の問題は、アメリカを唯一の例外として、それを輸入しなければならないということだった。そのため、多くの海軍は石油を吹き付けた石炭を燃焼させる「混焼缶」を採用した。イギリスも弩級戦艦を含む軍艦にそれを採用したが、最高でも石油燃料のみの場合の60 %のパワーしか得られなかった。最初に石油専焼缶を導入したのは主たる産油国であるアメリカの海軍だった。彼らは1910年にそれを決定し、1911年に、ネバダ級戦艦のために石油燃料によるボイラー発注した。イギリスもさほど遅れをとったわけではなかった。1912年には自国のクィーン・エリザベス級に石油専焼缶を使うことを決定した。工期は短く、クィーン・エリザベスはネバダ級のどの艦よりも早く就役した。イギリスはその後のリヴェンジ級戦艦において、速力の低下をコストの面から忍んで石炭・石油の混合燃焼に戻すことを考えていたが、1914年に復帰したフィッシャーは、すべての缶が石油を燃料とするものでなければならないと主張した。他の主要海軍国は、第一次世界大戦の終了まで、石炭・石油混合燃焼を使用し続けた。弩級戦艦は、1890年代に始まった国際的な戦艦の建艦競争の結果として登場した。イギリス海軍は前弩級戦艦の数において大きな優位を持っていたが、弩級戦艦の優位はわずかドレッドノート1隻だった。これについて、イギリスは自ら戦艦ドレッドノートを進水させることによって戦略的な利点を捨ててしまったという批判があった。しかし、イギリスの競争相手の多くは計画中の戦艦を製図板に送り返すこととなり、イギリスはそこで若干の息継ぎの余裕を得た。建艦競争はすぐにまた加速し、参加する政府の財政に大きな圧迫を加えた。初期の弩級戦艦は最後の前弩級戦艦よりそれほど高価ではなかったが、1隻あたりのコストは増大する一方だった。近代戦艦は、その高価さにもかかわらず、海軍力の重要な要素であった。戦艦は、今日の核兵器に似て、各国の国力と地位の象徴だった。ドイツ、フランス、ロシア、イタリア、日本、そしてオーストリアはすべて弩級戦艦建艦計画を開始した。そしてそれに続く勢力であるオスマン帝国、アルゼンチン、ブラジル、およびチリなどは、弩級戦艦の建造をイギリスやアメリカの造船所に依頼した。ドレッドノートの建造の時期はイギリスとドイツの間が緊張を増してきた時期でもあった。イギリスの海上覇権に対抗するための用心深い政策の一環として、ドイツは1890年代に大きな戦艦艦隊を造り始めた。1904年にイギリスとフランスが英仏協商を締結したことで、イギリスの主たる海上仮想敵がドイツであることはますます明らかとなった。ドイツはティルピッツの艦隊法に基づき、大規模で最新の艦隊を築きあげつつあった。この競争は、第一次世界大戦前の時期における2つの巨大な弩級戦艦艦隊を生み出す結果となった。ドレッドノートへのドイツの最初の回答は、1907年に起工されたナッサウ級戦艦だった。そしてその後に1909年のヘルゴラント級が続いた。それらと2隻の巡洋戦艦(ドイツはこの艦種にフィッシャーのように熱心でなく、正式には主力艦でなく装甲巡洋艦として建造した)を合わせて、1909年時点で完成または建造中のドイツの最新の主力艦は10隻を数えた。イギリス艦はドイツの対抗艦よりもいくぶんより高速かつ強力だったが、保有比率はイギリス海軍が望んだ2:1には遥かに及ばず12:10まで落ち込んだ。1909年にイギリス議会は、ドイツが戦艦の保有数についての条約交渉に応じるという希望を留保しつつ、さらに4隻の主力艦建造を承認した。そして条約による解決が得られないならば、さらに4隻の戦艦を1910年に起工することになっていた。この妥協的な結論ですら、1909-10年に(いくつかの社会変革ともあいまって)憲法危機を招きかねないほどの増税が必須であることを意味した。結局1910年には、イギリスは4隻のオライオン級超弩級戦艦を含む8隻の建艦計画を進めることとなり、さらにオーストラリアとニュージーランドが購入する、その名を持つ2隻の巡洋戦艦が加わった。同じ期間でのドイツ戦艦の起工は3隻にとどまったため、イギリスの優位は22:13まで高められた。イギリスがこの建艦計画で示した決意は、建艦競争終了への妥結の道をドイツに探らせることとなった。海軍本部の新たな目標である対独60%優位という数値は、ティルピッツが目指した50%という数値とかけ離れたものではなかったが、交渉は、イギリス連邦諸国の巡洋戦艦を数に含めるかどうかという問題や、さらにはアルザス=ロレーヌのドイツ領有の認知といった海軍と関係ない問題にまでおよび、結局決裂した。弩級戦艦の建艦競争は1910年、1911年に一段と過熱し、いずれの年もドイツは4隻、イギリスは5隻の主力艦を起工した。緊張は1912年のドイツの艦隊法の成立によって頂点に達した。これは戦艦と巡洋戦艦合わせて、イギリスの本国海域におけるよりも多い33隻という数を保有しようというものだった。イギリスにとってさらに悪いことには、イタリア海軍が4隻を保有し、かつさらに2隻を作ることに対応して、オーストリア=ハンガリー帝国海軍も4隻の弩級戦艦を作り始めた。それらの脅威に局面して、イギリス海軍はもはやイギリスにとって不可欠な支配力を保証することはできなかった。イギリスは、さらに多くの戦艦を建造するか、地中海から撤退するか、フランスとの同盟を模索するかのいずれかを選択しなければならなかった。社会福祉の提供に関する予算要求が叫ばれていたその当時、費用のかさむ海軍の増強は到底容認されるものではなかった。地中海からの撤退もイギリスの影響力を大きく損ね、地中海でのイギリス外交を無力化し、大英帝国の安定性を揺るがすことになるはずだった。唯一許容できる選択は、海軍大臣ウィンストン・チャーチルも勧める、過去の方針と決別してフランスと同盟を結ぶことだった。イギリスがフランスの北の海岸を保護する一方、フランスは地中海でイタリアやオーストリア=ハンガリーを牽制する責任を負った。一部の政治家の反対があったにもかかわらず、イギリス海軍は1912年に、この原則によって自身の再組織を行った。これらの重要な戦略的な動きにもかかわらず、1912年の艦隊法は戦艦保有比率にはほとんど影響しなかった。ドイツが戦略資源を陸軍に集中させたため新たな起工が5隻にとどまったのに対し、イギリスは1912年-1913年の予算で新たに10隻の超弩級戦艦 — 武装、速力、防御のすべてについて新たな革新を行ったクィーン・エリザベス級とリヴェンジ級 — を起工することで対応した。1904-05年の日露戦争に勝ったことによって、日本はアメリカとの衝突の可能性を考慮するようになった。理論家佐藤鉄太郎は、日本はアメリカの少なくとも7割の艦隊を持たなければならないという理論を提唱した。それは日本海軍が2回の艦隊決戦、すなわち戦争の初期に行うアメリカ太平洋艦隊との決戦と、必然的に増援として送られてくるアメリカ大西洋艦隊との決戦の両方に勝つために必要なものだった。日本の最優先事項は、ロシアから捕獲した前弩級戦艦の修理と、戦艦薩摩および安芸の完成だった。薩摩の設計が行われたのはドレッドノートより前だったが、日露戦争による財政的逼迫から完成が遅れ、主砲も混合装備となった。そのため薩摩と安芸は準弩級戦艦に分類される。その後に安芸に修正を加えた河内と摂津が続いた。これらの2隻は1909年に起工され、1912年に完成した。河内型は12インチ (305 mm) 砲12門で武装していたが、砲身長の異なる2つのタイプが混在しており、遠距離での射撃管制が困難だった。アメリカのサウスカロライナ級戦艦は、イギリス以外の国が初めて完成した単一巨砲艦である。本級の計画はドレッドノートが進水する以前に始められていた。このアメリカの設計について、親密なイギリス海軍当局との非公式な接触によって影響を受けたと推測する論者もいるが、サウスカロライナ級はドレッドノートとは非常に異なっていた。アメリカ議会は海軍に2隻の戦艦を承認したが、その排水量はわずか16,000トンないしそれ以下に制限されていた。その結果、サウスカロライナ級はドレッドノートより非常に厳しい条件で建造されることになった。武装に割り当てられた重量をもっとも効率的に配分するために8門の12インチ (305 mm) 砲はすべて中心線上に置かれ、しかも前方も後方も背負式の配置とされた。この配置は、ドレッドノートより少ない主砲の門数で、同等の舷側砲火を実現する最も効果的な配置であり、その後の戦艦で標準となる方式の先駆であった。ドレッドノートと比較して最も見劣りする点は推進機関で、サウスカロライナは引き続き三段膨張式蒸気機関を採用したため、速力はドレッドノートの22.5ノットに対してわずか18.5ノットにとどまった。このため、アメリカ海軍の最初の弩級戦艦は、わずか数年後に就役した次級のデラウェア級であると言われることがある。実際、サウスカロライナ級はその低速ゆえに新型の弩級戦艦と組んで作戦を行うことができず、旧式の前弩級戦艦とともに行動せざるを得なかった。デラウェア級戦艦2隻は、イギリスの弩級戦艦に匹敵する速力を持った最初のアメリカ戦艦である。主砲12門・排水量24,000トンの組み合わせと10門・20,500トンの組み合わせのうち後者を選んだ結果、副砲が濡れる(水飛沫に悩まされる)、艦首が沈みすぎるといった批判が加えられることになった。しかし一方の12門の設計にもやはり多くの欠点があった。追加の2門の砲と下層の砲郭は目に見えない欠陥を抱えていた。すなわち、2基の両翼の砲塔は上甲板を弱め、水面下の攻撃に対する十分な防御を不可能とし、また弾薬をあまりにも艦の舷側近くに置くことになっていたからである。アメリカ海軍は1920年までほぼ毎年2隻のペースで戦艦を起工し、戦艦艦隊を拡大し続けた。アメリカは1912年起工のネバダ級戦艦まで、タービンでなく往復機関を使い続けた。これは一つには戦艦建造に関する用心深さの反映であり、もう一つは、高速力よりも航続距離を選択した結果であった。フランスは他の大海軍国と比べて弩級戦艦建造への着手が遅れ、1907年・1908年起工の前弩級戦艦ダントン級5隻の建造をすすめていた。最初の弩級戦艦クールベ級の起工は1910年9月になってからであり、フランスは実に11番目の国として弩級戦艦の建艦レースに参加することとなった。1911年の海軍報告書の中でポール・ベナゼは、1896年から1911年の間に、フランスの海軍力は世界の第2位から第4位に落ちたと述べ、その原因を、平常の整備の問題と怠慢にあるとした。しかし、イギリスとの同盟関係が密接になってくると、フランスの必要から見てこの規模の艦隊でも十分以上であることがわかった。だが、フランスはドイツへの対抗として1912年度海軍法案で超弩級戦艦の整備を進め、1913年に34cm四連装砲3基12門を持つ超弩級戦艦「ノルマンディー級」5隻、34cm四連装砲4基16門を持つ「リヨン級」4隻、34cm四連装砲3基12門と速力28ノットの巡洋戦艦「ジル級」が次々に建造が承認されたが、第一次大戦の勃発により本国が主戦場となったために建造資材や大砲は陸軍に回され、戦後に船体のみ完成していたノルマンディー級5番艦が航空母艦「ベアルン」として就役した。イタリア海軍はドレッドノート進水の前からクニベルティによって単一巨砲戦艦の提案を受けていたにもかかわらず、自ら弩級戦艦の建造に着手したのは1909年のことだった。戦艦ダンテ・アリギエーリの建造のきっかけは、オーストリア=ハンガリーが弩級戦艦を建造するという噂であった。イタリアはオーストリア=ハンガリーに対する優位を維持するため、続いてコンテ・ディ・カブール級およびカイオ・ドゥイリオ級の5隻の弩級戦艦を建造した。それらは第二次世界大戦までイタリア海軍戦力の中核だった。それに続く15インチ砲8門を持つフランチェスコ・カラッチョロ級は第一次世界大戦の勃発により中止された。1909年1月、オーストリア=ハンガリー海軍の提督の間に、4隻の弩級戦艦を持つ艦隊の整備を求める文書が回覧された。当時、1909年から翌年にかけての憲政危機のため、建造が承認されることはありえなかったにもかかわらず、見込みに基づいて2隻の弩級戦艦が起工され、後日、追加の2隻とともに追認された。いずれもテゲトフ級に属するこの4隻に引き続き、さらに4隻が計画されていたが、第一次世界大戦の勃発に伴ってキャンセルされた。1909年6月、ロシア帝国海軍はバルチック艦隊向けに4隻のガングート級弩級戦艦の建造を開始し、1911年10月にはさらに黒海向けの弩級戦艦としてインペラトリッツァ・マリーヤ級戦艦3隻を起工した。7隻のうち、起工後4年以内に完成したのは1隻しかなく、ガングート級は就役時点ですでに時代遅れで、見劣りがしていた。日本海海戦の戦訓とイタリアのクニベルティの影響から、それらはドレッドノートでなくフィッシャーの巡洋戦艦の低速バージョンとでもいうべきものとなった。同時代の弩級戦艦と比較しても、砲は小さく、装甲は薄く、欠陥のある艦といわざるを得なかった。そのため、「ガングート級」改良型の「インペラトリッツァ・マリーヤ級」では速力は21ノットに落ちたが防御力を強化して純戦艦と呼べるものとなった。スペインは1909年以降の起工となるエスパーニャ級3隻を完成させた。この3隻はスペインのドックの多さによりサイズが制限されたため史上最も小型の弩級戦艦である。建造はスペイン国内で行われたが、設計から工事や資材に当たってはイギリスの援助に大きく頼っていた。例えば3隻目のハイメ1世の建造は、第一次世界大戦の勃発によりイギリスから砲を初めとして必須の部材が供給されなかったため、起工から完成まで9年の期間を要した。ブラジルは弩級戦艦の建造に着手した3番目の国となったという点で注目に値する。ブラジルは1907年にイギリスの造船所で2隻の戦艦ミナス・ジェライスとサン・パウロを起工した。これに対抗すべくアルゼンチンとチリも弩級戦艦を就役させたため、南アメリカで小規模な建艦競争が始まった。アルゼンチンはアメリカに発注し「リバダビア級」2隻を保有した。チリはイギリスの造船所に発注したが弩級戦艦を建造途中にキャンセルして超弩級戦艦「アルミランテ・ラトーレ級」2隻の建造に踏み切った。チリの2隻の戦艦は大戦の勃発にともなって2隻ともイギリスに買収され1番艦は「カナダ」として竣工し、後日チリ政府に返還され「アルミランテ・ラトーレ」となり、もう1隻は船体のみ完成していたため、イギリス航空母艦「イーグル」として完成した。オランダは、海防戦艦からなる艦隊を、1912年までに少なくとも5隻の弩級戦艦を擁する近代的な艦隊に変えることを企図した(オランダの戦艦建造計画)。しかし設計の絶え間ない変更と政治的な意思決定の遅れによって、発注がなされないまま1914年夏の第一次世界大戦の勃発を迎えてしまった。そして野心的な艦隊計画もそのまま放棄された。第一次世界大戦後に対日戦を考慮して28cm砲9門を持つ巡洋戦艦を研究したが第二次世界大戦の勃発により着手できなかった。オスマン帝国はブラジルがキャンセルした弩級戦艦1隻と、それとは別個に超弩級戦艦1隻をイギリスの造船所に発注したが、第一次世界大戦の勃発とともに、イギリス海軍を増強し、かつ敵の手に渡るのを防ぐために、イギリスに接収された。戦艦レシャディエ (Reshadiye) とスルタン・オスマン1世 (Sultan Osman I) は、それぞれイギリス戦艦エリンおよびエジンコートとなった。その接収の後、ドイツからオスマン帝国に2隻の軍艦、巡洋戦艦ゲーベンと巡洋艦ブレスラウが贈られ、それは、オスマン帝国が同盟国に加わる重要な要因となった。ゲーベンは「ヤウズ・スルタン・セリム」と改名されたが、第一次大戦後に「ヤウズ・セリム」と変わり、最終的に「ヤウズ」となった。ギリシャは超弩級戦艦をドイツとフランスに1隻ずつ発注したが、大戦の勃発によって建造は中止された。ドイツに発注した「サラミス」の主砲はアメリカに発注されていたが、それはイギリスのモニター艦「アバークロンビー級」に流用された。1914年、ギリシャは前弩級戦艦「ミシシッピ級」2隻をアメリカ海軍から購入し、「キルキス」および「リムノス」と改名してギリシャ海軍で就役させた。ドレッドノート就役後5年、まだその就役中に、より強力な
出典:wikipedia
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