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トウカイテイオー

トウカイテイオー(1988年 - 2013年)は、日本の競走馬である。おもな勝ち鞍は1991年皐月賞、東京優駿(日本ダービー)、1992年ジャパンカップ、1993年有馬記念など。日本調教馬として最初の国際G1競走優勝馬である。1991年度JRA賞年度代表馬、最優秀4歳牡馬および最優秀父内国産馬、1993年度JRA賞特別賞受賞。 1995年、顕彰馬に選出。七冠馬シンボリルドルフの代表産駒である。※馬齢は2000年以前に使用された旧表記(数え年)で統一する。父は競走馬時代にクラシック三冠を含むGI競走7勝を挙げ、「皇帝」と称されたシンボリルドルフ。母トウカイナチュラルは、優駿牝馬(オークス)優勝馬トウカイローマンの半妹である。ナチュラルとローマンの馬主・内村正則は、ルドルフの種付け株を手に入れた当初、ローマンをその交配相手に考えていた。しかしローマンが競走馬として予想外に長い活躍を続けて引退の予定が延び、代役の形でナチュラルとの交配が行われた。1988年4月20日、北海道新冠町の長浜牧場で、トウカイナチュラルは牡駒を出産する。父の異名「皇帝」からの連想で、牡駒は出生直後より「テイオー(帝王)」と呼ばれ、幼名は「ハマノテイオー」とされた。幼駒のころのテイオーは脚が長く華奢な身体付きで、一見して見栄えはよくなく、それほど高い評価は受けていなかった。しかし運動を始めると非常に柔軟性のある動きを見せ、関係者の期待を集めた。翌1989年10月、育成調教のため平取町の二風谷軽種馬育成センターに移動。ここでも馬体の柔軟性、そして他馬の前に出ようとする勝負根性が高く評価された。その後約1年間を二風谷で過ごし、競走年齢の3歳となった1990年10月、滋賀県栗東トレーニングセンターの松元省一厩舎に入る。競走名は幼名から冠名を替えたのみの「トウカイテイオー」で登録された。トレーニングセンターの調教では、ストライドの大きい馬は好タイムが出ないとされる坂路コースで際立った動きを見せ、松元に大きな期待を抱かせた。松元はクラシックを狙える馬であると感じ、皐月賞、東京優駿から逆算しての、余裕を持ったローテーションを企画した。12月1日、中京競馬場の新馬戦でデビュー。騎手は松元厩舎の馬に多く騎乗していた安田隆行が務めた。当日は単勝1番人気に支持されると、これに応えて2着に4馬身差を付けて初戦勝利を挙げる。以降も安田を鞍上に、年末のシクラメンステークス、翌年1月の若駒ステークスと連勝。クラシックへの有力候補として、またシンボリルドルフ初年度産駒の逸材として注目を集め、皐月賞に向けての東上緒戦・若葉ステークスでは、生涯最高となる66.28パーセントの単勝支持を受けた。この競走も2着に2馬身差で勝利を収め、通算4戦4勝、全戦で一度も鞭を使われない完勝という内容で、皐月賞を迎えた。クラシック第1戦の皐月賞(4月14日)は、重賞未勝利馬ながら、GI優勝馬のイブキマイカグラとともに単枠指定を受ける。当日は前哨戦弥生賞を制していた同馬を抑え、1番人気に支持された。レースでは大外18番枠から先行すると、最後の直線で早めに抜け出して優勝、クラシック初戦を制した。1馬身差の2着には後方から追い込んだ16番人気のシャコーグレイドが入った。同馬はシンボリルドルフに三度敗れた三冠馬ミスターシービーの産駒であったことも注目された。競走後の記念撮影において、安田はシンボリルドルフ主戦騎手の岡部幸雄に倣い、馬上で「まず一冠獲得」を意味する人差し指を掲げ、「三冠獲り」を宣言した。続いて、二冠目を目指して東京優駿(5月26日)に出走。前走と同じく大外枠(20番)の単枠指定を受け、単勝オッズは皐月賞を上回る1.6倍と、圧倒的な支持を集めた。レースはスタート直後にスムーズに6番手につけ、最後の直線で大外から抜け出す。最後は後続を突き放し、2着レオダーバンに3馬身差の快勝。父シンボリルドルフと同様、無敗のまま二冠を達成した。競走後には祝福の「ヤスダコール」が起こり、記念撮影では皐月賞に続き、安田が馬上で二本指を掲げた。安田は「ダービーに関しては(シンボリルドルフより)テイオーの方が強い勝ち方だったのでは」と語り、またレオダーバンに騎乗した岡部幸雄は「(安田が)3、4回ミスしてくれても敵わなかった」と述べた。また東京優駿で8枠の馬が1着となった史上初の事例でもあった。競走後には親子二代の無敗のクラシック三冠達成への期待が大きく高まった。しかしテイオーは、表彰式を終えて競馬場内の出張馬房に戻る時点で歩様に異常を来しており、診療所でレントゲン撮影が行われた。レントゲンの結果、左後脚の骨折が判明。3日後には公式に「左第3足根骨骨折・全治6か月」と発表され、年内の休養と最後の一冠・菊花賞の断念を余儀なくされた。当年の菊花賞にはレオダーバンが優勝している。翌年1月に発表されたJRA賞では、無敗の二冠が高く評価され、年度代表馬と最優秀4歳牡馬、さらに5頭のGI優勝馬を抑え、最優秀父内国産馬にも選出された。また中央競馬フリーハンデでは、古馬のメジロマックイーンを上回る65キログラムを与えられ、当年の最高評価となった。翌1992年4月5日、大阪杯から復帰する。当時調教師試験に注力していた安田の事情、また将来の海外(日本国外)遠征の予定を踏まえ、本競走より騎手は国際経験の豊富な岡部幸雄に替わった。当日は東京優駿から20キログラム増の480キログラムで出走、レースでは同世代のイブキマイカグラや前年の有馬記念を制したダイユウサクなどの強豪も出走したが、これらの凡走を尻目に、岡部が鞭を抜かないどころか、殆どジョッキーが追う事も無く圧勝した。。無敗のまま迎えた天皇賞(春)(4月26日)は、本競走の前年度優勝馬メジロマックイーンとの「世紀の対決」が注目を集めた。3200メートルで行われる同競走に対し、トウカイテイオーは2400メートル超のレースを未経験であったが、大阪杯の競走前に岡部が述べた「一杯になるという感じがなく、地の果てまでも走れそう」というコメントなどから問題はないと見られた。一方、相手のメジロマックイーンはほかに3000メートルで行われる菊花賞、本競走の前哨戦阪神大賞典も連覇するなど、充分な長距離実績を持っていた。また、鞍上の武豊が岡部のコメントに対して「あっちが地の果てなら、こっちは天まで昇りますよ」と応酬し、対決ムードを盛り上げた。当日の単勝オッズはトウカイテイオーが1.5倍の1番人気、メジロマックイーンが2.2倍の2番人気となり、両馬の馬連オッズも1.5倍と非常に低くなった。しかしレースは、先行したメジロマックイーンが2周目第3コーナーから早めに先頭に立って後続を突き離したのに対し、トウカイテイオーは最後の直線で抜け出せず、後ろから来た馬にもかわされて5着に敗れた。競走10日後には右前脚の剥離骨折が判明し、以降春シーズンは休養となった。骨折は競走中に生じたとも見られたが、競走能力に影響する程度ではなかったという見解を述べる者もあり、敗戦との因果関係は不明である。二風谷育成センターで療養したのち、9月に帰厩。本格的な調教を開始したが、同月19日に風邪を引くなど、調整に狂いが生じた。復帰戦は直接に天皇賞(秋)(11月1日)となったが、松元は「時間的にギリギリになってしまった。正直言って、背水の陣です」と不安を口にしていた。復帰緒戦にもかかわらず当日は1番人気に支持されたが、レースはメジロパーマーとダイタクヘリオスが競り合い、前半1000メートル通過が57秒5という「殺人的なハイペース」となり、岡部との折り合いが付かず3番手を進んだテイオーは、最後の直線で失速。先行勢は総崩れの展開となり、後方から追い込んだレッツゴーターキンの7着に終わった。続くジャパンカップ(11月29日)は、当年から国際GI競走として認定され、イギリス二冠牝馬のユーザーフレンドリー(GI競走4勝、当年の全欧年度代表馬)を筆頭に、史上初めて現役のイギリスダービー馬が一挙に2頭来日、オーストラリアから全豪年度代表馬のレッツイロープ、フランスからはアーリントンミリオンの優勝馬ディアドクターなど世界中の強豪馬が集まり、「ジャパンカップ史上最強メンバー」とも評された。このなかでテイオーは、日本馬では最上位ながら生涯最低となるオッズ10.0倍の5番人気にとどまった。しかし、道中は4、5番手をスムーズに追走すると、残り200メートル地点で外から抜け出し、ゴール前でナチュラリズムとの競り合いを制し優勝。普段は冷静な岡部がめずらしく右手でガッツポーズを上げた。日本馬の勝利は1985年の父シンボリルドルフ以来7年ぶり3頭目であり、同時にトウカイテイオーは日本競馬史上最初の国際GI優勝馬となった。岡部にとってもルドルフ以来の優勝であり、ジャパンカップ史上初の2勝騎手となった。年末のグランプリ・有馬記念では、出走馬選定のファン投票で17万票以上を集め、第1位で選出。12月19日の開催で騎乗停止処分を受けていた岡部に代わり、鞍上には田原成貴が迎えられた。ジャパンカップとは一転して「絶好調」と報じられ、当日も1番人気に支持される。しかしレースでは終始後方のまま、生涯最低の11着に終わった。後日、松元から競走直前に寄生虫駆除のための下剤を服用していたことが明らかにされた。のちに田原成貴は、「追い切り(最終調教)の感触は悪くなかったが、追い切った後の2、3日で変わってしまった」と回想している。翌1993年1月3日、左中臀筋を痛めていたことが判明し、鹿児島県の山下牧場で休養に入る。3月に帰厩、宝塚記念での復帰を目標に調整されていたが、競走10日前に左前トウ骨の剥離骨折が判明し、ふたたび休養に入った。この結果、復帰戦は364日ぶりのレースとなる有馬記念(12月26日)となった。岡部は当年の菊花賞優勝馬ビワハヤヒデへの騎乗が決定しており、武豊への騎乗も打診されたが、主戦騎手を務める二冠牝馬ベガへの騎乗を理由に断られ、最終的に前年も騎乗した田原成貴で臨んだ。競走前、松元は「力を出せる状態にはある」と述べたものの、田原は「順調に来ている馬相手では苦しいかも知れない」と不安を口にした。当年は出走14頭のうちトウカイテイオーを含む8頭がGI優勝馬という顔触れであった。このなかでテイオーは、単勝式ではビワハヤヒデ、レガシーワールド、ウイニングチケットに続く4番人気で、ベガや天皇賞(春)優勝馬のライスシャワーよりも人気があった。しかし3着までに入れば的中となる複勝式では8番人気で、馬連人気も低く、単勝人気は多分に応援の意味合いが強いと言われた。レースが始まると、中盤まで後方待機策のトウカイテイオーは、2周目第3コーナーから徐々に進出。最後の直線に入ると先に抜け出したビワハヤヒデを追走し、ゴール前の競り合いを制して半馬身差で優勝した。ゴールの瞬間はフジテレビで実況中継を務めた堺正幸は「トウカイテイオー、奇跡の復活!」、NHK競馬中継で実況を務めた藤井康生は「トウカイテイオーよみがえりました!」と実況、田原は優勝騎手インタビューにおいて、「この勝利は、日本競馬の常識を覆したトウカイテイオー、彼自身の勝利です。彼を褒めてやって下さい」と涙を流しながら語った。前回の出走から中363日でのGI勝利は長期休養明けGI勝利の最長記録となり、現在まで破られていない(競走詳細については 第38回有馬記念も参照のこと)。この勝利が評価され、翌1月にはJRA賞特別賞を受賞した。翌1994年も現役を続行、天皇賞(春)を目標に調教が進められていたが、復帰予定の大阪杯を筋肉痛で回避。半月後には前回故障の患部である左前トウ骨をふたたび骨折し、4度目の休養に入った。以後は秋の天皇賞に目標が切り替えられたが、状態の回復が思わしくなく、天皇賞に間に合わないとの判断から引退が発表された。10月23日には東京競馬場で引退式が挙行された。当日のメイン競走はオープン特別競走であったにもかかわらず、重賞が行われた前週を1万人超上回る、10万6179人のファンが訪れた。馬場では田原が騎乗、ダービー優勝時のゼッケン「20」を着けた姿がファンに披露された。安田隆行(当時調教師に転身)、岡部幸雄も出席、それぞれ思い出などを語った。また、当日のメイン競走・東京スポーツ杯で、皐月賞で2着に退けたシャコーグレイドが3年10か月ぶりの勝利を挙げ、「トウカイテイオーへのはなむけでは」と話題となった。引退後は一口1500万円、総額9億円のシンジケートが組まれ、1995年より社台スタリオンステーションにて種牡馬として供用されている。有馬記念優勝のインパクトもあり、初年度より多数の良血牝馬を集め、例年100頭以上の繁殖牝馬と交配された。1998年に初年度産駒がデビュー。産駒の成績が関係者の期待に反して振るわず、一時は種付け頭数も70頭台に減少したが、2001年以降、トウカイポイントがマイルチャンピオンシップを、ヤマニンシュクルが阪神ジュベナイルフィリーズを、2005年にはダート交流GIへ昇格したばかりのかしわ記念をストロングブラッドが勝利し、種牡馬としても一定の実績を残している。ただし、トウカイポイントは騸馬、ストロングブラッドは引退後乗馬となって去勢されている。2013年現在、トウカイテイオーを父に持つ種牡馬は登録されておらず、後継種牡馬の目処は立っていないのが現状である。ジャパンカップ優勝から12年後の2004年、JRAゴールデンジュビリーキャンペーンの「名馬メモリアル競走」の一環として「トウカイテイオーメモリアル」が同年のジャパンカップ施行日に東京競馬場にて施行された。また、2010年には歴代のジャパンカップの勝ち馬から選ばれるJRAプレミアムレース「東京ウェルカムプレミアム」の投票で2位となり、11月28日の東京競馬第6競走に「トウカイテイオー賞」の名前が付けられた。2009年11月7日と11月8日、東京競馬場にて展示された。2011年7月24日には函館競馬場に来場した。社台スタリオンステーションでは種付けシーズン・夏季以外は一貫して一般客からもっとも見やすい場所で日中放牧により公開されていたが、2010年冬より高齢のため公開放牧を見合わせるようになった。2011年は上記の函館競馬場でのお披露目後、8月の展示でのみ姿を見せた。これがトウカイテイオーが公に見せた最後の姿となった。2013年8月30日、社台スタリオンステーションの馬房にて心不全を起こして息を引き取った。25歳没。テイオーに関わった者が、その特徴として口を揃えるのが「身体の柔軟性」であり、とくに騎乗経験のある者はその乗り心地の良さを挙げている。この特徴が一般ファンにも分かるものとして端的に表れたのが独特の歩様であり、とくに後脚の球節は地面に付くのではないかと見られたほど柔らかく、クッションの効いた脚運びはテイオーの個性として好意的に捉えられた。東京優駿のパドックでは、テレビ解説を務めていた大川慶次郎が「トモ(後躯)の運びがおかしい」と故障の可能性を述べたほどであったが、このコメントについて松元は「実際に馬を見たら、その通りなんです。特に馬房から引き出したら、なんやこの歩様、と思うぐらいです」と大川の見解を擁護している。一方で、岡部幸雄は初期の印象として「乗り心地が良すぎるというか、フワフワし過ぎているというか、もっと重たい部分が出てくるといいなあと思ったんだ」、田原成貴は「力強さの点で少し物足りない気もしました。全体的な比較で、前躯の素晴らしさに比べると、後躯がちょっと物足りないという印象は残ります」と述べ、いずれも「力強さ」という点での不満を表明している。しかし田原はこれに付け加え「それは恐らくテイオー特有の柔らかさから受ける印象なんです。ポルシェにベンツの良さを取り入れたら、ポルシェの良さが失われてしまう。それと同じ事で、僕が感じたのは補うことができない物足りなさだったと思う」との見解を示している。幼駒のころは「サラブレッドの手本のような立ち方」をしており、故障の心配はないと見られていた。競走生活中に発症した4度の骨折はすべて軽度のものであり、競走能力への影響は少なかった。しかし順調な調整と鍛錬が妨げられ、結果的には競走成績に反映された。このように小さな骨折を繰り返した原因として、松元はテイオーの走法を挙げている。テイオーはその柔軟性と強いバネから、前脚が肩の辺りまで振り上がるほどフォームが大きく、接地の際の衝撃が大きかった。松元はボクシングに喩え「ハードパンチャーほど拳の怪我が多いというのと同じ。逆に言えば、そのフォームゆえにあれだけの成績を残せたとも言えるわけです」と述べている。トウカイテイオーは容姿の面でも高い評価を受けた。とくにその気品を挙げる声が多い。「貴公子」とも呼ばれ、競走生活中は長い前髪がトレードマークのひとつであったが、種牡馬入り後も多くの見学者が訪れるため、「イメージを壊さないように」との種馬場の配慮で意図的に長めに整えられている。幼駒のころは利かない部分があり、長浜牧場から松元厩舎に送り出されるにあたっては、長浜から担当厩務員について「うるさい馬だから、短気な、八つ当たりをして馬を虐めるような人には絶対任せないで下さい」との要望が出されていた。しかし担当した東郁夫は、競走生活を通じてまったく手が掛からず、賢い馬だったとの印象を語っている。一方で、東、調教助手の戌亥信昭、二風谷育成センター場長の岡元幸広のいずれもが、「プライドが高く気の強い一面があった」との印象も述べている。田原成貴はテイオーの「偉大な部分」についてその性質を挙げており、「強い意志を持った上で、従順な時は従順だし、従わない時は従わない。言うなれば、利口な馬だよね」と述べている。父シンボリルドルフは「強すぎて退屈」とも評され、人気の面では比較的冷めた見方をされていたのに対し、テイオーは人気が高い馬であった。人気の背景にはさまざまな要因があるが、とくに浮沈の激しい競走生活がファンの心を掴んだという見方がある。ルドルフの熱狂的ファンを公言する競馬漫画家のよしだみほは「父と違って人懐こく、父にはなかった温かい雰囲気を持ち、ファンから父とは違う愛され方をした」と評している。また、作家の木村幸治はルドルフの時代からの競馬ファンの変容を指摘し「『強すぎて完璧すぎて』嫌われたルドルフの子を、構わず支持するファンのパワーを目の当たりにすると、ノスタルジーや物語性をも構わず『強いものは強い』と豪語する新世代競馬ファンの著しい台頭があったと思われる」と述べている。2000年に日本中央競馬会が実施したファン投票による名馬選定企画「20世紀の名馬大投票」では、ルドルフの得票を2000票あまり上回る24782票を獲得して第5位にランクインし、6位の父より上位に付けられた。競走生活中にはパナソニックが発売した大型テレビ「画王」のCMキャラクターに採用され、競馬ファン以外にも広くその名を知られた。デビューから6戦に騎乗した安田隆行は、トウカイテイオーに騎乗するまではローカル開催での勝利が中心の地味な騎手であった。しかし皐月賞、ダービーと連勝して全国区の知名度を獲得、JRA発行の「ジョッキー列伝」ポスターも制作された。岡部に乗り替わった際には「やっぱり悔しかった」と語る一方で、「普通は乗り替わりがあると、『ちくしょう、負けちゃえばいいのに』っていう気持ちもどこかに付いてくるものなんですが、あの馬についてはそれはなかった。ずっと勝ち続けて欲しかったですね。それだけ愛せる、素晴らしい馬です」と述べている。引退式に出席した際の騎手紹介では、安田への声援がもっとも大きかった。岡部幸雄は、しばしば父シンボリルドルフとの比較でテイオーを語った。初めて跨った際には「背中、フットワークは父そっくり、落ち着き、賢さは父以上」と評したが、最終的には「父親のレベルに達する要素はいくらでも持っていた馬ですが、結局そうはなれなかった」と総評している。一方で、「怪我なく順調に行って、普通にレースを重ねていたら、もっと違う仕事をしていたと思う。大変な馬になっていたと思うよ。そういう意味での残念な気持ちは残りますね」とも語り、度重なる故障を惜しんだ。最後の有馬記念でビワハヤヒデを選択した際には「テイオーは終わったと見切りを付けた」という見方もあったが、競走後には、悔しくないかとの問いに対し「他の馬に負けるくらいならテイオーに負けた方がいい」と語ったとも伝えられる。田原成貴は 2戦のみの騎乗ながらテイオーに心酔しており、自身が騎乗した最強馬としてその名を挙げている。テイオー引退に際しては、自身のエッセイでテイオーに宛てる形を取り、「有馬記念での2分30秒9は、私のこれまでの人生で最も充実した素晴らしい時間でした」「あなたのおかげで、競馬のことが少しだけ分かってきた気がします。ありがとう、トウカイテイオー」と謝辞を述べている。なお、最後の有馬記念では、騎乗依頼を受ける前から「ずっと調教を見ているが、トウカイテイオーは必ず走る。ぶっつけだろうが何だろうが、ジャパンカップを勝った時より今回のトウカイテイオーの方が良い」との見解を示していた。競走直前の返し馬では、その動きの良さに「これが本当のテイオーだったのか」と感心し、「『トウカイテイオーが勝つぞ』と叫びたくなった」と回顧している。最後の直線手前でテイオーの手応えが悪くなりかけた時には「テイオー、がんばれ」と叫び続けたという。前述の通り、5歳から岡部が手綱を執った背景には日本国外への遠征を予定していたという事情があり、仮に順調に戦績を重ねていた場合、同年のフランス・凱旋門賞への出走が視野に入れられていたが、天皇賞での故障で実現しなかった。ジャパンカップの優勝後には、競馬評論家の柏木集保が「凱旋門賞やアーリントンミリオンなどから帰り、再びジャパンカップや有馬記念に登場するテイオーが存在することを信じたい」と遠征への期待を述べたが、遠征は結局実現しなかった。松元省一は、遠征を行ったと仮定しての予測において、テイオーは非常にデリケートな一面があったため、遠征先の環境に順応できなかった可能性があると述べている。なお、松元は競馬界に入った当初から「凱旋門賞に優勝し、外国の報道陣の前でフランス語で記者会見をすること」を大きな目標としていたが、凱旋門賞の代わりに国際GI初年度となったジャパンカップに優勝し「外国の報道陣の前で記者会見をする」という目標を達した。松元はこれをもって「夢を叶えてくれた」と述べ、ジャパンカップをその戦歴でもっとも思い出深いレースとして挙げている。父系はアイルランド産馬の祖父パーソロンからトウルビヨン、ヘロド、三大始祖馬のバイアリータークへと遡る系統である。父系直系としては一時断絶寸前に至った傍系であるが、日本ではパーソロンやダンディルートの成功によって独自の発展を保った。母系は1925年に下総御料牧場が輸入した基礎牝馬・星友に遡る。その牝駒ヒサトモは日本競馬史上初の日本ダービー優勝牝馬であるが、繁殖牝馬としては仔出しが悪く、4頭の産駒を産んだのちに16歳で競走復帰させられた末に斃死した。牝駒は1頭しか残しておらず、その系統もまた消滅寸前であったが、 1967年に内村正則がヒサトモの曾孫に当たるトウカイクイン(テイオーの3代母)を購買、初所有の同馬が6勝を挙げると、内村はヒサトモの血統に注目し、その系統を保護するため、子孫を次々に購買した。一馬主がひとつの系統を丸ごと保護するということは、系統出身馬が凡庸であった場合の経済的リスクが非常に高かったが、内村の情熱はやがてトウカイローマン、トウカイテイオーらに結実した。トウカイテイオーのダービー優勝時点で、ヒサトモの子孫はすべて内村の所有馬であった。騸はせん馬。

出典:wikipedia

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