太原市(たいげんし、中国語:太原市、英語:Taiyuan)は中華人民共和国山西省の省都。この市域は中国の古都の一つで、2500年の歴史がある。黄土高原の東部、太原盆地の北端に位置し、北・西・東の三方を山に囲まれている。山西最大の河川である汾河が北から南へ約100kmにわたり市域を貫く。汾河は静楽地区で市域に入り西から東へ流れ、上蘭村で南へ折れ、太原市街地を南北に流れている。市域の中部と南部は汾河が形成した北高南低で簸箕の形をした河谷平原が広がる。汾河の支流には瀟河、屯蘭河、大川河、柳林河、凌井河、楊興河などがある。海抜は最高で2,670m、最低点は760m、平均海抜は800mほど。市域は山と丘陵地が中心で、平地と川は面積のうち5分の1を占めている。盆地内の地形は平坦で土壌も肥沃であり、古くから農業が発達してきた。現在の耕地面積は210万畝で、山林面積は83万畝、草地面積は187万畝。主な農作物はコムギ、イネ、トウモロコシ、コーリャン、豆、イモなど。また野菜、綿花、甜菜、薬草、アブラナなどの商品作物も産する。山麓では泉が湧き水は比較的豊富。市域内には大きな池沼が六つあり、晋陽湖が最大の湖になっている。汾河の両岸には工業用水や農業用水を運ぶ用水路が広がる。ケッペンの気候区分によると、ステップ気候(BSk)に属する。標高約800mの高原地帯に位置し年間を通じて乾燥している。雨季にあたる夏季には降水が観測されるが、降水量が限定的である。秋から春までが乾季に相当し、その期間の降水は殆ど観測されない。そのため郊外の黄土高原は砂漠化が進行しており、また粒子の細かい黄土が飛散し、特に春季には砂嵐による視界不良となることもある。年平均気温は10.1度で、年のうち霜のない時期は140日から190日、氷の張る時期は120日ほど。平均降水量は431.2mm。初夏には柳の綿が飛び交い、最も暑い7月の平均気温は23.5度で日中は30度近くまで気温が上がるが湿度が低いため過ごしやすい気候となる。10月の国慶節頃には気温は10度近くまで下がり、最も寒い1月の平均気温は-5.3度でマイナス20度以下まで下がることもある。冬場の石炭煤塵によりダイヤモンドダストを見ることもできる。雪はほとんど降らないが、一度降ると気温が低いために路面が凍結し交通機能が麻痺することがある。太原は山西高原を南北に貫き黄河に流れる汾河の中流にある。汾河流域にも黄河文明の遺跡が多く古くから文明が栄えた。また洛陽周辺と北京周辺を結ぶ重要な街道が汾河沿いの盆地を通るため、太原は交通の要衝でもあった。北方の遊牧民族にとって太原は中原を攻めるための拠点で、漢民族にとって太原は北方の守りの要衝であった。太原は古くは晋陽と呼ばれ、春秋時代の大国晋の都邑(主要都市)の一つであった。晋の有力家系・趙氏の当主趙鞅(趙簡子)が紀元前497年に晋陽の町を築いたことが太原の歴史の始まりとされる。紀元前455年(周貞定王14年)、有力家系のひとつ智伯の瑤(智襄子)は趙氏を攻め、汾河の水で趙無恤(趙襄子)のいる晋陽城に水攻めを行ったが(晋陽の戦い)、趙襄子は智氏の軍に従って来た魏氏の当主・魏駒(魏桓子)と韓氏の当主・韓虎(韓康子)に寝返り工作を行った。韓魏両氏の軍は堰き止めていた水を智氏の軍営に向けて流し智伯軍を破り、智瑤を殺した。これにより晋は事実上、趙・韓・魏の三氏によって分割統治されるようになり、戦国時代が始まる。晋の滅亡後、趙はしばらくの間引き続き晋陽に国都を置いた。秦始皇帝が中国を統一すると天下は三十六郡に分けられ、その内の太原郡の治所が晋陽に置かれた。漢は全国を十三州に分け、その内の并州(中原の真北を管轄する)の州府が晋陽に置かれた。これが太原の略称「并」の由来となっている。五胡十六国時代、華北にあり最大の勢力を誇った前秦が江南の東晋討伐の戦いを起こしたが逆に敗北し(淝水の戦い)、その後の混乱の最中に苻丕が晋陽で即位し、晋陽は長安も鄴も失った前秦の首都となったが、翌386年に西燕との戦いに出た苻丕は殺され前秦は隴西へと落ちのびた。続く南北朝時代、東魏と北斉は晋陽を別都としている。隋の時代には長安・洛陽に次ぐ黄河流域第三の都市になっており、唐の李淵はここで起兵し唐を興した。この由緒から唐の時代に太原府は陪都として「北都」「北京」とされ、京師(西都)長安、東都洛陽に次ぐ都となり、これら三つの大都会が三都と称された。五代十国時代には後唐が国を起こす拠点、および別都となった。当時この地域は鉄と石炭の両者を産出したため、以降、後晋・後漢・後周そして宋と続く五代の沙陀系政権の大陸統一を支える主要な経済基盤の一つとなった。五代十国時代後期、後漢の崩壊後に一時期北漢が太原を首都として成立した。「龍城」の別名はこの時代に由来しているが、979年に宋の太宗の親征軍の前に英武帝・劉継元は降伏し、徹底抗戦を続けた楊業(「楊家将」の第一代)も降伏する。太宗は火攻めと水攻めで荒廃した太原を部下の大将・潘美に再建させた。この時、城市の位置は汾河沿いの現在地へ西に数km移動している。明および清代、山西商人(晋商)が政治との強い結びつきを得て台頭すると、太原府は華北のみならず中国の商業・金融・鉱業・工業の一大中心地となっている。清末期には太原にはキリスト教宣教師や多くのキリスト教徒が住んだが、1900年の義和団の乱の際には義和団による虐殺が起こった(太原教案)。特に当時山西巡撫だった毓賢は苛烈な排外主義者でもあり義和団を用いて教会や病院を焼き払うなどした。1907年に北京と武漢を結ぶ幹線鉄道(現在の京広線)上の石家荘からの支線が太原府に到達したが、一方で中国に近代的な銀行システムが導入されたことにより山西商人は大打撃を受け、従来の金融の中心地だった太原の経済は落ち込んだ。中華民国時代には山西軍閥の閻錫山が太原を根拠地とし、豊富な資源を生かした工業化と教育などのシステム整備を進め経済を回復させた。日中戦争では日本軍に占領され、支配地のほとんどを失った山西軍閥は弱体化し、その後の国共内戦における太原戦役では、人民解放軍が閻錫山の軍を破り太原を占領した(中国山西省日本軍残留問題はこの時期に発生した)。新中国建国後、太原は豊富な地下資源があることから重工業および石炭業で国家を支えた。経済開放後、老朽化した国営工場が多く海外への物流も不便だった太原は、臨海部に対して相対的に地位が低下した。さらに地域で産出される石炭を燃料にした産業構造により、深刻な大気汚染などの公害にも悩んだが、環境の改善と産業の高度化、交通基盤の整備に力を入れている。太原市は6市轄区、1県級市、3県を管轄する。山西省の中心として、商業活動も盛ん。1998年に山西華宇集団による本格的なデパート華宇購物中心(フアユーショッピングセンター)が開業。2000年に外資系としてはケンタッキーフライドチキンが初めて繁華街である柳巷に開業。続いてマクドナルドなども市内に多数オープンしている。華宇超市をはじめとして、寸草心超市、美特好などスーパーマーケットチェーンが市内に点在している。2005年にはウォルマートも開業した。また古交市の屯蘭炭鉱などで産出される石炭をエネルギー源とした工業も活発である。
出典:wikipedia
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