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ゲド戦記 (映画)

『ゲド戦記』(ゲドせんき、英題:"Tales from Earthsea")は、アーシュラ・K・ル=グウィンの小説『ゲド戦記』の主に第3巻の「さいはての島へ」を原作とし、宮崎駿の絵物語『シュナの旅』を原案とした長編アニメーション映画。スタジオジブリ制作。東宝配給で2006年7月29日に劇場公開。宮崎吾朗監督・脚本の独自解釈によるストーリーとなっている。原作『ゲド戦記』ではなく、絵物語『シュナの旅』がキャラクターイメージの元となっている。監督の宮崎吾朗は「『シュナの旅』の登場人物に少しずつアレンジを加えていって…『ゲド戦記』の世界に近づいた感じです」と語った。( )内はその人物の真(まこと)の名。作中の世界(アースシー)では、人に真の名を教えることはその者の掌中に己の魂を委ねることと同じで、通常、真の名を隠す。本作品は原作者ル=グウィン(以下「原作者」)による「ゲド戦記」の一連の作品を原作としており、世界観や設定、登場人物名や用語などでいくつかの共通点を持つ。その一方、原案『シュナの旅』の影響が強いため、原作とは異なる点も多い。本作品と原作ゲド戦記の主要な相違点は以下のとおりである。本作品は、プロットや部分的な絵作りにおいて、原案としてクレジットされている宮崎駿作の『シュナの旅』からの翻案が多い。その主要なものは以下のとおりである。監督の宮崎吾朗の父親である宮崎駿は『ゲド戦記』の古くからのファンであり、彼の作品は『ゲド戦記』から大きな影響を受けてきた。『風の谷のナウシカ』(1984年)を映画化する以前、彼は原作の出版元岩波書店に映画化を打診していたが、その当時原作者のル=グィンは自身の作品のアニメ化には消極的で、アニメとはディズニーのようなものだと見做しており、1990年代に再オファーするも、この時も原作者の許可は下りなかった。2003年に『ゲド戦記』の全巻の訳を終えた清水真砂子がル=グウィンと面会した際、ル=グウィンは『となりのトトロ』などの宮崎作品に対し「ジブリ作品は、私の作品の方向性と同じ」と気に入っていることを述べた上で、「もし「ゲド戦記」を映像化するとしたら、OKを出せるのはあの人だけ」と発言。清水は彼女に宮崎駿に伝えていいのか念押しし、後日スタジオジブリにそのメッセージを伝えた。宮崎駿は 「これが20年前なら、すぐにでも飛びついたのに……。」と戸惑ったが、「ハウルの動く城」を製作中だったこと、および「これまでの自分の作品で既に『ゲド戦記』の要素を取り入れて作ってきたから、今更できない」として、監督を断った。しかし、本作をジブリで映画化したかったプロデューサーの鈴木敏夫は、ジブリ内で『ゲド戦記』の映画化を検討する研究会を立ち上げた。当初のスタッフは鈴木とプロデューサー石井朋彦、有力な若手アニメーターと宮崎吾朗。その時点では吾朗は美術館館長としての参加だったが、次第に研究会の中心人物として動くようになっていった。その過程で鈴木は、他のアニメスタッフではなく、吾朗を監督に起用することを画策した。発表当時のインタビューでは、「前提としてジブリの今後を考え、当の鈴木を含め駿や高畑勲が高齢であるため」と述べた。当初はジブリ全スタッフから「なぜ宮崎駿の息子というだけで監督なんだ」と異論を唱えられたと言う。宮崎吾朗は絵コンテやレイアウトを書きながら色々なスタッフと渡り合い、自分の能力を証明し、溶け込んでいった。また、宮崎吾朗が製作の素人だったということもあり、新たな方法論や発想が生まれることとなった。スタッフも自由に仕事が出来るようになり、鈴木敏夫は「ジブリのスタッフが持つ感性と力がうまく引き出された」と評している。この作品については、宮崎親子に関する確執が公開前から取り沙汰されており、公開に至るまで親子間、又はジブリ内での紆余曲折が、しばしば話題にされた。宮崎駿は、映画監督経験がない吾朗が監督に就く事に「あいつに監督ができるわけがないだろう。絵だって描けるはずがないし、もっと言えば、何も分かっていないやつなんだ」と言って猛反対した。ここで鈴木は吾朗にイメージ画を描かせ、吾朗は『竜とアレンが向き合う絵』を描きあげた。これを見た駿は唸り黙ってしまったという。そして吾朗に「お前、本当にやれるのか?」と3日に渡って何度も問いただしたが、それでも吾朗は監督をやると返答し続け、そして宮崎駿はようやく吾朗が監督するのを呑んだという。鈴木はこれを聞き、はなむけに一枚描いてくれと頼み、それがホート・タウンの町の原型となるイメージ画となった。それでも息子の仕事の進行具合が気になっている様子を見かねた鈴木が、独身社員の出会いの場を建前に宮崎駿を含む本作品の製作スタッフを集め、すき焼きパーティーを催す。その席で本作品の出来具合を(古参の)女性スタッフに訊ねると「ミヤさん(宮崎)が引退した後、ローンの支払いをどうするか心配をしていたが杞憂だった」と言われ、「ふざけるな!」とヘソを曲げたという。2005年6月に鈴木と吾朗は、原作者に吾朗を監督にする了解を得るため渡米を予定していたところ、駿は「吾朗がやると決めたじゃないか」「監督というのは少しでも時間があったら、1枚でも多くの画を描くべきだ。原作者と交渉するのはプロデューサーの仕事だろう!」と一喝した。「じゃあミヤさんが来てくださいよ」と鈴木に促され、仕方なく駿と鈴木が渡米する。原作者と面会の場で、駿は昔書いた「ゲド戦記」などのスケッチを見せ、原作への思い入れや、自身への影響を熱烈に語り、スクリプトについては責任を持つということでル=グィンの了承を得た。なおこの際に上記『竜とアレンが向き合う絵』をル=グィンに見せ、駿は「この竜と少年の絵は、原作の表現と比べるとおかしいですよね?」と吾朗の解釈について批判する一幕もあった。帰国後、駿はスクリプトの件で「あんなこと、言わなきゃよかった」と言い、その後も悩むこととなったが、結局シナリオには一切関わらなかった。ただし、脚本に行き詰まる吾朗に対し「『ゲド戦記』なんかやらずに『シュナの旅』をやればいいんだ」と助言し、それが本作の大きな指針となった。その後もゲド戦記(と息子)に対する宮崎駿の執念と確執は燻り続け、2005年暮れになって鈴木の下へ現れた宮崎駿は「今からでも間に合うから吾郎を降板させて、俺に監督をさせろ」と言い出し、鈴木を困惑させる。その時の宮崎駿案によるプロットは老いて襤褸を纏ったゲドを基軸とする物語であった。作品が完成直前まで漕ぎ付けても息子・宮崎吾朗に対する溝は埋まらず、「カリオストロの城」が公開当時に観客動員が奮わなかった上「監督一作目にしては良く出来ていた」などと評価された事に根強い恨みを持っていた宮崎駿は、「俺も同じように“監督一作目にしては良く出来ていた”と言ってやる」と息巻いていた。ただそれは宮崎駿が次もやろうと奮起した言葉でもあったと鈴木は語っている。公開前より「行かない」と言っていた宮崎駿であったが、初号試写に現れ関係者を驚かせる。鈴木は「行かないと言ってたのに何故来たの? どうせ途中で帰るんでしょ」と忠告し、事実、駿はその通りに上映途中で煙草のために数分席を立って、「気持ちで映画を作っちゃいけない」と語った。その後試写室に戻り、試写の後「大人になってない、それだけ」と感想を述べた。 宮崎は初号を隣の席で共に見た色彩設計の保田道世に自身のアトリエで、「初めてにしてはよくやったっていうのは演出にとって侮辱だからね。この1本で世の中変えようと思ってやんなきゃいけないんだから。 変わりゃしないんだけれど。 変わらないけどそう思ってやるのがね、映画を作るってことだから」と話している。後に宮崎駿は本作品に対し、保田を通じて「素直に描けていて良かった」との感想を吾朗に伝えた。なお、後のジブリ作品「コクリコ坂から」では吾朗の監督起用に駿は反対していない。第63回ヴェネツィア国際映画祭で特別招待作品として上映。映画祭での上映に対する現地の評判は最低ランクで、スタジオジブリの評価を著しく下げた。「ウニタ」紙のダリオ・ゾンダは「平板なスタイル、創造性に欠けた絵で、それはリアリズムの上に成り立つファンタジーに供する想像を生み出すことを放棄している」、キャッスルロック.itは「アニメーションはスムーズで、緻密なキャラクターデザインではあるけれども、吾朗の映画は父親の映画における創造性と物語性芸術の高みには達していない」と評した。北米では米SCI FI Channelによるテレビドラマ化の契約により、2006年当時、劇場公開は不可能であった。公開から4年後となる2010年8月13日より、ニューヨークやロサンゼルスなど都市部限定でPG13指定で公開となった。原作者のル=グウィンは試写会後、吾朗に感想を問われ「私の本ではない。吾朗の映画だ。」と述べた。その後、この発言を吾朗が無断でブログに紹介したことや、日本人ファンからのメールなどを受けて、映画に対する感想を公式に発表する。ル=グウィンはこのコメントの中で、「絵は美しいが、急ごしらえで、『となりのトトロ』のような繊細さや『千と千尋の神隠し』のような力強い豊かなディテールがない」「物語のつじつまが合わない」「登場人物の行動が伴わないため、生と死、世界の均衡といった原作のメッセージが説教くさく感じる」などと記した。また、原作にはない、王子が父を殺すエピソードについても、「動機がなく、きまぐれ。人間の影の部分は魔法の剣で振り払えるようなものではない」と強い違和感を表明している。多くの映画評論家は、この作品に厳しい評価をした。2006年度の最低映画との評価を、それぞれ独立した映画評論雑誌5誌から受けている。「週刊朝日」、「文藝春秋」、「週刊新潮」、「Premiere」、「ぴあ」、「スクリーン」、「キネマ旬報」等、国内の雑誌でも酷評されている。2008年7月11日に日本テレビの金曜ロードショーで地上波初放送された。近年のジブリ作品の地上波初放送の視聴率は20~30%台がほとんどだが、本作品は16.4%(関東地区・ビデオリサーチ)と低調だった。これは、翌週に放映された「となりのトトロ」(17.6%、関東地区・ビデオリサーチ)よりも低かった。押井守は、「初監督でこれだけのものが普通の人に作れるだろうか? 合格点を与えていいだろう。次は本当の父殺しの映画を作るべきだ。」と評価した。公開2日間で観客動員約67万人、興行収入約9億円を記録した。配給の東宝は初動の結果を受け、興行収入100億円超を目標に掲げたが、9月に入ると約85億円に下方修正した。最終的にはそれをさらに下回る約76.5億円だったが、2006年邦画興行収入1位となった。「諸君!」2006年11月号誌上において荒川洋治は、「作詞者宮崎吾朗氏への疑問」と題して劇中挿入歌である『テルーの唄』に対し、「萩原朔太郎の『こころ』に、ある範囲を超えて似すぎている」「参考資料として『こころ』を詞のもとにしたならば、原詩・萩原朔太郎、編詞・宮崎吾朗とでも表記するべきで、作詞・宮崎吾朗とすることにためらいはなかったのか」との批判を行った。2006年10月21日、毎日新聞はこの件につき報道した。記事の中で三田誠広は、「盗作ではないがモラルの問題として謝辞を入れるべき」「シングルCD購入者はそうであるとは分からず、先行する芸術に尊敬が欠けている」旨述べた。2006年10月24日、鈴木敏夫は「ゲド戦記」プロデューサーとしてこの件につき声明し、「表記について思慮不足だった」との旨を述べ謝罪した。2007年7月4日、DVD及びVHSにて発売された本作品のスタッフロールに、「『テルーの唄』の歌詞は、萩原朔太郎の詩『こころ』に着想を得て作詞されました。」との表記が追加された。原詩との関連についてオリジナルサウンドトラック、劇場用パンフレット、公式サイト、TV番組『ゲド戦記音図鑑~テルーの唄はこうして生まれた』等、映画に関係が深い媒体では『こころ』に着想を得て作詞された旨が解説されていたが、歌そのものの媒体であるシングルCDには解説がなく、劇場公開当時のスタッフロールにも表記が無かった。本問題については「本歌取りやオマージュであり、表記については問題がない」という見方がある。法律としては現在、『こころ』の著作権は著作権の保護期間を満了し消滅している。本作品は、協賛しているアサヒ飲料の三ツ矢サイダーのコマーシャルにも起用されている。挿入歌の「テルーの唄」をバックに、テルーの声優の手嶌葵がアフレコをしている場面で、劇中のセリフを吹き込むというもの。

出典:wikipedia

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