ジパング()は、中世・近世ヨーロッパの地誌に現れていた東方の島国、日本のことである。語源については、「日本国」を中世の中国語で発音した音が語源とされ、ヨーロッパにはマルコ・ポーロが (あるいは)として最初に紹介したと言われる。なお10世紀頃から地理学者イブン・フルダーズ=ビフ などをはじめアラビア語・ペルシア語の地理書において、後のジパングにあたると思われる金山を有する島(国)、ワークワーク( , 倭国か)について都度都度言及されている。現代の多くの言語で日本を意味する (英語「ジャパン」、ドイツ語「ヤーパン」)/, (フランス語「ジャポン」、スペイン語「ハポン」)/(イタリア語「ジャッポーネ」)/, (ウズベク語「ヤポニヤ」、ロシア語「イポーニヤ」) などの言葉は、一般にジパングが語源とされるが、ポルトガルが到達した16世紀頃の東南アジアで日本のことを中国語からの借用語で と呼んでいたことに由来するという説など、様々な異説もある。現代ポルトガル語での日本の呼称は(ジャポン)である。日本ではマルコ・ポーロが紹介した事実が非常によく知られており、日本の一種の別名としてとらえられている。マルコ・ポーロの『東方見聞録』は、以下のように伝えている。「ジパング」の綴りは『東方見聞録』の写本・刊本によって一定せず、平凡社東洋文庫版(愛宕松男訳)の底本であるアルド・リッチ英訳本では Chipangu 、フランス国立図書館 fr. 1116 写本(14世紀、イタリア語がかった中世フランス語)では Cipngu、グレゴワール本(14世紀、標準フランス語)では Sypangu 、ゼラダ本(1470年頃、ラテン語)では Çipingu 、ラムージオ本()(1559年、イタリア語)では Zipangu となっている。愛宕訳ではリッチ英訳本に基づいて「チパング」と訳している。マルコ・ポーロが伝え聞いたジパングの話は、平安時代末期に奥州藤原氏によって平安京に次ぐ日本第二の都市として栄えた奥州平泉の中尊寺金色堂がモデルになっているとされる。当時の奥州は莫大な金を産出し、これらの財力が奥州藤原氏の栄華の源泉となった。 マルコポーロが元王朝に仕えていた13世紀頃、奥州地方の豪族安東氏は十三湖畔にあった十三湊経由で独自に中国と交易を行っていたとされ、そこからこの金色堂の話が伝わったものとされる。モンゴル帝国時代、大元朝時代の「日本観」についてであるが、大元朝後期に中書右丞相トクトらによって編纂された『宋史』「日本伝」では、「その地東西南北、各々数千里なり。西南は海に至り、東北隅は隔つるに大山を以てす。山外は即ち毛人(蝦夷か)の国なり」とした上で、雍熙元年(984年)に入宋した日本人僧の奝然の伝えたところとして、「天御中主」(天御中主尊)から「彦瀲尊」(彦波瀲武盧茲草葺不合尊)までの約23世、「神武天皇」から「守平天皇」(円融天皇)までの約64世を列記し、「国中に五経の書および仏経、『白居易集』七十巻あり、並びに中国より得たり」「土は五穀によろしくして麦少なし」「糸蚕を産し、多く絹を織る、(その布地は)薄緻愛すべし」「四時(春夏秋冬)の寒暑は、大いに中国に類す」と記し、「東の奥洲」で黄金を産出し、対馬のことと思われる「西の別島は白銀を出だし」などと記している。日本の地理などの情報は全体的にほぼ正確に伝えているが、「犀・象多し」など事実と異なった記述も一部ある。また、『集史』「クビライ・カアン紀」によると、東南方、「環海中、女直と高麗( )地方沿岸近くに大島があり、それはジマングー( ?)という名前である。(女直や高麗の地域から)400ファルサング(約 2,000 km)離れている」とあり、女直、高麗などから東南海上の彼方に大元朝に敵対する地域として「日本国」の音写とおぼしき「 」と呼ばれる大島についての記述がある。上記のごとく、マルコ・ポーロのジパングが日本のことを指すという見方が現在一般的であるが、異説もある。などの理由から、ジパングと日本を結びつけたのは16世紀の宣教師の誤解であるとする説もある。またジパングの語源としても、元が遠征した東南アジアの小国家群を示す「諸蕃国」(ツィァパングォ)の訛りであるとする。またイスラーム世界(アラビア語・ペルシア語圏)に伝わった日本の旧称「倭國」に由来するといわれる「ワークワーク( )」ないし「ワクワーク( )」は金山を有する土地として知られているが、「ワクワク」に類する地名はアラビア語・ペルシア語による地理書や地図においてアフリカや東南アジアによく見られる地名でもあり、日本のことを指したものではないとする説もある。
出典:wikipedia
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