竹中 重門(たけなか しげかど)は、安土桃山時代から江戸時代の武将。戦国期の軍師として知られる竹中重治(竹中半兵衛)の嫡子。天正元年(1573年)、誕生。父・重治の死後、従叔父(父の従弟)の竹中重利の後見を受けて、羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕える。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い、天正18年(1590年)の小田原征伐などに従軍する。天正16年(1588年)に従五位下丹後守、翌天正17年(1589年)には美濃国不破郡に5,000石を授けられた。文禄の役では名護屋城に駐屯し、慶長の役では軍目付として朝鮮へ渡海した。戦後、戦功によって河内国内に1,000石を加増される。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、当初西軍に属して犬山城主・石川貞清を援助するが、井伊直政の仲介によって東軍に鞍替えする。そして他の主たる東軍の武将同様、みずからの居城である菩提山城を徳川家康に提供している。本戦では、幼なじみでもある黒田長政軍に合力して激戦地で奮戦し、さらに戦後まもない9月19日(10月25日)、伊吹山で、西軍の武将・小西行長を捕縛するなどの大功を挙げ、家康から直筆の感状を受けた。また、関ヶ原は竹中氏の所領であったことから、戦没者に対する供養料1,000石を下賜されるなど、幕府旗本(交替寄合席)として美濃岩出山6,000石を安堵され代々継承した(のちに分家を輩出し5,000石となる)。庶子の一人は長政との縁により福岡藩黒田家に重臣として仕えた。戦後は竹中氏陣屋に拠点を移し、二条城の普請や大坂の陣にも参加したが、寛永8年(1631年)に江戸にて死去する。享年59。墓所は東京都港区の泉岳寺。「豊鑑」群書類従 第13巻(経済雑誌社, 1893)群書類従 第16巻 内外書籍株式会社 編(内外書籍, 1937)日本文学大系第13巻(国民図書, 1926)以上「近代デジタルライブラリー」で閲覧可現代語訳「豊鑑」「しぐれ記」「木曽記」美濃国岩手竹中丹州旅行記(岐阜県古文書研究会発行)早稲田大学図書館古典籍総合データベース
出典:wikipedia
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