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玄宗 (唐)

玄宗(げんそう)は、唐の第9代皇帝。諱は隆基。唐明皇とも呼ばれる。治世の前半は、太宗の貞観の治を手本とした、開元の治と呼ばれる善政で唐の絶頂期を迎えたが、後半は楊貴妃を寵愛したことで安史の乱の原因を作った。睿宗の第3子として洛陽で生まれる。母は徳妃竇氏。玄宗が生まれた頃は武則天の武周時代であった。はじめは伯父である皇太子の李弘の養子となっていた。705年、李隆基が20歳になったとき、祖母の武后が中宗に禅譲することで武周は消滅し、唐が復活したが、朝廷には隆基の叔母で武后の娘である太平公主らを初めとした武后一族の勢力が残存していた。中宗の皇后である韋皇后は、武則天に倣い政権を掌握すべく中宗を毒殺した。韋后は代わって擁立した殤帝を傀儡とし、自らに禅譲させようと企てていた。これに対し、隆基の従兄である皇太子・李重俊が韋后に対してクーデターを起こしたが失敗した。隆基はこれを教訓とし、太平公主と協力して韋后排除を計画、710年に計画が実行され、韋后の一族を皆殺しにした。これにより睿宗が復位、隆基はこの功により皇太子に立てられた。隆基には、睿宗が武則天の傀儡皇帝だった時期に皇太子に立てていた長兄の李憲(成器)がいたが、李憲は弟の才能と功績を認めて皇位継承を放棄したため、皇位継承争いは生じなかった(隆基は皇帝即位後も兄に対しては常に敬意を払い、その死後には皇帝として追号(「譲皇帝」)した)。しかし隆基と太平公主との間には、主導権争いが発生する。これは712年に隆基が睿宗から譲位されたのちに太平公主を殺害し、実権を掌握したことで決着を見る。玄宗の前半の治世は「開元の治」と称され、唐の絶頂期と評価されている。玄宗が行った政策は仏教僧達の度牒(現在に例えれば宗教法人資格)の見直し、税制改革、節度使制の導入などである。これらの玄宗初期の政策を玄宗の下で行ったのは武則天に見出された姚崇・宋璟の両宰相である。天下泰平の中で玄宗は徐々に政治に倦み始める。737年、寵妃・武恵妃の薨去により、玄宗は新たに後宮を求めた。740年玄宗の息子の妃となっていた楊貴妃が見出される。この時、玄宗は55歳であった。玄宗は楊貴妃に溺れ、長恨歌に「これより皇帝は朝早くには朝廷に出てこないようになった」と歌われるように、政務への弛緩が認められるようになった。玄宗が楊貴妃を寵愛していた間に朝政を運営したのは、宰相・李林甫である。李林甫は政治能力は高いが、その性格は悪辣な面があると評され、政敵を策略により次々と失脚させている。李林甫の死後に実権を掌握したのは、楊貴妃の従兄・楊国忠と塞外の胡出身の節度使・安禄山である。両者は激しい権力闘争を行い、755年に楊国忠が安禄山の事を玄宗に讒言したことが契機となり、自身の立場に危機感を覚えた安禄山は、唐に対して反乱を起こした。反乱主導者の安禄山とその部下の史思明との名により安史の乱という。安禄山の攻撃に、玄宗たちは蜀(四川省)へと避難を余儀なくされる。避難の途中で兵士たちにより楊国忠が殺害され、また楊貴妃も玄宗により殺されることとなった。国内が混乱する中の756年、玄宗は皇太子の李亨に位を譲り太上皇となった。安史の乱終結後、長安に戻った玄宗は半軟禁状態となり、762年に崩御した。前半の善政と後半の堕落。玄宗の功罪をどう評価するかは難しい。節度使が唐だけではなく五代十国時代まで戦乱の原因になったことを考えると、さらに評価は分かれる。ただし、堕落した後半生でも、民へのいたわりを見せていた。長安から蜀へ避難する際、宝物庫を焼き払おうとする楊国忠に「賊が宝物を得られなければ、今度は民への略奪が激しくなる」と言って制止した。また渭水にかかる便橋(長安城西北にある。西渭橋・咸陽橋ともいう)を渡った際、賊の追撃を防ぐために楊国忠が橋を焼き払おうとしたが、「後から逃げようとする士庶たちの路を絶つな」と言って制止させている(『旧唐書』『資治通鑑』より)。玄宗は、同姓の李氏である老子(李耳)を宗室の祖として尊崇する唐朝のなかでも、とりわけ道教を尊重した。玄宗は、司馬承禎から法籙を受け、自ら『老子』の注釈書である『開元御注道徳経』を撰し、道教の学校である崇玄学を設置し、そこでの試験である道挙の合格者は貢挙の及第者と同格とされた。芸能の神である西秦王爺は玄宗を神格化したものだとされている(ただし、唐太宗説、玄宗の楽人説、後唐の荘宗や後蜀の後主説もある)。玄宗が即位する前の702年に日本から派遣された遣唐使の中に僧侶・弁正がいた。玄宗と弁正は囲碁を通じて親しくなった。その後、弁正は唐において病没するが、唐で生まれた息子の秦朝元が遣唐使の一員として唐に戻った際には玄宗は特に手厚くもてなしたと言う(『懐風藻』)。玄宗は日本からの遣唐使に対しては好意的な対応を行っており、日唐関係は安定した時代を迎えた。その背景として玄宗が弁正を介して日本に対して好意的な姿勢を抱いたからとする見方がある。

出典:wikipedia

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