礼記(らいき )とは、周から漢にかけて儒学者がまとめた礼に関する書物を、戴聖が編纂したものである。全49篇。これは唐代以降、五経の1つとして尊重された。現在通行している『礼記』は後漢の鄭玄注、唐の孔穎達疏の『礼記正義』(『十三経注疏』の一つ)や陳澔の注釈した『礼記集説』など、多数存在する。そもそも「礼記」の記とは、礼に関する注記という意味であり、「礼」あるいは「礼経」に関係する論議・注釈を指す言葉であった(伝を参照)。つまり「礼記」は一般名詞としての「礼の記」であった。これが現在の固有名詞(書名)としての『礼記』に至るまでには紆余曲折があったと考えられている。『礼記』の成立については、『隋書』芸文志、『経典釈文』序録、鄭玄『六芸論』(佚文)などが各々論じているが、相互に矛盾があり、正確なことは分っていない。その中でも有力な学説は二つ存在する。第1の説は『隋書』経籍志を代表するものである。それによるならば、前漢時期の宮廷図書目録である『漢書』芸文志には、「『記』141篇」とある。この中からまず戴徳が85篇を選び取り、『礼記』を作った。次に戴徳の兄の子であった戴聖は、戴徳の『礼記』からさらに46篇を選び取り、別に『礼記』を作った。戴徳と戴聖を区別するため、戴徳を大戴、戴聖を小戴と呼ぶ。そのため戴徳の『礼記』を『大戴礼記』(ダタイライキと発音することになっている)、戴聖の『礼記』を『小戴礼記』と呼ぶようになった。後、後漢末の大学者馬融は『小戴礼記』に3篇を付け加え、現在の全49篇になったというものである。この学説によると、『記』から『大戴礼記』、『大戴礼記』から『小戴礼記』が生れたことになる。第2の学説は、鄭玄の『六芸論』を代表するものである。これは『記』から戴徳と戴聖が各々ばらばらに選び取り、各々『大戴礼記』と『小戴礼記』を作ったというものである。これによるならば、『大戴礼記』と『小戴礼記』は、本来、ばらばらに成立したことになる。これ以外にも、『大戴礼記』と『小戴礼記』は、『記』から選び取ったのではなく、両者の師であった后蒼『曲台記』を継承したもので、本来は49篇であったとする学説も存在する。(黄懐信など撰『大戴礼記彙校集注』。ただしこの学説の成立を認めるには、いくつかの専門的文献批判を必要とする。)いずれにせよ、『大戴礼記』と『小戴礼記』の成立には確実な学説はない。漢代に於いて、『大戴礼記』と『小戴礼記』はともに学官に立てられ、後漢には十四博士の一つになった。この二者の中、後漢末期の大学者鄭玄は、『小戴礼記』のみに注釈を施した。以後、鄭玄の名声も関係し、鄭玄の注釈つきであった『小戴礼記』が利用されたため、『大戴礼記』はふるわず、結局『小戴礼記』のみが流行することになった。このため『小戴礼記』は単に『礼記』と呼ばれるようになった。これが現在の『礼記』の原形である。なお現存する『大戴礼記』(だたいらいき)は81篇中39篇しか残っていない。(篇数の数え方は他にもある)戴徳・戴聖によって著された『礼記』は、前漢の宣帝の甘露3年(51年)に博士に立てられた。以後、前漢を通じて博士官を維持し、後漢にはいわゆる今文十四博士の一つとして礼の博士官を独占した。しかし後漢末になり、今古文を折衷して独自の経学説を打ち立てた鄭玄は、戴聖の『礼記』にのみ注釈をつけ、戴徳の『礼記』には注釈しなかった。これにより戴聖の『礼記』は流行し、以後、『礼記』は戴聖の『礼記』を指す名称となり、『儀礼』『周礼』とともに三礼の一つに挙げられ、経書としての地位を高めていった。魏晉の時代には、王肅が鄭玄に対抗するために『礼記』に注釈を施した。晉では王肅との姻戚関係から、王肅の注釈が学官に立てられ、これ以後、鄭玄と王肅の注の両者が主導権を争うようになった。南北朝を通じて『礼記』はよく研究されたが、最終的に唐の貞観年間に鄭玄の『礼記』注をテキストとして孔穎達らが『礼記正義』を選定した。これによって王肅らの注は一切滅んだ。なお孔穎達の『礼記正義』は、皇侃の疏を軸とし、熊安生の学説を参照にして作られたものである。またこの貞観中には魏徴が『礼類』を編纂した。これは『礼記』の配列があまりに混乱しているため、配列を改編して系統的な書物として作り直そうとしたものである。このような動きは、魏の孫炎が試みたことがあった。魏徴の『礼類』は、玄宗の開元年間、当時著明な学者であった元行沖の注釈を加え、経に昇格される予定であったが、他の学者の反対にあい沙汰止みになった。宋代でも礼の研究は盛んで、『礼記』研究も多くなされた。ただし宋代以後は『礼記』の性格を疑うものも多く、『礼記』は前漢諸儒が選定した雑駁な篇を多数含むものであると見なされるようになった。『礼記』49篇は、各篇独立した書物であるため、漢代以来、各篇を単独で読解する傾向があったが、宋代に至りその傾向は一層強くなった。特に「大学」と「中庸」の2篇は独立した経書としてみなされ、『論語』『孟子』とともに四書の一つに数えられるに至った。元朝も宋代に引き続き『礼記』の研究がなされたが、特に呉澄の『礼記纂言』は著明で、『礼記』の篇目を自在に改変して独自の読み方を提供した。また『礼記大全』の種本となった陳澔の『礼記集説』も生れた。明朝は初期に『礼記大全』が編纂され、科挙のテキストとされた。清朝で考証学が勃興し、宋代以来の研究は廃除され、『礼記正義』や鄭玄の注釈が尊経されるようになった。この時期に著された多くの著書は、清朝以降も重んじられ、現在に至るまで重要な解釈テキストとなっている。『礼記』は礼に関する諸文献を集めたものであるため、書物として厳密な体系を備えているわけではない。そのため「喪服」(そうふく)や「中庸」などは『礼記』本体とは別に、独立して価値を与えられるようになっていた。このように『礼記』全書ではなく、『礼記』中の数篇を取り出して読まれる傾向は早くから存在した。その最たるものが、宋代になって生み出された『大学』と『中庸』である。両者はもとは『礼記』のなかの「大学」篇と「中庸」篇であったに過ぎないが、北宋以来重視されるようになり、ついに南宋の朱熹が注釈を施し『大学章句』『中庸章句』を作るに及んで、『論語』『孟子』とならぶ四書の一つとして経書の扱いを受けるようになった。このように『礼記』各篇が単行書として取られたものには以下のものがある。『礼記』は、『記』からの選択にせよ、后蒼『曲台記』からの継承にせよ、決して体系的な編纂物ではない。そのため、『礼記』全49篇は各々独立した内容をもっている。これを体系的に捉えるため、鄭玄は『三礼目録』を作り、特に『礼記』については劉向の『別録』に依りつつ、各篇を内容別に分類した。以下の表は、『礼記』全49篇を現行本『礼記正義』に従って配列し、そこに『三礼目録』に注記された劉向『別録』の分類を加え、内容の簡評を加えたものである。劉向の分類は、後世完全に承認されたわけではないが、最も古典的な分類方法として従来尊重されてきたものである。全49篇各篇の作者が誰であるかは古来問題とされてきた。しかし定説とされるごくわずかの篇を除き、大部分は推測の域を超えるものではない。著明なものを挙げると以下のようになる。1993年、郭店一号墓から、『礼記』緇衣篇とほぼ同じ内容を記した竹簡が発見された。これは秦代ごろの写本)と考えられ、『礼記』のすくなくとも一部は、漢代以前に由来を持つことが明らかとなった。『礼記』に関する注釈書は、おびただしい分量に達する。『礼記』全篇にわたる注釈で、且つ著明なもののみを挙げると以下のものがある。その他、清代には朱彬『礼記訓纂』なども存在するが、『礼記』全篇にわたる注釈は多くない。『礼記』中の専門分野の研究成果は、『清経解』『続清経解』に収められたものも多い。『礼記』は大部なので、全訳の邦訳書はそれほど多くない。各々の訳書には解説が附されており、『礼記』に対する解説としても便利である。以下には書き下しの全訳書と現代語による全訳書を挙げたが、解説が充実している抄訳版も記す。冨山房の『漢文大系』は訓点付の原文のみである。鄭玄の注釈を採用し、『三礼図』から関係図説を取り入れている。桂湖村『礼記』は全篇の現代語訳とともに、詳細な語釈が加えられている。安井小太郎『礼記』は全篇の書き下しと若干の注釈のみである。下見隆雄『礼記』は抄訳であるが、冒頭に概説が記されている。市原亨吉他と竹内照夫の訳注は、完訳本である。竹内版は今日の研究を反映した簡潔な訳注書で、市原版は鄭玄の注釈が書き下して附されている。
出典:wikipedia
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