多摩郡(たまぐん)は、東京府・神奈川県(武蔵国)にあった郡。消滅時の郡域は、東京都中野区・杉並区および多摩地域の大部分(西東京市ひばりが丘・ひばりが丘北・住吉町・栄町・北町・下保谷・東町・中町・泉町・保谷町・富士町・東伏見・柳沢・新町、西多摩郡瑞穂町二本木・高根・駒形富士山・富士山栗原新田を除く)、世田谷区の一部(八幡山、船橋、砧、大蔵、砧公園、岡本、鎌田以西)にあたる。534年の武蔵国造の乱の後に献上された4つの屯倉のうちの1つ多氷屯倉(おほひのみやけ)の位置は、「多氷(おほひ)」を「多末(たま)」の誤記として当郡、特に現在の東京都あきる野市付近であると推測されている。延喜式には多麻郡の字であらわれ、のちには多磨郡とも書き、「たま」「たば」と読まれた。地名の由来は、丹波が転訛したものだとか、かつて麻が多い地域であったとか、かつて多摩郡を治めた大國魂命(おおくにたまのみこと)によるなど諸説ある。なお、武蔵国の国府が置かれた府中にある総社大國魂神社もかつて多摩郡に属していた地域にある。かつては菅村・中野島村(現在の川崎市多摩区の一部)も含まれたが、菅村は1690年(元禄3年)に、中野島村は1875年(明治8年)に橘樹郡に編入した。武蔵国の国府・国分寺および一宮(小野神社)と二宮(二宮神社)があった。郡衙は東京都府中市の旧西府地域にあったと推定されている。文献史料においては、12世紀半ば以降、多摩郡が東西に分けられて多東郡、多西郡と表記されていた例が多く見つかっている。大石学の研究によると、多東郡の初出は1330年、多西郡は1154年である。このような表記は徳川家康の朱印状や検地帳など、極めて重大な文書でも使用されていることから、中近世において多摩郡は多東郡、多西郡に事実上分かれていたと考えられている。多東郡と多西郡の境界については狭山丘陵と見る説、多摩川と見る説がある。なお、1921年から1955年まで、西多摩郡に多西村が存在した。多西村の由来は上記の多西郡によるものと考えられる。江戸時代、多くの村が幕府直轄領(天領)や旗本領とされたほか、多くの藩の飛び地が分散し、複数の領主による相給とされた村も少なくなかった。支配関係が錯綜して郡内の一円支配が行われず、直轄領に対する幕府役人の配置も少なかったために農民は自己防衛を行うようになり、剣術がさかんになった。土方歳三、近藤勇らは、こうした環境から世に出ている。廃藩置県後は現在の中野区・杉並区が東京府、残部が神奈川県の管轄となった。当初大部分が入間県の管轄となるはずだったが、本郡の一部が横浜に居留する外国人の遊歩区域に含まれるとの神奈川県知事・陸奥宗光の上申により全郡神奈川県管轄とされ、現在の中野区・杉並区の区域のみ東京府に戻された。多摩郡全体が東京府の管轄となったのは郡の分割により本郡が消滅して以降のことで、これは主に東京の上水道水源保全を理由にして、実際には自由党勢力の切り崩しを目的としたものといわれる。
出典:wikipedia
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