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カリャリ

カリャリ()は、イタリア共和国のサルデーニャ島南部に位置する都市で、その周辺地域を含む人口約15万人の基礎自治体(コムーネ)。サルデーニャ自治州の州都であり、カリャリ県の県都でもある。カリアリとも表記される。カリャリ湾に面したサルデーニャ最大の都市で、郊外コムーネを含めて人口約50万人の大都市圏を形成している。サルデーニャ語では、カステドゥ(Casteddu)と呼ばれ、「城」を意味している。カリャリ県中央部に位置する、カリャリ湾に面したコムーネである。カリャリの市街は、オリスターノの南東約89km、ヌーオロの南約123km、サッサリの南南東約174km、首都ローマの南西約410kmに位置する。隣接するコムーネは以下の通り。カリャリは古代より人が定住していた。海と肥沃な平野に挟まれた好ましい状況が占め、周囲を2箇所の湿地に囲まれていた(これは内陸からの敵の攻撃を防御するのに適していることを示す)。そして高く緑の多い山地に近接していた(もし何もかも失っても人々は定住地を立ち退くことが可能だった)。先史時代の住民のいくつかの証拠は、モンテ・クラーロとサンターリア岬で見つかっている。カラリス(Karalis、古代ギリシャ語:Kalares、ラテン語:Càralis)の名で、紀元前7世紀頃、ティルスをつくったフェニキア人が、サルデーニャ島での貿易植民地の一群の一つとしてカリャリをつくった(その他にはスルキス、ノーラ、タロスがあった)。定住地の基盤は明確にカルタゴ人へあてがわれた(パウサニアス x. 17. § 9; クラウディアヌス, "B. Gild." 520)。優れた港であるのと同様に、アフリカ大陸との通信にうってつけの位置であったためである。ローマ人に征服されたのも、同じ重要な条件のもとでローマの政権が行ったと推測されるのは疑いもない。島をローマが征服した時期についての記載は何も見つかっていない。しかし第二次ポエニ戦争の間、プラエトルであったマンリウスの本部が島に置かれていた。彼はハンプシコラとカルタゴ人に対抗する作戦に従事していた(リウィウス xxiii. 40, 41)。その他の機会に現れたのは、島のローマ海軍主要基地としてで、プラエトルの住居があった("Id." xxx. 39)。 歴史家フロルスは、カラリスをウルブス・ウルビヌム("urbs urbinum")またはサルデーニャの首都と呼んだ。彼はウルブス・ウルビヌムがグラックス兄弟によって攻略され厳しく懲罰を加えられたと描いている(ii. 6. § 35)。しかしこの文書はすっかりリウィウスによって与えられた記事と食い違っている。サルデーニャでのグラックスの戦争は、都市がローマへの忠誠を表したもので、反乱は山岳地帯の部族を封じ込めたのである(xli. 6, 12, 17)。ユリウス・カエサルとポンペイウスが争ったローマ内戦では、カラリス市民は初めカエサルに賛同した。その後すぐサルデーニャ諸都市もそれにならった(Caes. "B.C." i. 30)。カエサル自身はアフリカ大陸からの帰還の途中、自身の船団をこの地に寄港させた(Hirt. "B. Afr." 98.)。わずか数年後、サルデーニャがポンペイウスの部下メナスの手に陥落した後、カラリスはどんな抵抗運動も示す島唯一の都市となった。しかし、短期間の包囲戦で陥落した(カッシウス・ディオ xlviii. 30.)。 ローマ帝国時代に歴史上何が起きたか記載がないが、引き続きカラリスは島の首都であったとみなされる。そしてローマ植民地とならなかったことで、住民はローマ市民の権利を獲得した(大プリニウス iii. 7. s. 13; ストラボン v. p. 224; ポンポニウス・メラ, ii. 7; アントニーニ・イティネラリウム pp. 80, 81, 82, )。西ローマ帝国滅亡後、サルデーニャ島の残りと共に、カラリスはヴァンダル族の手に陥落した。しかし、中世を通じてその重要性は維持されたことがわかっている。クラウディアヌスは、岬または土地の先端へ向かって都市の長さが伸びたとして古代都市について記述している。都市の突出は、カラリス港を敵から隠すためにあった。大規模艦船のために良い停泊地が好まれた。そのうえ、唯一の良く隠された道路が固定され、スタニョ・ディ・カリャリ(Stagno di Cagliari)と呼ばれる大規模塩湖または潟がカラリスと接続した。塩湖は狭い地峡で湾と行き来ができ、カラリスの内港または係船地として古代から用いられてきたとクラウディアヌスは記述している(クラウディアヌス. "B. Gild." 520-24.)。カラリスと接続した岬は明らかに、プトレマイオス()によって注目されていた。しかし、大プリニウスのカラリタヌム・プロモントリウム(Caralitanum Promontorium)は、先端(現在のカルボナーラ岬。カリャリ湾の東の境となっている)以外の土地を記述せず、島全体の南東端にあったとする。現在はカヴォリ島と呼ばれる小さなフィカリア島のことだろう(大プリニウス、 "l. c."; Ptol. iii. 3. § 8)。ヴァンダル族支配の後に立ち替わって、東ローマ帝国が台頭し、カリャリは判事(giudicato)が支配する独立王国の首都となった。しかし、外部支配からの自治時代に関するいくつかの痕跡があるが、市は荒廃してしまった。海からのムーア人海賊による攻撃にさらされすぎたためであった。明らかに、多くの住民がカリャリを離れ、カリャリ西のサンタ・ジッラ湿地に近接する一帯にサンタ・イジアという名の新たな定住地をつくったが、ここは海から遠かった。カリャリのジュディカーティは、カンピダーノ平野の広域からなり、スルキスとオリアストラ山岳地帯の鉱物資源があった。その他に自治権を持つジュディカーティは、北西のログドーロ、北東のガッルーラ、アルボレアであった。11世紀の間、ピサ共和国が南東のスルキスをあらかじめ攻略し、カリャリのジュディカーティを征服して町そのものを再建した。ピサは中世に地中海の覇権を争った4つある海洋共和国の一つであった。ピサとジェノヴァ共和国はサルデーニャ支配を熱望した。それはイタリア本土と北アフリカ間の通商路を押さえる完璧な軍事的要所であったからだった。防衛施設のいくつかは、今もカリャリのカステッロ地区を取り巻いている。これらに含まれるのでよく知られているのは、ピサによって建設された白い石灰岩の2本の塔で、ジョヴァンニ・カプラによって設計された(原型は、地区と往来できる3つの門を守る3本の塔だった)。 カステッロ地区と共に、カリャリはマリーナ地区(港湾を含む)、スタンパチェ地区、ヴィッラノーヴァ地区からなる。マリーナ地区とスタンパチェ地区は城壁によって守られていた。ヴィッラノーヴァ地区は主として農民が住んでいたため、城壁はなかった。1089年、カリャリの判事であったコンスタンティーノ・トルキトーリオは、『カリャリ判事およびカリャリ王』("rex et iudex Caralitanus")を名乗った。14世紀、アラゴン王国がピサとの戦いの後にカリャリを征服した。そしてサルデーニャ全土征服の計画を進めた。サルデーニャがついにアラゴン支配下に入ったとき、カリャリ(スペイン語及びカタルーニャ語では"Càller")はサルデーニャ副王国の行政首都とされ、後にはスペイン帝国支配下に入った。スペイン支配に大勢が同調したことが、カリャリとサルデーニャ島の衰退を招いた。1720年、オーストリア・ハプスブルク家の事実上の支配後、カリャリとサルデーニャはサヴォイア家のものとなった。サルデーニャの支配者として、サヴォイア家はサルデーニャ王の称号を使用した。サルデーニャ王国は、サヴォワとニース、ピエモンテが含まれていた。王国の首都は名目上カリャリに置かれたが、サルデーニャという名にもかかわらず、事実上サヴォイア家の本拠地である本土のトリノに置かれた。 18世紀終盤のフランス革命以後、フランスは地中海の要所であるカリャリを征服しようとした。フランス軍はポエットの海岸に上陸し、カリャリへ進軍した。しかしサルデーニャ軍がフランス軍を退け、革命軍に対して王国の防衛を決定づけた。カリャリの人々は、町をフランスから守った見返りとしてサヴォイア家からいくらかの権利を獲得しようと期待した。例えば、カリャリの貴族は王国議会のサルデーニャ代表議員の地位を望んだ。王家がそれらの要求全てを拒むと、カリャリ住民はサヴォイア家に対して蜂起し、ピエモンテからやってきた王家を代表する官僚や出身者を追放した。この暴動は、4月最後の週にディエ・デ・サ・サルディーニャ("Die de sa Sardigna"、サルデーニャの日)としてカリャリで祝われてきた。しかし、サヴォイア家は事実上の自治支配後にカリャリ支配を奪還した。1870年代から、イタリア統一運動と共に、市は急速な成長の一世紀を経験した。多くの目をひく建築物は、市長オットーネ・バカレッダ時代の19世紀終わりから建てられた。これらの多くは、花の装飾を特徴とする伝統的なサルデーニャ風と同様に、アール・ヌーヴォーからの影響が組み合わされていた。例として、白大理石を用いた、港近くの市役所建物がある。オットーネ・バカレッダは、20世紀初頭に起きた労働ストライキを暴力で制圧したことでも有名である。第二次世界大戦中の1943年2月、カリャリは連合国側から激しい爆撃を受けた。空爆と、荒れ果てた町の惨状から逃れるため、多くの住民がカリャリを離れ、田舎や人里離れた山里へ移った。そこでは友人や親戚と狭い家に肩を寄せ合って暮らした。この町からの逃避行は、スフォッラメント("sfollamento"、荒廃)として知られる。 1943年9月、連合国側とイタリアの講和が行われた後、ドイツ国防軍がカリャリとサルデーニャ島を支配下に置いた。だがすぐに、イタリア本土で彼らの状況が増強されるため、平和理に退却した。アメリカ軍がカリャリを監督下に置いた。カリャリの位置が、地中海での戦況を左右する要所であったためだった。多くの空港がカリャリ近郊につくられた(エルマス、モンセッラート、デチモマンヌ)。ここから飛行機が北アメリカ、イタリア本土、シチリア島へ向けて飛ぶことができた。戦後、カリャリ人口は減少した反動で増加に転じ、多くのアパートが新たな住宅地に建てられた。これらはしばしば貧弱な計画でつくられていった。近年の大規模都市発展が、カリャリで始まった。新設されるベティーレ美術館(ヌラーゲ文化と現代美術を展示する)を含む新たな計画が、プリツカー賞受賞者ザハ・ハディッドによって計画された。美術館はサンテリア遊歩道において建てられる予定である。別の既に着手された計画は、カリャリ・メトロ(地下鉄)である。初の路線は既に、レプッブリカ広場と、カリャリ郊外コムーネの一つモンセッラート間を走行している。この路線は大学キャンパスへとすぐつながる予定である。郊外コムーネ全てと空港とつながるその他の路線はすぐに着手された。旧カリャリ港からサンテリアへの遊歩道は、全体的に修復される予定である。ヴィア・ローマにある旧カリャリ港は、現在観光とクルーズ船用港としてだけ利用されている(クルーズ船ターミナルは既に閉鎖された)。旧カリャリ港はフェリーボートについても閉鎖し、ポルト・カナーレにある新カリャリ港へ機能を移す予定である。サンテリア地区全体が変えられ、古く傷んだアパート建物は廃棄され新たな地区がレム・コールハースによって設計されたものに取ってかわる。スタジアムも、25,000の観客席を持つ、コンサートやイベントに適した新スタジアムに建て替えられる。今は古い製塩プラントがある場所に水族館をつくるのと同じく、コンサート用の20,000席もつ大劇場が遊歩道沿いに建つ。その他に、サンタ・ジッラ広場の池近くの新地区、ポエット海岸にある豪華なビューティー・センター(旧マリーナ病院跡地)、パウロ・メンデス・ダ・ロシャ設計の大学新キャンパス、劇場と噴水を備えた大公園パルコ・デッラ・ムジカの建設計画が含まれる。多くは2010年から2011年にかけ完成する予定である。2007年、カリャリ人口は158,041人で、そのうち男性は46.7%、女性は53.3%であった。18歳未満の若年層は13.36%、年金生活者は21.87%であった(イタリア平均は、若年層18.06%、年金生活者19.94%)。カリャリ市民の平均年齢は46歳であった(イタリア全国平均は42歳)。2002年から2007年までの5年間で、カリャリ人口は3%減少した(反対にイタリア平均は3.56%上昇)。現在のカリャリの出生率は、1000人に対して6人である(イタリア平均は9.45人)。この傾向は、カリャリ都市圏と郊外コムーネでは反比例する(子供を持つ若い世帯が移っていくため)。 2006年の調査では、カリャリ人口の98.09%がイタリア人であった。最大の移民グループは東アジア出身者の0.72%である。その他ヨーロッパ諸国出身者は0.50%である。信仰で優勢なのはカトリック教会である。カリャリはイタリア全土のうちで最大級の魚市場を持つコムーネの一つである。広大な売り場が一般・卸両方に開放されている。カリャリはサルデーニャ最大の商業・工業中心地であり、イタリアの大企業の工場が域内にある(電気通信会社はカリャリに本社をおく)。また、地中海有数のコンテナ・ターミナルがカリャリ港にある。観光も、主要経済収入の一つとなっている。カリャリ大司教座がある。カリャリには、以下の国々の領事館が開設されている。カリャリ県では、サルデーニャ語カンピダネーゼ方言が話される。カリャリには他とは違う食文化がある。多くの料理は、多様な魚や海産物を可能な限り用いる。代表的なものはブッリダ(burrida、小型のサメを使ったマリネ。前菜に出される)である。スペイン料理から影響を受けたとされるが、カリャリ料理は他とは違ったユニークな特徴がある。質の良いワインはカリャリ料理の一部である。優れたワインはカンピダーノ平野のブドウ畑で作られる。カリャリの旧市街(カステッロ地区)は、丘のてっぺんにあり、カリャリ湾の素晴らしい眺めが味わえる。城壁のほとんどが無傷のままで、白石灰岩でできた2本の13世紀の塔、パンクラス塔とゾウの塔が目をひく。地元で切り出される白い石灰岩は、城壁や多くの建物にも使われてきた。D・H・ローレンスは、サルデーニャでの旅を鮮明に記した旅行記『海とサルデーニャ』(1921年1月)で、温かな地中海の日光が白い石灰岩でできた都市に映えること、カリャリを「白いエルサレム」にたとえたことを記している。町に古くからあるマリーナ地区、スタンパチェ地区、ヴィッラノーヴァ地区は、それぞれの原型の魅力を保ち、未だ町内部にあった別々の村としての機能を見せている。 その他に古いカリャリ市街の名残とみなされるものが市内で見られる。最も目をひくのは、岩の塊を彫り抜いたローマ時代の円形演舞場(カリャリの典型的な白石灰岩で建てられた)、そして水道橋である。水道橋は新鮮な水が乏しい市への重要な掘り出し物であった。そこには莫大なまでに広い古代の水槽もある。小さな円形の神殿の遺跡と、現代のカリャリ外の丘にはおびただしい数の埋葬地があり、これは古代カリャリのネクロポリスであったことを示す(Smyth's "Sardinia

出典:wikipedia

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