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米長邦雄

米長 邦雄(よねなが くにお、1943年(昭和18年)6月10日 - 2012年(平成24年)12月18日)は、将棋棋士。2003年(平成15年)12月、引退。日本将棋連盟会長(2005年(平成17年) - 2012年(平成24年))。タイトル獲得数19期は歴代5位。永世棋聖の称号を保持し、引退前から名乗る。佐瀬勇次名誉九段門下。棋士番号は85。趣味は囲碁で囲碁八段(日本棋院から追贈)。2003年(平成15年)11月、紫綬褒章受章。2013年(平成25年)1月、旭日小綬章受章(没後叙勲)。北陸先端科学技術大学院大学特任教授(2011年(平成23年)10月1日 - 2012年(平成24年)9月30日)。日本財団評議員(2011年(平成23年)4月 - 2012年(平成24年)12月)。財団法人JKA評議員(任期満了予定は2013年(平成25年)3月31日 )。日本テレビ番組審議会委員。ニッポン放送番組審議会委員。東京都教育委員(1999年(平成11年)12月 - 2007年(平成19年)12月)などを歴任。山梨県南巨摩郡増穂町(現・富士川町)出身。中野区立第八中学校、東京都立鷺宮高等学校卒業。中央大学経済学部4年次3月(年度末)退学。山梨県増穂村(現在の富士川町)の米長家は元々地主の家系であったが、第二次世界大戦後の農地解放により土地を失った。「将棋を覚えたのは弟が小学生に上がるころで、四人兄弟が二組に分かれ、暇さえあれば将棋を指していました。しばらくすると三男が四男の邦雄に負け、さらに二男の私も勝てなくなりました。」と次兄の修が語っている。小学校3年の頃、周囲の大人達を負かすようになる。小学校6年の頃、師匠となる佐瀬勇次が米長の生家を訪れて、プロ将棋界へ進むことを勧めた。そのとき佐瀬が両親に言った言葉は、「息子さん(米長)は名人になれるかわからないが、八段にはなれます」であったという。「小学六年の時、山梨県の将棋大会で初段以下の部で優勝しました。翌日佐瀬七段というプロと、アマ有力者が我が家に来て、この子は将棋の才能が素晴らしい、中学になるとき内弟子になってプロを目指してもらいたい、経済的には一切面倒を見ると言われました。両親は将棋界の知識はありませんでしたが、最後の一言が決め手になり承諾しました。つまり、弟が将棋の世界に入ったのは口減らしのためだったのです。」とは次兄の修の談。3人の兄は東京大学に進んだ。そのうちの一人である泰は、全日本学生名人戦で優勝を果たすなどアマチュア強豪として知られ、秋田工業高等専門学校教授として都市工学を専門とし、将棋の棋風分析の一人者として知られる。「兄達は頭が悪いから東大へ行った。自分は頭が良いから将棋指しになった」という言葉は有名である。ただし、実際に米長自身が発言したのかどうかははっきりしていない。2009年(平成21年)1月9日に前立腺癌で放射線治療を受けていると発表し、自身のホームページ「米長邦雄の家」の「癌ノート」に詳細を連載した。2012年(平成24年)12月18日午前7時18分、東京女子医科大学病院で死去。戒名は、棋聖院純実日邦居士(きせいいんじゅんじつにっぽうこじ)。「人生すべて感謝である」のブログ更新は、自身最期の更新である。元参議院議員の米長晴信は甥。弟子に先崎学、中川大輔、伊藤能、長岡裕也、高崎一生、中村太地、元弟子に林葉直子がいる。先崎と林葉は、内弟子として米長宅に住み込んで修行していた。そして、米長最期の弟子が、杉本和陽である。升田幸三とはウマが合い、「麦長君」とよばれて親しまれた。また、芹沢博文、内藤國雄とも親しい関係で、中原誠とも自称親友の間柄という。趣味の一つに囲碁があり、『碁敵が泣いて口惜しがる本』という著書もある。囲碁界の無頼派の棋士・藤沢秀行を尊敬して、兄事している。大の将棋ファンであった山口瞳は米長のことを親しみを込めオランウータンというあだ名をつけた。1993年(平成5年)の名人位獲得には、若手とともに研究を行ったことが大きな要因であったとされる。米長は徹底的に自分の序盤戦術を洗い直す作業に取り掛かる。名人戦では対局の合間に、当時島朗が主宰して、羽生善治、佐藤康光、森内俊之で構成された伝説の研究会「島研」に顔を出した。また、1980年(昭和55年)から1990年代にかけて数十人の若手棋士が参加した「中原研究会」に対抗して、数年前から自宅を改造して若手棋士を集めて開いていた研究会「米長道場」で、徹底的に対中原名人戦の研究を重ねた。特に道場の師範代格で、当時序盤研究の第一人者だった森下卓から、大きな示唆をもらったという。なお、米長道場は「若手に教えを請う」という姿勢で運営しており、米長は森下卓のことを「先生」と呼んでいた。武者野勝巳とゲームの著作権に関して裁判で争った。裁判は米長が武者野に対し和解金を支払うことで解決。ただし、米長は自身のサイトで「和解金」ではなく「解決金」と書いた。「自分にとっては消化試合だが相手にとって重要な対局であれば、相手を全力で負かす」という理念を持ち、将棋界では「米長哲学(米長理論)」と呼ばれる。著書『人間における勝負の研究』では、「何年間かのツキを呼び込む大きな対局であり、名人戦より必死にやるべき対局」と表現している。第24期順位戦(1969年度)は、中原誠と同時にB級1組に昇級して迎えた。A級昇級争いは、12回戦まで終了した残り1局の時点で、内藤國雄が11勝1敗でぶっちぎりのトップ。もう1人の昇級枠を58歳の大野源一と22歳の中原誠が、ともに9勝3敗で争っていた(順位が上の大野のほうが中原より有利)。そして、大野にとって「勝てば昇級」の最終13回戦の相手は米長であった。その米長自身は7勝5敗で昇級にも降級にも絡んでいなかった。ところが、その一局で米長は、通常タイトル戦でしか着用しない羽織袴の姿で大野の前に現れ、手加減しない姿勢をあらわにした。結果は、米長と中原がともに勝ったことにより大野はA級復帰を逃し、中原は米長のアシストによりA級に昇級した。なお、米長がA級昇級を果たしたのは翌年であったが、これについて前記の著書の中で、前年のことがあったからこそ昇級できたとの考えを述べている(精神面もさることながら、その年上がれなくとも翌年の昇級争いの最有力候補になる中原がB1リーグ戦から消えていたことは米長の昇級に有利になった)。著書『米長の勝負術』では、トーナメントなどの例外を除き、その対局の結果が第三者に影響を及ぼす勝負の場合、自身の勝負に勝とうが負けようが第三者の悲喜の総量は変わらないが、それが故に結局は自身が全力を尽くしたかどうかだけが残り、手を抜いてしまっては純粋に、自身にとってマイナスであるとしている。この「米長哲学」は将棋界全体に広く普及し、大相撲などの八百長問題の際に新聞などで引用されることもある。一時期株取引に熱中し、『米長流株に勝つ極意』という本を出すほどだった。また、東京都教育委員会委員だった時は、東京都の公立学校に対する「日の丸・君が代」の強制に尽力した。しかし、2004年秋の園遊会に招待された際、天皇に対し「日本中の学校において国旗を掲げ国歌を斉唱させることが、私の仕事でございます」と発言したところ、天皇から「やはり、強制になるということでないことが望ましいですね」とたしなめられた。産経新聞の『正論』執筆者に名を連ねる。2003年(平成15年)、中原誠が会長になったのを受けて、日本将棋連盟の専務理事に就任。そして、2005年(平成17年) 中原誠の後を受け、日本将棋連盟会長に就任。名人戦の朝日新聞と毎日新聞による共催実現、瀬川晶司のプロ入り試験実現、日本女子プロ将棋協会(LPSA)の独立問題への対応など、個々の事例については批判もあるが、一定の実績を残している。また、将棋連盟の赤字体質改善のため、多くのリストラを行ったが、関西本部にあった「将棋博物館」を2006年(平成18年)に閉鎖し、収蔵品を大阪商業大学アミューズメント産業研究所に譲渡したことについては木村義雄十四世名人の娘などから批判を受けた。将棋連盟会長となって以降も、自身のサイトからの情報発信に加え、前述の『正論』や中日スポーツ・東京中日スポーツの連載コラム「セブンデイズ」など個人の立場での寄稿を継続している。日本将棋連盟のホームページでは笑顔でWピースの写真を役員紹介の写真に採用している。「『させてくれ』と女にお願いしているうちは半人前である」「鍛練して『してください』と頼まれるようにならなければいけない。なおかつ、そのお願いに充分に応えられなくてはならない」と述べている。42歳のときには、写真週刊誌で鳥取砂丘でのヌード写真を掲載した。平成10年版『将棋年鑑』(1998年)の棋士アンケートにおいて、「あなたのストレス解消法は」の質問に「口に出すわけにはいかない」と答え、「可能ならばやってみたいスポーツは」という質問には「段違い平行棒」と答えている。2004 - 2005年に、ニッポン放送のケータイサイトで「米長邦雄のさわやかイロザンゲ」というタイトルのエッセイを週1回で連載した。内容は、モテる秘訣、自身の過去についての赤裸々な告白、読者からの人生相談などであった。連載中、2004年(平成16年)7月2日に「徹子の部屋」に出演したが、その中で、妻に対する懺悔として、相当のお金をかけて墓を購入したというエピソードを紹介。そのとき妻に言った一言は(実話か否かは不明であるが)「お前の人生は、はかない人生ではない。これからは墓ある人生だ。」であったという。自他共に認める性豪として知られるだけに、前立腺癌を宣告された後、全摘手術を躊躇したことが結果として転移に繋がった。その心の機微が著書「癌ノート~米長流 前立腺癌への最善手~」に記されている。「米長邦雄永世棋聖vsボンクラーズ プロ棋士対コンピュータ将棋電王戦」と称してコンピュータ将棋ソフトと2012年(平成24年)1月14日に対戦することが、2011年(平成23年)10月6日に発表された。2012年(平成24年)1月14日のボンクラーズとの対局で、プレマッチに引き続き奇策、先手7六歩に対し後手6二玉を採用したものの、後手の米長が113手で敗れた。米長自身は電王戦敗戦後に書かれた自著『われ敗れたり』で、コンピューターに読ませない将棋にするのが狙いの練りに練った手で、これが成功し途中までは大優勢だったと述べている。なお『われ敗れたり』には、タイトルホルダーを含めた複数人のプロがボンクラーズに大きく負け越したと書かれており、今後展開されるであろうソフトがいつプロを追い抜いたかという議題においては重要な起点となることが予想されている。また、『われ敗れたり』は、第24回将棋ペンクラブ大賞(文芸部門)を受賞。プロ入りしたのは1963年(昭和38年)で、ちょうど大山康晴が五冠独占を続けていた時代に当たる。A級昇級は1971年(昭和46年)、初タイトルは1973年(昭和48年)の第22期棋聖戦で、それぞれ数え年で28歳、30歳の時と、超一流と呼ばれる棋士の中では出世は遅い方であった。1970年(昭和45年)、王位戦で大山康晴に挑戦。これがタイトル初挑戦である。これを含め、大山とのタイトル戦で4連続奪取失敗をする。大山からの初奪取は、1983年(昭和58年)(1982年度)の王将戦、棋王戦での2連続奪取(棋王戦は防衛)である。1973年(昭和48年)、第22期棋聖戦で有吉道夫を破り、初のタイトル獲得。最終局の終盤、劣勢の中でトン死の筋(金を取りながら詰めろ馬取り)で大逆転。米長曰く「対局相手の有吉さんは、トン死の筋に気づいた時30センチくらい飛び上がった」という。中原誠は、大山以上の天敵であった。1973年度の王将戦に始まり、タイトル戦でなかなか中原に勝てなかった。2年連続で中原王将への挑戦者となった1975年(昭和50年)(1974年度)の第24期王将戦では、七番勝負開幕前のインタビューで「第一局では中原王将(当時)があっと驚く奇策を考えている」と発言。その言葉通り、先手番となった第一局では三手目に▲8六歩と突く角頭歩戦法を見せるが、後手番の中原誠は冷静に△4四歩と応対。角頭歩戦法の肝とも言える角交換を封じられた米長はいいところなく敗れ、以後角頭歩戦法を公式戦で用いる事はなかった。一方の七番勝負も3勝4敗と、第一局での敗戦が最後まで影響する結果となった。ちなみに中原誠は、この時の七番勝負第七局(最終局)を「米長さんとの最も印象に残っている一局」として挙げている。中原誠曰く「タイトル戦七番勝負の第七局で、双方残り一分の秒読みになったのは、後にも先にもこの時以外記憶にない」からである。中原への8度目の挑戦となった1979年度王位戦はフルセットの戦いとなり、最終局での千日手指し直しの戦いの末に奪取。ようやく中原に一矢を報いた。1984年度、中原誠と十段戦七番勝負を戦う。フルセットで迎えた最終局(1985年1月)に勝利し奪取。史上3人目の四冠王となり、7つのタイトルのうちの過半数を占めた。俗に「世界一将棋の強い男」とも称された。しかし、名人位にだけはなかなか手が届かなかった。この1980年代前半に米長と最も多く対局したのは中原誠ではなく、振り飛車の雄・森安秀光であった。A級順位戦やタイトル戦などでの森安との激闘は居飛車対振り飛車、特に居飛車急戦の戦術発展に大きく寄与した。その一例が1985年3月の第42期A級順位戦最終局であるこの一局、森安が勝てば6勝2敗となり、最終局が抜け番だった中原王将(当時)(同じく6勝2敗)に並び、プレーオフとなるところだった。一方の米長は勝っても負けても名人挑戦、降級には関係ない一番。その対局で新手を放ち勝利。米長哲学を実践した一例とされる。米長は、早指しの棋戦でも力を発揮した。早指し将棋選手権で、1974、1977、1979、1980年度に優勝、日本シリーズでは、1980、1984、1986年度に優勝、NHK杯戦でも1978年度に優勝した。また、公式戦ではないが、決勝戦が持ち時間15分・1分の考慮時間10回の富士通杯達人戦でも、歴代2位タイとなる4度の優勝を果たしている。横歩取り戦法が流行していた頃、1990年(平成2年)(1989年度)の王将戦で挑戦者となった時に、「横歩も取れない様な男に負けては御先祖様に申し訳ない」と新聞紙上でコメントし、南芳一王将(当時)を挑発した。この時は弟子の中川大輔四段(当時)のアパートに通い、南対策を教わったと自身の著書で書いている。南は対局で横歩を取った。この七番勝負は4-3で米長が王将位を奪取、うち2局が横歩取りとなり、1勝1敗であった。しかし翌年1991年(平成3年)(1990年度)の王将戦で挑戦者となった南に2-4で敗れ防衛に失敗する。1993年(平成5年)、第51期名人戦で、7度目の挑戦にして悲願の名人位を獲得する。49歳11ヶ月での獲得、50歳での在位(「50歳名人」)は、史上最年長記録である。新宿の京王プラザホテルで行われた名人就位式・祝賀パーティーには、2000人を超える異例の人数の参加があった。この席で米長が「あの子が来年、私のクビを取りにやってくる」と発言。その言葉のとおりに、翌年、A級1年目にして名人挑戦を果たした羽生善治によって名人位を奪われ、以降、米長はタイトル戦の舞台から遠ざかることとなる。1998年(平成10年)、第56期順位戦で4勝5敗の成績ながらリーグ表順位の差で、26年連続で在籍したA級からの降級が決まる。B級1組で指す道を選択せずフリークラス宣言をして順位戦から撤退し、名人挑戦の可能性を残す道を自ら断った。2003年(平成15年)12月17日、現役棋士を引退。それに先立って「全棋戦で敗退した時点で引退」という前代未聞の表明を行った。最後の棋戦となった2003年度の王将戦では予選で2人のA級棋士・三浦弘行、藤井猛を破り本戦リーグ入りをする。しかし、本戦リーグは6戦全敗で敗退した。3敗目の時点で挑戦の可能性が消滅し、リーグ最終戦での引退が確定したが、その直後の4局目の対局相手は佐藤康光棋聖(当時)であった。佐藤は対局当日、和服(羽織袴)を着用して下座に着いた(本来はタイトル保持者の佐藤が上座)。米長は急遽、対局場(将棋会館)に和服を取り寄せ、午後から和服姿で対局した。残る2局は森内俊之竜王(当時)、郷田真隆との対局であったが、彼らも和服を着用。米長は事前に雰囲気を察知し、この2局は自らも朝から和服を着て対局に臨んだ。厚みを重視し、劣勢になると自陣に駒を打ち付け複雑にして逆転を狙う棋風から、「泥沼流」と呼ばれる。本人の性格や見た目から「さわやか流」と呼ばれていたこともあり、米長本人は後者の方が好きだったと言う(ただし、棋風との関連は不明)。居飛車本格派ながら、定跡研究などによる序盤の構想よりも中終盤の攻防でねじ伏せる勝利が多く、特に将棋の終盤戦術の向上に貢献した。その独特の感覚は「米長玉」などに表れており、現代将棋の終盤の基本パターン「自分の玉を‘Z’(ゼット、絶対詰まない形)にして攻めまくる」に、大きな影響を与えている。四冠王になるなど絶頂期にあったときには、自著『逆転のテクニック』の中で序盤研究に否定的な見解を示し、詰将棋で鍛え抜いた読みの力をベースに劣勢になっても相手のミスを招く勝負術ならびに終盤力が将棋における勝負の本質であるとの見解を示していた。若手時代から「序盤下手」と揶揄されることが多かった(谷川と共に「序盤の二下手」と呼ばれたこともある)一方で、羽生善治は米長の序盤を「序盤から息を抜けず緊張感を強いられる序盤巧者」と評している。ただ、定跡に挑戦するチャレンジ精神は相当あり、対山田戦では「▲3七桂対△1三銀型矢倉は千日手」という常識に挑戦した(結果は負けた)。また、対中原戦では総矢倉(これも常識では千日手)で▲6八銀左という新手を指して勝っている。また、同じ振り飛車党に対しても大山に対しては位取りをメインにした持久戦を、森安に対しては鷺宮定跡(急戦)を採用するなど、相手によって戦法を変えることを明言していた。四冠王になる前には、「角頭歩戦法」や「新鬼殺し戦法」といった奇抜とも言える序盤戦術を開拓していた。「角頭歩戦法」はタイトル戦(1975年(昭和50年)の王将戦第1局)の舞台で使用し、大きなインパクトを与えた。しかし「角頭歩」についてはすぐ相手側の「回避策」が出てしまったが、それに影響を受けた戦法「立石流」の源泉となった。また「新鬼殺し戦法」は初心者向けのハメ手と戒められていた鬼殺しを立派な一戦術として確立させている。また2011年(平成23年)12月21日に行われたコンピュータ将棋「ボンクラーズ」とのエキシビジョンマッチで敗北したものの、ボンクラーズの初手▲7六歩に対し2手目に△6二玉(本人は「新米長玉」と呼称している)という珍しい手を繰り出した。四冠王となった頃に「米長流急戦矢倉」の開発、対振り飛車における「玉頭位取り」や「鷺宮定跡」の整備といった功績がある。「矢倉は将棋の純文学」という有名な表現は米長の言葉である。これは米長によれば(矢倉は)高尚である、と言った意味での発言ではなく、角が上下にギザギザネチネチと動き、ネチネチと押したり引いたりし、相手の出方を見てネチネチと手を変え、と言ったそのネチネチさを指して「純文学」と表現したとのことである。後記の年表も参照。30局以上指した棋士との勝敗を以下に示す。※中原との対局数は、タイトル戦での持将棋1局を含む。187対局は、同一カード対局数の歴代1位記録。タイトル戦12連敗(1987年名人戦第3局から1989年名人戦第4局まで)は記録である。

出典:wikipedia

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