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迫撃砲

迫撃砲(はくげきほう、)は、簡易な構造からなる火砲で、高い射角をとることから砲弾は大きく湾曲した曲射弾道を描く。少人数で運用でき操作も比較的簡便なため、砲兵ではなく歩兵の装備であることが一般的で、最前線の戦闘部隊にとっては数少ない間接照準による直協支援火器の一つである。射程を犠牲にして砲口初速を低く抑えているため、各部の必要強度を抑えられ、全体を小型化かつ軽量化できる。、また、射撃時の反動は地面に吸収させる方式によるため駐退機や復座機といった反動制御機構を省略し、機構を簡素化することができる。多くは砲口装填式(前装式)のため閉鎖機も不要であり、同口径の榴弾砲と比べ極めて軽量・コンパクトである。小中口径迫撃砲は分解して担いででも携行でき、120mmクラスの重迫撃砲も小型車輌で牽引できるなど可搬性に優れる。低い命中精度や短い射程といった短所もあるが、軽量で、大きな破壊力をもち、速射性に優れ、安価で生産性に優れるなど、多くの長所を有している。そのため、かつて師団砲兵の標準的な装備の一つであった105-122mmクラスの榴弾砲が近年では120mm迫撃砲に更新されつつあり、このことも本砲の有用性を示している。本稿では、最も一般的な81mm及び120mmクラスの(自走式でない)迫撃砲を中心に、その他の迫撃砲、他の火砲との比較、更に古代の曲射弾道兵器から迫撃砲に至る発展の歴史などについても敷衍する。81mmクラスの中口径迫撃砲は各部に分解して数名の兵員で運搬でき、また、120mmクラスの重迫撃砲では支持架(砲架)の構造がやや複雑になり被牽引用のトレーラーが加わることも多いが、基本構造は同一である。迫撃砲の主な口径は、60mm・81mm・82mm・107mm・120mmであり、#分類で述べるように、各階梯に応じた口径のものが配備されている。現代でも実戦配備されている最大口径のものはロシアの240mm重迫撃砲2B8で、同国の自走迫撃砲である2S4チュリパンにも同砲が搭載されている。また、フィンランドやイスラエルには160mm重迫撃砲が存在する。他の火砲と比べて短い筒状の「砲身(barrelまたはcannon)」、二脚によって砲身を支える「支持架(bipodまたはmount)」、砲尾に接合された「底盤(base plate)」の、主に3つのコンポーネントで構成される。冒頭で述べたように、砲口初速を低く抑えた上で、射撃時の反動を地面に吸収させるという点が、他の火砲と異なる最も重要な特徴であり、大きな仰角をとって射撃するのはこのためである。通常の火砲は、抵抗をかけながら砲身を後座(スライド)させることで発射時の反動を緩衝する「駐退機」、後座させた砲身を元の位置へ戻す「復座機」、砲の俯仰を円滑にするため砲身のバランスをとる「平衡機」、装薬の燃焼ガスが薬室から漏出するのを防ぐ「閉鎖機」、及びこれらの機構と砲身を含めた大きな重量を支持するための堅牢な「揺架」・「砲架」などが必要である。(右の画像を参照)迫撃砲は、前述の反動吸収方式によって駐退復座機を省略または簡素化できるため、同口径の榴弾砲と比べ極めて軽量かつコンパクトに収まる。加えて、低い初速は各部の強度を抑えることを可能にし、それだけ砲身の肉厚を薄くするなど、軽量・小型化に寄与する。砲身が軽く俯仰の仕組みもシンプルなため、平衡機も不要である。また、後装式の火砲は装薬の爆発で生じる高圧の燃焼ガスを密閉するため砲尾に耐圧気密構造の閉鎖機構を設けるが、弾薬を装填するためには容易に開閉できねばならず、これらを相反する機能を両立させる必要がある。このため、閉鎖機の製作には高い工作精度を要求されるが、砲口装填式(前装式)の迫撃砲は閉鎖機が不要で短期間かつ安価に製造できる。砲弾を砲身内へ滑り落とすだけの落発式によるため速射能力も高く、迫撃砲はこれらの優れた着想を組み合わせた画期的な火砲である。なお、車載型迫撃砲では車輌のサスペンションに与える衝撃と疲労を軽減するため簡易的な駐退復座機をもつ場合がある。大口径もしくは長砲身の迫撃砲でも同様。また、後装式の場合は当然に閉鎖機が設けられる。迫撃砲の砲弾は弾体と発射薬が一体化されたカートリッジ方式であり、榴弾砲に見られるような砲弾と薬嚢(装薬を包んだ袋)が別になった分離装填方式をとらない。ただし、射程の延伸を図るため、発射薬筒に増加発射薬を1から複数個取り付けるモジュール方式を採ることが一般的で、その数によって射距離を調節できる。増加発射薬はリング状のものを弾体後部に取り付けるか、袋状のものを安定翼の間に挟むことで装着する。増加発射薬なしでも射撃は可能である。発射薬筒には多数の小孔が設けられており、そこから噴出した燃焼ガスが増加発射薬を点火する。また、ライフリングされた砲の場合は安定翼が不要なため、その部分に増加発射薬を取り付けることもある。有翼弾の場合は砲外弾道を安定させるために、安定翼の加工・組立精度に加えて、弾体の鋳造精度が重要となる。迫撃砲に用いられる主な砲弾は榴弾・発煙弾・照明弾であり、派生型として対人用の破片榴弾や焼夷弾も用意されている。概ね榴弾砲と同じ弾種が揃っており、兵員や非装甲車輌などのソフト・ターゲットを目標とする。また、近年では、ストリックス迫撃砲弾や対装甲破片榴弾(PRAB)などの対装甲弾も開発・配備されている。外観などの特徴については「構造」の節に記したため、ここでは性能上の特性について記す。なお、一つの項目が長所と短所の両方を包含する場合があることに留意。記事中の説明を補完するため、代表的な迫撃砲の主要諸元を以下に掲げる。なお、下段は比較のために掲げる他の火砲の主要諸元である。迫撃砲の運用法は第二次世界大戦期にほぼ確立され、現代においても基本は変わっていない。以下では分類や編成、戦術上の役割など、運用に関する項目について記す。軽・中・重という区分に厳密な定義はないが、概ね口径・重量・運用で分類される。同じ口径でも時代によって分類が異なる場合がある点に留意。
作戦行動中に迫撃砲が果たす戦術上の役割は、以下の3つに大別される。以下に、射撃準備から弾着までの簡単な流れを示す。(迫撃砲の射撃)迫撃砲は汎用性が高く戦闘の様々な局面で火力支援に使用される上、速射性に優れるため短時間に多数の砲弾を消費しがちである。したがって、大量の弾薬を供給するため輜重段列(補給部隊)の随伴が不可欠となる。特に工業生産力が低く兵站が脆弱だった日本にとってこの問題は深刻であり、陸軍は第一線の歩兵大隊に対する曲射歩兵砲(十一年式曲射歩兵砲と九七式曲射歩兵砲)の全面的配備を躊躇し、直接照準による精密射撃が可能な従来型の歩兵砲の配備を優先したという経緯がある。例えば十一年式曲射歩兵砲の場合、砲本体の重量は63kgだが弾薬定数112発の重量は運搬用具などを含めて364kgもあり、砲自体は兵員数名で携行できても弾薬の運搬には人員8名と馬2頭を要した。一会戦にどの程度の弾薬を準備するかは作戦によって異なるが、多いときでは1t以上もの弾薬を輸送せねばならず、十分な車輌を保有し得なかった輜重部隊の負担は相当なものであった(全力射撃を行えば、定数112発全弾を打ち尽くすのに10分も要しない)。このように、兵站への負担や弾薬コストが膨らみがちであるという迫撃砲のデメリットは看過できない。しかし、これは敵方も条件は同じであり、「能力特性」に記した長所がこれらの短所を上回るため、迫撃砲は現代でもますます多用される傾向にある。近現代の迫撃砲は、第一次世界大戦時に使用されたイギリスのストークス・モーターを原型としており、英語で同じ"mortar"である臼砲とは構造・運用ともに大きく異なる。しかし、「曲射弾道」という核となる特徴において共通しており、曲射弾道兵器の中で軽量・小型化の道へ分化した砲の一つの到達点である。古代の投石機に始まり、射石砲を経て火砲が進化した後も、大きな破壊力をもった曲射弾道兵器は大重量なものに限られていたが、優れた設計思想と榴弾との組み合わせによって、従来とは比較にならないほど軽量小型で扱い易い画期的な砲が誕生した。古代に用いられたオナガー()、あるいは中世に登場したマンゴネル()やトレビュシェット()といった投石機は、火薬こそ使用しないものの曲射弾道兵器という点で共通しており、臼砲や迫撃砲の系譜に連なっている。また、バリスタ()やスコーピオ()などの弩弓の中には大きな仰角をとって曲射できるものもあり、防壁などの遮蔽物越しに攻撃できた。火薬の燃焼エネルギーを利用した砲身内の圧力(装薬の化学変化によって生じるガスの膨張圧)で砲弾を加速する、いわゆる「火砲」は12世紀初頭のイスラム世界でようやく誕生するが、初期のマスケット(銃)が長いあいだ長弓に及ばなかったのと同様、火砲の進化にも長い年月を要し、トレビュシェットは火砲の登場後も300年近く使用され続けた。なお、遥か後代の第一次世界大戦中、フランス軍はオナガーやマンゴネルを簡易縮小化した「スプリングガン」を前線に多数配備した。ゴムやバネの力で擲弾を発射する仕組みで投石機の近代再設計版と言えたが、射出できる擲弾が小さく威力不足な上に射程も短く、射距離の調節や照準が難しいことから早期に使用されなくなった。草創期の火砲の種類は幾つかあるが、その中から発展を遂げて主流をなしたものの一つが射石砲()である。英仏百年戦争(1339-1453)の頃には火砲が普遍的に使用されるようになり、トレビュシェットはほぼ完全に駆逐された。火砲が、操用性や生産性そして何よりも威力の点で従来の投石機を凌駕するに至ったためである(射「石」砲と和訳されるが鉄弾も発射する)。投石機と同様、射石砲の最大の目的は城壁や塔の破壊つまり攻城戦にあった。したがって、より大きく重い砲弾を投射すべく大口径の砲が求められたが、冶金工学や鋳造技術の限界で砲身に用いられる鉄の強度が弱く、初期の射石砲は著しく肉厚で砲身は短い。中世末期、射石砲は「モンス・メグ」や「ウルバンの巨砲」に代表されるように大口径化が進み砲身も長くなっていくが、一部のものは初期の射石砲の形態を踏襲し、臼砲として砲の一分野を形成しつつ第二次大戦期まで500年以上にわたって使用され続けた。これは、巨大化した砲に大きな仰角をとらせることが至難で、防壁などの遮蔽物越しに曲射する目的であれば射角の変更が容易な臼砲のほうが扱い易かったためである。大型の砲が俯仰を自在に変更するためには、平衡機の発明を待たねばならない。15世紀半ばまで大半の火砲は鉄製だったが、近世に入ると青銅砲が主流となる。その理由は、(1)柔軟性の高い青銅は鉄に比べ砲身の厚みや口径を規格どおりに生産でき、射撃時の燃焼エネルギーの損失が少なかったこと、(2)加熱法の問題から、鍛造の鉄製砲よりも鋳造の青銅砲のほうが短時間で製造でき、また、錫と銅の鉱山開発が進んで原料が恒常的に入手できるようになり量産が容易になったこと、(3)火薬の改良が進んで爆発力が向上し、当時の粗鉄では砲腔破裂が頻発するようになったため、粘りがある青銅のほうが耐久性に優れていたこと、などである。この結果、16世紀前半(1520年頃)に鉄製砲は消滅した。砲身の肉厚を薄くしても強度を保てるようになると、軍の移動に随伴できる機動的な「野砲」()が登場し、主に野戦用であったが攻城戦にも用いられた。また、従来の大口径・短砲身砲も軽量化が進み、野砲と区別するため「臼砲」と呼ばれるようになった。臼砲は射程こそ短いものの、大口径砲弾の破壊力は攻城戦に欠かせないものとなる。これらの砲の普及によって、重量過大で運搬や設置に多大な労力を要する重ボンバルドは急速に姿を消していった。野砲や臼砲の登場で、野戦・攻城戦ともに戦術面で大きな変革が起こる。特に攻城戦では城砦の防御力と比して火砲の攻撃力が圧倒的になり、薄く高い防壁と尖塔からなる中世様式の城砦は容易に粉砕されるようになった。例えばイタリア戦争(1494-1559)において、140門の機動火砲を率いたフランスのシャルル8世はイタリアの諸都市を瞬く間に席捲している。かつて、一つの城砦を陥落させるために長ければ数ヶ月あるいは年単位の攻囲を要したことに比べると革命的な変化であり、火砲の発達に伴い城郭の様式はヴォーバンに代表される星型稜堡式へと順次変貌していく。また、砲の発展と共に重要な点が錬鉄弾の開発である。この鉄弾の登場までは石弾が使用されていたが、錬鉄弾は城壁に対する貫徹力が石弾と比べ3倍も高く、これが石造りの中世式城砦に対して絶大な威力を発揮したのである。なお、野砲は射程の向上を狙って次第に長砲身化していきカノン砲()へと進化するが、臼砲の外観は時代が進んでもほとんど変化していない。ただし、17世紀後期には「クーホルン砲」と呼ばれる可搬式臼砲が登場しており、重量90kg前後で兵員4名が運搬できた。現代の迫撃砲と比べれば遥かに重いが、携行可能という当時としては画期的な軽量小型の砲であり、迫撃砲の始祖の一つと言える。日露戦争は第一次世界大戦の前哨戦とも言え、新兵器である機関銃と塹壕・堡塁を組み合わせた本格的な野戦防御陣地が構築された初の大規模近代戦争であり、迫撃砲のプロトタイプである小型軽量の近接支援火器も本戦役で初めて登場する。旅順における日本第3軍の死闘はつとに名高いが、最前線では敵の塹壕に至近から爆薬を投擲しあう肉弾戦が展開され、両軍ともに甚大な損害を出していた。これを憂慮した日本軍攻城砲兵司令部の今沢義雄中佐が、より遠方へ爆薬を投射するために打上花火の仕組みを応用して即製の擲弾発射機を考案し、「敵に迫って砲撃する」という意から迫撃砲と名付けられた。このとき各部隊で急造された擲弾発射機は、木製の筒に竹の箍(たが)を連ねて補強した口径12-18cmの砲身をもち、黒色火薬の装薬に導火線で点火するという簡素な構造であった。また、砲弾と装薬が分離しており、第一次大戦で登場したストークス型迫撃砲のようにカートリッジ方式ではない。なお、この木製砲は後に技術審査部における鉄製の十糎半携帯迫撃砲の開発へと発展し、明治38年8月には下志津原で射撃試験が行われた。しかし、砲身が破裂して死者3名と負傷者多数を出す事故を起こし、改良を模索しているうちに日露戦争が終結してしまい実戦には間に合わず開発中止となった。これ以降、第一次世界大戦が始まるまで日本における迫撃砲の開発は停滞することになる。日本軍は他にも口径7cm・12cm・18cmの迫撃砲を開発していたことが記録に残っている。この12cm迫撃砲は、幕末に購入した旧式の十二栂臼砲の砲弾を再利用していた。また、明治38年付の資料には、後の擲弾筒を彷彿させる口径44mm・砲身長200mm・全長329mmという軽迫撃砲が記載されている。同様の小型曲射兵器はロシア軍も使用しており、レオニード・ゴビャートが開発した擲弾発射機は「ボーンプィエ()」と呼ばれ、第一次大戦が終わる頃までは迫撃砲を意味していた。ゴビャートが考案した迫撃砲は後に「スピガット・モーター」(後述)として彼の著書と共に欧米へ広まり、第一次大戦で広く使用されることになる。なお、本戦役には外国からも多数の観戦武官が日露両軍に随伴し、新兵器の威力や従来とは異なった戦闘の推移について多くの報告が本国に送られたが、極東における局地戦の一事象としてほとんど顧みられず、続く世界大戦で各国は日露戦争以上の代償を支払うことになる。第一次世界大戦では日露戦争以上の塹壕戦が特徴であり、西部戦線においてスイスから北海に至る長大な前線に張り巡らされた塹壕の総延長は40,000kmに達した。これは、日露戦争でもその威力を発揮した「機関銃」の普及により、砲兵による攻撃準備射撃と歩兵の突撃という従来の戦術では敵陣地突破が困難になったためである。その防御火力は絶大で、「1挺の機関銃が1個大隊の突撃を阻止する」と言われたほどであった。攻撃前にどれほど砲弾の雨を降らせても塹壕内に伏在する機関銃を完全に排除することはできず、戦線は長期にわたって膠着状態に陥り、交戦する両陣営ともに敵の機関銃陣地を沈黙させることが最重要目標の一つとなった。そこで、砲兵による攻撃の後は、前進する最前線の部隊が敵の機関銃を発見次第に近傍から直接攻撃して破壊する方法がとられることになる。その結果、協商国側では「ストークス・モーター」、同盟国側では「ミーネンヴェルファー」という二つの小型曲射砲が誕生する。ミーネンヴェルファーは直訳すると「爆薬投射機(mine launcher)」で、大きな仰角をとることが可能な小型で精密な曲射砲である。一方、ストークス・モーターは現代の迫撃砲と同じ構造の簡易曲射砲であった。いずれも従来の砲とは異なり小型軽量だが、特にストークス・モーターはかなり狭隘な塹壕内でも設置できるほどコンパクトな上、僅か数名の兵員で携行・操作できた。ミーネンヴェルファーもストークス・モーターも塹壕戦を契機として誕生した砲だが、ストークス・モーターは塹壕戦に留まらず歩兵の直協支援火器として以後も更に発展し、それとは逆にミーネンヴェルファーは第一次大戦後に廃れていった。これは、ストークス・モーターの方が簡易な構造で生産が容易であり、軽量で扱い易く歩兵が直接扱えたためで、現代の迫撃砲はストークス・モーターを原型としている。なお、迫撃砲を発明した始祖はイギリスのウィルフレッド・ストークスだが、その標準化に影響を及ぼしたのはフランスのエドガー・ウィリアム・ブラントである。ブラントが開発した60mm・81mm・120mmの迫撃砲が各国でライセンス生産され、弾薬の互換性を保つために後継の砲でも同じ砲口直径のものを用いざるを得なかったため、現代でもNATO標準規格(STANAG)ではこれらと同じ口径の迫撃砲弾が指定されている。出現した当初からストークス型迫撃砲の完成度は高く、第二次世界大戦期に更に洗練され、現代に至るまで基本構造に大きな変化はない。主要な参戦国の地上部隊は必ず迫撃砲を装備していた。日本陸軍においては、ストークス型迫撃砲の導入以前から「曲射歩兵砲」という名称でミーネンベルファー類似の小型の迫撃砲を装備していたが、これを更新するものとして軽量の榴弾砲を配備したため、直接照準での射撃のできないストークス型迫撃砲については当初は導入を見送り、瓦斯弾投射機兼用の砲兵装備として採用された拡大型(口径90mm・射程3,800m)の迫撃砲を砲兵所管の独立部隊に配備するに留まっていた。しかし、支那戦線において中国軍が使用するドイツ製迫撃砲の威力を目の当たりにし、改めて口径81mmのストークス型迫撃砲を九七式曲射歩兵砲という名称で歩兵部隊にも配備することになったという経緯がある。また、海軍では九七式曲射歩兵砲を簡略化した三式迫撃砲を海防艦の艦橋前に設置し、潜水艦に対する威嚇攻撃に用いたほか、陸軍も機動艇などの揚陸艦の艦首に迫撃砲を装備して揚陸時の支援射撃に用いた。なお、陸軍においては砲兵所管のものを「迫撃砲」、歩兵所管のものを「曲射歩兵砲」と称するが、形式としてはいずれも同じ迫撃砲である。第二次世界大戦では歩兵の機械化が進み、自走式の迫撃砲も登場した。軽量の迫撃砲は車載化も容易で、トラックの車台に既製の迫撃砲を搭載しただけのものから、既存の装甲車両を改造して固定武装化したものまで様々である。また、迫撃砲ではないが、同じ"mortar"である臼砲・曲射砲では、ドイツの「カール自走臼砲(口径540mmまたは600mm)」、米国の「リトル・デーヴィッド(口径914mm)といった巨砲も製造された。前述のとおり、一般的な迫撃砲の外観や基本構造は第二次世界大戦時からほとんど変化していないが、近年ではアルミニウム合金の多用など素材の改良によって軽量化が進んでおり、各国の軍隊では従来装備していたものより一回り大きな口径の迫撃砲に更新する例が多い。105-122mmクラスの榴弾砲を120mm重迫撃砲へ換装する例も増えており、迫撃砲は今後も砲撃用プラットフォームとして更に多用される傾向にある。砲弾の進化では、例えばロケット・アシスト弾(RAP)の採用で射程は更に延伸しており25,000mもの射程をもつ迫撃砲も存在する。120mm迫撃砲 RTのRAP弾は射程約13,000mであり、105mmまたは122mm榴弾砲の射程(通常弾)15,000mに迫りつつある。また、赤外線やレーザーによる対戦車誘導弾の開発など、命中精度を著しく向上させた砲弾も出現しており、これらの先進的な砲弾は高価だが弾薬消費量は激減する。自走迫撃砲にも様々なものが登場しているが、大半は車体容積の大きな装甲兵員輸送車などに既存の迫撃砲の砲身を設置するターンテーブルと砲弾格納架を搭載したもので、砲身を取り外して車外で運用することも想定し、支持架や底盤を別途用意していることも多い。ただし、自走迫撃砲として専用に開発された車輌も存在し、ロシアの2S4チュリパン 240mm自走迫撃砲は自動装填機構を有した後装式の自走迫撃砲であり、2S9ノーナ-S 120mm自走砲のように砲塔を備え、直接照準による平射も可能な自走迫撃砲も登場した。もちろん自動装填装置を有し高い速射能力をもつ。また、特殊な例だが、イスラエルの戦車は対歩兵用として砲塔外部に60mm迫撃砲を装備していることが多く、特に国産戦車メルカバのMk.2以降は後装式のソルタム60mm迫撃砲を砲塔に内蔵して車内からの操作が可能となっている。自走式ではない迫撃砲でも1970年代に自動装填タイプのものが登場し、例えば2B9 82mm自動迫撃砲は4発の砲弾を連射でき、榴弾砲のような外観をもつ。また、フランスのトムソン・ブラント社は、ガン・モーターと呼ばれる迫撃砲と旧来の歩兵砲を組み合わせたような射撃システムを開発し、60mmおよび81mmのものが歩兵戦闘車などを改修して装備されている。いずれも直接照準による平射が可能で、対歩兵戦で大きな威力を発揮する。なお、安価で操作が容易な上、軽量なわりに大きな破壊力をもつ迫撃砲(特に60-82mmの中口径迫撃砲)は、正規軍以外にもゲリラや反政府武装組織に使用されることも多く、他の小火器と併せ、地域紛争を激化させることが懸念されている。機関銃や榴弾砲の基本構造が80年前にほぼ完成され、現代でもほとんど変化していないのと同様に、迫撃砲のメカニズムも砲本体の構造は既に固まっているため、冷戦後の1990年代に入ってからは砲弾や給弾機構、射撃管制システムの改良が開発の主眼となっている。例えば、スイスのRUAG社が開発した120mm迫撃砲射撃システム"BIGHORN"は、セミ・オートマチック装填方式のため比較的軽量で高い発射速度を確保しており、歩兵戦闘車などに搭載して高い機動性を発揮する。STRIXなどの誘導砲弾も使用でき、操作性の高い射撃管制システムが攻撃をアシストする。また、フィンランドのパトリア社およびスウェーデンのBAEヘグルント社が協同で開発した"AMOS"も連装型の120mm迫撃砲射撃システムで、車両だけでなく小型舟艇にも搭載が可能となっている。単装型は"NEMO"と称する。いずれも平射が可能で近距離戦闘にも対応できる。アメリカ海兵隊においてもEFSSドラゴンファイアを開発中であり、歩兵戦闘車クラスの車輌に搭載できる120mmクラスの自動装填式迫撃砲と新型の射撃管制システムを統合したユニットの開発が近年の傾向である。これらの射撃システムを搭載した車輌は、射程こそ短いものの迫撃砲の速射性を併せもつため軽量ながら従来型の自走砲よりも大幅に攻撃力が向上している。装輪タイプの車輌に搭載されたものも多いが、装輪車輌は砂漠や泥濘地以外なら装軌車輌よりも機動力が高く、流動的な戦闘の推移にも迅速に追随でき、戦場の変化に柔軟な対応が可能である。また、小型舟艇にも搭載可能であることから、沿岸部や河川などでの地上・水上戦闘における戦術も変化することが予測される。"、直訳すると「差込型迫撃砲」となるこの兵器は、第一次世界大戦時にミーネンヴェルファーやストークス・モーターと共に多用された曲射砲の一形態で、ロケットランチャーに近い運用がなされた。ただし、砲弾はロケット弾のように飛翔中に推進されるわけではない。構造は一般的な迫撃砲よりも更に簡素で、基底部(台座)に棒状または中空のロッドが接合され、砲弾をロッドに差し込むことで装填される。支持架はないことも多い。ロッド(砲身)の直径よりも大口径の砲弾を装填できるため、砲自体のサイズと比してかなり大きい砲弾を射出できることが特徴である。ただし、破壊力の大きい反面、命中精度や射程、発射速度は劣り、例えば第一次大戦で用いられた2インチ中迫撃砲の射程はニュートン6インチ迫撃砲の半分以下である(砲弾重量はいずれも約24kg)。このため、第一次大戦後はストークス型の迫撃砲に淘汰されてほとんど用いられなくなった。歩兵の直協支援用としては砲弾が重過ぎて少量しか携行できない上にストークス型ほどの速射はできず、また、火力支援用としてはロケットランチャーのほうが射程も長く軽便で、性能が中途半端だったためである(ロケットランチャーも命中精度は同様に悪い)しかし、構造が簡易で生産が容易なため、火砲など重火器の不足した軍において第一次大戦後も使用されたケースがある。例えば、日本陸軍は第二次世界大戦時に九八式臼砲という名称で同様の兵器を開発し、無砲身弾から「ム弾」と称していた。また、戦後においても第一次中東戦争で兵器不足に悩まされたイスラエルは即製迫撃砲ダヴィドカを生産して使用している。また、第二次大戦中のドイツ国防軍では、二線級兵器となった小口径火砲をスピガット・モーターのように差込式の外付け砲弾を用いて火力の不足を補っていた。なお、野戦用としては使われなくなったが、スピガット・モーターの構造や射出方式は幅広く応用されており、スピガット・モーターから派生した兵器は下記のとおり少なくない。それぞれの詳細は当該記事を参照。スピガット・モーター以外にも、以下のような迫撃砲の亜種や類似する兵器が存在する。化学兵器の運用部隊の多くは迫撃砲を装備していた。これは、毒ガスなどの化学物質が充填された砲弾を短時間で大量に投射する手段として迫撃砲が適していたためである。化学戦での運用を前提に開発された迫撃砲も存在し、これらは前述の理由から大口径のものが多い。第一次世界大戦では広く利用された毒ガスだが、戦術上きわめて扱いにくく効果の測定も不確かなため、第二次世界大戦では実戦で使用される機会が少なく、通常弾を用いる火力支援などを行うようになった部隊が多い。以下では、時代ごとの迫撃砲を列挙する。一部、参考のため近現代の迫撃砲(ストークス型迫撃砲)以外の"mortar"も掲載。

出典:wikipedia

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