サッカーコロンビア代表は、コロンビアサッカー連盟(COL)によって組織されるコロンビア共和国のナショナルチームである。ホームスタジアムはバランキージャにあるエスタディオ・メトロポリターノ・ロベルト・メレンデス。コロンビアのサッカーは20世紀初頭に、当時南米の経済を支配していたイギリスとの交易を通して伝えられたのが始まりと言われている。マグダレナ川河口の港湾都市バランキージャに最初に伝えられ、1897年にはボゴタで現在のサッカーの規則と似た試合が行われたようである。1914年にはメデジン市内に国内初のサッカークラブが誕生する。1924年、バランキージャで「大西洋サッカー連盟 (LFA)」が結成され、コロンビアのサッカーを統括する組織となる。1931年FIFAに加盟、1936年に「コロンビアサッカー連盟 (FCF)」に名を改める。1940年代から50年代にかけて主なサッカークラブが次々と創立される。1948年、10チーム参加のプロリーグがスタートし、ミジョナリオスとインデペンディエンテ・サンタフェがリーグの中心となる。1949年にはチーム数が14に増やされている。1938年には代表チームが組織され、コロンビア代表として初の国際試合を経験する。同年にはなぜかCONCACAF (北中米カリブ海サッカー連盟) に加盟しているが、結局CONMEBOL (南米サッカー連盟) の一員に落ち着いている。1940年代、50年代は代表の強化がうまく行かず、南米で最下位を争うほどであった。1950年に、ミジョナリオスを中心とした新リーグが発足。新リーグには石油・ゴム業界とマスコミ、マフィアがバックについていた。移籍金を払わずに海外の有名選手を獲得できる制度は、低賃金のアルゼンチンやウルグアイから大量に選手を獲得することにつながった。本来払うべき移籍金を選手の年俸に充てられるからである。この時期には、英国からも選手が移籍してきた。名選手アルフレッド・ディ・ステファノを擁するミジョナリオスと、国内外の有力選手が参加する他チームによる新リーグは、当初は盛り上がりを見せるものの、下述するFIFAの措置により、人気下降による運転資金不足に陥る。さらに旧リーグとの引き抜き合戦、隣国アルゼンチンの経済混乱につけ込んだ「クラブ丸ごと引き抜き」工作、代表選出に伴うリーグ間の政争など、健全なサッカー環境とはほど遠いものになってしまった。FIFAは「南米サッカーの秩序崩壊の引き金になる」として、1950年に資格停止、1954年には南米サッカー連盟にコロンビア代表・クラブの排除勧告を出す。1956年にはコロンビアサッカー協会による調停措置により、新リーグが国内を統一するものの、すぐにまた新々リーグが勃興。1959年には、新サッカー協会までもが登場し、これにより体制が瓦解。1960年に、南米サッカー連盟よりリベルタドーレス杯定期戦開始に伴う解禁処置を受け、対外試合に復帰するものの、1971年の現コロンビアサッカー協会の大統一まで混乱を続ける。この間、コロンビア代表は1962年のワールドカップに初出場を果たし、前評判の低さを糧に強豪ソヴィエト連邦と引き分けたものの、ユーゴスラビアに0-5と大敗するなど1分2敗のグループ最下位で大会を終えた。1974年、フランクフルトでのFIFA総会で、コロンビアが1986年のワールドカップ開催地になることが決定した。ところが、同時にFIFA会長に就任したジョアン・アヴェランジェはワールドカップの参加国数拡大を選挙公約として当選した経緯があり、それが1982年のスペイン大会での参加国数の16から24への拡大とつながった。経済状況が良好でなく、かつ大国とは言いがたいコロンビアにとっては、24チームでの開催は国力の限界を超えるものだった。スタジアムで警官が発砲して、銃弾を受けた2人を含む4人が死亡した事件が決定打となった。1982年11月にコロンビアサッカー協会は「開催は不能」という回答をFIFAに送り、翌1983年5月、代替開催地として立候補したアメリカ合衆国、カナダ、メキシコの中からメキシコが選ばれ、かくして1986年のワールドカップはメキシコで開催される形となった。1980年代、コロンビアサッカーの長き低迷に終止符を打つ稀代のタレントが出現した。カルロス・バルデラマである。チリチリの長金髪という強烈な風貌の彼は、フィジカル的にはきわめて平凡ながらも確実なプレイを難なくこなすテクニシャンで、1987年のコッパ・アメリカでは3位進出の原動力となり、同年の南米最優秀選手に選出される。ワールドカップ・イタリア大会の予選では、彼やレネ・イギータの活躍もあって、28年ぶりのワールドカップ出場を決めた。本大会ではユーゴスラビア、西ドイツと同組という厳しい条件下、1勝1分1敗の成績でグループリーグを突破。決勝トーナメント1回戦ではカメルーンと対戦したが、延長戦の末イギータのミスなどでカメルーンの英雄ロジェ・ミラに2ゴールを決められ大会を去った。1994年ワールドカップ・アメリカ大会・南米予選でコロンビア代表は更なる快進撃を続けた。バルデラマ、フレディ・リンコン、ファウスティーノ・アスプリージャといったタレントを擁し、敵地ブエノスアイレスでアルゼンチンに5-0で圧勝するなど、圧倒的な強さで予選通過。本大会でもペレが優勝候補に挙げるなどダークホースとして注目のチームとなった。こうして迎えた本大会だったが、初戦ではゲオルゲ・ハジを擁するルーマニアに1-3で敗れた。後がなくなった2戦目の相手は開催国アメリカであった。ここで国民が目を覆いたくなる出来事が発生する。DFのアンドレス・エスコバルが相手のクロスボールの処理を誤り、オウンゴールを献上してしまったのである。そのままゲームを支配され、1-2で敗れたコロンビアは1次リーグ敗退が事実上決定した。そして後難を恐れてメンバーの誰もが帰国を拒否する中、「説明義務がある」と意を決して唯一人帰国したエスコバルには更なる悲劇が待ち構えていた。帰国後、メデジン郊外のバーで飲んでいたエスコバルを数人の男女が取り囲み口論となり、最後には「Gol! (南米のサッカー実況者がゴールシーンで絶叫する台詞)」という言葉と共に12発の銃弾を撃ち込まれて彼は射殺されてしまった。世界のサッカーファンは大きな衝撃を受け、この事件を「エスコバルの悲劇」と命名。大会の試合会場ではエスコバルに対する黙祷が捧げられた。1998年のワールドカップ・フランス大会には3大会連続出場を果たしたものの、1勝2敗でグループリーグ突破はならなかった。その次の3大会はあと一歩の所で本選出場を果たすことができなかった。2001年の自国開催のコパ・アメリカでは初優勝を果たす。2006年、エルソン・ベセラがナイトクラブで口論となった末に射殺されてしまった。またも繰り返された悲劇に「エスコバルの悲劇の再来」と呼ばれた。同年、ブラジルと並び2014年のFIFAワールドカップの開催地に立候補し、ブラジルの競争相手に名乗りを上げるも、開催地には選出されなかった。立候補の背景にはコロンビア大統領であるアルバロ・ウリベの意向が反映されていた。バルデラマ引退後は低迷が続き、ワールドカップにおいても1998年フランス大会の出場を最後に予選敗退が続いていた。しかしラダメル・ファルカオ、ハメス・ロドリゲス、フレディ・グアリンなど世界トップレベルの豊富なタレントが続々と現れたことで再び強豪チームとなり、2014年ブラジル大会では強豪ぞろいの南米予選を2位で突破して4大会ぶりの出場を果たす。大会のグループリーグではグループCに入るが、南米予選で9得点を挙げたファルカオが1月に所属クラブの試合で負った大怪我から回復せず、最終的に代表に選ばれなかったにも関わらず、ハメスらの活躍で初戦のギリシャ戦を3-0、続くコートジボワール戦も2-1で連勝し、グループリーグ最終戦の日本戦を待たずに1990年大会以来2度目となる決勝トーナメント進出を決めた。なお日本戦は4-1で大勝し、勝ち点9、グループ1位で通過した。決勝トーナメントでは1回戦のウルグアイ戦を2-0で勝利し準々決勝のブラジル戦に1-2で敗れたものの、チーム初のベスト8という成績を残し決勝戦後に行われた各賞発表で「フェアプレー賞」に輝いた。また、個人としてはハメスが得点王となった。※出場した回のみ表記
出典:wikipedia
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