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北条政村

北条 政村(ほうじょう まさむら)は、鎌倉時代前期から中期にかけての北条氏の一門。鎌倉幕府第7代執権(在職:1264年 - 1268年)。2代執権北条義時の五男。母は継室の伊賀の方。3代執権北条泰時は異母兄にあたる。政村流北条氏の祖であり、12代執権北条煕時は曾孫にあたる。13代執権北条基時も血縁的には曾孫である。幼少の得宗家北条時宗(泰時の曾孫)の代理として7代執権となり、辞任後も連署を務めて蒙古襲来の対処にあたり、一門の宿老として嫡流の得宗家を支えた。元久2年(1205年)6月22日、畠山重忠の乱で重忠親子が討伐された日に誕生。義時にはすでに3人の男子がいたが、23歳の長男泰時は側室の所生で、13歳の次男朝時の母は正室だったが離別しており、政村は現正室伊賀の方所生では長男であった。建保元年(1213年)12月28日、7歳で3代将軍源実朝の御所で元服し、四郎政村と号す。元服の際烏帽子親を務めたのは三浦義村だった(このとき祖父時政と烏帽子親の義村の一字をもらい、政村と名乗る)。この年は和田義盛が滅亡した和田合戦が起こった年であり、義盛と同じ一族である義村との紐帯を深め、懐柔しようとする義時の配慮が背景にあった。『吾妻鏡』は政村元服に関して「相州(義時)鍾愛の若公」と記している。貞応3年(1224年)、20歳の時に父義時が急逝する。義時葬儀の際の兄弟の序列では、政村と同母弟実泰はすぐ上の兄で側室所生の有時の上位に位置し、異母兄朝時・重時の後に記されている。現正室の子として扱われると同時に、嫡男ではなくあくまでも庶子の一人として扱われている。しかし母伊賀の方が政村を執権にする陰謀を企てたという伊賀氏の変が起こり、伊賀の方は伯母政子の命によって伊豆国へ流罪となるが、政村は兄泰時の計らいで累は及ばなかった。その後も北条一門として執権となった兄泰時を支える。3歳下の同母弟実泰は伊賀氏事件の影響か、精神のバランスを崩して病となり、天福2年(1234年)6月に27歳の若さで出家している。延応元年(1239年)、35歳で評定衆となり、翌年に筆頭となる。宝治元年(1247年)、43歳の時に21歳の執権・北条時頼と、政村の烏帽子親だった三浦義村の嫡男三浦泰村一族の対立による宝治合戦が起こり、三浦一族が滅ぼされるが、その時の政村の動向は不明。建長元年(1249年)12月に引付頭人、建長8年(1256年)3月に兄重時が出家し引退したため、兄に代わり52歳で連署となる。建長8年(1256年)より幼年の得宗後継者北条時宗の中継ぎとして6代執権となっていた甥の北条長時が病で出家したため、文永元年(1264年)7月、得宗家の後継者で、それでもまだ14歳である若年の時宗の代わりに60歳の政村が8月に7代執権に就任した。時宗は連署となり、北条実時・安達泰盛らを寄合衆のメンバーとし、彼らや政村の補佐を受けながら、幕政中枢の人物として人事や宗尊親王の京都更迭などの決定に関わった。名越兄弟(兄・朝時の遺児である北条時章、北条教時)と時宗の異母兄北条時輔が粛清された二月騒動でも、政村は時宗と共に主導する立場にあった。二月騒動に先んじて、宗尊親王更迭の際、奮起した教時が軍勢を率いて示威行動を行った際、政村は教時を説得して制止させている。文永5年(1268年)1月に蒙古国書が到来すると、元寇という難局を前に権力の一元化を図るため、同年3月に執権職を18歳の時宗に譲り、64歳の政村は再び連署として補佐、侍所別当も務める。文永10年(1273年)5月に常葉上人を戒師に出家し、常盤院覚崇と号し、同月に69歳で死去。和歌・典礼に精通した教養人であり、京都の公家衆からも敬愛され、吉田経長は日記『吉続記』で政村を「東方の遺老」と称し、訃報に哀惜の意を表明した。『大日本史』が伝えるところによると、亀山天皇の使者が弔慰のため下向したという。連署は兄重時の息子北条義政が引き継いだ。なお、執権経験者が連署を務めた例は他に無い。※日付=旧暦『大日本史』で政村は沈黙温雅な人物と評価されている。若い頃伊賀氏の変に巻き込まれ、謀反人と疑われたことが、慎重で思慮深い性格の形成に繋がったと考えられる。明治の歴史学者田口卯吉は、元寇回避の功績を執権の時宗に帰する評価を批判し、年齢や人脈などの点から日蒙交渉は政村が主導していたと主張し、三浦周行はこれに反証している。高い教養を持ち、公武の協調関係を維持することにも大きく貢献した。京都から幕府に下向し、出仕していた飛鳥井教定、花山院長雅らと交流し、影響を受けた。勅撰集には北条一門の歌が多く入集しているが、政村の歌は四十集入集されている。これは北条一門の中で最多である。川添昭二はこれを傍証として「当時の代表的武家歌人」と評している。文応元年(1260年)10月15日、娘の一人が錯乱状態となり、身体を捩じらせ、舌を出して蛇のような狂態を見せた。これは比企の乱で殺され、蛇の怨霊となった讃岐局に取り憑かれたためであるとされる。怨霊に苦しむ娘の治癒を模索した政村は隆弁に相談し、11月27日、写経に供養、加持祈祷を行ってようやく収まったという。息女の回復後ほどなくして政村は比企氏の邸宅跡地に蛇苦止堂を建立し、現在は妙本寺となっている。このエピソードは『吾妻鏡』に採録されている話で、政村の家族想いな人柄を反映させたものだと評されている。

出典:wikipedia

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