北上市(きたかみし)は、岩手県南西部に位置する市。北上市は、人口約9万人超を擁しており、県内では盛岡市、一関市、奥州市、花巻市に次いで5番目に多い。県南広域振興圏に位置し、双子都市である花巻市と共に北上都市圏(北上・花巻都市圏)を形成している。昭和30年代までは典型的な農業地域であったが、その後、比較的早い時期から企業誘致に取り組み始めた。東北自動車道・東北新幹線の整備に続き、秋田県横手盆地、そして秋田港へと繋がる秋田自動車道が開通すると、東北道と秋田道の結節点として、岩手・秋田2県にまたがる流通の重要拠点の地位を得た。多様な流通選択肢が得られる立地により現在、180社以上もの企業を誘致し、東北有数の流通・工業集積地に成長した。商業都市としての側面が強い県都・盛岡市とは対照的である。人口が減少する市町村が多い中で、北上市は岩手県の中でも数少ない人口増加地域である。近年は、北上駅周辺に相次いでマンションやホテルが建設されており、都市景観も変貌した。そのため、県内でも教育機関や学生が比較的に多く見受けられ、いわゆる学園都市としての姿もある。旧・北上市は、昭和の大合併のときに新設された市で、「北上」の名称は北上川や北上盆地にちなむ。現在の中心部を成す旧・黒沢尻町にちなみ、現在も黒沢尻と称することがある。また、平成の大合併に先駆けて、1991年(平成3年)4月1日、旧・北上市、旧・和賀町、旧・江釣子村の1市1町1村で対等(新設)合併がなされ、新・北上市となった。そのため、平成の大合併において北上市の事例は多くの市町村・合併協議会で手本とされ、比較検討の材料とされた。岩手県の南西部にあり、北上盆地においては中央に位置する。県庁所在地の盛岡市へは約45km、仙台市へは約138km、秋田市へは約107km、東京には約490kmである。地勢は、中央部に北上盆地が広がり、東部が北上山系の丘陵地、西部には奥羽山系の山々が連なる。平野部の東端を南流する北上川と市の中央部を東流する和賀川が合流し、田園地帯を潤す。標高は、平野部で約50〜200m、東部丘陵地で約200〜400mである。東日本の太平洋側の気候区に属しているが、奥羽山系と北上山系に挟まれているため内陸性の気候の特性でもある。日本海側の気候の影響を受けやすく積雪量も比較的多い。1月の降雪量の平年値は125センチで、同月の盛岡市の降雪量の約1.5倍、県南の一関市の約2倍である。冬は寒いが、北上のアメダスは市街地に設置されているために、冬の最低気温は周囲の花巻や江刺に比べると、かなり高い傾向となり、1月の平均最低気温は-4.8℃で三陸沿岸の大船渡(-2.7℃)、釜石(-3.1℃)、宮古(-3.8℃)、種市(-4.5℃)と一関(-4.2℃)についで岩手県内の気象観測地点中では6番目に高い。また8月の平均最低気温は20.2℃と一関(20.4℃)についで県内全地点で2番目に高い。この地は水の便に恵まれ、縄文の昔から大規模な集落が作られている。平安時代初頭、アテルイを倒した坂上田村麻呂により当地は中央政府の支配下となる。また現在の北上市稲瀬町(旧・江刺郡)に国見山極楽寺が築かれ、山岳仏教の拠点として栄える。その後、奥六郡の俘囚長である安倍氏の支配下となる。安倍氏は和賀郡に黒沢尻柵(別名・安倍館)を築き、前九年の役の戦場となった。安倍氏ののち奥州藤原氏の勢力下となる。初代清衡が陸奥特産の馬や砂金、漆などを京の都に運んだ道と伝わるあづま海道(清衡古道)や、三代秀衡が鷲の巣金山(西和賀町)から平泉まで金を運んだ街道と伝わる秀衡街道(奥州山道)などが残されている。平泉・藤原氏滅亡後の370年間は、鎌倉御家人を祖とする和賀氏が支配することとなる。南北朝の争乱では和賀氏も一族相分かれて争い、南北朝の終わり頃に鎌倉公方から北朝方に属していた和賀一族の鬼柳氏に、和賀一族の惣領権と和賀郡一円の支配権を認める辞令を得て大名格となり、惣領職によって天正年間に至るまで統率されることとなった。安土桃山時代の天正18年(1590年)、和賀氏は小田原の陣に参陣しなかったことで、豊臣秀吉による奥州仕置によって所領没収、城地追放の処分がなされたが、葛西氏、和賀氏ら在地領主は葛西大崎一揆、和賀・稗貫一揆を起こして対抗するものの、仕置軍の前に制圧され没落した。南部氏当主である南部信直は一揆平定に功を上げ、和賀郡と稗貫郡を与えられる。一方、一揆を扇動した疑いのある伊達政宗には、胆沢郡など葛西氏の旧領が与えられた。関ヶ原の戦いの際、伊達政宗は改易された和賀氏の一族和賀忠親を支援して、南部領花巻城を攻めさせた(岩崎一揆)。しかし、和賀・伊達連合軍はこの戦いに敗れ、戦後、和賀忠親は仙台領・陸奥国分寺で暗殺された。伊達政宗は一揆扇動の失敗により、徳川家康に“100万石のお墨付き”を反故にされている。江戸時代には当市の南東部分にあたるかつての胆沢郡相去村、江刺郡福岡村の2村域および江刺郡稲瀬村の一部が仙台藩、それら以外のかつての和賀郡域が南部藩(盛岡藩)の知行地だったため、北上盆地における両藩の藩境の地であり、奥州街道の脇街道である松前道の通る要所であったため"盛岡藩"は鬼柳関所(現北上市鬼柳町町分)を、"仙台藩"は相去番所(現北上市相去町境)を設けて藩領の警備に当たった。 慶長9年(1604年)、中世以来の南北の幹線道路を新たに奥州街道として切替えて、渡河地点である和賀川北岸の"盛岡藩"領黒沢尻村の原野を切り開いて宿駅の機能を整備した。北上川舟運の発展にともなう河港の設置以降、本町には本陣、鬼柳通・黒沢尻通代官所などが置かれ、北上河岸には盛岡〜石巻間の中継地として、御艜奉行所、黒沢尻御蔵、通船改御番所などの藩の施設が置かれた川岸集落が形成された。明治23年(1890年)、日本鉄道(東日本旅客鉄道(JR東日本)東北本線)開通、黒沢尻駅開業により、北上川舟運は急速に哀微した。明治時代の廃藩置県による盛岡県、江刺県、磐井県などの設置、廃止を経て岩手県の誕生した後、いくつかの合併や統廃合を経て、現在の北上市の前身である旧・北上市が誕生するのは昭和29年の事である。現在の法人格としての「北上市」は、1991年(平成3年)の新設合併によって誕生したものである。合併当時、北上市の人口は6万人程度に過ぎなかったが、和賀町(人口1万4,000)・江釣子村(人口9,000)との合併によって、当時県内では盛岡市に次ぐ人口規模となった。この大合併の背景には、秋田自動車道の開通(1991年)がある。東北自動車道とのJCT(結節点)に位置する当地域では、交通の要衝としてのメリットを生かして「内陸部の中核都市」を形成しようという機運がにわかに高まり、合併に至った。これに際して、住民説明会を延べ123回にわたって開催するなど、住民の盛り上がりによる自主的合併を心がけたとされる。この合併は、その後起こる平成の大合併に先立って行われた大規模な合併であったため、その後の大合併で、全国の多くの市町村がモデルケースと仰ぎ、注目を浴びた。合併による行政上の影響については当該項目(#大合併と行政)を参照。市役所は分庁体制を取り、旧北上市役所・旧和賀町役場・旧江釣子村役場をそれぞれ北上市役所本庁舎・和賀庁舎・江釣子庁舎として活用している。住民票・税証明交付、戸籍届出など、基本的な住民サービスは3庁舎どこでも受けることができる。前述したように(→#累次の大合併)、当市は大規模な合併を経験している。その合併時、市庁舎を1箇所に集約せず、旧町村役場をそのまま活用する方式をとったため、市内各所に本庁機能が分散化している。その際、内部的な事務手続きの滞りを防止するため、庁舎間に光ファイバーネットを構築し、庁舎間での事務手続きを簡略化した。また合併後しばらくの間、新規採用者を退職者の2分の1に抑制したことから、平成21年度末現在の人口1000人あたりの市職員数は6.12人(全国平均7.33人、岩手県平均8.26人)となっており、職員数削減で効果が上がっていることが読み取れる。市町村の「憲章」はどこも似通ったものが多いが、北上市の市民憲章はユニークであり、文学性の高いものとなっている。北上市市民憲章(1992年(平成4年)1月5日制定)工業団地が多く、組み立て加工を中心に第二次産業が多い。製造品出荷額は約3,722億円で、岩手県内第2位(2015年・工業統計調査速報)である。近年は、トヨタグループのトヨタ自動車東日本岩手工場(金ケ崎町)の増産に伴い、関連する自動車産業が活性化する兆しが見えている。また、東芝がNAND型フラッシュメモリの新工場を建設し、2010年に操業開始することを表明する(後に延期の発表あり)など、北上市の産業は自動車産業と半導体産業が大きな柱となっていくことが鮮明となった。銀行協同組織金融機関農協・生協郵便局簡易郵便局名所・旧跡祭事北上市域は古くから交通の要衝として栄えてきた地域である。現在市内を東北本線、国道4号が南北に貫き、北上線、国道107号が東西に走っている。さらに東北新幹線(1982年開業)、東北自動車道(1977年開通)や秋田自動車道(1997年開通)など高速交通体系が整備され、首都圏と2時間30分、日本海とは1時間30分で結ばれるなど「東北の十字路」である。主要地方道一般県道漫画小説
出典:wikipedia
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