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板東英二

板東 英二(ばんどう えいじ、1940年4月5日 - )は、日本の元プロ野球選手・野球解説者・タレント・司会者・俳優・実業家・YouTuber。愛称は板ちゃん(ばんちゃん)で、「坂東英二」は誤記である。満州国(現在の中国東北部)虎林生まれの徳島県板野郡板東町(現在の鳴門市)育ち。既婚者で、2女の父親でもある。また、2012年8月31日以降は、鳴門市からの委嘱で「鳴門観光大使」を務めている。プロ野球選手としては、中日ドラゴンズに所属していた。タレントとしては、個人事務所のオフィスメイ・ワーク(メイ・ワーク、メイワーク)に所属(? - 2013年)し社長も務めていた(2000年から2012年までは、スターダストプロモーションと提携)。2014年1月16日からは、吉本興業(厳密には、子会社のよしもとクリエイティブ・エージェンシー)に所属している(なお、1990年代から2000年代頃にも、吉本興業所属または専属タレントと紹介するメディアはあったが、この頃は所属していなかった)。満州の虎林で生まれ、一家は間島省(現・吉林省延辺朝鮮族自治州)図們市で高級料理店を経営していた。4人兄弟の末っ子(姉2人、兄1人)。5歳で引き揚げ。福岡から神戸市板宿に移り、神戸市立妙法寺小学校に入学。入学式の1日だけ行った後、父の復員を知り、父の故郷である徳島県板野郡板東町に移り、当時あった板東俘虜収容所内の引き揚げ者用住宅で過ごす。父親の就業が不安定だった小中学校時代には困窮した生活を送り、食事にも事欠いた。板東中学校入学時に板東はバレーボール部に入り、養蚕農家の手伝いをして家計を助けた。中学2年の時に野球部の先輩から誘いを受けて入部し、遊撃手としてレギュラーを獲得する。3年に進級した板東は野球部のエースとして活躍し、中学時代に61連勝の記録を挙げた。実際に生まれた日は「3月31日」であるが、高校2年の時に甲子園に出るため、引揚で長期間移動していたため就学が遅れたという理由で、裁判所で「4月5日」に変更。このエピソードは、自著「赤い手」にも書かれている。当時は、世間的にもこうした誕生日の変更が行われていた。1956年に徳島県立徳島商業高等学校へ入学。2年生だった1957年には、夏の徳島県大会で徳島県立撫養高等学校(現在の徳島県立鳴門渦潮高等学校)に敗れたため、全国高等学校野球選手権大会への出場は叶わなかった。同年秋から主将に就任。1958年4月に開かれた春季四国地区高校野球大会では、エースとして、対高知市立高知商業高等学校戦で延長16回を完投。翌々日の対香川県立高松商業高等学校戦でも、延長25回を1人で投げ抜いた(この時の高松商業・石川陽造も25回を完投)。準決勝戦・決勝戦合わせて41回を投げ抜いた板東の活躍は、地方紙だけでなく、全国紙でも報道。全国の高校野球のファンからも、一躍注目を受けるようになった。その一方で、この事態を重く見た日本高等学校野球連盟は、延長戦に関するルールを急遽変更。延長18回裏の時点で引き分けの場合には、その時点で試合を終了したうえで、後日に再試合を実施することになった。1958年夏の第40回全国高等学校野球選手権大会では、対秋田市立秋田商業高等学校戦(17奪三振、相手は石戸四六)、対福岡県立八女高等学校戦(15奪三振)での勝利を経て、準々決勝に進出。板東はこの時点で右肩を痛めていたが、富山県立魚津高等学校戦との準々決勝では、延長18回を投げ抜くとともに25個の奪三振を記録した。しかし、魚津の先発投手・村椿輝雄も板東と同じく18回を完投したあげく、0対0で18回を終了。前述した再試合ルールが初めて適用された(魚津対徳島商延長18回引き分け再試合に詳述)。翌日の再試合では、腰の痛みを訴えたことから、麻酔注射を打って登板。3回頃から麻酔が切れたものの、9奪三振で完投勝利を収めるとともに、当時の大会記録64奪三振を更新した。準決勝でも14奪三振で作新学院高等学校に勝利。決勝で山口県立柳井高等学校に敗れたものの、大会を通じて83奪三振を記録した。この大会で樹立した1試合25奪三振および、大会通算83奪三振の記録は、2015年大会の時点でも破られていない。1958年秋に慶應義塾大学のセレクションに合格するが、家庭の事情でプロ入りを決意する。1959年、中日ドラゴンズに入団。同期には江藤愼一、片岡宏雄らがいる。入団2年目の1960年には、オールスターゲームに監督推薦で選出。1961年には、21歳にして開幕投手に抜擢されている(現在も球団最年少記録)。巨人が2000勝を達成した1965年7月25日の試合(中日球場)で先発すると、8回1死まで巨人打線を無得点に抑えていた。しかし、柴田勲に逆転本塁打を浴びて敗戦投手となる。巨人が5000勝を達成した2007年には日本テレビの野球中継で放送されたほか、日テレの子会社であるバップが同年に発売した『ジャイアンツ栄光の5000勝 永久不滅版』に収録された。1966年8月26日の対読売ジャイアンツ戦に中継ぎで登板し、塩原明を1球で打ち取って降板。これによりプロ野球史上2人目、セントラル・リーグ初、日本人投手として初の1球勝利投手に輝いている。1967年には、中継ぎ投手として好調を維持していた。1968年には、シーズン中の6月に、東京大学医学部附属病院での緊急手術で右肘の軟骨を除去。当時のプロ野球選手では前例のない手術だったが、シーズン終盤の9月には一軍へ復帰した。1969年には、一軍公式戦16試合に登板したが、プロ入り後初めて1勝も挙げられなかった。シーズン最後の巨人戦へ登板した直後に、当時の一軍監督・水原茂から、コーチへの転身を打診。さらに、球団が自身を任意引退選手として扱うことを新聞で知ったため、コーチへの就任を前提に現役引退を決断した。しかし、後に球団内の人事異動で、板東と折り合いの悪い人物が現場のトップへ就任。そのあおりで、コーチへの就任は幻に終わった。さらに、球団からスカウトへの転身を勧められたが、「自分に合わない」という理由で固辞した。1970年より中部日本放送(CBC)の野球解説者へ就任(1980年まで専属契約)。1974年当時野球解説をしていたCBCラジオで、昼ワイド番組『ばつぐんジョッキー』の月曜パーソナリティを担当し、木曜パーソナリティ上岡龍太郎と中日対阪神で盛り上がる。名古屋で野球解説を担当していた時代は数多くの事業に手を出し、不眠不休の生活を送っていた。しかし、1979年のシーズン途中に、CBCから野球解説者としての契約を解除(詳細後述)。プロ野球中継以外のレギュラー番組からも一斉に降板したため、タレント活動の拠点を関西へ移した。ただし、CBCとの縁が切れたわけではなく、以降もタレントとしてテレビ・ラジオ番組への出演を継続。プロ野球中継にも、スポット契約扱いで随時出演していた。タレント活動が全盛期だったころは、毎日放送(MBS)の解説者として契約しながら、出演はゲスト扱いの1試合のみ、という年もあった(MBS解説者としての活動開始は1984年)。活動が落ち着いてきた2000年代以降は他の解説者同様に出演するほか、2003年以降はニッポン放送とも契約し、達川光男(2009年まで)同様関東・関西をまたにかけ活躍していた。板東は1988年に、国税庁の確定申告PRポスターのキャラクターに起用。また、名古屋市に住民票を置いていることから、確定申告の期間中に名古屋国税局へ出向く姿が東海地方を中心に毎年報じられてきた。2007年には、同国税局から感謝状を贈られている。しかし、名古屋国税局は2012年に、「オフィスメイ・ワーク」(かつて板東が役員も務めた事実上の個人事務所)へ税務調査を実施した。その結果として、2011年8月期までの7年間にわたって、約5000万円の所得を名古屋国税局に申告していなかったことが判明。所得隠しを含めた申告漏れの総額が約7500万円にのぼったことから、同事務所ではその事実を認めたうえで、ただちに修正申告と追徴税の支払いで対応した。名古屋国税局では、板東自身の指示で所得隠しを続けていた可能性を指摘。TBS News iなどでは、「架空発注などを含む悪質な所得隠し」と報じた。しかし、2013年8月10日には、観光大使を務める地元の徳島県鳴門市で開催の阿波おどりイベントにゲスト出演。前述の申告漏れ報道以来約8か月振りに、公の場へ姿を見せた。さらに、自らの個人事務所であったオフィス・メイワークを閉鎖したうえで、11月10日に大阪市内で記者会見を開催。前述の申告漏れ問題を釈明すると共に、一連の経緯に関する事情説明が遅れたことなどを公式に謝罪した。名古屋国税局から申告漏れを指摘された背景については、公私にわたる金銭の管理をオフィス・メイワークのスタッフ1名に任せていたことや、過去に20年ほど続けていた頭部への植毛に対する税務上の「経費」の扱いで国税当局と認識の違いがあったことを明かしている。2013年11月23日に、インターネットテレビ番組『めちゃ×2ユルんでるッ!』(ゼロテレビ)へのゲスト出演によって、芸能活動を事実上再開した。同年12月9日には、ラジオ番組『吉田照美 飛べ!サルバドール』(文化放送)のスタジオゲストとして、活動再開後初めて地上波での生放送およびラジオ番組に登場。前述の記者会見で明かした植毛のきっかけについて、最初に行ったのは20数年前の俳優活動中で、当時両面テープを使って行ったことを明かしている。同月25日の未明には、『明石家サンタの史上最大のクリスマスプレゼントショー』(フジテレビ)の生放送中に、明石家さんまへの電話を通じて地上波のテレビ番組へ1年振りに出演した。オフィス・メイワークの閉鎖後はフリーランスで活動していたが、2014年1月16日付で、さんまの所属する吉本興業(よしもとクリエイティブ・エージェンシー)への所属が同社から発表された。この所属については、「活動の場を広げたい」という本人の希望に加えて、さんまや島田紳助(吉本興業への所属を経て2011年8月23日に芸能界を引退)からの後押しも決め手になったとされる。先述発表の際に、「所属事務所(オフィス・メイワーク)の所得の申告漏れに関して、世間をお騒がせし、応援して頂いている皆様や、関係各社様にご迷惑をお掛け致しましたことを、深くお詫び申し上げます。今後はよしもとクリエイティブ・エージェントに所属し、同じ過ちを繰り返すことなく、芸能活動も再開できればと思っております」とのコメントを寄せた。2014年2月2日には、ナゴヤドームで開かれたSKE48のコンサートで、名古屋城をかたどった正面ステージに戦国武将の姿で登場。「御心配をお掛けしました」と謝罪したうえで「開幕宣言」を述べた。同月には、関西テレビが制作するさんまの冠番組『さんまのまんま』(同局15日放送分)にゲスト出演。この番組で、吉本興業所属後初めて地上波のテレビ番組に登場した。MBSの番組には、4月13日・20日放送分の『MBSヤングタウン日曜日』(事前収録)、同月25日(金曜日)放送分の『上泉雄一のええなぁ!』(生ワイド番組、いずれもMBSラジオ)に相次いでゲスト出演。5月9日には、『5時に夢中!』(東京MXテレビ)のゲストコメンテーターとして、テレビの生放送番組にも本格的に復帰した。また、サンケイスポーツの野球評論家として、不定期ながら観戦記の寄稿を再開している。このように、在京キー局以外の地上波民放局が制作するテレビ番組では、徐々に出演の機会を増加。2014年10月からは、『バラいろダンディ』(東京MXテレビ)の火曜日でレギュラーコメンテーター(火曜ダンディ)を務めている。ただし、前述した『さんまのまんま』の板東が出演した回は、ネット局のフジテレビ(関東広域圏)では放送されなかった。TBSでも、衛星放送(TBSチャンネル)で以前から不定期に放送している『金曜日の妻たちへ』シリーズを、脱税発覚後は板東が出演していない第1シリーズに限って再放送を繰り返している。その一方で、ラジオ番組については、2014年のナイターオフ編成からMBSラジオで『板東英二のおばあちゃんと話そう』のレギュラー放送を再開。また、ラジオ関西で新しい冠番組『板東・板東・晴れ・板東!』が始まったほか、『師岡正雄 サタデーショウアップスポーツ』(ニッポン放送)内で「板東英二のプロ野球バンバン伝説」というレギュラーコーナーを持つようになった。2015年には、『バラいろダンディ』の特別企画で、マルタ国際マラソン(2月22日開催)のウォーカソン(ウォーキング&マラソン)部門に日本人最年長の74歳で出場。21kmのコースを完走した。3月12日には、芸能活動再開後初めての著書『板東英二の生前葬』を双葉社から発売。5月29日には、『MBSベースボールパーク』(MBSラジオ)の西武ライオンズ対阪神タイガース戦(西武プリンスドームのナイトゲーム)中継で、ゲスト扱いながら野球解説者としての活動を本格的に再開した。 2016年からはかつて野球解説者として出演していたニッポン放送のプロ野球中継 『ニッポン放送ショウアップナイター』のゲスト解説者として不定期ながら出演している。中日の投手時代に「十姉妹(ジュウシマツ)」と呼ばれたほどの饒舌振りが評価されて、現役引退を機に、CBCの野球解説者へ就任。また、「漫画トリオ」を解散したばかりの上岡龍太郎と知り合ったことを機に、『ばつぐんジョッキー』『オー!サンデー!』(いずれもCBCラジオで放送された生ワイド番組)のパーソナリティを務めた。野球解説者としての契約の解除を機に、CBCのレギュラー番組を全て降板した1980年からは、上岡や漫画トリオ時代の相方・横山ノックを頼ってタレント活動の拠点を関西へ移した。素人同然の話術で当初は苦戦したが、「何もなくても、大声を出しながら一生懸命やっていれば、他人に『面白いことを言っている』と錯覚させることができる」という上岡のアドバイスで、漫談や上岡との漫才にも挑戦。やがて、『THE ビッグ!』シリーズ(ABCテレビ制作の視聴者参加型ビンゴゲーム番組)のメインMCとして「ビンゴブーム」に大きく貢献するなど、在阪のテレビ・ラジオ局でも数々のレギュラー番組で人気を博した(詳細後述)。ちなみに、上岡が板東を関西に呼び寄せたのは、前述の事情とテレビ局スタッフから「面白いタレント居らへんか?」というオファーがあったことによる。そのような経緯から、板東は上岡のことを「恩人であり師匠でもある」と語っている。なお、関西からの東京進出で全国的に知名度が上がってからは、名古屋からも番組やイベントへの出演依頼が再び舞い込むようになった。東京にも進出し、本格化していた芸能活動が落ち着いたかに見えた2000年代後半。明石家さんまらとのゴルフから生まれた名言「勝ちたいんや!」に代わり「売れたいんや!」と、本人曰く「再ブレイク」すると宣言。現役時代やゆで卵に関するエピソードらを引っ提げて2008年頃からテレビ出演が増えだし、再ブレイクを果たしていた。2008年3月12日放送の『クイズ!ヘキサゴンII』(フジテレビ)で、司会者の島田紳助、同チームの渡辺正行、別チームで水落ち担当の優木まおみに薦められて水に落ちる最高年齢記録を更新したが、3か月ほどで村田満に更新されてしまった(2008年8月6日放送で初共演した)。2009年3月12日、毎日放送で番組の収録をしていた時、新譜の告知で同局を訪れていたMr.Bigのボーカル、エリック・マーティンに、サインを頼まれる。ものまねタレントの大平シロー、コージー冨田、松村邦洋、かみじょうたけしなど多くの人にものまねされている。なかでも、かみじょうのものまねは板東英二本人が公認しているほどである。1979年8月から『THE ビッグ!』のメインMCを担当。「ビンゴシュート!」の掛け声とともに投球フォームを披露した。1980年代の土曜昼に放送されていた『ノンストップゲーム』(関西テレビ)では司会として、横山ノックや桂文珍と共に人気を博す。1983年、フジテレビ主催の「第12回 日本放送演芸大賞」で、最優秀ホープ賞を受賞している(ホープ賞はコント赤信号、片岡鶴太郎、桂文福、斎藤ゆう子、三遊亭小遊三、山田邦子で、大賞はタモリが受賞しているなど、逸材が揃っていた)。1980年代から2001年ごろまで、クイズ番組に司会および解答者として多く出演(『クイズのりもの講座』、『わいわいスポーツ塾』、『マジカル頭脳パワー!!』、『スーパークイズスペシャル』、『クイズ!純粋男女交遊』など)、解答者の意見を一方的に遮断する威圧的な司会術で人気を博す。特に『マジカル』では、相方の永井美奈子やパネラー達との絶妙なやりとりが人気となり、ピーク時には毎週20%を超え、時には30%台に達することもあるなど驚異的な高視聴率番組となり9年間という長期続くロングラン番組となった。期間が長かったこともあり最終回では通常通りこなした司会であったが、打ち上げでは号泣したという。番組内容によって関西弁と標準語を使い分け、自身が司会を務めるクイズ番組では標準語を使うことが多かった。『マジカル』終了後は、クイズ番組の司会者としての仕事はあまりない。元スポーツ選手で引退後に芸能界に進出し、クイズ・バラエティ番組の司会者で成功したのは板東ただ一人であり、「元野球選手で天下を取った男」として一役全国区となった。1984年に児玉清が盲腸の破裂による急性腹膜炎で入院した結果、司会を務める『パネルクイズ アタック25』(朝日放送)に出演できなくなった時、板東が代理司会として10月14日と28日の2週にわたって抜擢されたことがある。その他、『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』(日本テレビ)でも、当時胃ガンで休養→死去した逸見政孝の代理司会を担当したこともある。板東は後年『クイズ!紳助くん』(朝日放送)で行われた『アタック25』のパロディに解答者として出演している。自身と同じ徳島県出身の脚本家・鎌田敏夫による発案で、1984年には、鎌田の脚本による『金曜日の妻たちへII 男たちよ、元気かい?』(TBS)で俳優デビュー。板東自身は「(ワンシーンに出演する程度の)チョイ役」のつもりで出演依頼を引き受けたが、実施には篠ひろ子の相手役として、レギュラー出演を果たした。翌1985年には、『毎度おさわがせします』に中山美穂の父役、金妻シリーズの第3作目『金曜日の妻たちへIII 恋におちて』(いずれもTBS制作)にも小川知子演じる山下由子の夫(山下宏治)役で出演した。同局制作の連続ドラマでは、2007年にも、『華麗なる一族』(TBS)第4話に水谷通産大臣役で登場。2009年3月で放送が終了した『ひるドラ』の『オーバー30』(中部日本放送制作分)と、『愛の劇場』の『大好き!五つ子完結編』(TBS)という、TBS系の2つの帯ドラマの最終作品にもレギュラーで出演した。1989年には、向田邦子原作の映画『あ・うん』で高倉健と共演。自身も、同年の第2回日刊スポーツ映画大賞で助演男優賞、翌年の第13回日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞している。高倉とは、その後も『四十七人の刺客』『鉄道員』でも共演した。演じている役のほとんどが関西出身者と設定されている関係で、俳優としては関西弁で演技することが多い。『金曜日の妻たちへIII 恋におちて』第3話「いっちゃん好きや!」では、妻役の小川による不倫を許すシーンにおいて、「(『一番好きだ』という意味の関西弁である)いっちゃん好きや!」という台詞をアドリブで連呼。放送後には一時、「いっちゃん」が流行語になった。板東は、このアドリブについて、「(台本にあった)『お前のことが一番好きだ』という台詞が、関西の人間にはこそばゆく感じられるので、自分流に『いっちゃん好きや』と言った。台詞の棒読みしかできないような人間が口にした言葉が、たまたま人気になるんだから、『世の中ええ加減(いい加減)なもんや』と思った」と述懐している。1993年4月から9月までは、NHK連続テレビ小説『ええにょぼ』(NHK大阪放送局制作)において、戸田菜穂が演じるヒロイン・朝倉悠希の父親・源太郎役を演じていた。同月9月18日(土曜日)には、『ええにょぼ』第144回(源太郎が末期の癌で息を引き取る回)を放送した直後に『土曜大好き!830』がスタート。板東は、オープニングにアップの映像で登場すると、にこやかな表情で視聴者に向けて『ええにょぼ』での臨終シーンを報告した。その一方で、2010年にワンシーンだけ出演した映画『きな子〜見習い警察犬の物語〜』の舞台挨拶では、17回もNGを出したことを監督から暴露された。1980年代、『それゆけ金曜!!板東英二』(毎日放送)の放送が始まると毎週、実の母親から放送局に苦情の電話が入っていた。内容は、「板東の母です!」「お願いですから英二を黙らせて下さい!」「あの子はホンマに嘘ばっかり吐いて…」「英二の言う事は信じんといて下さい!」「皆さんにはご迷惑ばっかりお掛けしまして」といったものであった。あまりにしつこいのでスタジオに繋いだ事も複数回あり、放送中に板東は怒られ、共演者はひたすら謝られていた。この頃、電話コーナー「おばあちゃんと喋ろう」がスタートする。1990年代後半になると、テレビでニコニコしながら司会を務める「良い板東さん」と、おばあちゃんから物をせびったり、他人の悪口を放送で言う「悪い板東さん」というキャラクターが、一時期定着しかけるが、「どっちも俺やから!」の一言でこの呼称は消えた。プロ野球・芸能界の双方で一定の実績を残していることから、幅広い交友関係を持つ。プロ野球関係者では、自身と同学年の王貞治や、中日時代のチームメイトだった権藤博・星野仙一らと仲が良い。また、自身は政界から距離を置きつつも、同郷の政治家・後藤田正晴から知遇を得ていた。王との間には、年齢が同じであることに加えて、「高校時代に投手として甲子園の全国大会で活躍」「高校からの卒業を機にセントラル・リーグの球団へ入団」「同リーグの一軍公式戦に1年目から出場」といった共通点がある。ただし、高校野球時代には両者と対戦していない。星野は、板東より年齢が7歳も年下(学年は6つ下)であり、中日の先輩後輩にも関わらず、板東は星野のことを「監督!」と呼び、敬語でしゃべる(板東は著書の中で、星野の人となりについても「闘志あふれる男と言われるがあれは星野の実像ではない。交代も自分から替えてくれと言った方が多いのではないか。ホントは気の小さい男なのだ」「巨人相手に投げるのが生き甲斐だなんて言っているが広島戦の方がよっぽど一生懸命投げていた。その方が勝星につながるからだ」などの記述が見られる)。また、星野は板東に対し「板ちゃん」と呼び、敬語を使わない。王に対しては同学年のライバル・親友であることから「王監督」とは言っておらず、「王」と呼び捨てにしている。金妻シリーズや『金曜日には花を買って』『毎度おさわがせします』で共演した篠、香坂みゆき、佐藤B作とは、現在に至るまで親交が深い。後に司会を務めた『土曜大好き!830』(関西テレビ)で、香坂は女性アシスタントとして板東とタッグを組み、篠はこの番組の第1回と最終回の放送で記念ゲストとして、B作もこの番組のゲストとして何度も迎えられている。また、『あ・うん』への出演をきっかけに、高倉とも25年以上にわたって交流。高倉から折に触れて、高級腕時計、花束、直筆の手紙を贈られるほどの間柄にまで発展した。高倉の逝去(2014年11月10日)直後にゲスト出演した番組や、2015年発売の著書『板東英二の生前葬』では、高倉との公私にわたる交流や秘話を披露している。10歳年下の和田アキ子にも「板ちゃん」と呼ばれている(和田は芸能人としては先輩)が、板東は和田を「アッコ」と呼んでいる。年下である明石家さんまや島田紳助などからは「板東さん」と呼ばれるが、同じ年下であるやしきたかじんなどからは「板ちゃん」と呼ばれている。黒柳徹子とは『世界・ふしぎ発見!』(TBS)で初めて共演したが、始めから黒柳を「オバン!」呼ばわりし(関西弁で「おばさん」という意味。黒柳曰く、神戸出身ながら「オバハン!」を聞きなれないため、こんばんはの意味の「おばん」と解釈した)、黒柳を驚かせたという。「オバン!」以外には「お母さん」と呼ぶこともある。黒柳は、関西での板東の番組のゲストに名乗り出ることもあり、正しくない関西弁で板東の素顔を語っている。黒柳は、野球に対する知識がまったくないが、内容を吟味しているのか、会話が混乱することはない。島田紳助が駆け出しのころ、板東のラジオに出演した際破格のギャラを提示し、躊躇う紳助に対し「売れて返してくれたらいい」と答え、紳助は意気に感じたという。その後、珍プレー特集の司会者として長年紳助と共演した。明石家さんまとも意外にも長年交流が深く、さんまが板東本人のものまねを披露したり、プライベートでよくゴルフを一緒にすることや「痛快!明石家電視台」「さんまのまんま」「恋のから騒ぎ」「踊る!さんま御殿」「さんまのSUPERからくりTV」「明石家マンション物語」「明石家ウケんねん物語」「明石家サンタの史上最大のクリスマスプレゼントショー」など、数え切れないほどのレギュラー・単発特番含めさんまが司会の番組へスタジオ・VTR・ロケ問わずゲスト出演している。2000年に元付き人で、自分の番組で共演もしていた桂春彦から7億円を脅し取られそうになったが、春彦が逮捕されて未遂に終わった。CBCの野球解説者だった1970年代後半には、東海地方における板東の人気を「少なくとも50万票の獲得が見込める」と評価した自民党が、板東に対して国政選挙への出馬を要請。2,000万円もの選挙資金を用意したり、当時の内閣総理大臣で総裁でもあった福田赳夫との面会の場を設けたり、名古屋で開いた総決起集会の司会を板東に任せたりした。板東自身も、「事業で抱えた借金を選挙資金で返せる」という思惑を持ちながら、出馬に意欲を見せていた。しかし、板東から相談を受けていた当時のCBC報道局長や、家族からの諌言(詳細後述)によって出馬を断念。板東自身は、この一件を機に、政界から距離を置くことを一貫して表明している。その一方で、1983年の第37回衆議院議員総選挙の最中には、当時の内閣官房長官で自民党から出馬していた後藤田の選挙事務所を突如訪問。「『後藤田と面識がある』と思われれば、視聴者が自分のことを見直すだろう」という打算の下に、自身の番組に後藤田を出演させようと秘書に交渉した。板東自身が後藤田のライバル・三木武夫と同じ徳島商業のOBであることから、「三木陣営のスパイではないか」と警戒した秘書は、板東に対して後藤田陣営の総決起大会での応援演説を依頼。結局、投票前日(土曜日)に徳島市民会館で開かれた大会で、満員の観衆を前に演説する羽目になった。後藤田自身も、「前述の交渉での約束を果たしたい」という理由で、選挙の数年後に『板東英二のわがままミッドナイト』(徳島県内の大半の地域でも視聴できたMBSテレビ土曜深夜の生放送番組)を放送中の毎日放送千里丘放送センターを突然訪問。秘書すら連れず、土曜日の深夜に同センターを訪れた後藤田を、板東は急遽スペシャルゲストとして同番組に迎えた。後藤田の逝去後に刊行された追悼文集には、歴代の内閣総理大臣や衆議院議長を初めとする政官界の重鎮の寄稿とともに、板東の追悼文も掲載されている。もっとも、三木は生前、板東の東京の自宅近辺に居住していた。そのため、板東が三木の妻・睦子と会った際には、後藤田との関係を知る睦子から直々に「裏切り者」と呼ばれたという。1984年に、当時のプロ野球や自分の現役時代の裏話を集めた『プロ野球知らなきゃ損する』『プロ野球これだけ知ったらクビになる』を執筆。それぞれその年の1位、2位のベストセラーとなり、以後人気シリーズとなる。ちなみに、著書の執筆やスポーツ紙への寄稿に際しては、ゴーストライターを一切使わないことを強調している。これは、自分を事実上の中日初代リリーフエースに育て上げてくれた近藤貞雄にも、「自分で書かないとボケますよ」とのアドバイスを送っている。1974年、CBCラジオ『ばつぐんジョッキー』に当時愛知県在住の大学生だった山本正之が「燃えよドラゴンズ!」を録音テープで投稿し大きな人気を呼んだため、急遽番組企画としてレコードを吹き込んだところ、中日の優勝も相まって大ヒットを記録した。未だに同球団の正式な球団歌は知らなくとも、この歌は知っているというドラゴンズファンは多い。同曲は、現在では、準球団歌的な扱いとなっており、歌の中に選手名が織り込まれている事もあって、折々に新しいバージョンがリリースされている。板東はオリジナル版のほか、1982年版、2000年版も歌っている。この間、中日の本拠地が中日球場→ナゴヤ球場→ナゴヤドーム(1997年から)と2度変わっているが、そのバージョンを歌ったのは板東と作詞作曲者である山本正之の2人のみである。その他、1984年には上岡竜太郎・香月美保子との共演で「よくある酒場の物語」を発売している。中日への入団1年目から、いわゆる「サイドビジネス」を多々手掛けている。板東によれば、南海ホークスとのオープン戦で打席から杉浦忠の投球を目にした瞬間に、野球選手としての限界を悟ったことがきっかけになったという。板東自身はその年の一軍公式戦で4勝を挙げたが、同期で入団した選手がシーズン中に次々と退団する姿に危機感を募らせたあげく、「いつ野球を辞めてもいいように、やれることは何でもやろう」と決意。実父が自身の契約金の大半を株式投資に注ぎ込んで多額の損失を出したこともあって、「株で損した分は株で取り返そう」という姿勢で、自身もシーズンの終了を機に株式の取引を始めた。さらに、タイトーの名古屋支店長と知り合った縁で、同社が扱っていた外国製の中古ジュークボックスの訪問営業にも着手。南紀白浜(和歌山県)などの温泉街にある旅館や喫茶店へ自ら売り込んだ末に、自身の予想を上回る利益を得た。しかし、ジュークボックスのメンテナンスをめぐって売り込み先からの苦情が殺到したため、早々に手を引いた。中日2年目のシーズン中には、関西圏での試合の際にチームで宿泊していた竹園旅館(兵庫県芦屋市)の近辺で営業していた牛乳店が、店主の高齢化によって廃業することを聞き付けた。そこで、当時牛乳業界に従事していた実兄を通じて、その店の営業権を取得。実兄に店舗の営業を任せながら、自身も関西へ遠征するたびに牛乳の宅配を手掛けていた。もっとも、営業環境の悪化から、後に廃業を余儀なくされている。中日時代の後年には、名古屋市内に1億円の自己資金で4階建てのビルを建設するとともに、ビル内でサウナ、ナイトクラブ、麻雀荘、割烹を経営。試合の合間を縫って早朝から深夜まで働いていたが、手抜き工事に起因するビルの雨漏りや、地下水の汲み上げによる地盤沈下などに見舞われた。結局、胆汁が出なくなるほどの過労で入院を余儀なくされたことから、約2億5,000万円でサウナの常連客にビルを売却した。ちなみに、引退後の出演番組や著書では、笑い話を交えながらたびたび当時の失敗談に触れている。現役引退直後の1970年代前半には、名古屋を拠点に野球解説者やタレントとして活動するかたわら、中日球団からの承認の下に野球帽、マスコット人形、ユニフォーム柄のパジャマを販売。いずれも、日本のプロ野球球団で初めての公認グッズとされている。一時は、中日がナゴヤ球場でホームゲームを開催するたびに、「中日のマスコットキャラクターを描いたビニール入りの座布団を保証金方式で観客に貸し出す」というサービスを球場内で提供していた。「試合後の回収と連動した座布団の反復利用」を念頭に置いたサービスだったが、マスコットキャラクターを描いたグッズ自体が珍しかったことから、試合後に座布団だけを持ち帰る利用者が続出。ナゴヤ球場のスタンドに屋根がないにもかかわらず、雨や水に弱い紙を座布団のベースに使ったことも災いして、このサービスは早々に頓挫したという。1990年代からは通信販売事業を開始。最初は通信販売番組に出演するだけだったが、後に運営にも携わった(詳細後述)。また、かつては、大阪市の西天満に建つビルを所有。自動車では日産・プレジデントやトヨタ・istを購入したという。しかし、前述の不祥事でオフィス・メイワークを閉鎖したことを機に、所有するビルを知人に売却した。『めちゃイケてるッ!』(フジテレビ)の1コーナー「やべっち寿司」に出演したときに、カレービビンバを食べて「これは商品化したほうがいい!」と本気で矢部に勧めていた。大阪滞在時は「お前の店高いねん!」「ボッタクリやで!」と言いつつ、仲の良いリリアンの店に飲みに行き、カラオケ(2009年4月時点では吾亦紅)を練習している。東京・名古屋・大阪で野球解説者やタレントとしての活動を幅広く展開していた関係で、名古屋市内で自宅を構えるほか、東京と大阪にも住居を構えている。ただし、所属事務所およびサイドビジネスの拠点を大阪に置く一方で、家族は東京に住んでいる。奥さんは「神聖にして侵すべからずですから」と語り、名古屋の自宅に帰るのを嫌がっている。所得隠し問題が発覚するまでは、東京・名古屋・大阪間を頻繁に往復。さらに、講演活動などで日本各地を飛び回るなど、多忙な生活を送っていた。2010年2月に『関ジャニ∞のジャニ勉』(関西テレビ)にゲスト出演した際には「新幹線で1週間に東名阪を3往復している」「(仕事の調整のため)東名阪にそれぞれマネージャーがいる」と語っている。ちなみに新幹線に乗る際は、必ず「9号車(グリーン車)の15番のD」の席を取ることに決めているという。また、ドラゴンズの投手として活躍した縁から、東海地方では2012年末まで長らくレギュラー番組を持っていた。特に、『そこが知りたい 特捜!板東リサーチ』(中部日本放送)では、毒舌ぶりを発揮しながら東海三県を渡り歩く様子が好評を博していた。タレント活動と並行しながら、野球評論家・野球解説者としての活動も継続。2012年シーズンまで、ニッポン放送・MBSラジオの解説者(いずれも本数契約)とサンケイスポーツ専属の野球評論家を兼務していた。プロ野球公式戦の解説・評論を担当する日には、多忙なスケジュールの合間を縫って、球場で早くから選手・監督や他の解説者を精力的に取材していた。ラジオ中継での解説はおおむね的確だが、試合展開によっては、「もうこんだけ負けてたら聞かんでも良いです!今日は寝ましょう!」「もう帰りたい」などのコメントを発することがあった。さらに、上記の活動に加えて、通信販売の事業を手広く展開。「板東商店.com」(メイワーク運営)や「美味!ニッポン」(テレビ・プラス社との共同運営)などを手掛けていた。テレビ大阪の番組と連動した「美味!ニッポン」では、この番組に関連したブログを執筆するなど、積極的な姿勢で取り組んでいた。また、ドラゴンズで板東の後輩に当たる甲子園優勝経験者の立浪和義は、板東の経営する会社にマネジメントを委託している。ちなみに、2009年夏頃から、テレビ番組へ出演する際には黒ぶちのメガネを掛けていた。板東が発覚時点でレギュラー番組を持っていた放送局のうち、名古屋テレビ(メ〜テレ)・MBSでは、2013年1月から当面の間、冠番組の差し替えや番組への出演見合わせで対応。板東自身が一連の問題について記者会見などで説明責任を果たすことを、復帰の条件に挙げている。なお、上記の放送局よりも早く『そこが知りたい 特捜!板東リサーチ』『板東英二の南山マスターズ2』の休止に踏み切ったCBCテレビでは、2013年2月1日に両番組を打ち切ることを正式に発表。同年1月から『世界ふしぎ発見!』への出演見合わせで対応してきたTBSテレビでは、所得隠し問題に対する所属事務所からの説明がないことを理由に、2013年2月9日付で板東を同番組から正式に降板を決定。同月27日の定例社長会見で発表した。在阪局では、『おはよう朝日です』(板東が火曜日のコメンテーターとしてレギュラー出演)を制作する朝日放送(ABC)が、「不祥事が直接の原因ではない」としながらも2013年4月の番組リニューアルを機に板東を降板させることを発表。不祥事の発覚後も唯一放送されてきた『ベストスコアへの道!板東英二のゴルフ塾』(関西テレビの収録番組)も同年3月末で終了したため、4月以降は板東のレギュラー番組が完全に消滅した。さらに、野球解説者としてラジオの野球中継で出演契約を結んできたニッポン放送・MBSも、2013年シーズンの再契約を保留となったが、当該シーズンは破棄された。MBSでは、「(記者会見などによる事情の説明がない)現状では(中継出演の)オファーを出すことはない」という姿勢を示していた。上記の在阪局では、板東の吉本興業所属直後まで、番組出演再開に対して慎重な姿勢を崩していなかった。もっとも、ABC社長の脇阪聰史は、所属発表直後(2014年1月21日)の定例記者会見で「謝罪会見の内容には納得している。今後(板東が)出演する番組は決まってないが、社としては(出演への)支障がない」「『おはよう朝日です』からの降板は、コメンテーターを交代する時期と重なっただけに過ぎない。出演の再開については、現場のプロデューサーの判断が最も優先される」として復帰に含みを持たせた。MBSでは、社長の河内一友が、移籍発表直前(2014年1月14日)の新春社長会見で「謝罪会見は納得できるような話ではなかった。私たちの方からテレビやラジオで(仕事を依頼する)というのはない」との見解を示していた。これに対して、板東は1月31日に、同局の本社へ出向いて所得隠し問題について同局の番組制作担当役員などに詳しく説明。MBSでは、板東の説明を了承するとともに、「今後の番組出演については、現場単位での判断になる」としながらも板東と事実上の和解に至った。ゆで卵が大好物なことで知られている(著書『ホンネで勝負』にもそのエピソードは綴られている)。ここまでゆで卵を好む理由として、終戦により旧満州から着の身着のままで難民同然に日本へと帰る際、空腹のあまり夜中に中国人の農家の鶏小屋から卵を盗んだが、見つかってしまう可能性があるため火も焚けず、生のまますすり飲むことで命を保った経験から、当時食べたくても食べられなかったおいしいゆで卵に特別の思い入れがある、と読売新聞のインタビューに答えている。『秘密結社鷹の爪』劇場版第3弾の『http://鷹の爪.jpは永遠に』では、新幹線でひたすらゆで卵を食べながらマイペースにつぶやくおじさん役として出演している。声も板東が担当している。世間では「板東英二=ゆで卵」というイメージが強く定着しているが、実は卵かけご飯も同様に好物である。しかし、実際には赤飯の方が好きであることを明かしている。三奈木黒田家の16代当主と、松本健次郎(安川財閥創始者安川敬一郎の次男)の娘の間に生まれた5歳年上の女性・洋子(常陸宮正仁親王と同級生)と、21歳の時に結婚した。ちなみに、「日本におけるカントリー・ウエスタンの先駆け」とされる歌手の黒田美治は、洋子の実兄(板東の義兄)に当たる。結婚のきっかけを作ったのは、板東家が満州で日本料理店を営んでいた時期に、近所で洋服店を営んでいた人物である。この人物は、第二次世界大戦後に東京都台東区柳橋で料亭を開業。高校時代の板東の活躍を知ったことから、板東が中日へ入団した後に、料亭の顧客であった松本と引き合わせた。板東はその際に、長嶋茂雄のファンであった松本から、かかりつけの高名な整体師を紹介。チームの東京遠征中にその整体師から治療を受けるたびに、洋子が同行した縁で結婚に至った。1964年に長女が誕生。結婚に際しては、日本社会党所属の衆議院議員だった健次郎の七男・松本七郎が、板東と洋子の仲を取り持った。その縁で、板東は結婚後に、七郎の選挙運動を応援。後に自身が自民党からの出馬を要請された際には、七郎から反対されたばかりか、洋子から「身辺が騒がしくなるから、実家へ帰らせていただきます」と言われたという。中日の投手から野球解説者への転身に際しては、メジャーリーグ(MLB)の公式戦中継における解説者の話術を、英語に堪能な黒田の和訳を通じて学んだ。板東によれば、「夏場に放送されていたロサンゼルス・ドジャースとサンフランシスコ・ジャイアンツ戦のテレビ中継で、自宅のクーラーが故障した視聴者が、放送中に『クーラーをすぐに修理できる電気店を教えて欲しい』と電話した。実況アナウンサーと解説者が試合そっちのけで電気店に関する情報の提供を呼び掛けたところ、視聴者から大量の情報を集めた末に、『アメリカにおけるMLB中継の歴代最高』とされる視聴率を記録した。その話を黒田から聞かされたことが、リスナーが楽しめそうな解説を心掛けるきっかけになった」という。所得隠し問題の影響で、2013年1月から10月までは、公の活動を自粛。大阪で少年野球を指導していた。現在過去以下の番組については、所得隠し問題の影響で終了・降板。連続ドラマ※ゲスト出演含む。単発・スペシャルドラマ等現在過去※インターネット・アーカイブへの保存キャッシュも含む。

出典:wikipedia

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