福知山市(ふくちやまし)は、京都府北部の中丹地方に位置する、京都市と旧伏見市(現・京都市伏見区)に続いて府下三番目に市制を施行した市である。廃藩置県以前は丹波国・丹後国であった。(唯一丹波国と丹後国にまたがる基礎自治体である。)さまざまな出土品から、少なくとも縄文時代の始め頃から人が住んでいたと考えられており、古くから交通の要衝として栄えた場所でもある。特に16世紀には、織田信長の家臣・明智光秀が、この地方を一族で支配していた有力豪族である塩見信房(横山信房ともいう。本城を横山城とし、猪崎城、和久城、牧城等を支城として一族を配置)を倒し、その居城であった横山城を大修築し福智山城(後の福知山城)としてからは、城下町として栄え、現在でも「鋳物師町」、「呉服町」など地名にその名残を残している。また、光秀は、たびたび大氾濫を起こしていた由良川の治水に成功し、地子銭を免除するなどの善政を敷いたことから、御霊神社に祀られ、現在でも市の花も明智氏の家紋であるキキョウとするなど、光秀への信望は厚い(実際には光秀自身は亀岡城主であり、福知山城主は一族の明智秀満であったとされる)。近世になると、関ヶ原の戦いの論功行賞により有馬豊氏が八万石の禄高で福知山城に入城し福知山藩を開き、その藩祖となる(豊氏は戦功を重ね、最終的には筑後久留米藩に移封される)。その後の藩主は徳川家譜代の大名が転変するものの、朽木氏をもって落ち着く。特産品の藍染などのさまざまな農産品を生産し、それらを扱う商業都市として栄えてきたが、後継者不足などの問題によりそれらの伝統産業は衰退し、現在ではほぼ消滅している。現状としては内陸型工業団地としては比較的大規模な長田野工業団地が1974年(昭和49年)に整備着手がなされたことによる商工業が主な福知山の産業になっているが、かつての伝統と歴史を復活させようとする動きが見られ、総合的な学習の時間で学ばせる教育機関などが結成されている。日本海側気候である。また、旧福知山市・旧夜久野町・旧大江町は豪雪地帯に指定されている。現在の福知山市章は、1938年(昭和13年)12月に公募により二千点近くの中から選ばれ制定されたもので、「ふくちやま」の頭文字である「ふ」をカタカナにし、それを九つ並べて図案化されたものであり、その図案は「フ九」つまり「福」をこの市章は表している。福知山市のイメージキャラクターであり、名前は福知山音頭にたびたび繰り返される「ドッコイセ」という独特のフレーズから由来し、その姿はその踊り子をモチーフにしたものである。旧大江町。ドッコちゃんと並ぶイメージキャラクター。市内にある大江山には酒呑童子が住んでいたとされる鬼伝説があり、商工イベントとしての「鬼まつり」などが開催されるなど親しまれてきている。福知山では鬼を核としたまちづくりが行われ、成田亨デザインの鬼像や、鬼瓦の回廊、鬼の博物館など鬼にまつわるものが多数存在する。福知山観光協会のイメージキャラクター。明智光秀とその正室である煕子がモデルとなっており、忍たま乱太郎の作者で知られる尼子騒兵衛がデザインしたものである。1991年(平成3年)4月1日に制定された市民憲章である。本文には福知山の四季や由良川などが謳われている。綾部市や舞鶴市など周辺の地域を含め、この地では考古学上貴重な資料ともなる大小さまざまな多数の古墳や副葬品などが出土している。福知山市内からは古くは縄文時代初期のころのものが出土していることから、既にそれ以前にはこの地に人が住んでいたことや、多くの有力豪族がこの地一帯を統治していたことが分かっている。福知山市の広峯古墳群のうち広峯十五号墳からは「景初四年」の銘が鋳出された盤龍鏡が出土している(「京都府広峯十五号墳出土品」として国の重要文化財に指定)。しかしこういった遺跡や住居跡などは平安時代初期にかけてまでしか見つかっておらず、こういった勢力は飛鳥時代の終わりごろに滅亡していったと考えられている。平安時代になると摂関家領の荘園として利用されるようになり、後期には天田郡(あまだごおり)のほとんどが荘園として利用されるようになった。鎌倉時代に入ると多数の守護や地頭が送り込まれたために、その荘園もやがて彼らの物に変わっていった。室町時代後期になると、信濃小笠原氏の小笠原長清の末裔とされる小笠原頼勝は、福知山盆地の中央部に位置する「横山」と呼ばれた丘陵地に簡素な空堀と土塁だけで出来た横山城を築きあげた。のちに小笠原頼勝は塩見頼勝と名を改め、その子塩見頼氏が横山城等を拠点としてこの地を統治するようになる。戦国時代に入ると、塩見頼氏は子の塩見信房に横山城を譲り、彼が福知山を統治するようになる。しかし1579年(天正7年)8月に織田信長に丹波平定を命ぜられた明智光秀は横山城を攻め落とし、城主の塩見信房は自害し果て、塩見氏の福知山統治は終焉することになる。光秀は褒賞として丹波の国を与えられ、同時にこの城を城代に命じて大改修を行った。光秀はこの改修後の城を「福智山城」と改め、ここに福知山の地名が誕生する。更に光秀はそれまでたびたび氾濫を起こしていた由良川の流れを改善し、度重なる洪水によって疲弊していた農民に対し地子銭を免除するなど善政を敷き、城下町としての基礎を築いたのであった。そのわずか3年後の1582年6月に光秀は本能寺の変を起こし一時天下人になるも、山崎の戦いにおいて羽柴秀吉に敗れ落命し、明智氏は滅亡する。福知山を含む丹波一体は秀吉の支配下に置かれ親族の杉原家次が治めた。その後、秀吉家臣の小野木公郷(小野木重次、小野木重勝ともいう)が、秀吉の命により福智山城主となり福知山領を統治するようになる。公郷は秀吉の没後、徳川家康と石田三成とが対立すると三成に味方し、1600年(慶長5年)には家康方の細川幽斎が守る田辺城を攻め落城させたが(田辺城の戦い)、関ヶ原の戦いにおいて三成が敗れたことにより逃亡、細川忠興に追い討ちをかけられ自害した。関ヶ原の戦いにおいて大活躍し徳川家康からその功績を認められた有馬豊氏は、横須賀藩(遠江)から石高を大幅に増やしたうえで外様の大大名がひしめく山陰道を、押さえる福智山の地へと転封を命ぜられた。福知山は山陰の玄関口にあたる軍事上枢要の地であり(丹波篠山城と並ぶ)、豊氏に対する幕府の信頼を窺わせる人事であった。中世の小城であった城を現代の規模に拡大改修したのも豊氏である。豊氏は検地を行い、今在でもその名残を残す近代的な町割りを行い、福知山の城下町を築き上げた。こうして福知山市の前身である石高八万石の福智山藩が有馬豊氏によって立藩された。その後、豊氏は大坂の役でも功績を認められ、久留米藩へとさらに加増移封され、小堀政一や伏見奉行などによって統治される。以降、領主は国替えや改易によってたびたび交代がなされるようになった。その間1649年(慶安2年)に福知山藩に入った松平忠房が行った検地は、地租改正が行われるまで福知山の土地制度の基準となったためこれを松平検地と呼ばれる。1669年(寛文9年)に朽木稙昌が移封されてきて、藩政を務めるようになって以後は十三代にわたって朽木家が藩政を務める様になり、朽木家の福智山藩として定着した。朽木家は近江源氏の流れを汲む武門の名家である。藩主が五代目朽木玄綱になると地名を「福智山」から「福知山」に改め、「明智光秀の治水によって水害から救われ、城下町として栄えたのは彼のおかげである」という住民の連署によって御霊神社に光秀の合祀を許したのであった。一方でその後の福知山藩の財政状態は苦しいものであった。建て直しをはかってたびたび財政改革を行おうとするものの、たびたび百姓による強訴が起きるなどにより失敗に終わる。特に享保の大飢饉を発端とするものと、1860年に起きた強訴は大規模であった。廃藩置県により1871年(明治4年)7月14日に福知山藩は撤廃となり福知山県となる。その後豊岡県に統合、分割を経て町村制施行により福知山町が誕生する。このとき日本は日露戦争を控え、京阪神と日本有数の軍港である舞鶴港をつなぐ交通網の普及が急がれたことから、福知山はその中継地点として福知山線と山陰本線の敷設が行われた。同時に旧陸軍歩兵第20連隊は、このときから現在の福知山駐屯地に駐屯するようになる。このとき但馬(丹波)牛の集散地としてや、以前から行われていた由良川河畔での桑の栽培が盛んに行われるようになり軍需産業としても養蚕業が栄え繊維関係での中核地として栄えるようになる。昭和に入ってまもなく福知山の養蚕業は全盛期を迎える。更に福知山町は庵我村・雀部村・下豊富村を編入し、人口が約3万2千人の福知山市が誕生する。このとき福知山市章も制定され、後に福知山市史上初の名誉市民となる福知山出身の芦田均が内閣総理大臣に就任する。しかし時代が進み第二次世界大戦が終わり日本が高度経済成長を迎えると、上記の養蚕業や藍染めなどの文化はほぼ完全に衰退していった。1974年(昭和49年)に長田野工業団地の整備が始まるようになると、福知山の産業は工業化の兆しを見せるようになる。それまで福知山市街地を走る鉄道は、南北を分断するように走っており市街地の自動車交通を阻害するものであるとし、国の進めるバブル後の景気対策公共事業として、この市街地規模(人口集中地区4万人)としては国内最大級の約315億円もの総事業費をかけて福知山駅の高架化が行われた。また平成の大合併と呼ばれる市町村合併ブームに乗って、周辺自治体であった三和町・大江町・夜久野町と市町村合併を行った。これにより人口は初めて8万人台となり、府内市町村の人口数では一時期抜かれていた八幡市を再び抜き、城陽市とほぼ同数であり(2007年現在、厳密には城陽市の方がわずかに人口が多い)、合併当時8万3千人(合併直前の2005年国勢調査)の人口であったが、2009年には7万人台(住民基本台帳)に減少している。市域は旧丹波国天田郡を中心とし何鹿郡(佐賀村の一部)と丹後国与謝郡(雲原村)と加佐郡(大江町)に広がり、市域面積の76%は林野が占め耕地面積は7%程度で、綾部市から続く福知山盆地を中心とした平地、それをとり囲む市域面積の大部分を占める山地で構成される。大阪市からは約70km、京都市、神戸市からは約60km、豊岡市、舞鶴市から約30kmの場所に位置する。市内最高海抜は三岳山の839.17mにまで及び、最低海抜は7.11mである。市街地は旧城下町を中心とし、由良川沿いに長田野工業団地周辺の住宅地まで伸びる。福知山という地名は、明智光秀が丹波平定後、この地に城と城下町を開いた際に命名したものと考えられ、資料上で確認できるもっとも古いものは津田宗及「宗及茶湯日記」の天正9年4月の記事である。「福知山」の由来には、いくつかの考察があるが、いずれも根拠のないもである。和泉式部の歌「"丹波なる 吹風(ふくち)の山の もみじ葉は 散らぬ先より 散るかとぞおもう"」から取ったとの説もあるが、この歌そのものが後世の創作である可能性が高い。或いは富士山由来の名(別名)によるとの説も存在するが、まったく根拠のないものである。また別に、福智山の「智」は1728年(享保13年)に朽木氏によって「知」の字に改められたとする説もあるが、近世初頭から幕末にかけて「福知山」「福智山」の両方使われており、これも誤りである。旧福知山市内には地名(字・小字)、自治会名、通称など複数の街区名が存在し、なおかつ自治会名は必ずしも別名称の街区の範囲と一致しないため非常に複雑である。(例:自治会名「岩井新町」の街区は字「岩井」と「荒河」にまたがる。通称「かしの木台」で呼ばれる地域には「岩井新町」「荒河」が含まれ、その組合わせ名で住所が表記されることがあり、更に自治会名「かしの木台○丁目」も存在する。など多数。)これは、昭和期に入り旧城下町周辺に急激に新市街地が広がったのに対し、それらの字名を整理しないまま街区名や自治会名をつけていった結果である(例:「字天田小字木村」には、通称「末広町1丁目」の街区があり、自治会名「南本町」で呼ばれる住所がある)。このため7桁郵便番号は自治会名の街区で分類されふられているが、自治会名を用いない住所で検索すると該当するものを探すことができないという不便が生じている。かつての福知山は川を利用した水運による流通が盛んで、由良川沿いには港を意味する「津」が付く「天津、高津江、常津」などの地名が数多く存在する。同じく「和久市」は川沿いにあり、水運によりこの付近に市場が出来たことの名残である。基本的に日本海側気候であり旧三和町を除いて豪雪地帯である。旧丹後地域(雲原・大江)を除く盆地においては“やまかげ”となり、丹後地方に比較して量は少なめである。また、盆地地形により秋と冬には霧が発生する。特に冬期の早朝の山間部では霧が濃く路面の凍結も見られる。晴天時の午前中の霧、冬季の雪雲によって日照時間が少なくなる。平地(福知山地域気象観測所)の平均気温は14度程度、年間降水量は1500ミリ程度で年間日照時間は1400時間程度である。降水量の季節分布としては旧丹後地域では降雪を中心に冬季雨量が多いが、以南では梅雨・台風により夏季雨量のほうが多くなる傾向がある。盆地内を中心に少量で限られた地域ではあるが、淡水に住む貝の貝殻の化石が出土している。貝殻の種類に加えその分布などから、2〜30万年前の氷河期には福知山盆地内全てが湖あるいは沼の底であったと考えられている。この湖(沼)は福知山湖と呼ばれる。また、各河川流域の調査から、かつて由良川は土師川(竹田川)を介して加古川につながり南下していたと考えられる。これらから、地形の沈降により南下の流れが止まったことで盆地一帯は湖沼を形成、さらなる変化により日本海側への流路ができると湖沼の水位は下がりやがて消滅、現在の市内を流れる由良川、土師川、牧川などに変化していった、という経緯が考えられている。盆地内の河川勾配が非常に緩く、出口付近がボトルネックとなって大雨時に停滞し度々洪水を引き起こす(参照)というのは、こういう形成履歴を持つためであろうと考えられる。また、これらの名残としては、由良川上流域に当たる船井郡京丹波町安栖里(あせり)周辺の4段にもなる大規模な河岸段丘の存在、市内の長田野(おさだの)の高位段丘面を持つ洪積台地の存在などがある。また、羽合の丘陵地や長田野台地には、福知山層とよばれる砂と泥と礫(れき)で構成される地層を見ることができる。その名のとおり福知山を特徴付ける地層であり、近畿地方の山間盆地埋積層を特徴づける学術上価値を持つ。しかし宅地開発が進む中、この地層の存在は危うくなっており京都府レッドデータブックに登録されている。一方、福知山盆地外にあたる夜久野町額田(ぬかた)からは約2億2千万年前の新種のアンモナイトの化石が出土している。出土した地名にちなんで「ヤクノセラス・ヌカタエンゼ」と名付けられた。アンモナイトは本来海底に生息する生物であることから、かつての海底が隆起したものと考えることが出来るが、詳しい地形形成履歴は分かっていない。また、市内夜久野町小倉に所在する田倉山は夜久野高原を形成した京都府下唯一の火山であるが、そのふもとには柱状節理の玄武岩を見ることができる。この地ではかつてさまざまな鉱物が産出されており、特に大江山は金属鉱脈が多く河守鉱山では銅鉱・黄銅鉱・硫化鉱・クロム鉄鉱・銀鉱が、また仏性寺鉱山ではモリブデン(水鉛)が採掘された。また、上川口地区の富国鉱山は国内有数のビスマス鉱山であった(なお、大江山ニッケル鉱山は、与謝野町域にあたる)。このほか現在廃坑となっているいずれの鉱山も、京都府レッドデータブックに登録 されており、坑道の整備、保存の必要性が叫ばれている。かつての由良川の流れは現在の福知山駅周辺にまで流れており、また大雨が降るたび氾濫を起こし周辺の人々や建物に加え農作物などに深刻な被害をもたらす暴れ川であった。明智光秀が福知山を統治するようになると、光秀は後に城下町ともなる城に連なる居住地造営と治水のため、長さ1kmにも及ぶ築堤により川筋を大幅に変更した ことにより川の流れは大幅に改善されたが、それでも洪水は収まらず、その後の為政者も治水に尽力を惜しまなかった。彼の築堤の名残として「明智藪」と呼ばれる堤防保護のための藪を今もなお見ることができ、現在、国土交通省により行われている堤防築造や水位の監視などは光秀に始まるものである。例えば1896年(明治29年)と1907年(明治40年)に起きた大雨による氾濫は、両者とも同じ堤防が決壊したことにより市街地は2階まで床上浸水し、水が引くまでは屋根の上で生活し移動も船でという状況だった。後者は前者と比べて教訓が生かされたこともあって被害が少なかった ものの、どちらも市街地はほぼ壊滅状態にまで追いやられた。同時に由良川に架かる橋であった音無瀬橋も2度流され、その費用補填のために大人4厘、子供2厘、牛馬は5厘という通行料を徴収したほどでもあった。加えて1953年(昭和28年)9月25日の台風13号による由良川の氾濫は、最高水位が7.8mにもなる大量の水が福知山市街地全域を水浸しにし、市内で死者は約40名、負傷者は約900名、家屋全壊、半壊ともに1100戸以上、床上浸水においては5300戸以上もの被害をもたらした。この台風のときの被害は地元では28水(28災とも)として知られ、このときの水位は福知山と水害を伝える資料として市内御霊公園に標識が設置されている。その恐ろしさや先人の築いた堤防のありがたさを後世に伝えるため、御霊神社境内には全国唯一の堤防そのものを御神体とする堤防神社が建立されており、1931年(昭和6年)以降の毎年8月15日には、神輿が市内を巡回する「堤防祭り」が行われている。現在の「ドッコイセ花火大会」は、もともとはその祭りの行事の一つとして始まったものである。また、旧市街地の町屋には、浸水時に家財を2階や小屋裏に引き上げる滑車を備えた「タカ」と呼ばれるこの地独特の吹抜けが残されている。他にも三河橋(別名 有路下橋)などに代表される沈下橋の存在や、福知山市治水記念館などでも、当時をかたるさまざまな資料が残されており、水害と共に生きてきた市民の歴史を知ることができる。「タカ」も体験ができる。一方、由良川は国土交通大臣により一級水系に指定されており、市内に供給される水道や農業用水の原水をもたらし、市民の手による鮎や鮭の稚魚の放流 といったイベントが開かれるなど、市民の生活には欠くことのできない川でもある。中世の室町時代には福知山城の地には小守護代の守護所が置かれ、郡を統治する要の城が築かれていた。旧市街地でもある福知山の城下町は、織田信長の家臣である明智光秀が地子銭と呼ばれる土地税を免除したことなどから、早くから商工業が栄えた。近世の江戸時代になると有馬豊氏によって城下町としての町割りが大規模に整備され、現在でも呉服町、鋳物師町、鍛冶町、紺屋町などはそのままの地名として残されており、旧市街地は江戸時代の町割りが殆どそのまま残っている。ただ、寺町には文字通り多数の寺が所在するが、現在ではその地名に呉服屋や染物屋を構える店はなくなっている(新市街地の問屋町や厚中問屋町は1975年(昭和50年)に行われた区画整理で新しくできた地名であるが、こちらは文字通り多数の卸売業者が軒を連ねている)。前述の町屋や、大正から昭和初期にかけては木造3階建ての料亭や旅館が多数建設され、老朽化や都市計画による道路拡張などにより、城下町の風情でもあった珍しい木造建築は姿を消そうとしている現状もある。かつては複数の商店街で賑わった「商業のまち」の趣も、全国の例に漏れずシャッター通りと化しており現在ではほぼ居住地域となっている。しかしなおも本社や本店事務所を旧市街地に置く事業所も多く、多数の「社長が住まうまち」ではある。中心市街地と呼ばれる区域には、これら旧城下町の西に広がる福知山駅を中心とする新市街地エリアがある。駅前には地元企業による都市型大型店が立ち上げられ、高度成長期には賑わいを見せた。その後も複数の区画整理地には新規事業所が建ち並び、現在の市街地を形成していった。旧来の商業地は近年の国道沿いの郊外型大型店やロードサイド店舗に押された形となったが、"北近畿の都"をキャッチフレーズに駅の高架化や未開発の駅南を含む駅周辺の整備を進めることで、中心市街地活性化につなげようとしている。しかしながら、旧城下町の活性化を含め依然として難題を抱えている。周辺部には、郊外型ショッピングセンターのイオン、プラントなどを擁した開発地や、旧町の集落が見られるが、大部分は多数の田畑が広がる。地形的には山地が多く、クマ だけでなく、シカやイノシシなどの多数の野生動物が生息している。福知山の特産品である丹波栗などを含む農作物が狙われ、年度によって深刻な被害を農家へもたらすこともあり、檻の共同オーナーを募集するNPO法人も存在する。現在の陸上自衛隊第7普通科連隊が駐屯する福知山駐屯地には、かつては旧陸軍歩兵第20連隊の駐屯地があった。福知山線や山陰本線は、国内有数の軍港・舞鶴港と京阪神をつなぐ鉄道として整備促進されたという側面もあった。その中継地点である福知山は軍事都市としても栄えたといえる。太平洋戦争末期には旧海軍の「石原飛行場」と呼ばれる航空基地もあった。その滑走路は長さ1700メートルにもおよび、現在の中丹広域農道沿いに市内前田から石原をまたぎ戸田にまで延びていた。主に練習用として使われていたものの米軍の機銃掃射の攻撃対象にもなっていた。そのため周辺には敵機を撃墜させるための高射砲や物資格納倉庫などが備えられており、終戦が遅ければ福知山市も空襲の対象になっていたのではないかともいわれるほどの軍事拠点でもあった。その滑走路は地元の農民が破壊し農地に復興させたため今では見ることができなくなっている。市内に所在する日本有数の内陸型工業団地の長田野工業団地や、アネックス京都三和(愛称:エコートピア京都三和)工業団地には東証ならびに大証や、ジャスダックなどに株式上場している多数の企業またはその子会社が拠点を置いており、それが与える地元の雇用の影響は大きい。第二次世界大戦が終わった後でも、福知山は京阪神と舞鶴港をつなぐ軍事的中継地点としての役割を受け継いでいる。上記のとおり福知山市には福知山駐屯地が存在し、第7普通科連隊が駐屯する。また近傍演習場も備えており京都府を警備担任区域としている。当時の福知山藩主であった松平忠房が、1669年(寛文9年)の国替えによって島原藩(現在の島原市)に移り住んだのがきっかけとなり姉妹都市となった。盆地という山々に囲まれた閉鎖的な地形をしているにもかかわらず、福知山周辺地域では少なくとも縄文時代から人が住んでいたことなどから古くから道路が整備され、山陰地方と畿内(京阪神)方面をつなぐ交通の要衝として栄えたまちである。百人一首の中の小式部内侍が歌った「"おほえ山 いくの(生野)の道の遠ければ まだふみも見ず 天橋立"」の歌枕として登場する生野は福知山市内の地名 であることからも、その福知山と交通の歴史の深さを知ることが出来る。徳川家康は関ヶ原の戦いの後、信頼のおける有馬豊氏を山陰道が走る福知山藩八万石の城主に抜擢したことでも軍事上の重要度が窺い知れる。1987年(昭和62年)ごろから京阪神から日本海側へつながる高速道路である舞鶴若狭自動車道も整備された。冬期の早朝の山間部では霧が濃く路面の凍結もまた見られる。国道9号(山陰道)の一部などではスプリンクラーによる散水を行い、解雪や凍結を防いでいる地域も見られるがそれはほんの一部であり、基本的に冬季の車での移動はスタッドレスタイヤを装着しないと非常に危険な状態となるから注意が必要である。国道9号では福知山道路として市内の一部区間の4車線化工事が進められている。福知山市は盆地という地形上、福知山市のほとんどを占める山間部では非常に入り組んだ地形をしているだけでなく、広い土地に多数の小規模の集落がいたるところに点在しているため、バスや鉄道がそれぞれの地域を周ることは難しい。そのため市内の移動には自家用車が欠かせず、市民の自家用車保有率は高い。当時の運輸省が調査した平成8年度の一世帯あたりの京都府全体の自家用車保有率が75.3%だったのに対して当時の福知山市 の保有率は94.2%であった。このことから、一家に一台というのはほぼ当たり前に近い状況であることが分かる。夫婦で一台ずつという家庭も多く見られ、その傾向は福知山市街地郊外に出れば出るほど強くなる。特に農村部では夫婦一台ずつに加えて農作業用のトラック一つという家庭も多くみられる。そのため時代が進むにつれバスやタクシーの利用者も減少の一途をたどり、各バスやタクシー会社では赤字経営に悩まされる所もある。特にバスにおいては廃線や経営移譲を余儀なくされるほどの経営状況である。これ打開しようと2007年(平成19年)3月1日より西日本JRバスが、デマンドバスサービスを取り入れる などの工夫を凝らすものの依然として現状は厳しいものである。全但バスは兵庫県北部を運行するバスであるが、福知山市内に乗入れるバス停がある。また逆に福知山市営バスの旧三和町の路線は綾部市や京丹波町、兵庫県篠山市に乗入れる路線がある。明治時代になると日本海の軍港舞鶴港へつなぐ鉄道の整備が進み、大阪から福知山を経由し舞鶴への整備を目指した阪鶴鉄道によって現在の福知山線が、国鉄によって現在の山陰本線の綾部までの区間が整備された。更に戦後には鉄道管理局がおかれ「鉄道のまち」としても栄えるようになる。現在、福知山市にはJR西日本の福知山支社や車両基地(福知山電車区)が置かれている。鉄道の拠点としては、福知山色と呼ばれる車両塗装の名前に見られるように浸透しており、市も鉄道関連の観光施設や各種イベントを特色にしている。福知山鉄道館ポッポランドや北丹鉄道の福知山西駅跡のSL公園には、当時使用されていたSLやそのレプリカが保存展示されており、福知山駅南口にも転車台が展示されている。福知山市にはWILLER TRAINS(京都丹後鉄道)とJR西日本の2社の鉄道会社の路線が走っており、両社の福知山駅は市の中心駅の役割を果たしている。特にJR西日本の福知山駅はJR西日本が掲げる北近畿ビッグXネットワークの中心駅でもあり、特急の乗り越しなどの特例を設け、乗り換えなどの利便性をはかっている。福知山駅は福知山線の始点となっている。また、舞鶴線は東舞鶴駅を始点とし綾部駅が終点となっているが、多数の列車が福知山駅まで乗り入れている。福知山市を通る路線の多くが単線で、福知山線については複線化を望む声もあるが利用者が少ないため現実的には不可能である(詳しくは福知山線#篠山口駅以北の複線化と現状を参照)。福知山線・山陰本線、京都丹後鉄道ともに特急と快速、普通列車が運行されている。福知山駅を起点に北近畿ビッグXネットワークが設定されている。福知山市への観光客は、日帰り客が85%を占めている。旧夜久野町役場には子午線が通り、酒呑童子の鬼伝説で知られる大江山や光秀の福知山城などの観光スポットだけでなく、元伊勢の伝承を有する神社や「鉄道のまち」としてSL資料展示館や関連イベントがある。しかしそれらの整備・PRは十分とは言えず、他の隠れた観光資源も含めてこれからの課題といえる。旧夜久野町時代には、子午線が通ることから「時のまち」としてPRしてきた。しかし合併後は子午線についてのPRは行っておらず、旧夜久野町役場の跡地に残されていた「子午線標柱」も、市が誘致した商業施設の建設のため2015年12月に解体された。標柱を再建する予定はないという。福知山城の初代城主であったことに加えて明智光秀は善政をしいたことから、明智氏の治世がごくわずかであったのにもかかわらず、福知山市ではいたるところで明智氏や光秀に関連したものやイベントが多数所在する。市の花は明智氏の家紋であるききょう、福知山音頭にも光秀がうたわれ、福知山観光協会のイメージキャラクターも光秀がモデルとなっているほどである。また市内に所在する御霊神社では光秀が神様として祭られ、光秀の家来四王天政孝が使用していたすねあてや、当時の福知山城の様子が描かれた絵や光秀直筆の書をはじめとする多数の資料が残されている。福知山には元伊勢とされる神社や、祭神が武内宿禰や明智光秀であるなどの特徴ある寺社が多数所在する。福知山市を含む周辺の地域では様々な古墳、石室、土器等が多数発見 されていることから、丹波国が形成される以前より多くの人々が住んでいたと考えられている。各種京野菜を特産とする他、丹波ブランドの農産品がある。市東部の報恩寺(ほおじ)地区で取れるタケノコ。毎年春の到来を知らせるニュースとして、タケノコの試し掘りがテレビなどで取り上げられる。グルメ食材としてネット通販に登場する。丹波の黒大豆といえば主に篠山市で採れるものをさすが、福知山も丹波の良質の黒大豆生産地で知られている。これを使用したお菓子などが土産物にある。→「黒豆ぼうろ」(福知山市夜久野町)丹波栗の歴史は古く、日本最古の歴史書である日本書紀にも記されている。丹波栗はたびたび幕府や朝廷への献上品としても重宝され、江戸時代になると参勤交代制度により全国に広まった。三和町を中心に生産されている。三岳地区の特産品。ひょうたん細工の開発やひょうたん祭等のイベントも行われている。15世紀ごろから藍の栽培と藍染めが由良川沿いを中心に盛んに行われており、1496年、藍染めの布を荘園に納めたとされる記録が残っている。江戸時代には藍染めをする一般家庭の件数は1500近くもあったともいわれ、町屋360軒のうち25軒が紺屋であったとされる。これらのことから藍染め品は当時の福知山市の特産品であったことがうかがえる。しかしやがて、輸入品や化学染料に押され全国の藍の産地が消え行く中、京都の最後の藍の産地となっていた福知山も大正の時代とともに姿を消した。現在再び藍染めのよさが見直され、藍の栽培と藍染めを復活させる活動がなされている。市内の一部の小学校などでは総合的な学習の一環として、藍染め体験をさせる学校も存在する。福知山は度重なる由良川の氾濫に対して桑は洪水に強かったことや、由良川のph値が製糸に適した水質であった ことなどから、古くから養蚕業が栄えた。福知山市を含む丹波地方の養蚕業は千年以上も昔から行われていたとも言われ、昭和初期ごろに全盛期を迎えた。1928年(昭和3年)にはグンゼの事務所が、翌年には工場が置かれ、生産された生糸は丹後ちりめんや西陣織の原材料としてだけでなく海外への輸出用としても生産された。しかし第二次世界大戦になると食糧不足解消のため、桑畑をサツマイモ畑に転作したことや、糸そのものの価格の低下、ナイロンなどの化学繊維の出現や養蚕農家の後継者不足と高齢化などの理由によって養蚕業は衰退し、ほとんどの養蚕農家や製糸業者は廃業に追い込まれた。生き残った業者も業界の激しい値下げ競争により、生産拠点を人件費が安い海外へ移さざるを得なくなり、大手のグンゼも2001年9月に福知山から撤退 するなど、特産品であった生糸も現在は養蚕農家を市内大江町に一軒だけ残すのみとなった。藍ほどではないが福知山と蚕の歴史を伝えるため、藍と同じく一部の学校では総合的な学習の一環として、蚕の飼育やビデオ鑑賞でその生態などを学ばせる学校もある。福知山市夜久野地方では漆の名産地としても栄えた。奈良時代初期には既に漆掻き(漆の採取)が行われていたとされ、明治時代には福知山とその周辺の地域で漆掻きをする人が500人近くいた といわれている。1907年(明治40年)発行の、全国の漆の産地30箇所を記した書物「実用漆工術」には、丹波(福知山)の漆は一番目に書かれており その歴史の深さを物語っている。しかし現在では漆の98%が中国産の輸入品へと移り変わり、日本国内の漆の産地はほんのわずかしか残されていないものの、福知山ではその伝統と歴史が細々と受け継がれている。福知山市では和紙の原料となる良質のコウゾがよく取れたことに加え、上記の漆産業も盛んであったことから、主に漆をこすために使用される和紙の名産地とも栄えた。特に明治時代から昭和初期にかけては、書道用・障子用の和紙として、また原材料のコウゾとあわせて他府県に大量に販売された。京都府無形文化遺産にも指定されており、当時の和紙すきを行う所は200戸余りもあったが 漆産業の衰退などの理由により衰退を招き、現在では大江町和紙伝承館などの限られた施設でのみ見ることができる。福知山の古くからの住民は、丹波の氷上(丹波市)を中心に、但馬や丹後から移り住んで来た歴史があり、現在もなお通勤・通学する人は多く、市民の多くはその地出身であると言う人も少なくない。従ってその方言はこれらの地方の特徴が若干混在するものとなっているが、主体となるのはやはり「福知山弁」であり、氷上や舞鶴とも共通する「ちゃった弁」である。これらを総称する丹波方言は一般的な関西弁とは若干異なる方言である。福知山市は周辺自治体では人口の減少が進む中、少なくとも同市の「平成の大合併」で、人口数で同府の八幡市を抜くまではほぼ横ばいに近い程度の人口増加を続けてきた市である。しかし国勢調査によると、1985年(昭和60年)の老齢人口比率は11.7%だったのに対して1999年(平成11年)には18.4%にまで上昇しており 高齢化が進行している市でもある。平成22年国勢調査より前回調査からの人口増減をみると、2.82%減の79,668人であり、増減率は府下26市町村中12位、36行政区域中21位。福知山市全域の電力は関西電力より供給されている。市街地周辺のガスは、由良川とその支流である土師川より西は福知山都市ガス(旧福知山市営ガス)、以東の長田野工業団地周辺は株式会社長田野ガスセンターが供給する天然ガスによる都市ガスとなっている。しかし、供給困難な山間部や市街地においても供給区域でない地域があり、ボンベによるプロパンガスを使用している世帯も少なくない。福知山は山々に囲まれているため、由良川、土師川、牧川などの川の水資源が比較的豊富で福知山市の水道代は近畿の194ある市町村の中で20番目に安い。それら水の供給は市の公営企業(福知山市上下水道部)の上水道および簡易水道より供給される。市街地周辺の簡易水道については、順次上水道への統合計画が進められている。一方、下水については浸水被害の歴史から比較的早くから整備されて来ており、旧福知山市域においては80%の下水道普及率(浄化槽を含む水洗化率は92%)があった。旧市街地についてはこの理由により、内水排除を目的に雨水汚水の合流式となっている。市のゴミ処理は、市内牧に所在する環境パークにての焼却、埋め立て処理、リサイクルとなっている。収集されるゴミは、燃やすごみ・燃やさないごみ・プラスチック製容器包装類・資源ごみ(空き缶、空きビン、紙パック、ペットボトル)・蛍光管で、前3種は有料専用袋の使用、また各種の分別が求められる。また粗大ゴミ・家電4品目・事業所のゴミは持込みとなっている。「燃やすこみ」とされるもの以外は燃やせないタイプの焼却炉であり、現在の埋め立て用地は十数年もすればなくなってしまうため新たな埋め立て用地の確保が問題点となっている。本庁および平成の市町村合併以前の各町単位に3つの支所を設けている。夜久野支所以外は旧庁舎におかれている。福知山市に所在する警察署は福知山警察署一つのみである。2005年の市町村合併以前は、三和町、大江町、夜久野町と3つの町も同時管轄していたが、合併に伴い現在は福知山市のみの管轄となった。福知山市の消防団は地域ごとに6つのブロック分けがなされており、その中に計29の分団が存在している。市内全ての小学校の給食は市内学校給食センターより供給される。市立図書館は分館等あわせて5つの施設がある。2006年3月19日に変更された。
出典:wikipedia
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