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オリヴィエ・メシアン

オリヴィエ=ウジェーヌ=プロスペール=シャルル・メシアン(Olivier-Eugène-Prosper-Charles Messiaen、1908年12月10日 - 1992年4月27日)は、フランス、アヴィニョン生まれの現代音楽の作曲家、オルガン奏者、ピアニスト、音楽教育者である。20世紀前半から後半にかけてヨーロッパの現代音楽界を牽引した作曲家のひとりであり、加えて、多くの著名な子弟を育てた音楽教師として知られる。オルガニスト、ピアニストとしても長年演奏活動を続け、録音も数多く残している。本人は作曲家としての肩書きに加えて、彼の見地から「リズムの創作家」を名乗っており、また神学者としても稀にみる博学さを持ち合わせていたとされる。そして鳥類学者としては、世界中の鳥の声を採譜した貴重な偉業を成し遂げた。音と色彩についての言及は多く、音を聴くと色彩や模様などを連想するという共感覚の持ち主であるとされ、その詳細な記述は世界の人々を驚愕させたが、その連想を楽譜に書き込むことも多かった。フランス南部のアヴィニョンに生まれ、1919年、11歳の時に、ピアノとパーカッションを学ぶ動機でパリ国立高等音楽院に入学。音楽院時代には輝かしい業績を残しており、1924年、15歳の時にはまず和声科にて2位でプリを取得。1926年、フーガおよび対位法科にてプルミエプリを取得、翌1927年、伴奏科にてプルミエプリを取得している。1928年、モーリス・エマニュエルの講義を経て、音楽史のプルミエプリを取得。この時、エマニュエルより古代ギリシャのリズムおよび民族音楽の旋法への知見を得ている。そして、マルセル・デュプレのもとで、フランスのオルガニストの伝統と遺産を引き継ぎ、オルガン科およびオルガン即興科のプルミエプリを取得。並行して1927年より作曲科主任であったポール・デュカスの元で管弦楽法を学び、1929年、シャルル=マリー・ヴィドールの元で作曲の勉強を続け、11年間に渡る音楽院での研究の集大成として、翌1930年、作曲科にてプルミエプリを取得し、卒業した。在学中より多くの作品を残し、1930年頃からはインドやギリシアのリズム、音と色彩の関係、鳥の鳴き声などの探求が作品にあらわれるようになり、独自の音楽語法として用いるようになる。1931年、22歳の若さでパリのサントトリニテ教会のオルガニストに就任、彼はこの職をその最期まで、60年以上も務めることとなった。そこでの即興演奏は世界中に評判となった。サントリニテ教会にて彼は即興演奏家としての地位を確立するとともに、多くの宗教音楽を作曲した。第二次世界大戦中にはドイツ軍の捕虜となり、収容所内で世の終わりのための四重奏曲を作る。1942年、母校の和声科教授となるためにパリへ戻る。当初の彼の学生の中には、後に彼の作品演奏の最も良き理解者であり、妻となるイヴォンヌ・ロリオがいた。1959年、前妻に先立たれたメシアンは、1961年にイヴォンヌと再婚する。メシアンはまず音楽美学の教授に指名され、後に楽曲分析科、1966年以降は作曲科の教授となった。メシアンが退官するまでの間に受け持った学生には、ピエール・ブーレーズ、カールハインツ・シュトックハウゼン、ヤニス・クセナキス、トリスタン・ミュライユ、ジェラール・グリゼー、フセイン・セルメット、ナジ・ハキムなど、日本人では別宮貞雄、矢代秋雄、丹波明、平義久、宍戸睦郎、篠原眞、加古隆、福士則夫、仲俣申喜男、二橋潤一、藤井一興、安田正昭などがいた。最初期の弟子だったブーレーズとの地下鉄内での会話では「この先、誰が現代音楽を牽引して行ったら良いのか」と悩むブーレーズに対し、メシアンは「何を言っているんだ、ブーレーズ君。それは君だよ」と諭した。またブーレーズが父から作曲家になることを反対され数学者になれと言われた時は、メシアンは音楽院の帰りにメトロに乗ってブーレーズの家までついて行き、ブーレーズの父を説得したという。そのブーレーズはメシアンの『音価と強度のモード』を基に『構造I, II』を作曲し、同じくシュトックハウゼンもまた『音価と強度のモード』の楽譜を何度も読み返したという。数学と建築を学んでから作曲に転向したクセナキスには「君は数学を知っている。なぜそれを作曲に応用しないのか」という名言を残し、初期の習作では出身国ギリシャの民族音楽的だった彼の作風を全く違うものへと転換させ、数学的なグラフに基づく出世作『メタスタシス』を作曲させるに至った。早世したグリゼーの遺稿集にはインタビュアーの「影響を受けた作曲家は誰ですか?」という質問に対し「私はいつもこう答えています。父なる神、子なるキリスト、聖霊と。(三位一体を参照)父なる神はオリヴィエ・メシアンで、音楽と色彩への知見と愛を教わりました。」と答えている。(後略。子はシュトックハウゼン、聖霊はリゲティを挙げている)メシアンは幼少時から音と色の共感覚を持っていると述べており、しかもそれが音階の一音一音ごとに異なる色に対応し、それらを複雑に組み合わせることによってステンドグラスのような色のモザイクの感覚を得られると主張している。また「鳥の歌」にも早くから興味を示し、そのリズムや平均律化されていない音程に興味を持っていた。同じく少年の頃からドビュッシーに傾倒し、クリスマスプレゼントにもらった『ペレアスとメリザンド』の楽譜をぼろぼろになるまで読みふけったという。最初期の20歳の頃(1928年〜1929年)に書かれたピアノのための『前奏曲集』(全8曲)は、ドビュッシーやその時代の印象主義音楽の影響を濃厚に受けているが、後にメシアン自身が提唱した「移調の限られた旋法 (Mode de transpositions limitées, MTL)」を既に巧みに用いている。オルガンのための組曲『主の降誕』で「移調の限られた旋法」をはじめ「付点リズム」「不可逆リズム」「ギリシャ、インドのリズム」「鳥の歌」などの語法をはじめて意識的に組織化して用い、以後自身の語法として発展させた。この頃までの1930年代の作品は、和声やリズムを工夫することによって、土台となる基本的な調性ははっきりし共和音を多用しながらも、独特の個性的な響きを確立させている。電子楽器のオンド・マルトノにも早くから興味を示し、死後出版された最初期作品の『未完のページ』というオンド・マルトノとピアノ伴奏の小品をはじめ、オンド・マルトノ6台のために書かれた組曲『美しき水の祭典』(後に一部を『世の終わりのための四重奏曲』の第5楽章、第8楽章に転用)、後には合唱と管弦楽のための『神の現存のための3つの小典礼楽』、『トゥランガリーラ交響曲』、オペラ『アッシジの聖フランチェスコ』(3台使用)にも用いている。また前述のリズムを含む「時間」の感覚についても独特の個性を持っており、例えばある側面では「天国的に長い時間」と呼ぶ、従来の音楽よりもずっと遅いテンポを持つ楽章や部分が多い。最初期のオルガン曲『天上の宴』、パリ音楽院の卒業試験のために書かれた最初の管弦楽曲『忘れられた捧げもの』のコーダ部分、同じく管弦楽曲で後にオルガン曲にも編曲された『キリストの昇天』第4楽章などがそれである。これらはオルガンや弦の持続音によって成り立っており、前述の『美しき水の祭典』もオンド・マルトノの持続音によってやはりこの長大な緩徐楽章が用いられている。後にそれが転用された『世の終わりのための四重奏曲』第8楽章では、捕虜収容所という極限に限定された環境の中でたまたまあったヴァイオリンとピアノのために改作しているゆえに、ピアノという減衰音楽器を用いて和音を連打しているが、元々は持続音であり、前述の作風と合致する。この緩徐楽章の作風は、晩年の最後に完成された管弦楽曲『彼方の閃光』の最終楽章にも登場する。1940年代になると、より複雑で調性の判別しがたい作品が多くを占めるようになる。第2次世界大戦での捕虜収容所で書かれた『世の終わりのための四重奏曲』、解放後に書かれたピアノ曲『幼子イエスに注ぐ20の眼差し』、2台ピアノのための『アーメンの幻影』、歌曲『ハラウィ』などである。作品もより長大な傾向を示し、『幼子イエス〜』に至っては全曲演奏は2時間を越える。しかしながら後の晩年に至るまで、メシアンの作品は皆長大ではあるが多楽章に分かれ、一つの楽章は長くても10分程度であることが多い。また楽章によっては従来的な意味での調性がはっきりした楽章も存在し、調性の不明瞭な楽章と対比させてコントラストが与えられている。メシアン自身はこの調性的な楽章をキリスト教的な神の顕現と捉えており、例えば『世の終わり〜』では第5楽章『主イエス・キリストの永遠性への讃歌』、第8楽章『主イエス・キリストの不滅性への讃歌』と題されている。『幼子イエス〜』では嬰ヘ長調主和音と移調の限られた旋法第2旋法を組み合わせた「神の主題」が用いられ、全20楽章中第1楽章と5の倍数の楽章(5, 10, 15, 20)では明確な嬰ヘ長調が出現し、神への賛美が語られる。メシアンはこれら自作の解説を自ら出版譜の冒頭に詳細に書き表している。また楽譜中にも「インドのリズム」「〇〇(具体的な鳥の種類)の鳥の歌」などと注意書きを入れている。そしてその集大成として、この時期までの自作を解説した著作『わが音楽語法』が1944年に出版された。(日本では1954年に平尾貴四男によって翻訳が出版されたが、現在絶版。)1946年〜1948年、セルゲイ・クーセヴィツキーとその財団からの委嘱によって作曲した『トゥランガリーラ交響曲』によって、メシアンの作風は一つの頂点を迎える。この曲は中世の「トリスタンとイゾルデ」物語、またインドの時間と愛に基づいた作品で、歌曲『ハラウィ』、合唱曲『5つのルシャン』と共に3部作を成す。この作品は委嘱条件に恵まれて大規模な編成(ピアノ・ソロ、オンド・マルトノおよび大管弦楽)を持ち、メシアンの最も有名な作品として、クラシック音楽のレパートリーとして世界中で度々演奏されている。しかしながらこの後、メシアンの作風は大きな転換を迎える。1949年〜1950年に書かれたピアノのための『4つのリズムの練習曲』の第3曲『音価と強度のモード』は、付点を含む32分音符単位の音価と、クアジ・ピアノ(やや弱く)などの微細な指示を加えた強度が細分化されて用いており、新ウィーン楽派の十二音技法を強く意識させる音高のセリー(音列)と共に、厳密な管理のもとでそれらが組み合わされて作曲されている。これは戦後の現代音楽の出発点となったトータル・セリエリズム(総音列技法)の理論を最初に提示した曲として重要である。後にパリ音楽院でのメシアンの生徒だったピエール・ブーレーズがこの曲と同じセリーを用いて「構造I, II」を作曲した。その後、メシアンはトータル・セリエリズムによる作曲を実践せず、「鳥の歌」などの従来の自己の語法を推し進めた。その集大成と言えるのが、1959年〜1960年に作曲された管弦楽曲『クロノクロミー』である。「エポード(叙情短詩形)」と名付けられた第6楽章では、多くの弦楽器がソリストとして扱われながら「鳥の歌」だけで構成されるという特異な響きを持つ。初演こそ前衛音楽に無理解な聴衆から多くの批判を浴びたものの(演奏終了後の挨拶で舞台に歩み寄った際に聴衆の一人から危うく殴られかかったと言う。)、メシアンの主要レパートリーとして現在では特に高い評価を得ており、パリ音楽院分析科をはじめとする作曲の分析の授業では定番として用いられる作品である。他にも1960年以降の中期・後期作品では大規模な管弦楽作品が多い。キリスト教に基づくものとしては4管編成の巨大管弦楽と合唱で2時間を要する『我らの主イエス・キリストの変容』、カトリックのミサで唱えられる信仰宣言(ニカイア・コンスタンティノポリス信条)の終端部分に基づく『かくて我死者の復活を待ち望む』、『天の都の色彩』などが挙げられる。長年の協力者であり、先妻の死去後に再婚したピアニストのイヴォンヌ・ロリオのためにピアノ・ソロを配した管弦楽曲も多く、前述の『神の現存のための3つの小典礼楽』や『トゥランガリーラ交響曲』をはじめとして、日本旅行の印象に基づくピアノと小管弦楽のための『七つの俳諧』、「鳥の歌」に着想を得たピアノ協奏曲『異国の鳥たち』『鳥たちへの目覚め』、全曲演奏で3時間を越えるピアノ曲集『鳥のカタログ』といった作品が挙げられる。オルガン曲も大規模な曲集を多く生み出し、『オルガンの書』『聖霊降臨祭のミサ』『聖三位一体のための瞑想』『聖体秘跡の書』などを作曲した。晩年も精力的に創作活動を続け、また1960年代には影を潜めていた調性的志向も復活した。アメリカ合衆国ユタ州の大自然に印象を得た90分の大作『峡谷から星たちへ…』、フランスの国家プロジェクトとして小澤征爾の指揮で初演された上演に6時間を要するオペラ『アッシジの聖フランチェスコ』、最後に完成した作品でやはり80分の大作『彼方の閃光』がある。最晩年には『四重協奏曲』の作曲を試みたが、こちらは未完に終わり、イヴォンヌ・ロリオがジョージ・ベンジャミンの協力の下で補筆完成させた。著作も大変多く、特に初期の著書「わが音楽語法」は日本でも翻訳されている(現在絶版)。中でも移調の限られた旋法(M.T.L.)は広く知られ、晩年まで彼の特徴的な雰囲気を形づくる一つの要素として様々に使用されている。わが音楽語法を残した後、前衛の時代に入っても独自の探求は継続し、「クロノクロミー」、「天の都市の色彩」では理論の複雑化が頂点に達した。メシアン本人は「わが音楽語法の続編」を「リズムの教程」として簡易なブックレットの形で出版する意向を強く望んだが、その望みが果たされることはなかった。メシアンの死後、残された遺稿集を全て出版する計画が始まり、全7巻の遺稿集「Traité de rythme, de couleur et d'ornithologie」がLeduc社より出版された。個人の残した音楽理論書としては最大の規模を持つ。これとは別に「メシアンによるラヴェル楽曲分析」がイヴォンヌ・ロリオの監督のもと小冊子として出版され、日本語版は野平一郎の訳によって全音楽譜出版社より出版されている。親日家でもあったメシアンは、クロード・サミュエルとの対談の中で、日本についての個人的愛着を公言しているのを確認することができる。文化や自然、景色や人柄、そして和食についても言及し、イヴォンヌ・ロリオも同様に日本が好きであることに触れ、1985年第1回京都賞思想・芸術部門(音楽分野)受賞の際にも共に来日している。日本人による国内の活動としては、芸術家グループ実験工房がその活動期であった1950年代に、「前奏曲集」、「アーメンの幻影」、「世の終わりのための四重奏曲」などを日本初演し(ピアニストは実験工房メンバーの園田高弘)、メシアンの研究と日本紹介につとめた。またこの活動はメンバーの作曲家、武満徹や湯浅譲二などの初期の作曲活動に多大な影響を与えている。1962年に、イヴォンヌ・ロリオを伴って来日した際、NHKの主催による以下の3つの演奏会などが催された。(なお下記項目においてのみ、曲名表記は当時のポスターに従った)メシアン夫妻は東京だけでなく、都市部から田舎まで様々な場所を訪れている。軽井沢を訪れた際には、ホトトギスを初めとする日本の鳥の声を採譜した。この他に奈良、山中湖、宮島なども訪れている。雅楽の演奏にも接している。日本旅行の印象が後に「7つの俳諧」(1962年)というアンサンブルのための作品にまとめられている。笙や篳篥がメシアンの語法を用いて巧妙に模倣されている。7つの曲から成り、それぞれの次のようなタイトルがつけられている。

出典:wikipedia

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