バリントン・J・ベイリー(Barrington J. Bayley, 1937年4月9日 - 2008年10月14日)はイギリスのSF作家。ワイドスクリーン・バロックの代表的作家の一人。代表作に『カエアンの聖衣』『禅銃』『ロボットの魂』など。バーミンガムに生まれ、10歳の時にシュロップシャーに移る。12歳の時に『アスタウンディング』などのSF雑誌を読み始め、A・E・ヴァン・ヴォクト、チャールズ・L・ハーネスの影響を受ける。1954年に「ヴァーゴ・スタッテン・サイエンス・フィクション」誌5月号に短編"Combat's End"が掲載されて作家としてデビュー、『オーセンティック』誌などに作品を発表する。1955年から57年まで空軍で軍務に就いた後、ロンドンで様々な職業を経験しながらマイケル・ムアコックと知り合い、『ボーイズ・ワールド』誌に少年向けのヒーローものを合作、その後も単独でヒーローもの活劇を新聞に連載する。また1959年にムアコックとの合作(マイクル・バリントン名義)で『ニュー・ワールズ』誌に作品を発表、1960年代にはP・F・ウッズ名義で『ニューワールズ』、『サイエンスフィクション・アドベンチャー』誌などに作品を発表した。1964年にムアコックが『ニュー・ワールズ』編集長になると、その最初の号に中篇『スター・ウィルス』を発表、以後同誌に作品を発表する。ダブリン居住を経て、1969年に結婚してシュロップシャーに移り、様々な仕事をしながら長篇執筆を始める。1970年に『スターウィルス』の長篇版が初めて米国のエース・ブックス社のエース・ダブルから発売される。その後の作品も含めスペースオペラ風の体裁で出版されたが、読者には支持されなかった。その後、時間線が衝突するという『時間衝突』、「服は人なり」という哲学を小説化した『カエアンの聖衣』などの、奇想天外なアイデアと奇妙なガジュットが頻出する特異なスタイルで少しずつ人気を高め、日本では安田均が評価したことから訳出が始まった。アメリカではベイリーの理解者であったドナルド・A・ウォルハイムの編集するエース・ブック社で出版されていたが、ウォルハイムが1985年に病気で退くと、ベイリーの長篇を出版する出版社が無くなるという状況になる。1989年以降は社会性の強い作風となって、『インターゾーン』誌へ作品を発表し、短篇"Tomy Atkins"は1990年の英国SF協会賞にノミネートされた。2000年にウォーゲーム『ウォーハンマー・40000』のスピンオフ作品"Eye of Terror"を15年ぶりの長編として発表。その後再評価の気運が高まり、2001年に旧作が再刊され、2002年に未発表の長篇2冊が刊行された。2008年10月14日、大腸がんの合併症のため71歳で死去。当初「ニューワールズ」で活動していたことから、ニュー・ウェーブの影響を受けた、ポスト・ニューウェーブの作家と目され、「メタフィジカル・スペースオペラ」とも称される。実際にマイケル・ムアコックに親しく、ニューウェーブ系作家達の近くに住んでいた時期もあったが、ほとんど影響されなかったという。日本では「奇想SF」「バカSF」などの分類をされることも多い。ブルース・スターリングはベイリーを師と仰ぐとし、日本語版『時間衝突』に序文を寄せ、「ベイリーはサイエンス・フィクションの真実の魂の模範であり、完全無欠のお手本」とし、彼の『スキズマトリックス』はベイリーに多くを負っていると述べている。(創元推理文庫、1989年)『禅銃』は1983年のフィリップ・K・ディック賞にノミネートされた。また『カエアンの聖衣』が1984年に、『禅銃』が1985年に、『時間衝突』が1990年に星雲賞海外長編部門を受賞。1996年に短篇「蟹は試してみなきゃいけない」"A Crab Must Try"が英国SF協会賞短篇部門賞受賞、これが英語圏で初めての受賞となった。『ロボットの魂』『光のロボット』は、自由意志を持つロボットのジャスペロダスの活躍する連作で、アイザック・アシモフの諸作とはまったく異なったスタイルのロボットSFとして注目される。1979年に出た短編集"The Seed of Evil"では、出版元のアリスン&バズビー社から印税が支払われず、裁判となった。
出典:wikipedia
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