奥原 崇(おくはら たかし、1972年7月31日 - )は、東京都稲城市出身のサッカー指導者、元サッカー選手、フットサル選手。堀越高校、中央大学を経て、1995年に東京ガスサッカー部(現 FC東京)に加入。高いテクニックと創造性のあふれるプレーでファンタジスタとして活躍し、FC東京の初代背番号10を背負った。スルーパスやボレーシュートに代表される攻撃センス溢れるプレーと、ポニーテールをなびかせた外見から「ロベルト・オク」、「東京のバッジョ」と呼ばれ愛された。しかし、大学時代にファウルを受けた際に膝を負傷して以来、この怪我との戦いが続いた。チームがFC東京としてJリーグ(J2)に加盟した1999年も、膝をかばう影響で腰などの状態も悪く、開幕からシーズン中盤戦を過ぎてもプレーできる状態にならなかったが、9月25日に駒沢陸上競技場での大分トリニータ戦にて先発で10ヶ月ぶりに復帰を果たし、以後J1昇格をかけて戦うチームで奮闘。等々力での天王山となった川崎フロンターレ戦では華麗なボレーシュートで先制点を決めるなど印象に残るプレーを残したが、リーグ戦は年間7試合の出場にとどまり、膝の状態も考慮して翌年のJ1を戦うチームの構想に入らなかった事がフロントから伝えられ、同年限りで現役を引退した。西が丘での天皇杯・初芝橋本高校との試合後の場内インタビューでサポーターに向け正式に引退表明し、天皇杯ジュビロ磐田戦が最後の試合となった。その試合でも怪我の影響もあり途中交代となったが攻撃のアクセントとなり、観戦していた磐田OBのドゥンガはこの試合の磐田の勝因に「東京の10番(奥原)が途中でベンチに下がった」ことを挙げた。その後は東京ガス本社に勤務しながら、アマチュアとして関東リーグのクラブでプレーし、かつてのチームメイトである岡元勇人とともに国体の東京都代表に選ばれ、2000年の同大会で優勝。また2001年にはフットサル選手としてフットサル日本代表にも選出され、AFC選手権に出場した。2003年からはFC東京に復帰し、普及部コーチのクリニックマスターとして子供達の指導にあたり、指導者としてスタート。城福浩監督が就任し新体制となった2008年からトップチームコーチに就任。城福の補佐、選手とのパイプ役として尽力した。この間にA級ジェネラルライセンスを取得。2010年9月、城福監督解任に伴い退任しU-12育成担当となった。2011年よりFC東京U-15深川でコーチ、2012年より監督を務め、2013年のU-15クラブユース選手権では準優勝、2014年のU-15高円宮杯では優勝。FC東京での活動に加えて国民体育大会に臨む東京都選抜(少年男子)の指導も任されており、2013年には監督として地元開催となった同大会で優勝を果たした。7||1||1||0||3||1||11||248||8||colspan="2"|-||10||6||58||14colspan="2"|-||colspan="2"|-||2||0||2||0
出典:wikipedia
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