B'z(ビーズ)は、ギタリストの松本孝弘と、ボーカリストの稲葉浩志からなる日本の音楽ユニットである。1988年に結成された国民的音楽ユニットである。同年にシングル「だからその手を離して」、アルバム『B'z』の同時リリースでメジャーデビュー。以降多数のヒット作を輩出し、シングル連続初登場首位獲得数やアーティスト・トータル・セールスを始めとする日本音楽界における数多くの記録を樹立(詳細は後述)。また、『LIVE-GYM』と銘打ったライブツアーを積極的に開催し、日本国内外で850回を超える公演数を行っている(2014年末時点)。所属事務所はビーインググループのVERMILLION。所属レコード会社は同じくビーインググループのBeing、レーベルはVERMILLION RECORDS。所属事務所公式ファンクラブは「B'z Party」である。2013年9月21日にはデビュー25年を迎えた。1987年、音楽制作会社ビーイングに所属し、浜田麻里やTM NETWORKなどのツアーサポートやスタジオ・ミュージシャンとして活動していたギタリストの松本が、「自らの音楽を表現できるバンドを創る」という構想のもと、バンド結成へ向けた活動を開始。その間、あるボーカリストとバンドを組むことを音楽雑誌で公表したが、そのボーカリストとデビューすることはなかった。1988年5月、ボーカリストを探していた松本は、ビーイングの社長で音楽プロデューサーでもあった長戸大幸から1本のデモテープを渡される。そのデモテープは当時Being音楽振興会(後のBeing Music School)に所属していた稲葉が、T-ボーン・ウォーカーの「T-BORN SHUFFLE」、レッド・ツェッペリンの「YOU SHOOK ME」、ビリー・ジョエルの「Honesty」を歌ったものが録音されていた。長戸はB'z結成の2、3年前から「稲葉を何とかしたい、早くデビューさせたい」と事あるごとに言い続けていたという。こうして長戸を介して、2人は会う約束を交わす。しかし、この時点で松本は、「デモも聞いたし、写真も見たし、(稲葉と会う前から)自分は心が決まっていた」「後は『いい人』であってくれと願っていた」と語っている。翌日、「SOUND JOKER」という小さなスタジオで初顔合わせした2人は軽く会話を交わした後、ビートルズの「Let It Be」、「Oh! Darling」の2曲をセッションする。しかし、機材の故障により結局その日は2曲しかセッションが出来ず、その場はお開きとなった。後日再び会った時には、何故か既にデビューへ向けての活動が始まっていたという。その後2人はユニットB'zを結成、1988年9月21日にシングル「だからその手を離して」、アルバム『B'z』の同時リリースでデビューした。2人が初めて出会ってB'z結成・楽曲制作・デビューに至るまでは、約4ヶ月という短い期間であった。B'z結成時はお互い(特に稲葉)の合意が形成されないままデビューへの話が進んだらしく、稲葉は結成当時について「振り返ってみれば、これまで松本さんから『一緒にバンドをやろう!』とはっきり口にして言われたことは一度もない」とインタビューやライブMCで語っている。ただし1993年に敢行されたライブツアー『LIVE-GYM '93 "RUN"』でのMCでこのエピソードが語られたときは、「そういえば言っていないな」ということで、稲葉が冗談めかしながら「一緒にやろう!」と言ったこともある。結成当時の音楽業界では、「新人はアルバムを3枚リリースするまでにヒット作品を作れなければ見切りをつけられる」という風習があった。そのため、松本はデビュー時から明確なビジョンを持って制作に当たっており、稲葉と初対面した際に「3年以内に(当時一番売れていた音楽雑誌である)『Gb』の表紙を飾る」「3年以内に『オリコン』の(1位 - 50位までが掲載されている)左ページに載る」といった「三ヵ年計画」を力説していたという。初期のB'zのプロデューサーは中島正雄である。B'zがブレイクした後も中島はスーパーバイザーという肩書きで指揮していた。デビュー当時はTM NETWORKのツアーで訪れる各地でキャンペーンを行うなど、地道な活動を続けていた。キャンペーンについては、ヤマハの楽器店等で「松本によるギターセミナー」と称して開催されたものの、来場者は若い女性が多く、実際はセミナーを早めに切り上げて後半をB'zのお披露目コンサートの時間に当てる、といったものだった。メンバーは「(多くのファンと)握手しすぎて手から指紋が消えた」「(お辞儀のしすぎで)一日が終わると体が"くの字"から戻らない」などと語ったことがあり、キャンペーンや挨拶回りはかなりのハードスケジュールだった。しかしながら、デビューしてしばらくは苦戦が続いた。デビューシングルの「だからその手を離して」はオリコン集計でもカウントされない程度しか売れず、またデビューアルバム『B'z』は発売当初はオリコンチャート初登場48位で、100位以内には4週ランクインしたのみであった。続く2ndアルバム『OFF THE LOCK』も、発売当時は初登場35位で100位以内には4週ランクインしたのみであった。その後1989年にリリースしたミニアルバム『BAD COMMUNICATION』が、ブレイクのきっかけとなる。このアルバムに収録された同名の曲が、タイアップの効果もあり有線で注目され始め、オリコンチャートに(10位以内には入らなかったものの、)163週ランクインするロングヒットを記録した。1990年リリースの3rdアルバム『BREAK THROUGH』が初登場3位となり、B'z初のオリコンTOP10にランクインする。同年リリースの4thシングル「BE THERE」がシングルチャート初登場7位となり、そして続いてリリースされた5thシングル「太陽のKomachi Angel」が初のオリコンチャート1位を記録し、ブレイクを果たした。その勢いそのままに、90年代はミリオンセラーを連発する。1991年リリースの8thシングル「LADY NAVIGATION」が初のミリオンセラーを記録する。1993年リリースの12thシングル「愛のままにわがままに 僕は君だけを傷つけない」は、202万枚とダブルミリオンを記録する。その後も、1995年リリースの18thシングル「LOVE PHANTOM」が180万枚の大ヒットを記録するなど、「LADY NAVIGATION」から20thシングル「Real Thing Shakes」まで、13作連続でミリオンセラーを連発する。1998年には、ベストアルバム『B'z The Best "Pleasure"』が500万枚、『B'z The Best "Treasure"』が400万枚と2作のベストアルバムが大ヒットを記録するなど、人気を不動のものとする。2000年にも、27thシングル「今夜月の見える丘に」が、シングル15作目のミリオンセラーを記録した。ブレイク以降もユニット活動を継続し、2015年までにアーティスト・トータル・セールス約8,216万枚等の日本記録を数多く打ち立てる。また日本国内での活動を継続しながらも、日本国外での活動や日本以外のアーティストとの共演が顕著になっていく。初の日本以外でのライブとなった2001年の台北公演を皮切りに、香港公演や全米ライブツアー等も開催した。また、2007年にはロックンロール・音楽界に貢献したアーティストを讃える「」に、日本・アジア圏のミュージシャンとして、初の殿堂入りを果たした(後述)。ユニット名である「ビーズ」は、世間的には抑揚をつけない平板な読み方(例えば「リール」「レール」に近い読み方)が主流であるが、『ミュージックステーション』(テレビ朝日系列)でメンバーが語ったところによると、正しい読み方は先頭にアクセントを置いたものであるとされる(例えば「プール」「シール」に近いアクセント。以降は正式な読み方を便宜上「ビィズ」と表記する)。また『NHKスペシャル』(NHK)においてB'zを特集した際、NHKは先頭にアクセントを置いた読み方を採用している。これについてNHK側は「ご本人たちもファンも関係者もみんな(「ビ」にアクセントを置いて)『ビィズ』とよんでいます」と回答した。平板な発音の方が一般に定着した理由についてNHK放送文化研究所は「(NHKの)番組内での発音については、責任者が決めている」という前提を置いた上で、「ギター、ドラマ、映画、ディレクター。こういった言葉は、かつては頭を高くした発音がされていたと思うのですが、今は平たく言うほうが主流ですね。日本語の習性として、言葉が出来て、馴染みが薄いときには頭にアクセントを置く、そしてその言葉が口をついて出る回数が増えるにつれ、どんどん後ろに移動して、落ち着いていくというものがあります。「ビーズ」と平べったい発音になるのは、自然の流れなのでは」という見解を語っている。なおメンバーは「自分達はビィズと呼んでますが、どちらでも呼びやすいように呼んで下さい。」と発言している。ユニット名の由来については、メンバーはインタビューなどで「深い意味はない」と前置きしているものの、以下の由来を語っている。ユニット名の条件として「現代的な記号のようなものがいい」というものがあり、企業のロゴのように意匠化しやすい名称が求められていた。最初のユニット名の候補としては、英語のアルファベットの最初の文字と最後の文字を用いて、「A to Z」「AからZのすべてをカバーする」という意味を込めて『A'z(アズ)』が挙げられた。ところが、「A'z≒エイズ(AIDS)」と読まれる可能性があることに気付いたため、これを回避。代案として「"A"の次は"B"だろう」という理由で『B'z』とした。その後、「B」から始まる名前のバンドは、非常に力強いバンド(ビートルズ等)が多いことが分かり、また「『B'z』だと憶えやすそう」という意見もあり、現在の名前となった。上記の由来は、主に2000年代以降にメンバーが語ったものである。しかしながら、それ以前は由来について触れている文献の内容やメンバーの発言には一貫性が無く、曖昧なものも多かった。そのことについて、松本は2012年のインタビューで「昔は適当に答えていた」と語っている。以下に、上記の由来以外のものについて記載する。B'z結成当時、日本の音楽シーンが「バンドブーム」を迎えていた中、B'zは当時としては異色であった2人組のユニットという形式でデビューした。松本はこのことについて「セッションミュージシャンとして限界に来てて、グループをやるタイミングだと思って動き出しただけで、バンドブームとは関係のないところにいたから」と語っている。しかし松本は、当初ベースやドラム担当を含めた4人くらいのバンドを考えており、実際に何人かに当たってみることはしていたという。当時を振り返り松本は「最初のうちは(ドラムやベース担当といった)他のメンバーも探すつもりだったが、(稲葉と)2人でデモテープを作っているうちに「2人でもいい」と思うようになり、2人でいこうということになった」「バンドって4 - 5人いても、重要なものを飾るのは2人くらいでしょ? だったら2人がいいかなって思った。(中略)僕のギターと気に入ったボーカルさえあれば、後はサポートメンバーを入れればいいだけの話。稲葉と2人でやっていこうと思った。」と語っている。2人組ではあるがリーダーは松本が務めている。毎年ライブツアーを主体とした活動を行っており、テレビへの露出は少ない。音楽番組の出演は多いが、『ミュージックステーション』(テレビ朝日系列)、『COUNT DOWN TV』(TBS系列)などに出演する程度である。年末年始は『NHK紅白歌合戦』などの大晦日・正月の特番には一切出場しないため、年末最後のテレビ出演(仕事納め)は『ミュージックステーションスーパーライブ』(テレビ朝日系列)となることが多い。また、NHKやwowowでドキュメンタリーの放送が放送されることもある。近年になってはテレビ出演の機会は減少の傾向にあり、2007年の『ミュージックステーションスーパーライブ』にて「SUPER LOVE SONG」を披露したのを最後に、音楽番組での演奏披露は2011年3月まで行われておらず、テレビ出演自体も2009年に『ブザー・ビート〜崖っぷちのヒーロー〜』(フジテレビ系列)の宣伝番組にコメントを寄せて以来出演していない状態が続いていた。その後、2011年4月1日放送の『ミュージックステーション3時間スペシャル』に3年4カ月ぶりに出演して以降、翌年の『ミュージックステーションスーパーライブ2012』に出演、デビュー25周年となる2013年には6月14日放送回のミュージックステーションで『B'zスペシャル』と題し4曲を披露、さらに翌年の2014年には互いのソロ作品でミュージックステーションに出演し、B'zとしても年末年始に数本のテレビ番組に出演するなど、以前ほどではないがメディア露出の機会が増えてきている。また音楽以外の活動(バラエティ番組出演、CM出演、俳優活動など)には消極的な姿勢を見せている。音楽以外の活動などについて松本は「才能のある人が多い時代だから、バンドをやっている人でも音楽以外のフィールドに出て行く人って多いでしょう?でも僕らはあくまでも音楽活動をメインにしていきたい」「音楽のフィールドを固めていくことが、バンドを長続きさせる秘訣だと思っている」と語っている。ただし過去には、ラジオ番組のパーソナリティを務めたことがある。東海ラジオ『Come on JTB B'z WAVE-GYM』(両名)、『WAVE-GYM Vol.0』(稲葉)、TOKYO FM『BEAT ZONE』(松本)ではレギュラーを務め、単発ではニッポン放送『オールナイトニッポン』(1992年、1995年、2000年、2001年、2003年、2005年)と、多数のラジオ番組のパーソナリティを務めたことがある。また、デビュー23年目の2011年に、B'z初となるタイアップでのCM出演を果たした。ファンクラブ 「B'z Party」の加入者数は2008年時点で延べ人数で58万人を超える(休眠会員含む)。一方で、ギタリストで音楽評論家のマーティ・フリードマンは、「B'zはあれだけ人気なのに、フォロワー(B'zのスタイルを模倣して音楽をする人)がいない」という点を指摘しており、その理由としては「(B'zは)テクニックがめちゃくちゃあるし、2人とも自分だけの独特なスタイルを確立しているから、マネしたくてもできないんだと思う」と推測している。初期の作品はギターサウンドを抑え打ち込みを前面に出したTM NETWORKに近いデジタルサウンドであった。これについて松本は「B'zの初期は、確かに(自分がサポートメンバーとして参加していた)TMの流れを汲んでいた」「TMから始まったものが今の僕のスタイルの一部にはなっていると思う」「B'zの初期はテッちゃん(小室哲哉)の影響が大きかった」と語っていたり、メンバーは「デジタルでは絶対に音が作れないギターとボーカルを、デジタルビートと融合させる、というコンセプトで活動している」とも発言していた。松本はライブやレコーディングにTMNのサポートメンバー時代の仲間である阿部薫や久保こーじを招いていた。ブレイク以降は様々にスタイルを変え、デジタルダンスビートから生の管楽器や弦楽器を導入したアレンジや、4ピースバンドロックなどという風に時代ごとに特徴がある。11thシングル「ZERO」や14thシングル「Don't Leave Me」の頃からロックサウンドへの移行が顕著になって行き、同時に打ち込み音を使用する割合は徐々に減少傾向になる。近年の楽曲はハードロックを基調とし、ライブ感を重視したものとなっている。ハードロック以外にもアコースティック調、ジャズ調、ファンク調、レゲエ調、ブルース調、ラテン調、マーチ調、GS調、昭和歌謡調など様々な曲風の楽曲も制作している。ギタリストで音楽評論家のマーティ・フリードマンは、B'zの曲風について「B'zとアメリカのロックバンド・エアロスミスとを比較し、「B'zはエアロよりも現代的な音であり、東洋的なメロディーや繊細なアレンジなどはエアロには無理である。またエアロはブルースが基本であるが、B'zは日本的な歌謡曲の作り方である。」と評している。デビューした1988年から2009年までシングルは毎年リリースされていた。特に1988年リリースの1stシングル「だからその手を離して」から2008年リリースの45thシングル「BURN -フメツノフェイス-」までの約20年間、シングルのリリース間隔が1年以上開いたことはなかった。加えて、スタジオアルバムも1988年リリースの1stアルバム「B'z」から2011年発売の18thアルバム「C'mon」まで、ほぼ1年半に1作のペースでリリースされていた。2010年以降はメンバーそれぞれのソロ活動がメインになることが増え、2010年と2014年はB'zとしてのリリース自体されなかった。2011年に2枚、2012年に1枚シングルをリリースしたが、それ以降はしばらくシングルのリリースがなく、2012年発売の50thシングル「GO FOR IT, BABY -キオクの山脈-」から2015年発売の51stシングル「有頂天」までは自身最長である2年9ヶ月のリリース間隔となった。また、スタジオアルバムも「C'mon」から2015年発売の19thアルバム「EPIC DAY」のリリース間隔が3年8ヶ月と最長となった。映像作品として、ライブツアー終了後そのライブ映像を収録したものがVHS・DVD・Blu-ray Discでリリースされている。その他、ミュージックビデオ集と、アルバム製作過程を収めたドキュメンタリー作品がそれぞれ1本ずつリリースされている。ライブツアータイトルは、一貫して『LIVE-GYM』と銘打っている。シングルCDにおける2曲目以降の楽曲をB'zのメンバーは「カップリング」「c/w」などとは呼称せず、シングルの1曲目を1st beat(ファースト・ビート)、2曲目を2nd beat(セカンド・ビート)と呼んでいる。31stシングル「ultra soul」以降は3曲以上収録されているシングルも発売されており、その場合は3曲目以降を順に3rd beat(サード・ビート)、4th beat、5th beatとしている。両A面シングルの2曲目にもこの表記は用いられている。両A面シングルや3rd beat収録のシングルが存在するため一概には言えないが、基本的に「2nd beat」=「B'zのシングルのカップリング曲」と認識されている。実際には、「2nd beat」という表記が用いられ始めたのは4thシングル「BE THERE」からである。なお、作品によっては「2nd Beat」と表記されているものもある。2000年以降はLIVE-GYMやSHOWCASEで演奏されない場合が多く、客出しに使用された未発表曲が収録されることも多い。アルバムにも収録されていない2nd beatの曲が人気となったり、タイアップがついたりする事がある。2nd beatは、オリジナル・アルバムには収録されることは少ないが、ベスト・アルバムやマスト・アルバムに収録されている曲も少なくなく、また、4thシングル「BE THERE」から13thシングル「裸足の女神」までの10枚はマキシシングル化され再発された為、入手はさほど困難ではなくなっている。1990年から1994年まで、B'zメンバーを中心とした音楽製作集団『B+U+M』を結成していた。名称の由来は「B'z Unreal Music」の略である。ギタリストである松本とボーカリストである稲葉の2人で構成されるB'zが、「自分たちのみでは実現できない音楽を実現する」という目的で結成した集団で、主にB'zの楽曲の編曲やサポートメンバーとしての楽曲演奏などといった活動を行った。1990年5月25日発売のシングル「BE THERE」からクレジットされた。その後、「B'zは2人である」という意義を再確認するため、1994年11月21日発売のシングル「MOTEL」を最後に解散した。1990年2月21日発売のB'zの3rdアルバム『BREAK THROUGH』には、『B.U.M』という楽曲が収録されている。曲中で「We're B'z & Funky Crew」という、B+U+Mを示唆した歌詞が現われている。メンバーは以下の通りである。また、B.U.Mはメンバー自身が取締役も務めていた自身の所属事務所の名前であった。1990年頃に創設され、1995年に彼らのプライベートレーベルに『VERMILLION』を使用し2001年に所属事務所も同名に改名、さらに2002年にレーベル名を『VERMILLION RECORDS』に改称した。またB'z結成12周年の際に、B'z初のオフィシャルブック『B'z TWELVE』が発行されたが、その本の著者は「B'z Unreal Music」名義となっている。実際の内容は、B'zメンバーの過去の発言をまとめた語録集、及びメンバーと関わってきた音楽ライターやカメラマン、プロデューサーらによる寄稿であり、上記のB+U+Mメンバーとは関係はない。Z'b(ズービ)とは、B'zメンバーがLIVE-GYMで洋楽のカバーをしていたときに使っていた名前。B'zとは別人という設定。Z'bとして『Z'b LIVE HOUSE TOUR』というツアーを1回開催し、またB'zのライブに一部登場したりした。1991年を最後に登場していない。その後、2015年のB'zファンクラブの会報誌の「Q&A」コーナーにて、ファンからの「Z'bはもうやらないのか」という質問に対して、松本は「多分やらないと思います」と回答している。メンバーは以下の通りである。Z'bとして演奏した主な曲は以下の通りである。音楽評論家の大貫憲章は、R25の取材に対して、熱心なリスナーではないため印象論でしかないという前置きをした上で、ハードロックサウンドとシャウト、稲葉浩志の外見の良さなどによって、B'zが日本の一般人が想定するロックのイメージをわかりやすく体現しているためではないか、としている。また、音楽プロデューサーの亀田誠治は、B'zの曲がヒットする要因を、ヒット曲に必要な条件である「アーティストパワー」「楽曲のパワー」の両方を兼ね備えている「勝ち組安定型」と定義した。継続して売れ続けていることがCDショップで積極的に売り出されることにつながり、そのことがまた売り上げにつながっているとした。この傾向はMr.Children・サザンオールスターズ・スピッツも同様であるとしている。NHKスペシャル(NHK)2008年10月7日放送回において、「B'zが売れる秘密を知るため」としてB'zの密着取材を行ったドキュメンタリー『メガヒットの秘密 -20年目のB'z-』が放送された。その番組内でメンバー本人に「B'zはなぜ売れるんですか?」と質問したところ、松本は「感覚かな、野性の勘ですよね。『これはイケる!』っていう…。」と答え、稲葉は「とにかく『手を抜いてない姿を見せる』というのがテーマでやっているので、そこが(ファンに)伝わってれば何らかの結果は出て来るんじゃないかなとは思ってますね」と答えた。また番組のラストのナレーションでは、B'zが売れる理由を「取材を通じて見つけたのはあまりにもシンプルな答えだった。それは、愚直な努力をコツコツと積み重ねる2人の姿だった。」とした。B'zを論評する時に、避けて通れないのが「パクリ」であるといわれている。『マルコポーロ』94年10月号では、8曲を例に挙げて「パクリのオンパレード」と評しており、『音楽誌が書かないJポップ批評14』では、メロディ、リフ、アレンジなどのテーマごとに、計38曲の元ネタを明かしているとしている。2枚のベストアルバムの記録的大ヒットを受けて、朝日新聞で特集された際にも、「洋楽のパクリというのはよく言われていること」と紹介されていた。音楽ライターの夏至明および別冊宝島編集部が「B'zはファン以外からはどうみられているか」を調査した結果によると、ロックや音楽に通じている層からは「パクリ・ネタが露骨すぎ」「ビーイングという出自から来る商業主義の匂いへの嫌悪」と見られているとしている。また、大滝詠一や奥田民生など他のアーティストなら「リスペクト」や「オマージュ」として好意的に解釈されるのに、なぜB'zだけが叩かれるのか、という点について、様々な分析がされており、元ネタへの愛情と知識の蓄積量、元ネタを商品の「タネ」としかみなしていない創作姿勢の差であるという意見、元ネタであるハードロックに対する評価がそのままパクリの質として評価されているという意見、「パクリ」という行為から読み取れる思想がないという意見、B'zのメーンリスナー層と元ネタであるハードロックが共有されないことで、「共犯関係」を築けないためであるという意見などがある。この問題についての作曲者である松本の発言として、夏至明は以下のインタビューを引用している。松本 「よくいるでしょ。この曲のここはツェッペリンだな、とかいう人。それをまるですごいことでも発見したようにいう人、いるじゃない(笑)。僕らはそういう次元ではやってないんだよね。あくまでも楽しんでやっていることだから」- 「遊び心があるわけですよね」松本 「たとえば、B'zの曲の中に「スモーク・オン・ザ・ウォーター」のフレーズを入れちゃおうか、とかね」- 「でも、必ず“あれパクリだぜ”とかいうヤツがいるでしょ(笑)」松本 「いるよ(笑)。ピントがずれてるよね。ロック好きなヤツがバンドやって、そうならない方が不思議だよ。遊ぶ側のセンスだし、聞く人のセンスの問題だと思うけど」。夏至明はこの問題について、B'zだけの問題ではなく西洋のロックを範とするJ-POPに構造的に内包されているものであるとし、1999年の『音楽誌が書かないJポップ批評3』にて、B'zを「全肯定」する論陣を張った。ただし2007年には、この「全肯定」が「永遠の翼」にみられるような保守回帰傾向に荷担してしまったかもしれない、という反省と後悔をしている。2007年9月21日に結成20周年に突入したB'zが、ハリウッド・ロックウォークに殿堂入りとなった。ハリウッド・ロックウォークはロックを芸術として、また、音楽を発展させるのに大きな貢献をしたミュージシャンを讃えるべく、1985年11月、ハリウッドの中心に位置するギターセンター・ストアに設立された。エルヴィス・プレスリー、ジョン・レノンら170組を超えるミュージシャンが殿堂入りしており、館内にはミュージシャンのサイン入りプレートや手形、ギターなどが展示されている。B'zは176組目の受賞者となり、日本・アジア圏のミュージシャンで選ばれたのはB'zが初という快挙になる。主な選出理由は20年の長きに渡る活動、日本で一番のCDの総売上げ、米国でのライブツアーを成功させた実績、過去の受賞者スティーヴ・ヴァイの推挙などである。ヴァイは「B'zはとても才能があり、ロック・ウォークが彼らのような英語圏以外のアーティストに注目したのは素晴らしいこと。心からおめでとうと言いたい」と祝福した。11月19日正午(現地時間)にハリウッド・ロックウォークで授賞式が一般公開で行われ、B'zの二人の手形が刻まれた。(2015年時点)(2015年8月時点)(2013年3月時点)CMラジオ特別番組アニメ
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。