扶桑(ふそう/ふさう)は、日本海軍の戦艦。扶桑型戦艦の1番艦。日本独自の設計による初の超弩級戦艦である。扶桑の由来は日本の古い異名の一つであり、同名を頂く艦としては二代目となる(初代扶桑は1879年竣工の装甲フリゲート)。艦内神社は男山八幡宮(石清水八幡宮)および伊勢神宮。日露戦争後の1906年(明治39年)、イギリスが弩級戦艦ドレッドノートを就役させると、列強各国の間で建艦競争が勃発した。弩級戦艦はすぐに超弩級戦艦へ進化し、日本海軍も金剛型巡洋戦艦1番艦金剛をイギリスに発注し、ヴィッカース社の指導・支援の下その同型艦を国産で建造することでイギリスより新たな技術を学ぶ事に成功した。扶桑型戦艦は日本海軍最初の超弩級戦艦である。扶桑は第三号戦艦として1912年(明治45年)3月11日に呉海軍工廠で起工された。1914年(大正3年)3月28日に第三号戦艦は扶桑と命名。伏見宮博恭王立会いのもと進水。同日附で戦艦に類別される。1915年(大正4年)11月8日に竣工した。3万t級の巨艦をドックで建造することは、世界初の試みであった。ドック方式の進水式は船台進水より派手さがないため、扶桑の場合は圧縮空気で紙吹雪を飛ばしている。1923年(大正12年)9月1日、関東大震災が発生。9月3日、扶桑は東京出身の海軍兵学校生徒をのせて東京へ向かった。扶桑はワシントン軍縮条約後に主砲天蓋の強化や主砲指揮所の新設などの改装を受けた。1930年(昭和5年)4月に呉海軍工廠で近代化改装に入り、1933年(昭和8年)5月12日にその工事は完了した。問題となっていた主砲発射による爆風の対策として、艦橋部分の新設と改装、装甲防御の増設と改善、更に7.6センチ砲等対空砲の搭載と、主砲仰角の引き上げという具合に攻防両面の能力向上が図られた。機関部は艦本式タービンや重油専焼缶への換装が行われ最大速力が24.7ノットへ向上、前部缶室区画が居住区や燃料タンクにされ航続距離が16ノットで11,800浬になった。この時に増設した艦橋の頂上までの高さは、およそ水面から50m以上にも達し、同型艦の山城と共に日本戦艦中最高となった。全長11m級の巨大な精密模型も製作され、海軍兵学校の「扶桑講堂」に展示された。高い艦橋が不安定に見えるようになったが、艦橋形状と三番砲塔の向きの違いが山城との区別点となっている。なお建造当時は扶桑も砲口が艦尾方向を向いていた。第一次改装後に機関出力がほぼ倍増され、速力も公試時には24ktを発揮したが、、安定して24.5ktの速力を出せる伊勢型戦艦2隻(伊勢、日向)、最高速力25kt強の長門型戦艦2隻(長門、陸奥)と戦隊を組む事には支障があったともされるが、長門型や伊勢型と同じ戦隊を組むことができたという当時の艦長の証言もある。なお、ワシントン軍縮条約の前後に扶桑型を41cm砲搭載艦にする改装案があったが、条約で主砲や舷側装甲の変更が禁止されたため実現しなかった。1933年(昭和8年)11月15日附で、高松宮宣仁親王(海軍大尉、昭和天皇弟宮)が扶桑分隊長として配属される。荒木艦長以下が特別待遇をするので、親王が呆れる事もあった。謎の自殺者が出た際には『いやはや不景気な艦である』と評している1934年(昭和9年)2月4日、連合艦隊司令長官末次信正中将が巡視に訪れて激励した。4月1日、戦艦の魚雷装備廃止にともない、有田雄三(扶桑水雷長)は重巡摩耶に転任した。6月29日、演習中に駆逐艦2隻(深雪、電)が衝突、深雪は扶桑の目の前で沈没した。9月11日、扶桑以下第一艦隊は舞鶴を出発。朝鮮半島を経て旅順港等を航海する。26日より第一戦隊旗艦は扶桑から日向に変更となった。艦隊は青島市を経由して、10月5日佐世保に戻った。第二次近代化改装は、第一次から僅か一年後の1934年(昭和9年)10月下旬から実施され、1935年(昭和10年)2月19日まで、同じく呉で行われた。この時にバルジを増設、艦尾を約5メートル程延長し、全長も212.75mとなった。水平防御の強化された他、艦橋上の測距儀も8mのものに換装され射撃指揮装置も一新された。対空火器の増設や水上偵察機の搭載を行った。後年のレイテ沖海戦には電探も搭載された。機関も改修され出力が5000馬力増加し、改装後の公試では24.7ktを発揮した。外観上の特徴としては、煙突が1本になった。捷一号作戦の頃は扶桑型が示した速力は改装前と変わらない18kt~21.5kt程度に止まり、日本戦艦中最も遅い戦艦となったとされる。一方で、戦闘運転で26ノットを出したという証言もある。主砲一斉射撃時の爆風についても鶴岡信道(第33代扶桑艦長。当時大佐)は特に問題なかったとするが、遠距離射撃時の散布界が広くなる傾向は否めなかったとしている。また水平防御(対250kg爆弾)については不安を抱えており、『結果的には、扶桑、山城という戦艦は、本来、太平洋戦争で使ってはならないフネだったわけですね。』と回想している。太平洋戦争緒戦では、真珠湾攻撃に向かった南雲機動部隊の後詰め・曳航艦として山本五十六連合艦隊司令長官が座乗する第一戦隊(長門、陸奥)他第一艦隊各艦と共に出撃した。北緯30度、東経160度の「K点」まで進出する予定だったが、12月11日に反転、12月13日に日本・柱島泊地に戻った。扶桑乗組員への功績評価は「功労甲」であった。1942年(昭和17年)のミッドウェー作戦では5月29日に日本を出撃、6月4日に第一戦隊(大和、長門、陸奥)以下主隊と分離しアリューシャン諸島へ向かった。だがアメリカ軍と交戦することはなく、6月17日に日本へ戻った。それ以降の4隻(扶桑、山城、伊勢、日向)は出撃機会もなく、いわゆる『柱島艦隊』として、実弾射撃訓練に従事したり、海軍兵学校の練習艦として使用された。このミッドウェー海戦で日本軍は主力空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)を喪失する。空母不足に陥った日本軍は、金剛型戦艦、扶桑型戦艦、伊勢型戦艦、青葉型重巡洋艦、利根型重巡洋艦を航空母艦へ改造することを検討する。工事が長引く全通飛行甲板型の空母への改造案は破棄され、航空戦艦への改造計画がまとまる。検討の結果、日向の五番砲塔爆発事故の関係から伊勢型戦艦のみを航空戦艦に改造した。1943年(昭和18年)6月1日、扶桑艦長は古村啓蔵大佐から鶴岡信道大佐に交代(古村大佐は、6月9日附で大和型戦艦2番艦武蔵艦長)。6月8日、瀬戸内海柱島泊地に停泊していた扶桑および長門、大淀、龍田等は長門型戦艦2番艦陸奥の爆沈に遭遇した。陸奥艦長三好輝彦大佐は、扶桑艦長室にて鶴岡(扶桑)艦長(6月1日発令。6月7日扶桑に到着。三好大佐とは海軍兵学校の同期)と歓談したあと陸奥に戻り、爆発にまきこまれて戦死した。扶桑や長門以下各艦は共同で陸奥生存者の救助をおこなった。7月には、長門と共に航空隊の演習目標艦となった。なお、同型艦の山城が日本本土にとどまっていたのに対し、扶桑はトラック泊地に進出することになった。8月17日、連合艦隊司令長官古賀峯一大将直率の主力部隊(戦艦3隻《大和、長門、扶桑》、空母《大鷹》 、巡洋艦3隻《愛宕、高雄、能代》、駆逐艦部隊《涼風、海風、秋雲、夕雲、若月、天津風、初風》)として呉を出撃し、23日トラックへ到着。以降はトラック泊地で待機した。10月下旬、山城や航空戦艦に改造されたばかりの伊勢が扶桑用36cm主砲弾や大和型戦艦用の46cm砲弾を運搬している。姉妹艦達が輸送任務を終えて日本に戻っても扶桑はトラック泊地にとどまり、1944年(昭和19年)2月のトラック島空襲直前にリンガ泊地へ移動している。
1944年5月中旬、長門とともに機動部隊・乙部隊に臨時編入。5月14日にタウイタウイへ進出。1944年(昭和19年)6月初旬の渾作戦に、渾部隊指揮官左近允尚正第十六戦隊司令官指揮のもと、扶桑は第十六戦隊(青葉、鬼怒)、第五戦隊(妙高、羽黒)、第十駆逐隊(風雲、朝雲)、第十九駆逐隊(浦波、敷波)、第二十七駆逐隊(春雨、五月雨、白露、時雨)と共に出撃、ビアク島に上陸したアメリカ軍を撃退すべく同方面に進出した。アメリカ艦隊を誘い出すための陽動部隊(囮)であった。重巡洋艦羽黒から扶桑を目撃した福田幸弘主計科士官は、『大正六年竣工のこの旧式戦艦が、その特色のある前のめりの前檣楼を高々と聳えさせて、南海の前線に参加している孤影には何か哀感があった』と回想している。6月3日、アメリカ軍哨戒機に発見された事、アメリカ軍機動部隊出現の報告(誤認)など受けて退避、間接護衛隊(扶桑、風雲、朝雲)および各隊はミンダナオ島のダバオへ戻った。扶桑の士官によれば、扶桑と重巡洋艦青葉がいち早く退避したことで司令官は叱責されたという。日本軍機動部隊が完敗したマリアナ沖海戦には参加せず、そのままダバオで待機を続けた。7月1日、第四駆逐隊(山雲、野分、満潮)と共にブルネイを出港。野分士官は「この戦艦の乗員にすれば鶴首久しく、まことに心強い味方の来訪であったろう」と回想している。タラカンに寄港して燃料を満載つつ(2日~8日)、日本本土へ向かった。14日、敵潜水艦と思しき存在に対し照射射撃を行う。第四駆逐隊とは宿毛湾で分離した。扶桑は呉工廠にて修理と機銃の増設工事を行った。扶桑がダバオで待機中の6月27日、第三艦隊司令長官小沢治三郎中将は次期作戦において『長門ハ速力、戦力ノ関係上 大和、武蔵ト別個ノ行動ヲトラシメ、山城、扶桑ト共ニ第二戦隊ヲ編成 遊撃部隊ニ編入スルヲ可ト認ム 戦隊編成困難ナルトキハ機動部隊附属ニテ可ナリ』と意見具申した。これに対し軍令部は、第二戦隊(長門、扶桑、山城)を第二遊撃部隊(第五艦隊基幹)(指揮官 第五艦隊司令長官志摩清英中将:旗艦那智)の直率にする意向を示した。協議の結果、軍令部は小沢中将の主張を容れる。9月10日附で第二戦隊(司令官西村祥治少将:扶桑型戦艦《山城、扶桑》)が編制される。長門は第二戦隊(山城、扶桑)のリンガ進出(10月4日同地着)をもって第一戦隊(大和、武蔵、長門)から外されて第二戦隊に編入、第二戦隊および第一遊撃部隊第三部隊旗艦の予定となる。ところが9月16日、第一戦隊司令官宇垣纏中将は長門第二戦隊編入計画に対し『此の切迫せる時機は全く不適當にして長門の戦力を發揮せしむる所以に非ず』と反発、長門が西村艦隊旗艦としてスリガオ海峡に突入する事はなかった。9月22日、第二戦隊(山城、扶桑)は第十七駆逐隊(浦風、浜風、雪風、磯風)に護衛されて内地を出撃、ブルネイを経由してリンガ泊地へ進出した。1944年(昭和19年)10月25日未明、扶桑は第一遊撃部隊(第二艦隊)第三部隊(通称西村艦隊)指揮官西村祥治第二戦隊司令官の指揮のもと、全7隻(戦艦2隻《山城、扶桑》、重巡洋艦1隻《最上》、駆逐艦4隻《満潮、朝雲、山雲、時雨》)という戦力でレイテ湾へ突入中、スリガオ海峡でアメリカ艦隊の集中攻撃を受け、駆逐艦時雨を残して全滅した。扶桑も雷撃され沈没した。経過は以下の通り。10月22日朝、栗田艦隊(第一遊撃部隊 第一部隊・第二部隊)はブルネイ泊地を出撃、西村艦隊(第三部隊)は午後3時に同泊地から出撃した。対空機銃を増設した関係で、扶桑には定員より多い約1300名が乗艦していたとされる。劣速で航続力の少ない第三部隊は当初より第一遊撃部隊(指揮官栗田健男第二艦隊司令長官)とは分離し、敵哨戒機により発見される可能性が高い代わりにレイテ湾への最短航路を経由する事が決定されていた為、同24日、第一遊撃隊とは別コースのスリガオ海峡を通り抜けてレイテ湾を目指した。西村艦隊は栗田艦隊(とくに戦艦武蔵)がアメリカ軍機動部隊の攻撃を一身に受けていたために、西村艦隊はミンダナオ海で急降下爆撃機約20(空母エンタープライズ、フランクリン所属機)による空襲を受けたのみであった。扶桑ではカタパルト附近に爆弾1発が命中、航空用ガソリンに引火して約1時間燃え続けた。最上は『扶桑後部ニ爆弾一命中観測機一機炎上 後部ニ破口ヲ生ジタル外大ナル被害ナシ』と報告し、西村司令官は栗田長官にあてた電報で「戦闘力発揮支障ナシ」と報告した。『雑誌丸エキストラ 5月号別冊』によれば、至近弾で後部甲板に装着していた爆雷が爆発し、搭載していた九四式水偵2機に引火。水偵に搭載していた小型爆弾が爆発した事で後部甲板は火の海となり、舵取機室以外の司令官室とその周辺の用具庫などを吹き飛ばされただけでなく、前艦橋右舷の第一カッター・ダービット近くの甲板にも命中弾を受ける事となった。また、空襲の際に投下された250kg爆弾は副砲の一番砲廊を貫き、中毒者収容室と被服庫の辺りを貫通し、前部水圧機室で爆発した。この爆発によって水圧機室は大破し付近の防水隔壁が押し上げられた事で、扶桑中甲板と上甲板の床を突き上げられるという損害を受けただけなく、副砲一番砲員、弾火薬庫員がほぼ全滅し、医務室士官、前部応急員十数名が即死し被服事務室、厨房事務室が破壊された。更に、前部水圧機室が破壊された事で扶桑の第一、第二砲塔の操作に支障が起き、被弾のショックで浸水が発生し右舷に2度傾斜した。応急処置がほどこされたものの、傾斜は復元されず、そのままの状態で進む事となった。同日夜、アメリカ海軍の魚雷艇部隊がスリガオ海峡の入り口に待ち構えていたため、西村艦隊は重巡洋艦最上と駆逐艦3隻(朝雲、満潮、山雲)を先行させ、直率3隻(山城、扶桑、時雨)の探照灯で魚雷艇を攻撃つつ航行した。明けて10月25日、ジェシー・B・オルデンドルフ少将が率いるアメリカ軍の第7艦隊第77任務部隊第2群は、丁字陣形で西村艦隊を待ち構えていた。西村艦隊は満潮→朝雲→山城《旗艦》→扶桑→最上、旗艦(山城)の右1.5kmに山雲、左に時雨という単縦陣で海峡に侵入した。さらに完全な単縦陣に移行しつつ砲撃を開始、魚雷艇部隊や駆逐艦隊に向けて砲弾を放った。午前3時、アメリカ軍の駆逐艦隊は魚雷多数(27本)を発射、うち1本が扶桑右舷に命中した。最上戦闘詳報では午前3時以降の攻撃で扶桑右舷中央部に魚雷が命中して落伍、最上が山城の後ろに続行したと記録している。一連の雷撃により、駆逐艦3隻(満潮、山雲、朝雲)は沈没するか戦闘不能となった。なお、西村中将は扶桑が落伍したことを知らなかったとみられる。一方、時雨は落伍した艦を山城、健在艦を扶桑と誤認していた。その後午前3時10分(アメリカ軍記録0338)、扶桑第三・第四砲塔の弾火薬庫が誘爆した事で大爆発が発生し、扶桑の艦体は真っ二つに割れた。魚雷命中後、扶桑では反対舷への注水が行われ傾斜は徐々に復元して行った。しかし、2本目の魚雷が再度第二砲塔付近の右舷に命中した事で電源が破壊され、艦内は暗闇に包まれた。また、この際弾火薬庫に海水が流入したため、第二砲塔は使用不可能となった。この時点で艦首は海中に没し、後甲板が高く浮き上がっていたが、第一砲塔が波避けとなり右前方に傾斜した状態で右旋回をしながらなおも前進を続けていた。その後、総員退去が命じられ退去が始まった頃、右傾していた扶桑は左に急転倒してそのまま艦首から海底へ沈んでいった。この際に逆立ちとなり第六砲塔に至るまでの艦体の大部分が沈下した扶桑艦尾でスクリューがまだ回っていたのが確認されている。一方、時雨は扶桑(実際は山城)に対し『我貴隊に続行す』を発信、西村司令官(山城座乗)は扶桑に対し『出し得る最大速力知らせ』を発信した。古村啓蔵少将(元扶桑艦長、第二水雷戦隊司令官)は先に山城が沈没し、阪匡身少将(扶桑艦長)が西村艦隊の指揮を継承したのち3隻(扶桑、最上、時雨)を率いて突進した…と記述している。同様の記述(山城が魚雷命中により午前3時すぎに爆沈、扶桑艦長が残存艦《扶桑・最上・時雨》を指揮して突入)は一部の書籍でも散見される。午前4時以降、アメリカ戦艦部隊・巡洋艦部隊・駆逐艦部隊の砲雷撃集中により西村司令官は戦死(山城沈没)、最上、時雨共に損傷してスリガオ海峡より反転・撤退した。同時刻、レイテ湾の状況をつかめないまま航行していた第二遊撃部隊(指揮官志摩清英第五艦隊司令長官:重巡洋艦2隻《那智、足柄》、第一水雷戦隊《阿武隈〔一水戦司令官木村昌福少将〕、霞、不知火、潮、曙》)は、前方に閃光や砲声を認めつつ戦場に到着した。彼等は海峡中央で火達磨となった艦影二つ(霞戦闘詳報によれば三つ)を確認した。一つは炎上中の最上であった。志摩艦隊の将兵は残る二つの艦船を2隻(扶桑、山城)と判断したが、実際には分断された扶桑であった。第二遊撃部隊は扶桑残骸の西側を通過しようとしたが、那智は低速退避中の最上と衝突した。その後、志摩艦隊は避退に成功した。アメリカ軍によれば、扶桑艦首前半部分は午前4時20-30分頃に沈没し、転覆して浮いていた艦尾後半部分は午前5時20分頃に重巡洋艦ルイスビル("USS Louisville, CA-28")が砲撃して沈めた。退避中の「朝雲」も追撃してきたアメリカ艦隊の砲撃で沈没。最上も25日午前中に空襲を受けて、駆逐艦曙により雷撃処分された。最後まで山城と扶桑を誤認していた駆逐艦時雨は、損傷しつつも離脱に成功した。多くの資料で扶桑艦長の阪匡身少将を含む幹部以下全員が戦死したとあるが、記録では扶桑所属乗組員7名がマニラ地区の地上兵力に編入された。異説としては扶桑にも山城と同様10名の生存者が戦後帰還しているとする江崎寿人大尉(山城主計長)の証言がある。また、戦後レイテ沖海戦時扶桑二分隊主砲二番砲塔換装室員であった小川英雄一等兵曹(当時)が沈没時の様子を描いた手記を残している。1945年(昭和20年)8月31日、戦艦4隻(山城、武藏、扶桑、大和)、空母4隻(翔鶴、信濃、瑞鶴、大鳳)は帝国軍艦籍から除籍された。
出典:wikipedia
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