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フェラーリ

フェラーリ("Ferrari S.p.A" )は、イタリア、モデナ県マラネッロに本社を置く自動車メーカー、F1等のモータースポーツコンストラクターである。レーシングカー、グランツーリスモ及びスポーツカーのみを製造している。1929年にアルファロメオのレーシングドライバーであったエンツォ・フェラーリがレース仲間と共に「ソシエタ・アノニーマ・スクーデリア・フェラーリ」を創設した。当初は裕福なモータースポーツ愛好家をサポートするディーラーチームであり、4輪の他にオートバイ部門もあった。1932年にエンツォはドライバーを引退してチーム運営に専念し、アルファロメオがワークス活動を休止するとマシンを借り受け、セミワークスチームとして活躍した。当時イタリアを率いていたベニート・ムッソリーニの主導によるイタリア政府のサポートも受けて、タツィオ・ヌヴォラーリなどの強力なドライバーラインナップを擁して、数々の勝利を記した。その後チームは1938年にアルファ・コルセへ吸収合併されるが、翌年エンツォが経営陣と対立し、「フェラーリの名では4年間レース活動を行わない」という誓約を残して退社した。1940年にイタリアが第二次世界大戦に参戦し、レース活動が禁止されるとフェラーリは工作機械製造の経営者となった。その後1943年8月にイタリアが連合国に降伏し、イタリア北部はドイツ軍の占領下になったこともあり自動車製造やモータースポーツ活動は禁止された。しかし1945年5月にヨーロッパにおいて第二次世界大戦が終結すると、間もなくマラネッロに自前の自動車工場を設立し、その後しばらくの間フェラーリのエンジンを設計することになったジョアッキーノ・コロンボらを擁して自前のレーシングカーを開発するようになった。フェラーリ社としての処女作は、創業初年度の1947年に製造したレーシングスポーツ「125S」であった。その後、1948年に発表した「166インター」よりGTカーの少数受注生産を開始した。当時は車体(シャシーとエンジン)のみを製作し、ボディはカロッツェリアに委託していた。その後2010年代まで60年以上続くピニンファリーナとの関係は「212インター・カブリオレ」(1952年)より始まる。その後、エンツォの友人でアメリカにおける輸入販売代理店を経営していたルイジ・キネッティの勧めにより、当時の世界最大の自動車市場であるアメリカ市場向けの「340アメリカ」 (1951年)や「340メキシコ」(1952年)など、次第に車種と販路を拡げていったが、いずれも旧モデルとなったレーシングカーをデチューンしてロードカーに仕立て上げ、貴族や富豪などを中心に販売していたものであった。その後「250」シリーズで初めてレーシングカーを基にしない市販車の製造を開始した。初代「250」は「暑い」、「うるさい」、「乗り心地が悪い」、「故障が多い」などオーナーからの不評も多かったが、シリーズを重ねるごとに改良は進み、操作性や快適性は増して行き、当時「世界最速の2+2」と称された「250GTE」などいくつかのモデルは、純粋なレーシングカーから離れて行き公道専用車種となった。一方で、「250MM」や「250GTO」などの2シーターモデルは、モータースポーツへの参戦のためのホモロゲーション取得を目的としたもの、もしくは多少のモディファイをすることで各種レースへの参戦も可能とした「ロードゴーイング・レーサー」であった。実際に、エンツォは自社の市販車に「スポーツカー」という言葉は用いなかったばかりか、乗り心地や快適性を求める購入者を蔑んでさえいた。その後フェラーリの市販車は品質や機能性を高めて行き、生産台数を順調に増やして行ったものの、その価格は依然として高価なものであった。しかし、これらのフェラーリの市販車は、F1をはじめとするレースにおける活躍によるブランドイメージの向上や性能の高さ、デザインの美しさが高い評価を受けて、ヨーロッパや北米を中心に高性能市販車としての地位を確固たるものとして行った。また、欧米においてはスウェーデンのグスタフ6世国王やイランのモハンマド・レザー・パフラヴィー国王などの王族や貴族、アーガー・ハーン4世やポルフィリオ・ルビロサなどの大富豪やジェット族、スティーブ・マックイーンやイングリッド・バーグマンなどのアーティストや映画俳優などといったセレブリティが愛用し、その姿が世界各国のニュース映画や雑誌の紙面を飾ったこともそのブランドイメージを押し上げる結果となった。なお、フェラーリは、現在に至るまで自社製品の広告を全く行わないことでも知られている。エンツォは「12気筒エンジン以外のストラダーレ(市販車)はフェラーリと呼ばない」と公言していたという逸話が残っており、この逸話通りこの頃生産されていたすべての市販車はコロンボやアウレリオ・ランプレディが設計したV型12気筒エンジンを搭載していた。なお、「250GTルッソ」(1964年)や「275GTB/4」(1966年)をはじめとして、1973年にデビューした「365GT4BB」から1995年に生産を中止した「512TR」までの期間を除き、現在の旗艦モデルの「F12ベルリネッタ」に至るまで、限定生産車を除く市販車のトップレンジを担っているのはフロントエンジン(FR)、V型12気筒のモデルである。このようにフェラーリは世界各国で高い名声を勝ち取ったものの、エンツォによる過剰なモータースポーツへの投資や、当時イタリア北部で勢力を増していたイタリア共産党などの左翼政党が後援した労使紛争とそれがもたらしたストライキ、さらに1961年11月にはカルロ・キティら主要メンバーによるクーデターが勃発しカルロ・キティやジオット・ビッザリーニら役員8名がフェラーリを去るなどの事件が起きたことも影響し、1960年代初頭には経営が苦境に陥った。1963年にはアメリカ合衆国のフォードとの間で買収交渉を進めたが、調印寸前で交渉は決裂。これに不快感を持ったフォードは後に独自のスポーツカー「フォード・GT40」を開発し、その資本力にものを言わせてル・マン24時間レースでフェラーリを打ち破ることになる。その後、F2用エンジンのホモロゲーション取得のため、イタリア最大の自動車メーカーであるフィアットとの提携が始まる。エンツォの亡児アルフレード(ディーノ)の名を冠したV型6気筒エンジンは、市販車の「206/246」と2+2モデルである「208GT4/308GT4」に搭載された。これらの6気筒エンジン搭載車は、前述の「12気筒エンジン以外のストラダーレ(市販車)はフェラーリと呼ばない」というエンツォの言葉通り、フェラーリの名が冠されることはなかった(後に「246」のアメリカ市場向けモデルの後期型に、販売戦略上フェラーリのロゴが付けられることとなった他、「208GT4/308GT4」の後期型に正式にフェラーリの名が冠された)。この6気筒エンジンはフィアット・グループ内の様々なブランドでも取り扱われ、「フィアット・ディーノ・クーペ/スパイダー」と「ランチア・ストラトス」が生まれた。キャブレター、カム、ピストンに至るまでフェラーリ、フィアットともにまったく同じ仕様で排気レイアウトの関係上フィアットの方が有利なのにもかかわらず、マーケティング的配慮からなのか馬力が少ない表示となっていた。その後フィアットとの提携が進み、1969年にフェラーリはフィアット・グループ傘下に入ることで経営の安定を図ることになる。その後エンツォは、元来興味の薄い市販車部門からは一切の手を引いて、レース部門(スクーデリア・フェラーリ)の指揮に専念した。フィアット・グループのジャンニ・アニェッリ会長の指揮のもと、フィアットからの人員を様々な部門で受け入れる中で、1970年代中盤にスクーデリアのマネージャーに就任したのが、フィアット・グループ創業者のアニェッリ一族につながる家柄の出身で、のちにフェラーリ会長(とフィアット・グループ会長)を務めるルカ・ディ・モンテゼーモロであった。1972年にはマラネッロの本社工場の西側にある果樹園を取得し、新たにF1や市販車のテストコースとして使われる「フィオラノサーキット」が造られ、併せてサーキット内にエンツォの別宅も設けられた。また1973年には、名車と称された「365GTB/4」を引き継いでフェラーリのトップレンジを担う12気筒モデルとして「365GT4BB」が登場した。同車はフェラーリの市販車として初めて最高時速300キロを超えるモデルとなり(公称時速302キロ)、またV12気筒ミッドシップはその後約20年に渡り生産されるヒット車種となる。市販車部門を親会社のフィアットの意向が支配するようになった結果、6気筒エンジンを搭載した「206/246」に代わる最廉価モデルかつミッドシップの量産2シーターとして、1975年に「208/308」が生まれた。これらは新たに開発されたV型8気筒エンジンを、ピニンファリーナのレオナルド・フィオラヴァンティがデザインしたFRPボディに搭載した(これはイタリアの労働ストライキにより当初予定していたスチール製ボディの生産が間に合わなくなったためであり、1977年には通常のスチール製ボディに戻された)。V型8気筒エンジンを搭載する「ピッコロ・フェラーリ(小型フェラーリ)」シリーズは、「208/308」の後継モデルの「228/328」や、「208GT4/308GT4」の後継モデルの「モンディアル」と併せて2万台以上が生産される、フェラーリ史上最大のヒット作となった。さらに「208/308」と「モンディアル」のV型8気筒エンジンは、フィアットの意向を受けてフィアット・グループ内のランチアのレーシングマシンや、高級セダンである「テーマ8.32」に使用された。この時に始まったフェラーリのV型8気筒路線は「348」、「F355」、「360」、「F430」や「458イタリア」、そして現在の「488GTB」へと発展し、自動車メーカーとしてのフェラーリの収益の屋台骨を支える系譜となった。なお12気筒エンジン搭載モデルの刷新も行われ、1973年に発表された「365GT4BB」は1976年に改良版である「512BB」に引き継がれ、さらに1984年には新設計の「テスタロッサ」とその後継の「512TR」へ引き継がれた。1984年にはグループB公認の288GTOを開発し、限られた台数が生産され販売された。288GTOはあくまでFIAグループBの公認を取得するために規定生産台数をクリアするため限定生産となったものであるが、その後創業40周年記念モデルの「F40」(1987年)が限定生産、販売され、エンツォの死去と世界的な好景気を背景に人気を博したことから、以降はこのような限定生産を節目の年に行うことになる。創業50周年には「F50」(1997年)、創業55周年には、ピニンファリーナに在籍していた日本人デザイナーの奥山清行がデザインした「エンツォ・フェラーリ」(2002年)、そしてフェラーリとして初めてのハイブリッドである「ラ フェラーリ」(2013年) といった限定生産モデル(スペチアーレ)や既存車種の限定生産モデルを発表し、フェラーリが選択した顧客に対して販売している。1988年8月にエンツォが腎不全により没した。イタリアが誇る自動車会社の創始者かつ、F1におけるイタリアの「ナショナルチーム」の創設者の死去に際してイタリア全体が喪に服した。生前に行われた取り決め通り、エンツォが所有していた株はフィアット・グループによって買われ、フェラーリはレース部門も含めてフィアット・グループの管理下に収まった。なおその後もリナ・ラルディとの間に生まれた次男のピエロ・ラルディ・フェラーリがフェラーリの株を10パーセント所有し、フェラーリの副会長を務めている。エンツォ亡き後、『エンツォのいないフェラーリはフェラーリ足り得るか』とも言われ、その行き先が危惧されたが、エンツォの死後3年が経過した1991年11月には、フィアットのジャンニ・アニエッリ会長の肝いりで、かつてはエンツォの下でスクーデリア・フェラーリのマネージャーとして辣腕を振るい、サッカーワールドカップ・イタリア大会の事務局長を務めたルカ・ディ・モンテゼーモロがフェラーリ社長に就任した。モンテゼーモロは就任後ただちに市販車部門の品質と生産効率の向上に着手し、「348」の大幅改良版である「F355」や、新たに開発した12気筒エンジンを搭載した2+2モデルの「456GT」、「550マラネロ」や「360モデナ」などの新型車を次々に開発、市場に投入した。これらの新型車は、劇的な品質の改善による故障の低減や質感の向上、そして安全性の向上のみならず、セミAT「F1」やパワーステアリング、アンチロックブレーキやフルオートエアコンなどの投入、手荷物スペースの拡充などにより、女性や初心者など、これまでフェラーリに手を出すことのなかった新たなオーナー層の拡大に成功し、世界各国の市場においてこれまでにない好調な業績を上げた。同じく新体制を敷いたスクーデリア・フェラーリは直ちに好成績を上げるには至らなかったものの、2000年代に入るとコンストラクターズ部門で複数年連続でタイトルを奪取するなど絶頂期を迎えることとなった。新体制を率いて改革を成し遂げたモンテゼーモロはその手腕を買われ、ジャンニ・アニエッリ会長の死後の2004年6月に親会社フィアット・グループの会長に就任。就任後ただちにフェラーリの傘下にマセラティを加えて、マセラティにフェラーリのエンジンを搭載し、さらに製造工程においても一部を統合させるなど、ブランドイメージの向上と合理化を同時に行うことで長年経営状況が安定しなかった同社を復活させ、さらには苦境に陥ったフィアット・グループをも建てなおした。2007年には設立60周年を迎え、2008年には初のクーペカブリオレである「カリフォルニア」を発売したほか、同年にはアジアでは初の現地法人として日本法人を立ち上げた。さらに中華人民共和国やインド、ロシアなどの新興国において積極的な事業展開を進めた結果、リーマン・ショック後に世界経済が低迷する中でもヨーロッパ諸国や日本、アメリカなどの主要市場で好調な販売実績を維持した。また2000年代後半から2010年代にかけては、中古のF1マシンの販売とメンテナンスを行う「F1クリエンティ」や、「FXX」や「599XX」等の台数限定のサーキット走行専用モデルの開発と販売、メンテナンスを行う「XXプログラム」を開設したほか、製造から20年以上経過したモデルのレストア及び承認プログラムである「フェラーリ・クラシケ」の設立など、モータースポーツの技術とノウハウ、そして歴史と高い名声を生かして顧客の様々な要求に答える上に、高い収益性を持つ様々なプログラムを提供している。さらに、ブランド(ライセンス)ビジネスも好調に推移し、収益の3割を占めるほどに成長した。さらに同時期には、ヨーロッパの自動車メーカーに与えられた市販車の二酸化炭素排出規制などに対する環境対策に本格的に力を入れ始めており、2009年にはフェラーリ初のV型8気筒直噴エンジンを搭載した「458イタリア」の販売を開始したほか、2010年にはフェラーリ初のハイブリッド機能「HY-KERS」を搭載した「599 HY-KERS」を公開した。同年には、フェラーリ初のアイドリングストップ機能や燃料ポンプ、電動エアコンの圧縮制御などのパフォーマンスを維持しつつ環境負荷を減らすシステム「HELE」を搭載した「カリフォルニアHELE」を発表した。高性能と低燃費の両立を目的にした「HELE」(「High Emotion Low Emission」の略である)システムは、「458イタリア」や、2011年に発表された、フェラーリ初の4輪駆動システムを持つV型12気筒直噴エンジン搭載の4座シューティングブレーク「FF」(フェラーリ・フォー)や、トップモデルの「F12ベルリネッタ」にも搭載されている。2013年には、「HY-KERS」を搭載したフェラーリ初の市販ハイブリッドカーである「 ラ フェラーリ」を、2014年にはラ フェラーリベースにしたサーキット走行専用モデルの「FXX K」を発売した。なおラ フェラーリ発売当時にモンテゼーモロ会長は「完全な電気自動車を発売する事は考えていない」とコメントした。しかし市販車の二酸化炭素排出規制などに対する対策は急務とされ、2014年に発表された「カリフォルニアT」と、2015年に発表された「488GTB」では、さらなる高性能と低燃費の両立を目的にしてV8エンジンのターボ化が行われた。リーマン・ショック終息後の世界的な好景気を背景に、全世界での販売が好調を続ける中でも2010年代に入って以降はF1では低迷が続き、コンストラーズ・チャンピオンを獲得できない年が続いた。さらにニューヨーク証券取引所上場とその後の経営方針を巡って、モンテゼーモロ会長の後を次いでフィアット・クライスラー・オートモビルの最高経営責任者となったセルジオ・マルキオンネとモンテゼーモロ会長の確執が、2013年頃からイタリアのメディアを中心に伝えられた。2014年9月には、イタリアグランプリの開幕直前にイタリアのメディアを中心にモンテゼーモロの退任が噂されたものの、本人はこれを否定した。しかし同月にこれまで24年に渡ってフェラーリの経営を引っ張ってきたモンテゼーモロの退任が発表された。11月に退任した後はマルキオンネがフェラーリ会長を兼務することとなった。2015年10月21日にはニューヨーク証券取引所に上場。上場初日の初値は60ドルで終値は55ドルだった。取引の際に使われる証券コードは「RACE」を採用している。2016年1月3日、フィアットグループ(フィアット・クライスラー・オートモビルズ)はフェラーリの同グループからの離脱独立の手続きが完了したと発表した。これでフェラーリは再び独立した会社となったが、その後もフィアットが大株主で経営に影響力を持ち続けることには変わりはなく、マルキオンネがフェラーリ会長を兼務することや、マセラティのエンジンの委託生産が引き続き行われるなど、フィアットグループとの関係は様々な形で継続している。現在販売されている全車種が日本に正規輸入されている。なお現在、日本国内の正規販売代理店で販売されている488シリーズ、カリフォルニアT、FFとF12には、7年間のフェラーリ純正メンテナンスが無償で付帯している。フェラーリは古くから左側通行のイギリスを主要市場のひとつとしていることから、右ハンドル仕様車が一部を除く車種に用意されてきた。イギリスと並ぶ重要市場(世界6大市場- 日本、イタリア、イギリス、アメリカ合衆国、中華人民共和国及び香港、ドイツ)の日本でも、現行全車種に右ハンドル仕様車が用意されている。また日本市場は、これらの主要市場の中でも特に環境対策に関心が高い市場である事から、世界で唯一「HELE」システムが、限定モデルやサーキット専用モデルを除く全てのモデルに標準装備されている。なお、新車を正規販売代理店で注文したオーナーには、注文後2年間「フェラーリ・マガジン」が無料で送付されるほか、自分か注文した車両と同じ内外装の精巧な模型の送付、生産中の車輌の画像などがセットになった「コンタクトプラン」が無料で提供される。"年数は発表・発売・デビュー年"全車種ともにフェラーリ純正パーツやアクセサリーを選択できるのみならず、「カロッツェリア・ スカリエッティ・プログラム」と呼ばれるオプション・プログラムにより用意された数多くの内装色や外装色、内装の素材などを、好みの通りに組み合わせることができる(追加料金が必要)。なお、「カロッツェリア・ スカリエッティ・プログラム」に対応した専用施設として、マラネッロの本社や正規販売代理店のショールーム内に「フェラーリ・アトリエ」が設置されている。さらに内外装を、「カロッツェリア・ スカリエッティ・プログラム」によって用意された仕様以外の好みのものに自由に選ぶことができる「テイラーメイド・プログラム」が2012年より導入された。デニム生地にした内装や、ニキ・ラウダ時代のスクーデリア・フェラーリのF1マシンからインスピレーションを受けた内外装など、まさに自分の意のままの内外装に仕立て上げることができる。なおこのプログラムは、ジャンニ・アニェッリの孫で元フィアットの国際マーケティング部長のラポ・エルカンが主導し導入された。2000年代以降に生産台数が年間数千台になってからも、「550バルケッタ・ピニンファリーナ」(2000年)や「575スーパーアメリカ」(2004年)、「スクーデリア・スパイダー16M」(2010年)、「599GTO」(2010年)や「SAアペルタ」(2010年)、「F60アメリカ」(2014年)や「458スペチアーレ・アペルタ」(2014年)、「F12TdF」(2015年)など、既存のモデルを元に製作された限定生産モデルを生産している。これらの限定生産モデルは、発表時に生産台数(数台から数百台)がアナウンスされた上で、フェラーリ本社と各国の現地法人、もしくは正規ディーラーが選択した、過去に正規ディーラーから複数台を購入したことのある優良顧客に対してのみ案内、販売される。生産台数が限られていることもあり、多くの場合、これらの顧客への案内と同時にほぼ完売し、一般の顧客に新車の状態で販売されることはない。フェラーリはかねてからFIAのホモロゲーション取得を目的に、一から設計された限定生産台数モデルを生産、販売してきたが、1984年にグループB参戦のためのホモロゲーション取得を目的として、「308シリーズ」を元にほぼ一から設計された「288GTO」を開発し、限られた台数を生産し販売した。その後1987年に創業40周年を記念したモデルとして「F40」が限定生産、販売されたが、翌年のエンツォの死去と世界的な好景気を背景に人気を博したことから、初期に設定していた限定生産数を大幅に超える台数を生産した。以降フェラーリはこのような「スペチアーレ」と呼ばれることになる、一から設計された限定生産モデルを節目の年に出すことになり、創業50周年の1997年には「F50」を、創業55周年の2002年には「エンツォ」を、2013年には「ラ フェラーリ」と、それぞれ数年の間をおいて限定生産モデルを発表している。これらの車種は、「F40」のオーナーとして著名であったルチアーノ・パヴァロッティや、フェラーリマニアとして知られるジェイ・ケイなどの、過去に「スペチアーレ」を正規ディーラーを通じて購入した顧客や、「F1クリエンティ」や「XXプログラム」、「フェラーリ・チャレンジ」の顧客をはじめとする、フェラーリ本社と各国の現地法人が選択した顧客に対して、1号車の完成より前の段階で案内される。限定生産モデルより高価で生産台数が少ないにも関わらず、多くの場合、これらの顧客への案内と同時にほぼ完売し、一般の顧客に新車の状態で販売されることはない。これらの「スペチアーレ」には、その後の生産モデルに採用される新機軸やテクノロジー、デザインモチーフが先取りして用いられることも多く、フェラーリの最新テクノロジーのショーケースとなるのみならず、優良顧客の囲い込みと優良顧客育成のツールとなっている。創業以来1958年ころまでフェラーリは、市販モデルやレーシングモデルを元に製作した世界に1台の特注車両「ワンオフモデル」を製作、販売していた。この中でも特に著名なのが、イタリアの映画監督のロベルト・ロッセリーニが「375 MM」を元に1954年に注文した「375 MM ピニンファリーナ・ベルリネッタ・スペチアーレ」で、その他にもアーガー・ハーン4世やレオポルド3世などのそうそうたる大富豪や王族がワンオフを発注したものの、フェラーリはその後ワンオフモデルの受注を受け付けなくなった(なおその後もフィアットのアニエッリ会長向けに「テスタロッサ」のスパイダー仕様が製作された他、モンテゼーモロ会長向けに「360スパイダー・バルケッタ」が製作されるなど、経営陣向けにごく少数のワンオフモデルが生産されることはあった)。しかしその後約50年を経て、日本の世界的に著名なフェラーリのコレクターで、フェラーリ・クラブ・オブ・ジャパンの元会長(その後フェラーリ・オーナーズ・クラブ・ジャパンの発起人となる)で実業家の平松潤一郎の依頼を受けてモンテゼーモロ会長がワンオフの制作を了承し、2008年にレオナルド・フィオラヴァンティがデザインしたワンオフモデル「SP1」を製作した。これをきっかけにフェラーリは、自社の手によるワンオフモデルの受注を再開した。2008年に平松がSP1の製作を依頼して以降、2016年2月までに7台(うち1台は未完成)のワンオフモデルの存在がフェラーリより正式に発表されている。なおそのうちの2台が世界6大市場の1つである日本人オーナーによる依頼である。また、これらのワンオフモデルは完成しオーナーに引き渡される時点で「フェラーリ・クラシケ」の証明書が発行される。なおそれ以前にもザガート(575GTZなど)やミケロッティ(メーラSなど)、ピニンファリーナ(456ベニスなど)などのカロッツェリアの手で市販フェラーリを改造した世界に1台しか存在しないモデルが製作されたことがあるが、これらはフェラーリが自らの手で製作したワンオフモデルではないため、ワンオフとは厳密に区別されているものの、歴史的価値から「フェラーリ・クラシケ」の証明書が発行される対象になっている。1980年代後半以降にクラシックカーの取引価格が高騰し、コレクターや投資家を騙す目的で製作された贋作がオークションなどを通じて市場に出回ったことや、コレクターによるレストアサービスに対する需要が高まったことから、2000年代に入り「フェラーリ・クラシケ(Ferrari Classiche)」と呼ばれる、生産開始から20年以上経ったクラシック・フェラーリに対するレストアやメンテナンスサービス、技術的なアシストを行う部署が置かれることになった。現在は、マラネッロの本社内におかれた本部において、レストアやメンテナンスサービス、技術的なアシストを行う専用のファクトリーが置かれているほか、これまでに生産されたフェラーリについての膨大な資料が保管されている。またこれらの資料を基に、ピエロ・フェラーリ副会長率いる認証委員会(「Comitato di Certificazione/ COCER」)が、クラシック・フェラーリやワンオフや限定車種のみならず、一般オーナーに向けて販売されたF1マシンをはじめとするレーシングカーなどの特別なフェラーリに対する鑑定を行い、パスした車体に対して真贋鑑定書も発行する。なお、一般オーナーに向けて販売された最新のF1マシンやXXプログラムのマシン、ワンオフや限定車種は、オーナーへ引き渡される時点でフェラーリ・クラシケの鑑定書が発行されるが、F1マシンやXXプログラムのマシンは、その後コルセ・クリエンティ部門を通じたメンテナンスを行なわずに純正でない部品を使用した場合は鑑定書が無効となる。また、マラネッロに車輌を持ち込めない地域にある場合、正規販売代理店とサービスセンターが鑑定の申し込み代理を行う。創業以来フォーミュラカーレース(F1・F2)、スポーツカーレース(プロトタイプ・GT)などに幅広く参戦している。F1では1950年の選手権初年度から唯一参戦を続けており、最多となる16度のコンストラクターズチャンピオンを獲得。スポーツカー世界選手権では1950年代から1960年代にかけて一時代を築き、ジャガーやフォード、ポルシェと覇権を争った。F1が始まって以来現在も参戦している唯一のコンストラクターである。なお、フィアットによる会社買収後、1974年以降はワークス(スクーデリア・フェラーリ)の活動をF1に一本化した。現在はF1は「ゲスティオーネ・スポルティーバ(Gestione Sportiva,GES)」部門が手掛けている。現在スポーツカーレース及びその他のモータースポーツは「コルセ・クリエンティ(Corse Clienti)」部門が手掛けており、開発と販売のみならず、GTレースにおけるAFコルセなどのセミワークスや「Racing with Ferrari」のロゴの使用が許可されたプライベーターの参戦もサポートしている。また同部門は「フェラーリ・チャレンジ」と呼ばれるワンメイクレースをヨーロッパとアジア・パシフィック、北アメリカで開催しているのみならず、F1マシンを所有するオーナーへのサポート(F1クリエンティ)や、サーキット専用車の「599XX」や「FXX」、「FXX K」などの「XXプログラム」のマネージメント及びオーナーへのサポートも行う。正規販売代理店で販売されたロードカーのオーナーで、かつフェラーリに承認された顧客に限り、フェラーリまたは各国の拠点を通じて数年落ちのF1マシンを購入することが可能である。またこれは「XXプログラム」の各車輌についても同様である。なお、2014年シーズン以降のF1マシンについては、KERSの管理上の問題により中古の販売を中止することが決定された。主な選手権・イベントにおける製造者部門(マニュファクチャラー/メーカー)の成績を以下に記す。なお、世界三大レースに数えられるインディ500へは、1952年に1度挑戦したのみで優勝はない。フェラーリの社章は、後足で立ち上がった馬の図柄を使用するため「跳ね馬」の愛称を持つ。この紋章はイタリア語で「カヴァッリーノ・ランパンテ」("Cavallino Rampante" )といい、「Rampante」は紋章用語で「気負い立ち」を意味するため、直訳では「気負い立ち馬」であるが、英訳では「(後肢で前へと)跳ねる馬」("Prancing Horse" )となっている。紋章の形状は長方形と盾形の2種類があり、上部にはイタリアの国旗と同じ三色(緑白赤)のラインが入っている。なお盾型(スクデット)の紋章は、本来はF1やフェラーリ・チャレンジなどモータースポーツに参戦、およびF1クリエンティとXXプログラムに参加しているマシン。モータースポーツに携わるゲスティオーネ・スポルティーバ部門とコルセ・クリエンティ部門、そして両部門に関連した業務に携わる各部門のフェラーリ社員と、エンジニアやメカニックなどの外部スタッフ、そしてドライバーに配布された衣料のみで使用できるものである。しかし現在は、普通のロードユースの車輌のフェンダー部に盾形の紋章がオプションとして用意されている他、一般向けに販売されているウェアや各種グッズにも盾形の紋章が使われている。本来この紋章は、第一次世界大戦時にイタリア空軍のエースだったフランチェスコ・バラッカが、自身の搭乗する戦闘機に付けていた。その由来には複数の説がある。1923年、アルファロメオのワークスドライバーだったエンツォ・フェラーリは、ラヴェンナで行われたチルキット・デル・サヴィオで優勝した。このレースを観戦していたパオリーナ夫人(バラッカの母親)はエンツォに亡き息子のシンボルであった跳ね馬の紋章を使うよう勧めた。第91a飛行隊にエンツォの兄アルフレードが所属していた縁もあり、エンツォもこの申し出を受け入れた。ただし、研究家によっては「英雄の母親とはいえ息子の部隊章の使用許可を与える権限はなく、この話はエンツォの創作ではないか」と考察している。1932年、スパ24時間レースに出場したスクーデリア・フェラーリのマシン(アルファロメオ製)に初めて跳ね馬の紋章が付けられた。2004年にデビューしたF430のエンジンは、傘下のマセラティのクーペやクアトロポルテと共通であり、フィアット、ランチア、マセラティとその心臓部分を共有した歴史があるが、アルファロメオとは共有したことがなかった。しかしアルファロメオ・8Cコンペティツィオーネの市販決定により、ついに母(アルファ)と息子(エンツォ)のコラボレーションが成立したことになる。フェラーリと共に高級スポーツカーの代名詞とされるポルシェの社章にも跳ね馬があしらわれているが、これはポルシェの本社があるシュトゥットガルト市とそれを含むバーデン=ヴュルテンベルク州の紋章を組み合わせたものであり、偶然ではあるが両社はエンブレムの由来でつながりを持つ。フェラーリの「イメージカラー」としては赤(ロッソ)が非常に有名であり、赤がコーポレートカラーであるというイメージが浸透しているが、この色はそれ以前にモータースポーツにおけるイタリアのナショナルカラーであり、アルファロメオやチシタリア、スクーデリア・イタリアなど他のイタリアの自動車会社やレーシングチームでも使用されている。本来のフェラーリのコーポレートカラーは会社があるモデナ県のカラー「黄色(ジャッロ)」であり、フェラーリの黄色い外板色の名前は「ジャッロ・モデーナ」とされている。また跳ね馬の背後にもコーポレートカラーがあしらわれているが、これはシュトゥットガルト市の紋章の背景が黄色だったため(ただしポルシェのエンブレムは金色)。現在では「ロッソ・スクーデリア」や「ロッソ・コルサ」、「ロッソ・フィオラノ」など数パターンの赤系の色が用意されている。また暗黙のうちにコーポレートカラーに含まれているので、量産車の新車発表時には、車種によっては赤色と黄色の車両も用意するように配慮されている。イギリスのブランド価値調査機関ブランド・ファイナンスがまとめた報告では、Googleやコカ・コーラを抑えて2013年の「世界で最もパワーのあるブランド」に選ばれた。スポーツカー専業メーカーとしてのブランドイメージを重視しており、市場人気のあるSUVやエンジン不要の電気自動車 (EV) には参入しない方針を示している。2012年には同社にとって過去最高の営業利益を記録したが、「憧れの対象」という高級感を維持するため、2013年にはあえて生産台数を7000台以下に抑えると発表した。世界的なブランドイメージを活かして各種企業とライセンス契約を結び、自動車関連から装飾品、アパレル、コンピュータ、玩具、インテリア商品まで様々なフェラーリ公式グッズの販売が行われている。これらの契約金は、本業以外の大きな収入源となり、フェラーリの全収益の約30%を占めている。知的財産権に関する取り組みとして、1999年にマテルがフェラーリと商品化権を独占的に使用する締結を結び、これ以降他社はフェラーリのミニカーを基本的に生産、販売できなくなり、世界中の自動車メーカーが商品化許諾の表記を掲載するようになった。ローマやミラノ、アブダビやドバイにある「フェラーリ・ストア(Ferrari Store)」の店舗や公式ウェブサイト内で、フェラーリの公式グッズやミニチュアカー、衣類や純正パーツなどを利用した装飾品の販売を行っている。2009年11月には、アラブ首長国連邦のアブダビにフェラーリのテーマパーク「フェラーリ・ワールド」が開園した。同パーク内には、世界最高速を誇るジェットコースターやドライビングシミュレーター、フェラーリ本社前にある著名なレストラン「カヴァリーノ」の初の支店などがある。また2014年12月には「フィナーリ・モンディアーリ」のガラ・ディナー・パーティーが全館貸し切りで開催された。創立から1965年まではフェラーリ本社と契約を結んだ正規輸入・販売代理店は存在しておらず、日本への輸入台数もごく少量に留まっていた。なお日本で初めて正規輸入車として登録されたフェラーリは1966年に登録された275GTBである。なお個人輸入というかたちではこれより先に数台が輸入されていた。1965年から1968年までは新東洋企業、1968年から1972年までは西欧自動車、1971年から1974年までは西武自動車販売、1975年から1978年まではロイヤル・モータース、1976年から2008年(1976年から1978年までは、ロニー・ホー大佐率いるイギリスのマラネロ・コンセッショネアーズの香港支店を経由した並行輸入扱い)まではコーンズ・アンド・カンパニー・リミテッドが輸入、販売を担当していた。しかしこれらの企業は、資金力や販売戦略の観点からショールームやサービスセンターの数を増やすことには消極的であった上に、並行輸入車の整備を受け付けていなかったことから、1991年11月のモンテゼーモロの社長就任以降、全世界規模で正規販売代理店の展開を拡大すると同時に、正規サービスセンターの展開を拡大することで既存オーナーへのアフターサービスの充実を図っていたフェラーリの戦略と齟齬をきたすようになってきた。また、1990年代以降、日本市場がフェラーリにとってイタリアやアメリカ合衆国、ドイツ、イギリスと並ぶ主要市場として重要な存在となったこともあり、フェラーリの全世界戦略を直接反映できる本社直轄法人の設立が急務とされ、2000年代中盤に入ると本格的な検討が始まった。2008年2月には本社直轄の日本法人の設立を発表した。その後設立準備室が設けられ、同年7月1日から東京都に本拠を置くフェラーリ本社直轄の日本法人である「フェラーリ・ジャパン」が輸入およびサポート業務を開始した。それ以降は同社が日本国内における輸入及び卸販売、アフターサポート、マーケティング及び広報業務、モータースポーツ活動に関する支援などを行うことになり、拡販とアフターサービスの充実を目的に、これまでフェラーリと直接契約を結ぶ正規販売代理店がなかった中四国地方や九州地方に正規販売代理店を開設、北海道や東北地方、北陸地方に整備と正規パーツの販売と認定中古車の販売を行う正規サービスセンターを開設するほか、東京都や神奈川県、兵庫県内にも新たな正規販売代理店や正規サービスセンターを開設するなど、ネットワークを全国に広げている。フェラーリ・ジャパンと正規販売代理店契約を結んだコーンズ・モーター(東京都、大阪府、愛知県)とロッソ・スクーデリア(東京都)、ニコル・コンペティツォーネ(神奈川県)、オートカヴァリーノ(兵庫県)、エムオート・イタリア(広島県)、ヨーロピアン・バージョン(福岡県)の6社が正規販売代理店となっており、新車の販売や認定中古車の販売、整備や正規パーツの販売、フェラーリ・チャレンジへの参加受付や各種サポート、フェラーリ・クラシケの承認受付などを行なっている。また、これらの正規販売代理店に併せて、モデナ・スポーツ・カーズ(北海道)、イデアル(宮城県)、グランテスタ(長野県、石川県)、エー・エル・シー (静岡県)が正規サービスセンターの指定を受けており、認定中古車の販売や整備と正規パーツの販売、フェラーリ・チャレンジへの参加受付や各種サポートも行っている。なお、これらの正規販売代理店と正規サービスセンターにおいては、正規輸入されたフェラーリのみならず、並行輸入されたフェラーリへの整備と正規パーツの販売も受け付けている。

出典:wikipedia

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