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大仁田厚

大仁田 厚(おおにた あつし、1957年10月25日 - )は、日本のフリーレスラー、政治家、タレント、俳優としても活躍。長崎県長崎市出身。元参議院議員。身長181cm、体重79kg(全盛時は105kg)。弟(異父弟)は大東文化大学法学部教授の松原孝明。2012年に現役プロレスラーとしてヘルパー2級を取得。株式会社 アルファ・ジャパンプロモーション所属。実家は風呂敷の製造・販売業。長崎県長崎市立磨屋小学校、長崎市立桜馬場中学校卒業。瓊浦高等学校に入学するも中退、日本一周徒歩旅行を計画。長崎県庁前から出発し神戸まで辿り着いたが、火事で家が全焼した知らせが入り断念した。ちなみに長崎県庁を出発する時に自分で地元マスコミを呼び、その様子が新聞に載ったというエピソードがある。41歳にして高等学校を再受験し合格。1999年4月、駿台学園高等学校定時制課程普通科第3年次編入学、2000年3月卒業。同年4月、明海大学経済学部に入学したが1年で中退。2001年4月、明治大学政治経済学部経済学科(夜学)に入学。国会議員、プロレスラー、タレントとして活動しながら大学に通い続け、社会人特別入試合格時には「4年というと嘘っぽくなるから、6年で卒業したい」と語っていたものの4年で卒業。1973年、日本一周徒歩旅行を断念後、ジャイアント馬場に憧れ、全日本プロレスに「新弟子第一号」として入門し、1974年4月14日の後楽園ホール大会における佐藤昭雄戦でデビュー。1981年に海外修業に出発、プエルトリコにてマサ・フチこと渕正信と合流後にアメリカ本土に乗り込み、ミスター・オーニタ("Mr. Onita")のリングネームでテネシー州メンフィスのCWAに参戦。トージョー・ヤマモトをマネージャーに迎え、渕とのコンビでジェリー・ローラー&ビル・ダンディーやロックンロール・エクスプレスとAWA南部タッグ王座を争った。遠征中の1982年3月7日、ノースカロライナ州シャーロットにて、チャボ・ゲレロの持つNWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座に挑戦、セコンドに付いたテリー・ファンクの目前で、敵地でのタイトル奪取を成し遂げた。王座奪取後、日本に帰国する前にメキシコ遠征を行い、サングレ・チカナに王座を奪われるものの、すぐに奪回し帰国する。このベルトを引っさげて凱旋帰国した大仁田は、当時ライバル団体の新日本プロレスで爆発的人気のあったタイガーマスクに対抗し、ジュニア戦線のチャンピオンとして活躍。ジェイ・ヤングブラッド、ウルトラセブン、チャボ・ゲレロ、ドス・カラス、チック・ドノバン、ジプシー・ジョーらを挑戦者に迎えて防衛戦を行った。佐山タイガーの4次元殺法のような華麗さ、アクロバティックさはないものの、無骨で荒々しく感情剥き出しなスタイルから炎の稲妻と呼ばれ人気を博し、馬場、ジャンボ鶴田、天龍源一郎に続く全日第4の男として注目されるが、1983年4月20日、東京都体育館でのヘクター・ゲレロとの試合終了後、リングを飛び降りる着地時に足を滑らせ、全体重がかかった状態で膝を床に打ち付けてしまい、左膝蓋骨粉砕骨折をしてしばらく欠場。一度は復帰するも、ウルトラセブン、マイティ井上、渕正信、マジック・ドラゴンらの台頭によるジュニア戦線の充実についていけず、馬場夫妻の勧告により1984年12月2日引退を賭けてマイティ井上と闘うも敗れ、翌1985年1月3日に後楽園ホールで引退式。馬場は付き人の大仁田を可愛がり、養子にしようと本気で考えており、馬場元子は引退式後に大仁田を抱きしめて涙していたため、馬場夫妻にとっては苦渋の決断だったことが伺える(川田利明は1997年2月に週刊プロレスでのインタビューにおいて「大仁田さんが最初に引退した時、元子さんは号泣していた」と語り、その1997年2月に大仁田は自身の愛弟子であるハヤブサを全日に参戦させようと馬場と交渉の場を持った。その際、馬場は大仁田を邪険に扱うことなく「欲しいものがあったら言え」と大仁田に伝え、ハヤブサの全日参戦を承諾した)。その後、全日時代の知名度を利用してタレントに転向し、小松政夫に弟子入り。『11PM』等にレギュラー出演するが、この時のタレント活動は長続きせずに辞めてしまう。その後、事業家として一時成功するが、すぐ没落して借金まみれになり、土木作業員や配達員を経てジャパン女子プロレスでコーチに就任。1988年、同じくコーチをしていたグラン浜田との団体内での遺恨の決着をリング上でつけるために、12月3日ジャパン女子後楽園ホール大会の浜田戦で現役復帰した。同時期には、旗揚げしたばかりの第2次UWFの会場へ顔パスで入場しアピールしようとしたものの、フロントに「チケット持ってますか?」と言われ一般ファン同様の扱いをされたがために会場に入れずに門前払いを受けた。翌1989年、剛竜馬率いるパイオニア戦志のリングに上がり、剛と対戦。さらに7月2日に開催された「格闘技の祭典」にて、空手家の青柳政司と対戦した後、手元にあった全財産5万円を元手に自らの団体FMWを旗揚げ。10月6日に名古屋市露橋スポーツセンターにて旗揚げ戦を行う(対青柳戦)。1990年8月4日に汐留で行われたターザン後藤とのノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチで一気にブレイク。この試合は東京スポーツ主催のプロレス大賞年間最高試合賞を受賞する。その後も川崎球場や西宮球場などの大会場で大掛かりなデスマッチを開催し続け、「涙のカリスマ」、「デスマッチの教祖」と異名を取る一方、1991年には日本テレビの『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』にも取り上げられ知名度を上げる。また、ザ・シークやタイガー・ジェット・シン、テリー・ファンクら往年の名選手を招聘し、幾多の抗争を展開した。1994年11月1日には新高輪プリンスホテルで、縫合個所「1000針突破記念パーティー」を開催。1994年5月5日の川崎球場大会のメインイベントで天龍源一郎と対戦するも敗北し、一年後の引退を宣言。翌1995年5月5日に、川崎球場で弟子のハヤブサと戦い、2度目の引退。引退試合まで一年間をかけて「引退記念ツアー」を銘打ち、大仁田の試合が見納めになると思ったファンを集めた。一時は俳優業に専念していたが、ミスター・ポーゴの「引退試合で、ライバルだった大仁田とタッグを組みたい」という願いを叶えるといったアングルで、この一試合限定という建前で1996年12月11日のFMW駒沢体育館大会で2度目の復帰戦を行い(大仁田、ポーゴ、田中正人、黒田哲広組 対 テリー・ファンク、大矢剛功、ザ・ヘッドハンターズ組)、そのままなし崩しにリングに上がり続けたが、荒井昌一社長、ハヤブサ、冬木弘道らとの対立が深まり、1998年11月20日の横浜文化体育館大会を最後に、FMWを追放される。この時の対戦相手は1997年に現役復帰したミスター・ポーゴであった。レスラーとしての大仁田厚のもう一つの顔。グレート・ムタのパロディーでもある。元々は、FMWが旗揚げして間もない1990年に、大仁田がアメリカ遠征を行った際、現地の試合でムタばりの顔面ペイントを施し試合を行い、当時の週刊プロレスの記事に『グレート・ニタ?』と紹介されたことをきっかけとする。その時は、遠征時だけの限定だと思われており、大仁田自身もこの『グレート・ニタ』に関しては全く語ることはなかったが、1994年にミスター・ポーゴとの抗争において12月1日の広島グリーンアリーナ大会で、正式にグレート・ニタとしてのデビュー戦を行う(ニタ、ホー・チー・ウィン組対ポーゴ、大矢剛功組)。素顔の時と違い、奇声を発したり、奇妙な行動などを行い、対戦相手を困惑させるファイトスタイルを用いる。ポーゴの凶器攻撃を受けきった後逆襲に転じる試合展開に徹し、大仁田ではできない残虐な攻撃を仕掛けるところに持ち味があった。大仁田2度目の引退試合に先立ち、1995年5月1日に大阪府立臨海スポーツセンターにおいてニタの引退試合が行われた(ニタ、田中正人、新山勝利組対ポーゴ、ザ・グラジエーター、保坂秀樹組)。試合後、ニタは大阪湾の彼方に消え、二度と現れないものと思われた。だが、大仁田が現役復帰して新日本プロレスに参戦した際、武藤敬司がニタの存在に不快感を示したのをきっかけに、ニタと本家グレート・ムタとの一騎討ちが決定。その際『ワールドプロレスリング』内では、二タが消えたとされる大阪南港を舞台にした「ニタ復活」の映像が放送された。その寸前まで真鍋由アナウンサーに対し「お前はグレート・ニタを見たいか!」「二タは生きている! 今から呼ぶ!」と吼えていた大仁田が、ニタとして大阪湾から現れ、真鍋が驚愕の表情を浮かべる顛末は、もはや奇天烈さすら感じさせる映像となった。1999年8月28日、神宮球場においてムタ対ニタが行われた(「ノーロープ有刺鉄線バリケードマット時限装置付き電流地雷爆破ダブルヘルデスマッチ」)。しかし盛り上がらぬ試合展開のままニタは敗北し、試合後「ニタは死んだ」として葬式が行われ、いつの間にか現れた大仁田は棺桶の前で嗚咽した。しかしその後、2003年にWJプロレスへの参戦に伴い、「ニタは今魔界から帰ってきた」というアングルで再び復活させ、5月3日のグランキューブ大阪大会で馳浩と対戦した(結果は「両者反則負け」)。FMW追放後は、新日本プロレスへ参戦。1999年1月4日の東京ドームでの佐々木健介戦を皮切りに、蝶野正洋、グレート・ムタ、長州力らトップレスラー相手に、メジャーの新日本マットで電流爆破マッチも実現。「大仁田劇場」と称された、真鍋由アナとのやりとりは、視聴者を楽しませた。また、新日本参戦とほぼ並行して、一部のインディー団体やFMWのOB・OGたちの協力を得て「大仁田厚プロレスリング」と銘打った自主興行を開催。小規模ながらも団体並みにシリーズを組んで、地方巡業も行った。2001年、「ジャイアント馬場三回忌追悼興行」で古巣・全日本に16年ぶりの参戦。テリー・ファンクと組み、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ジャイアント・キマラ組と対戦した。2003年には、WJプロレスに参加。越中詩郎と電流爆破マッチを行う。2005年3月26日午前、日本武道館での明治大卒業式に出席し、午後には、後楽園ホールでプロレス興行「プロレス卒業試合」を行う。試合は、矢口壹琅と組んで天龍源一郎&越中詩郎と対戦する「ノーロープ有刺鉄線ストリートファイトトルネード・バリケードマット・ダブルヘル・フライパンデスマッチ」で、これで3度目の引退となったが、すぐに「曙太郎とデスマッチをやりたい」と発言するなど、誰も本当に引退したとは思っていなかった(曙とのデスマッチは後述の通り2012年に実現している)。大方の予想を裏切らず、翌2006年には、「国のために死んでいった方々に礼を尽くす、記念すべき大会。もし良かったら参加させてほしい」と、4月1日の靖国神社奉納プロレス大会への参加を中村祥之代表らに直訴し、「大仁田厚提供奉納試合」として3度目の復帰戦を行う(大仁田、田中将斗、ランジェリー武藤組 対 ケルベロス、ヤヤ谷口、イチローキング矢口組)。当初はやはり「この一試合限り」ということだったが、2007年1月に正式にプロレスラー復帰を宣言。2月に行われるプロレス団体・二瓶組復活興行に参戦。それまで認める発言をしていた曙に対し「プロレスにはいらない存在、年内に葬り去る」と発言。2007年4月29日、夕張市でチャリティー興行(自主興行)を開催。自らも出場したメインの有刺鉄線デスマッチには、衆議院議員・鈴木宗男を特別レフェリーに迎え、破天荒な試合を繰り広げた。2008年2月5日、都内会見にて現役復帰を発表(通算5度目)。同月24日のLOCK UP後楽園大会に予告通り乱入し、長州力宛てにタッグ結成を申し出る手紙を渡す。乗り気な発言は見られなかった長州だったが、後日、リキプロ道場にて長州と対面しタッグ結成をほのめかした。4月、金村キンタローの復帰を思わしくないとする発言に、金村本人が激怒。後に開かれた大仁田の会見に金村が乱入し一触即発となった。5月、LOCK UPの大会にて、金村・折原昌夫vs大仁田・越中がメインに組まれたが、結果は大仁田が毒霧攻撃で反則負けとなった。この2月の会見後、フリーとなった若林健治アナ(元・日テレ)との掛け合いから、「大仁田劇場」も復活となった。2008年12月18日、「昭和プロレス 第2弾興行」後楽園ホールでメモリアルタッグマッチ(20分1本勝負)に出場。栗栖正伸とタッグを組み、グラン浜田・鶴見五郎組に敗退した。2009年9月26日 『大仁田興行』新木場大会。メイン終了後にターザン後藤が姿を現し,大仁田と握手した。2010年5月5日、『大仁田興行』新木場大会で、ターザン後藤と組みザ・グレートパンク&初代ザ・シューター組と対戦し、『6度目』の引退試合を行うが、すでにカムバックを匂わす発言もしている(過去にプロレス雑誌で“生涯現役”と豪語しており、カムバックの可能性大だと予測されている。また、ターザン後藤から大仁田の引退はFMW時代から全く認められていない)。2010年11月22日、ミス・モンゴルのデビュー15周年記念興行で、田中将斗&黒田哲広&ミス・モンゴルと組み、ミスター・ポーゴ&リッキー・フジ&ジ・ウインガー&保坂秀樹組と対戦。2012年初頭からは、リアルジャパンプロレスでの佐山聡、ZERO1での曙との抗争を立て続けに宣言したことをきっかけに、「邪道軍」としての活動を活発化。主に矢口壹琅、保坂秀樹を手下として行動を共にする機会が増加する。6月20日に初代タイガーマスクとデンジャラス・スペシャル・ランバージャックデスマッチで対戦するが敗北、曙との抗争でも、8月26日「横浜大花火」(横浜文化体育館)にノーロープ有刺鉄線バリケードマットダブルヘルメガトン電流爆破デスマッチで対戦し敗れている。この2件の抗争は継続することになる。なお、2012年8月より大仁田の興行は「○○大花火」(○○には開催地や開催地の名産品などが入る)となり、ファースト・オン・ステージが協力し、ファースト・オン・ステージが運営するZERO1が協力している。翌2013年2月8日「なにわ大花火」(大阪ボディーメーカーコロシアム第一体育館)において、曙と再戦。そのときの試合形式は、「ノーロープ有刺鉄線電流爆破なにわ地獄デスマッチ〜有刺鉄線電流爆破バット&有刺鉄線電流爆破椅子〜」で、従来の電流爆破デスマッチのシチュエーションに加え、衝撃を加えることで電流爆破が発生する有刺鉄線を巻きつけたバット及びイスをリング上に設置した状態で行う前代未聞のものであった。この試合で大仁田は有刺鉄線電流爆破バットでの一撃で曙を下し、リベンジを果たす。また、8月31日「横浜大花火」(横浜文化体育館)おいて、大仁田厚の化身「グレート・おおニタ」と、曙の化身「KILLER "ANY" WHERE」による「ノーロープ有刺鉄線メガトン電流爆破&史上初! 人間爆弾デスマッチ」も行われ、大仁田は全日本プロレスの白石伸生オーナーを人間爆弾に指名。この人間爆弾とは、爆破ベストを着た人間が衝撃を受けると、ベストが電流爆破されるという仕組みで、その人間爆弾を先に爆破させた者が勝利するという特別ルールが設けられる。試合では、白石オーナーが自らおおニタにタックルを浴びせ被爆、ダウンした白石オーナーにおおニタが覆いかぶさりカウント3が取られる形で幕を閉じた。同年5月からは、葛西純による大仁田への批判コメントをきっかけとして、彼が率いる「unchain」と邪道軍による抗争がプロレスリングFREEDOMSにて勃発。この最中に同団体の所属レスラーであるマンモス佐々木が邪道軍へ寝返ったことから、FREEDOMS全体との抗争へ発展した。10月14日「越後大花火」(朱鷺メッセ)、12月13日「常陸国大花火」(茨城県立スポーツセンター体育館)、2014年3月21日「とんこつ大花火」(博多スターレーン)を開催した。2014年には東スポ紙上において、「還暦電流爆破を持って一線を引く」と発言し7度目の引退を示唆した。また電流爆破を引き継いでもらいたいとして後継者探しをしていることも明らかになった。2015年より大花火を爆破規模を2倍にパワーアップした「超花火プロレス」として3年以内の団体化を宣言(ZERO1およびFOSとの提携関係は継続)。新たなベルト「爆破王」を製作し、1月23日「なにわ超花火」(ボディーメーカーコロシアム第二競技場)において初代王座戦が髙山善廣との「ノーロープ有刺鉄線電流爆破ダブルバット・ダブルヘルデスマッチ」によって行われ、髙山が初代王座に輝いた。3月21日「とんこつ超花火」(博多スターレーン)において、爆破王選手権「ノーロープ有刺鉄線電流爆破マッチ」で勝利し、第二代爆破王を戴冠した。また翌3月22日に行われた全日本プロレス博多スターレーン大会に来場、全日本プロレスの若手につまみ出されそうになるもチケットを誇示し観客であることをアピール(FMW時代の「チケット持ってますか」事件のオマージュ)。秋山準社長へ電流爆破への招待状を持参した(タッグパートナーの大森隆男が受け取った)。4月に旗揚げされた「超戦闘プロレスFMW」に参加。5月23日「大江戸超花火」(大田区総合体育館)において、同郷の長与千種とのコンビでダンプ松本&TARUとの「男女混合電流爆破デスマッチ」に勝利。6月25日、超花火プロレス・ZERO1・FMWの業務提携を発表。2016年8月26日、ファイヤープロレスリングを旗揚げ。人によって好き嫌いがはっきりと分かれるタイプのプロレスラーだが、ドラマに出演し巧みな演技を見せる等、一般的な知名度は比較的高く、またかつては“大仁田信者”と呼ばれる熱狂的な支持者も多かった。特にFMWを興して以降は、それが奇跡のカムバックと捉えられただけでなく、「大好き」とまで公言したプロレスに対して身を投げ打つかのような姿勢が強く支持された。「テレビ番組が無ければプロレス団体運営は出来ない」と言われていた時代に、奇抜なデスマッチやパフォーマンス、様々なテレビ番組への出演により、プロレスに興味の無かった若年ファンの裾野を広げFMWの経営を軌道に乗せたことを評価すべきだという意見が存在する。また、FMWが対立概念となり、伝統ある他団体の観客動員増にもつながり、業界全体への功績は大きかったとの評価もある。逆に否定的な評価・意見としては、FMWが成功したために、後にインディープロレス団体が乱立する遠因となったとするものがある」。さらに、FMWでの活動は流血やパフォーマンスが派手でデスマッチ中心であったために「邪道」と呼ばれ、キワモノとする意見も存在した。新日本参戦後はストリートファイトを強調すべく、「邪道」と背中に大きく書かれた黒の皮ジャンに、「EVIL WAYS」と記されたジーンズがトレードマークとなった。しかも入場時には、場内禁煙の会場にもかかわらず、煙草を燻らすパフォーマンスまで行い度肝を抜いた。これには新日本側も一度遺憾の意を示したが、大仁田は「俺は東京ドームで煙草が吸いたい」と頑として譲らなかった。かくして後の東京ドーム大会の入場時には、吸殻がいつ捨てられてもいいように大きい灰皿(鉄板製)を持ったスタッフが、花道の下で大仁田の動きに合わせて歩くという光景も見られた。なお、「邪道」の黒皮ジャンは、2006年4月1日の靖国神社プロレス大会で、一回盗難に遭っている。一方で礼儀を重んじる一面もあり、同期である長州力に対しては、(年上ということもあってか)たとえ敵対時でも名前をさん付けで呼ぶなどして基本的には敬語で接している。これには長州も「さん付けで呼んでくれるのか?」と唖然とするほど。のみならず蝶野正洋や橋本真也、松野行秀ら後輩レスラーに対してまでも、名前をさん付けで呼ぶことすらある。この他にも、チャボ・ゲレロからNWAインターナショナル世界ジュニアヘビー級王座を奪取した際のフィニッシュである高角度前方回転エビ固め、同王座がNWA本部預かりから名称をNWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座に変更してチャボ・ゲレロと行われた新王者決定三番勝負の3戦目では逆さ押さえ込みで新王者になるなど、ジュニアヘビー選手らしいトリッキーな逆転フォール技もかなり多用していた。芸能活動も積極的に行い、NHKの大河ドラマ『秀吉』では蜂須賀小六役を演じた。現在もタレント活動は続けており、時に番組のゲストであるゴージャス松野に椅子を投げつけるなどの暴力的な言動をとり、他のゲストから一斉に非難を浴びるなど(その後両者は互いに握手を交わして和解)、今もその破天荒さは健在である。しかし、その一方で吉田豪や杉作J太郎などは大仁田を「リング内よりもむしろリング外の方がガチンコの人物で、下手に絡むことが出来ない。天性のアドリブ能力で渡り歩いてきた人物のため、突発的にとんでもない行動を起こすことがある」と評価している。2001年7月29日に実施された第19回参院選に比例区で出馬、当選。「小泉チルドレン」の一人となった。元参議院議員平野貞夫によると、当初は自民党からではなく小沢自由党から出馬することが決定していたが、大仁田が仕事の金銭問題を理由に出馬断念を表明した(平野によると大仁田は他党から出ないことを明言していた)。しかしその直後に自民党から出馬を表明してこの約束を反故にしたという。同選挙では自由連合より佐山聡も出馬していたことから、かつてのライバル関係を知るファンから注目を浴びたが、双方とも互いの出馬にはほとんど触れず、大仁田のみ当選した。2005年8月8日、参議院本会議での郵政民営化関連法案採決を棄権。理由は「離島の郵便局が守られないから」とされる。2007年6月23日、次期参議院選挙に不出馬、政界引退を表明。9月7日、自民党を除名された。2007年7月29日の第21回参議院議員通常選挙では初当選時に引き続き比例区での公認が内定していたにもかかわらず、6月23日に記者会見を開き突如政界からの引退を表明した。通常国会の会期延長により当初は7月22日に予定されていた投票日が1週間ずれ込んだことなどを理由に安倍内閣への不信感が強まったとしているが、スキャンダル(後述)が6月25日に週刊ポストに掲載予定で、当選の見込みがなくなったための身引きであることは明らかであり、この行動は批判を浴びた。なお、会見の中で「自分は若者の代表だ。夏休みでは若者の投票が減る」といった発言をしているが、当の本人が当選した2001年の参議院選挙の投票日も7月29日である。このことを大仁田本人が自覚しているのかは不明である。6月25日発売の『週刊ポスト』に、大仁田が国土交通省のキャリア官僚とキャバクラ嬢やAV女優を自宅の高級マンションに招き乱痴気騒ぎを起こしたことを報じられた。7月17日には党本部に離党届を提出した。その後は野党候補の応援演説(民主党公認の森裕子。大江康弘や同党、新党大地、国民新党推薦の多原香里など)をしていた。9月7日に、前述の野党候補の応援を理由に、党紀委員会全会一致で自民党を除名された。なお、提出され党本部預かりとなっていた離党届は不受理。政界引退後、故郷である長崎県でテレビやラジオの出演、地元紙への登場など精力的に活動を行う。景気低迷で中小企業等が厳しい状況に苦しむ姿を目撃し、長崎の再生を決意したとされる。2009年10月20日、翌2010年2月の長崎県知事選挙に無所属で出馬する意向を固めたことが明らかになり、2010年2月4日に正式に立候補を届け出。松山千春の応援を受けた。2月21日に執行された選挙では9万8200票を獲得したが6人中3位となり落選した。2015年10月、千葉県袖ケ浦市長選挙への立候補を検討していることを表明したものの、その後断念している。翌年、愛弟子の保坂秀樹が同市議選に挑戦することとなった。イジメ撲滅を掲げ、プロレス教室で子どもたちを指導している保坂らしく、子供たちがスポーツを通して学んでいける袖ケ浦市にしたいという。大仁田は、当時メディアを騒がせていた政務調査費の問題に触れ、「絶対に政務調査費には手を出すな。1円たりとも1銭たりとも政務調査費は明確にしろ」とアドバイス。その会見の場には、同じ事務所の桜木まな美も駆けつけていた。

出典:wikipedia

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